2017年12月31日日曜日

吉祥寺3 経蔵、赤松家墓地、板倉勝静

暮れも押し迫る12月30日。
前日長野に帰省、先月脳梗塞になった母を見舞う。

1泊して弟が車で送ってきてくれた。
途中、二人して埼玉鷲宮で一人暮らしの叔父を見舞う。

85歳の叔父は1月3日にグループホームに入るというのですべて家具を捨てる。
もったいないけどもらっても置き場所がない。
ひとつ、形見にチェストをもらうことにした。
しっかりしたつくりで腰かけられる。
弟は火鉢をもらうという(一番奥)

7人乗りの車の後ろの椅子をすべて倒し、何とか載せて千駄木まで運んでもらった。

荷物を降ろした弟は吉祥寺を見たいという。
かれは秋に上京したとき富岡八幡の骨董市で中洲三島毅の書を7000円で買った。

三島中州(1831‐1919)は山田方谷のいた備中松山出身、江戸末期から大正の漢学者。二松学舎を創立した。
見つけた書は函館戦争を記したものという。

方谷や三島の仕えた備中松山藩主、板倉勝静(かつきよ)は、藩政改革の手腕を評価され老中に抜擢された。鳥羽伏見の戦いでは徳川慶喜の側近として大阪にいたが、慶喜が開陽丸で江戸へ退却するとき従い、その後いったんは恭順したが、幕府軍、奥羽列藩に参謀としてかつがれ函館までいく。

弟は吉祥寺にある板倉勝静の墓をみたいというのだ。
午後3時、弱くなった西日に向かって、師走の静かな狭い路地を家から歩いていく。
吉祥寺の敷地は駒込病院に接しているほど我が家に近いのだが、入口は遠い。
山門のある本郷通りに出る前、住宅街に面した南側にも入り口がある。
ここから入ってすぐの経蔵の前では子どもたちが遊んでいることもあり、神社と違って一般に入りにくい寺院としては例外的に開放的である。

消失した後1804年に再建されたとある。

前回、吉祥寺2で榎本赤松の関係を書いたが、赤松家の墓の写真を載せなかったので、撮影。

当たり前だが赤松則良の直系の家の人だけで、鴎外に嫁した登志子らの名はない。

いなくなった弟を探すと経蔵の北にある石碑を見上げていた。
早くも目的の松叟板倉勝静を見つけたようだ。

寒くてしっかり読む気にならず。


次は板倉勝静の墓である。
大名だから大きいだろうと、北側から探し始める。
墓さがしは難しい。
古いものは戒名しか書いてないし、字が崩れかかっている。
新しいものは○○家と苗字しか書いてない。

 勝静は旧藩主とはいえ、新しいから、どんな形かは見当もつかない。
弟とはすぐにはぐれ、私もさがすも、寒くてすぐいやになった。何年か前、弟が正月に来て二人で谷中墓地に行ったときと全く同じになった。

弟は板倉家という小さい墓を見つけたらしいが、何も書いてなかったとのことで、諦めた。


こういう墓ならすぐわかるのだが。

順天堂大学の慰霊碑(解剖献体供養塔)
ちかくには佐藤進の広大な墓がある。


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