2017年12月10日日曜日

巣鴨病院→府立五中→小石川高校→中高一貫

文京グリーンコートの西は、小石川高校。
ではなくて、小石川中等教育学校。
なんて略すのかな。

 小石川はもともと名門校だった。
府立五中として1918年小石川区駕籠町に創立。府立一中(日比谷)に創立は遅れるが、隣の理化学研究所や、東大、西片などの高級住宅地に近く、理系に強いアカデミックな中学として知られ、一高に多くの入学者を出した。

(ちなみに戦前の府立ナンバースクールは順に日比谷、立川、両国、戸山、小石川、新宿、墨田川、小山台、北園、西、、、、大森の24中学あった。)

戦後も番町小学校→麹町中学→日比谷→東大というコースは依然として有名だったが、
誠之小学校→区立六中→小石川→東大のラインもエリートコースとして知られた。

都立高校の学校群制度で地盤沈下したが、都立高復活策とともに、2006年に中高一貫校化し、Super Science High Schoolに指定されるなど、いい感じである。

(なお都立中高一貫校は、小石川、桜修館、南多摩、立川国際、三鷹の5校。併設中学を持つ都立高校は、白鴎、両国、富士、大泉、武蔵の5校、都立九段高は千代田区立となり中高一貫校となっている。)

2017年の東大進学数は14人で日比谷、西に負けるが、意味のない知識詰め込みの高校入試がない分、楽しい中学生活を送れて、健康な頭をもつ個性的な人間ができるのではないか。
理科が盛んなことが道路からも分かる。

若いうちから好きなものに打ち込んでほしい。大学入試を気にするよりもノーベル賞を取る人間になってもらいたいものである。

ところで、なぜ小石川か。
本郷区と小石川区の境はだいたい白山通りで、ここは通りの東だから本郷区のように思えるが、駕籠町というのは小石川区なのである。
(もっとも第五中学から高校になるとき、戦災で小石川区同心町(いまの区立茗台中学校の場所に移っていたから、小石川の真ん中だった。改名の時に今の、つまり創立時の場所にあったら、小石川の名前を使ったかどうか)

小石川中高の南に
駕籠町小学校、村田女子中学・高校が隣接されている。
村田女子をみて、都内で広い校地を確保するむつかしさを思った。小石川高校のような公立学校というのは本当に恵まれている。私立はリソースのないうえに、先生は生徒募集から進路指導まで相当努力しないと、やっていけないのである。

さて、これらの3校ができる前、ここに何があったか?

明治40年(Goo地図)
不忍通りはないが、白山通り、本郷通りは見える。
不忍通りの南側、今の昭和小学校から駕籠町小学校までの公的施設が並ぶ一角が
わかる。区界は青線、なるほど、一角の西半分は小石川区、東は本郷区だった。
富士神社の位置から、この一角の南側の道は昔からあったようだ。
さて、小石川高校などのあった場所は、巣鴨病院である。

巣鴨病院とは、養育院までさかのぼる。
(分院については大塚の宮仲公園のところで書いた)
1872年(明5) 東京府本郷加賀屋敷跡に「養育院」を設置。
1879年(明12) 養育院に精神病患者が多かったので、上野公園に東京府癲狂院を設立(のち東京芸大敷地)、患者を分ける。

養育院本体はその後、神田、本所、明治29年には大塚(いまの都立大塚病院の場所)、そして関東大震災後に現在地の板橋大山に移転した。名称も東京都老人医療センターから今は健康長寿医療センターという。

さて、癲狂院は、
1881年(明14)上野から本郷区向ヶ丘に移転。(この時の地図は駒込病院2のブログにある)
1886年(明19) 小石川区巣鴨駕籠町に移転。
(この地は加賀中屋敷や大和柳沢下屋敷の南部分ではなく、旗本、御家人の中小屋敷が並ぶ地であった。)
1889年(明22) 「東京府巣鴨病院」と改称。
1901年(明34)東大教授呉秀三が巣鴨病院院長を兼任。
1916年(大5)  東大精神病理学講座が巣鴨病院から分離。
そして1919年(大8)- 東京府荏原郡松沢村に移転、「東京府松沢病院」となった。

府立五中が小石川区駕籠町に創立されたのは1918年。
入れ替わりである。


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