「君は我国洋学の祖、緒方洪庵先生の第四子にして、弘化二年七月(1845年)浪華船場に生る。」で始まる溝口恒輔氏の追悼文である。
父に比べてあまり知られていないが、薬学会には大いに貢献した。
惟孝は明治19年7月薬学会に入会、このころ会員は100人足らず。
のち大阪薬剤師会会頭も務め、死の二年前、東京以外で初めて総会が開かれた大阪大会では準備委員になっている。
この追悼記事によれば――史実は未確認だが――数え6歳で漢学を後藤松陰に学び、14歳の春笈を負ふて越前大野の伊藤慎造に蘭書を学んだ。
15歳(1859年)転じて長崎に至り米人スミットから医学を研修す。
そして1861年江戸下谷の西洋医学所(東大医学部の前身)教授に任ぜらる。
1863年開成学校(これも東大の前身)英学教授心得を拝命、
1865年ロシア留学。68年帰国すると時代は明治。
以後、新潟病院兼洋学校取締、北海道開拓使御用掛兼函館露学校教官(この時教材として作ったロシア語の辞書『魯語箋』が有名)、次いで大蔵省御用掛と転々としたのち、
明治8年(1875年)病を得て職を辞す。
しばらく休養していたが明治11年薬舗開業免許を取得するや12年開業、続いて大学付属医院の薬局調剤員となる。
7年務めた明治20年、兄緒方惟準が大阪で病院設立するに当たり、薬剤部長兼事務長となり支えた。
弟たちは若死にしたりして残った収二郎も13歳下、家長の惟準に頼りにされた。
「君、人となり温良恭謙にして義気に富み、ために知人の信用厚く・・」とある。
父洪庵と同じく政治的には立ち回らず、自らの技能を求められるまま公に奉仕したように思える。
素性、経歴、実力から何にでもなれた彼が選んだ職業は普通の薬剤師だった。
当時薬の品質はバラバラであったが、その管理、分析は医師にできなかった。患者のことを考えたら医師より薬剤師の方が重要だ、と惟孝は思ったのかもしれない。
(医科大学教授の三宅秀、大沢謙二、緒方正規、高橋順太郎や北里柴三郎も早くから薬学会会員だった。今、医薬品の品質は極めて良く、薬剤師の日常業務に(医師とは別の) 高度な知識、技能は必要ない。薬が粗悪であった頃の方が薬学の地位が高かったというのは皮肉である。)
「二月卒然肺膿瘍に罹られしが病勢進み」3月20日死去。
享年62歳。
ここまでは明治38年の薬学雑誌追悼文に書いてあった。
その後緒方の子孫はどうなったか。
洪庵のあと緒方家をついだのは兄の惟準である。その子に、銈次郎、病理の緒方知三郎、薬学の緒方章がいる。また血清学の緒方富雄は銈次郎の子。いずれも有名でネットにも情報がある。
ところが、惟孝の子孫が分からなかった。
ファルマシア「薬学昔々」にこの話を書いたのは2013年の春、千駄木に引っ越したころで、団子坂にある本郷図書館の司書の方に相談してみた。すると数日後電話があり、分かったという。
夜9時まで開いているので、仕事帰りの8時半頃伺うと、『緒方系譜考』(1926年)をパソコン画面で見せてくれた。
国会図書館のデジタルライブラリーである。
発行人は惟準の後継ぎ、銈次郎。著者は銈次郎の三男、富雄だが、彼はこの年(大正15年)東大医学部在学中で、緒方洪庵伝を執筆中だった。のち血清学の大家となる。
本書は洪庵以前の緒方家、佐伯家の話から始まるのだが、他書にない多数の人々のことが書いてあり、貴重である。
長男は早世したが、長女初枝には大國六治が養子に入った。六治はドクトルで米国留学後緒方病院の歯科長となる。次女敏子には山本鷺雄が養子に入った。彼も医学博士でドイツ留学のあと岡山医専教授を経て緒方病院の内科医長となった。
こういう調査を無料でしてくれるとは、さすが東京の図書館だと感心し、千駄木に引っ越してよかったと思った。
この図書館には、緒方惟之/著
『医の系譜 緒方家五代~洪庵・惟準・銈次郎・準一・惟之』
があり、1枚コピーさせてもらった。
もう一冊、中山沃/著『緒方惟準伝 緒方家の人々とその周辺』 で一つ気になった。
重三郎(洪庵13子(8男)、29歳で没)に初枝がいて、惟孝の養女になったという。この本には「惟孝の一人娘、敏」という文もあり、『緒方系譜考』(緒方富雄1925)の「(タシ夫人との間に)一男二女が産まれた」(p92)と矛盾する。緒方一族の娘と結婚する医師は、多くが養子に入った。
緒方姓の医師が多いのはこういうこともある。
千駄木菜園 総目次
0 件のコメント:
コメントを投稿