2018年10月6日土曜日

本駒込の二葉荘、日の出湯、稲荷坂

不忍通り、本駒込図書館の並びに、「わらしっこ」というとんかつ屋がある。
家から歩いて8分、何回か行っているが、あるとき壁に貼ってある汚れた住宅地図に気が付いた。よく見ると、すでに消えてしまった二葉荘があるではないか。

大学3年のころ、1977(昭和52)年4月から12月まで住んだアパートである。
写真を撮らせてもらって、なおも見入っていると、
「たぶん他にもあるから差し上げましょうか」
と古新聞や雑誌の積まれた下の方から、同じような地図を何枚か出してくれた。

一番古いのはどれだろうと思うが、すぐわからず、とりあえず二葉荘が書いてあるものを確認して頂戴した。うれしくて嬉しくて、これから良い客として贔屓にしようと思ったが、すみません、その後あまり行っていない。

二葉荘は、駒場寮を出て初めて東京で一人暮らしをした場所。
その36年後の2013年、56歳になり不可能と思われた埼玉から東京千駄木への引っ越しを可能にした情熱の、何十パーセントは、このころの思い出だった。

その一部は以前かいたが、頭が耄碌しないうちに、もう少し書いて置く。

見つけたのは本郷第二食堂の上にあった学生課。ここで下宿やアルバイトのあっせんをしていた。
まだ駒場にいたはずだが、2年の後期から週二回は本郷に来ていたから、その日だろう。
ある雨?の夕方、本郷通りを北上、上富士前のバス停でおり、(たぶん富士神社の前を通って稲荷坂を下りたはず)下見して決めた。(大久保に住む大家さんと待ち合わせたと思うが記憶なし)

3月末、寮からの引越しは布団、服、本くらいしかなかったが、長野の親がライトバンで来てくれた。運転を忘れないようにと、私が久しぶりでハンドル握り、山の手通りから目白通りに入った。話に夢中になって、追突しそうになり父親をあわてさせたのは目白駅の手前。不忍通りに入って、護国寺前通過、大過なく到着。

私は田舎の長男だったから、親にとっては初めて自分の子供が東京で他人の厄介になる。大家さんに親が挨拶したがっていると前もって伝えたところ、彼女は立派な着物で待っていらした。老いた顔におしろい、頬紅、口紅が忘れられない。

通りから奥まったところ、玄関わきの軒下に共同の古い洗濯機、木とガラスの引き戸を開け、靴を脱ぐと正面に共同便所。1階に3室、2階に4つ。全て角部屋。階段上がって北西の4畳半が私の部屋。家賃は1万6千円だったか、1万8千円だったか。

ふつう入り口 0.5畳を板の間にして台所、1 畳が押し入れで、畳4.5で専有面積6畳になるはずが、廊下から戸を開けるといきなり畳の部屋で、台所は反対の隅に出窓のような形でついていた。押し入れも半畳くらいしかなかったのではないか。明るいところで見るとたいそう古かった。壁にコンセントはなく天井の裸電球の脇からコードを伸ばした。

一階は日当たり悪いからだれも住んでおらず(一人くらいいたかもしれないが見たことない)、この4月から二階の南西に同じ3年生、工学部の橋本君が私と同時に入った。あるとき、カレーをいっぱい作った、と呼ばれごちそうになった。春日部高校出身、応用科学の修士を出て住友化学に入った。

二階東北の隅は田中さんといい、早稲田の学生だったが、奇遇なことに長野高校剣道班の2年先輩と分かった。私は高1の6月くらいに入部し、3年生は5月頃の県大会の予選で敗退、引退したからすれ違いだった。彼の部屋からは24時間、FENのラジオが聞こえた。(1階のどこかだったかもしれない)

二階東南の角は誰もおらず、戸が開いていた。入って体操したことがある。
二葉荘の住人は3人だけだった。

電話がなく、大家さんもいないため、外からは連絡できない。
不便この上ないので、3人でお金を出し合って、大家さんに黒電話を入れてもらった(ピンク電話は高かった)。大家さんは受信専用にするため、受話器は取れてもダイヤルしないように、木の箱をつくってきた。

あまりにひどいアパートで、橋本と私は12月に退去を決意、電話入れる時に払ったお金を返してもらおうとしたが、大家さんが雲隠れ。彼と二人で東大久保まで行ったが、結局会うことができなかった。
橋本とは就職してから東大宮駅で偶然会ったが、話の様子がおかしく、休職中という。その後、凝った年賀状をもらったが、会うことはなかった。

そんな思い出の場所は今の家から歩いて数分のところ。
通勤でいつも使う最寄り駅より近いが,なかなか行かない。

2018-10-06 旧二葉荘入口

二葉荘は我々が出た後、無人となり、朽ち果てていった。
1984年4月に駒込のアイソトープ協会で研修があり、放課後見に来たときは細い通路に草が生えて荒れていた。
敷地は旗竿地で、道路に接する間口が2メートルなかったため、再建築不可物件。
結局、背中合わせで向こう側に面していた方が買い、もとの土地と合わせてご自宅を新築したようである。

37番地、山内さんの奥である。

周りを歩いてみる。
塚原米店
引っ越してきた日の夕方、電話だか商店だか銭湯だか聞こうとしたとき、父親が「近所のことを聞くなら米屋が一番いい」と言った。当時は中に米袋が積んであり、精米している様子が外から分かった。

すぐそばにあった銭湯の入口。
今この地図を見れは、名前は日の出湯。
コーポ高木というマンションの地下にあったようだ。

9か月洗面器を抱えて通ったはずだが全く記憶なし。


2018-10-06

ちょうど千駄木に引っ越してくる前に散歩した時の写真があった。
2012-11-04
6年前は煙突に梯子が付いていた。
このときはもちろん廃業している。

さて、2018年、今は劇団?のスタジオになっていた。
ちょうど工事の人がいて、スタジオのオーナーに声を変えてくださり、中を見学。


男湯という文字が残っていたが、全く記憶なし。

二葉荘跡入口まで戻る。
アパート前から南に向かってすぐの交差点。
右向かい角の家は昔から共産党のポスターを張っておられたような気がする。
右へ稲荷坂を上ると富士神社前を経て本郷通りに出るが、毎日の通学は、自転車でまっすぐ行って動坂上の交差点に出た。

稲荷坂の途中。
鋭角の角は吉池というスーパーだった。わらしっ子でもらった地図にもある。
右の坂を上がると富士神社前に出る。
左側の木々は神明公園。
(まだ付き合っていない)女の子にデートの申し込みの電話をするときは、日の出湯で体を洗いながら、頭の中でリハーサルし、そして緊張しながら神明公園に来た。
今も同じ場所に公衆電話がある。
宗十郎稲荷は上がった突き当りの名主、高木家が祀っていた。

稲荷坂下。
右の青い看板のクリニックは当時スーパーだった。
大学3年生というのは、研究室に入っていないから、帰宅は割と早かった。それで自炊した。ここでよく買ったのはマルシンハンバーグ。ラードがべったりついていたから油を引く必要がなく、そのままフライパンで焼けば食べられ、その油でキャベツを炒めた。
買い物はここが一番多くて、次いで坂上の吉池か田端銀座。

不忍通り稲荷坂下交差点
当時は二階建ての家が並んでいたが、いまは空き地と建設中のマンション。
この信号を渡ってまっすぐ行くと田端駅に出られた。

ところで、この地図はいったい何年のものか?
2000年開業の南北線本駒込駅があるから、2000年以降。
葬儀花環金子商店(1885)が創業110年とあるので、1995~2004年
しかし奈良原家政婦紹介所(1916)が創業86年とあり、これだと2001年となる。

いずれにしろ、2000年過ぎても、日の出湯と吉池はあり、二葉荘は78年から無人のまま20年以上廃屋として存在したようだ。

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