2019年10月22日火曜日

鶯谷:かつての山の手もホテル街

10月14日、鶯谷に来た。
北口駅前。
駅名は美しい。
江戸時代、上野寛永寺の管主として下向した公弁法親王(1669-1716、後西天皇の第6皇子)が、京都から美声の鶯を3,500羽取り寄せ、別邸(御隠殿)のあった、ここ根岸の里に放鳥したという。
これが鶯谷の由来である。
谷というと両側に山がある感じだが、下谷、入谷という地名もあるし、片側だけでも谷というのだろうか。あるいは谷根千の谷(初音の森)あたりを鶯谷と称し、それが駅名になったか。
駅前は山手線の駅とは思えないほど狭く、車も入ってこない。

東に歩くと言問通りに出る。
言問い通りは谷中(左)の方から線路を越えて降りてくるが、
その車道側面に「寛永寺陸橋」と書いてある。
寛永寺などずっと西なのに、この名前があるのは寛永寺坂からとったものだろう。

陸橋に沿って言問い通りの下を西へ歩くと線路にぶつかる。
線路で削られる前、ここに寛永寺坂があった。
36もの塔頭を従えた大寺。
南側の信濃坂、屏風坂、車坂などは寺内であったから、寛永寺坂とはつけなかった。

もちろん私も人工的な陸橋となった寛永寺坂しか知らない。
初めて通ったのは40年くらい前。
浅草で家庭教師のアルバイトをしたとき谷中から自転車で越えた。
千駄木に引っ越してからも2016年7月、入谷朝顔市へ自転車で通過している。

寛永寺陸橋の南も北もラブホテル街
駅前に戻る。
線路側に昔ながらの居酒屋が並ぶ。
信濃路の二階は神社のようである。

一本東側の通りを歩くと元三島神社がはっきりする。
階下はやはり飲食店。
神社というのは緑に囲まれた静謐さがふさわしいが、ご利益だけがあればよいという、都会らしい構造。

門のほうまで回ると神社らしいが、周りはラブホテルだらけ。
元三島神社は、伊予一宮、大山祇(おおやまづみ)神社を上野の山に勧進したのが始まり。
大山祇神社は瀬戸内海の大三島をご神体とし、三島神社ともいう。
寛永寺造営のために立ち退きを迫られ、浅草小揚町に遷座したが、氏子たちが遠くなったというので、根岸(元三島神社)、金杉村(入谷の三島神社)にもつくった。浅草は本社三島神社という。

狭い路地にラブホテルの密度がすごい。
化粧した中年女性が立っていた。
一人歩く男を狙っているのだろうが、私は声をかけられなかった。
この公園は、数十年前はもっと木や建物が小さく、日当たりの良い開放的な場所だった気がする。冬の朝散策した時も客探しの女性が立っていた。
露地をすすむと、新坂、鶯谷駅南口からの道路に出る。

それにしても、鶯谷はなぜ、こんな町になったのだろうか。

本来、線路の敷かれる前、上野の山裏は東向きの緩やかな斜面で音無川も流れ、その先は田園が広がるという風雅な土地だった。日本橋の大店や文化人が好んで別邸を建てた。
前田侯爵、諏訪子爵だけでなく、正岡子規、陸羯南、陸奥宗光のほか薬学の下山順一郎なども住んだ。

上京したハイカラな高級サラリーマンや文化人などが住むところを山の手と定義するなら、根岸、本郷は、第1山の手とされ、四谷・市ヶ谷から青山・麻布にかけての第2山の手、世田谷・目黒・杉並の第3山の手より早かった。

一方、上野の山を借景に温泉を模した宴会場、伊香保や塩原、岡野(この花園)などの料亭も栄えた。

地域雑誌「谷根千」27号から(明治34年)
思うに、戦後、空襲の跡に旅館が多くたったのではなかろうか。
疎開していた人々が一斉に上野駅に着いたとき、自宅は焼け、泊るところが不足した。上野周辺、谷中あたりまでも旅館がたち、それでも布団部屋にも客を入れるほど旅館が不足した。

鶯谷、根岸でも土地権利関係が複雑だったのか、区画整理が進まないまま旅館が乱立し、それがラブホテル街になったのではなかろうか?
上野と浅草の歓楽街の間に位置し、山手線の駅があったこと、料亭、宴会場のあった歴史から、ワールド、スター東京などのキャバレーもでき、独特の雰囲気を作っていったのであろう。

なお、大正時代に三業地に指定され花街になったのは、ずっと東のおぎょうの松のあたりで、ここは関係ない。
陸橋に上がると線路の向こうに鶯谷駅南口の駅舎が見えた。
上野の山から駅南口を経て下りる道は新坂という。
明治11年(1878) 内務省製作の『上野公園実測図』にある「鶯坂」がこの坂のことと考えられる、という案内板を皆引用しているが、
しかしの明治11年の「実測東京全図」を見れば、御隠殿坂の南は一つ坂があるが(上野花園丁とある)、寛永寺坂でも新坂の場所でも道がないようにみえる。
明治11年内務省地理局「実測東京全図」
まだ鉄道がない。

いまはこんなに線路が並ぶ

南口も狭いがタクシーは来る。
そうだ、ソープランド街で名高い吉原へ行くときは、ここでタクシーに乗る。
鶯谷は、名前と異なり、すっかりそういうイメージがついてしまった。
駅に入る。
線路に寛永寺墓地から葛の蔓が京浜東北線のレールにまで伸び、とても山手線の駅とは思えない。29駅中、乗車人数は断トツで最下位、みどりの窓口もないという。

ここはホームのスピーカーから鶯の鳴き声が流れる。
最近、駅は英語だけでなく中国語、韓国語もながれ、まことにうるさい。こんな「おもてなし」は過剰だ。戸惑いながら楽しむのが海外旅行である。駅のホームは野鳥の声だけでよい。放送は事故、遅延の時だけにするべきである。


別ブログ
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笹乃雪と公弁法親王、御隠殿あと
御隠殿坂、芋坂、正緑荘

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