2020年10月27日火曜日

鹿児島の城山はジョウヤマでなくシロヤマ

2014年の知覧について書いたので(別ブログ)、そのときの鹿児島市内の写真も整理しておく。

2014年3月15日夕方、生理学会で鹿児島にいった。

翌朝、会場の鹿児島大で参加登録を済ませ時間割を見た。
野間先生のシンポジウムがある。今後の仕事(心臓のシミレーション)を進めるにあたり、絶対聞かなくてはならない。ご挨拶もしたかった。
しかしそれは翌17日。
午前は特に聞きたいものはない。ひとり身というのは気楽で、すぐ飛び出す。

鹿児島大キャンパスの工学部前停車場から市電に乗って北上、中心部のいづろ通りで降りた。1日市電・市バス券は600円。渋滞がないから中央駅まで8分、ここまで20分。

2014-03-16  10:04
竜馬が薩摩にいくときおりょうを連れて行った。
日本で最初の新婚旅行といわれる。
恋人と旅行なんて今でも楽しいけど、昔はもっと楽しかっただろうな。
ビニール傘がしゃれている。

2014-03-16  10:11
天文館通
市内一番の繁華街とされるが平日午前だと人出は分からない。

島津家25代、薩摩藩第8代島津重豪は将軍家斉の正室・広大院の父として知られるが、蘭学、ヨーロッパ文明に興味を示し、1773年、天体観測や暦の研究施設として明時館(別名天文館)を建てた。明治後廃止され、一帯は荒れ果てたが大正末期から昭和初期に路面電車が通るようになって多数の映画館、劇場ができ発展したという。

天文館通から中央公園を抜けると西郷隆盛像
2014-03-16  10:23
鹿児島の人はほんとに西郷が好きだ。空港のまん前にも大きな像があったし。

2014-03-16  10:26
城跡にそって北上。

鹿児島城は本来は西の城山(鶴丸山・上之山)に中世の豪族・上山氏が山城を築いていた。
1601年、島津忠恒(のち家久に改名)がいくつかの候補地の中からこの地を選び本拠としたが、山の上でなく麓に館をつくった。多くの城と違い、片側だけが市街地に開いている。
2014-03-16  10:30

2014-03-16  10:35
普通の城にあるもの、すなわち丘陵、地形を利用して作る石垣、外堀、内堀、本丸、二の丸などが見えにくい。

2014-03-16  10:35
でも立派である。

2014-03-16  10:40
よく見ると石垣に西南戦争の弾痕がある。
島津時代、一度も攻められなかった鹿児島城だが、西郷大久保の作った明治政府に攻められたのは皮肉である。

2014-03-16  10:41

適当に山のほうに向かう。
2014-03-16 10:46
南洲翁終焉之地
「晋どん、もうここらでよか」
介錯されて最後を遂げたのはもっと山の上かと思ったら、線路を越えてすぐ近くだった。
少し先へ歩いてみる。

2014-03-16  10:51
道路から左を覗くと、下の鹿児島本線(日豊本線)のトンネルに敬天愛人。
こういう公的なものに西郷の言葉を書いてしまうというのは、鹿児島はすごい。

ちなみに鹿児島本線は南の鹿児島中央駅から曲がって北上し、ここから北(写真左方向)にある鹿児島駅が終点となる。日豊本線も鹿児島駅が終点であるが、古くから鹿児島中央駅が市の中心となっていて、新幹線も日豊本線も中央駅が始点となっている。

2014-03-16  10:55
なおも上ると南洲翁洞窟
西郷軍は熊本で敗れた後、宮崎の山中を逃げ、最後は桜島の見えるこの地に戻り、城山にこもった。「翔ぶが如く」は読んだけどほとんど忘れてしまった。

鹿児島というのは普通に歩いてもいたるところに名所旧跡がある。

きりがないので一旦学会に戻ることにした。
2014-03-16  11:30
天文館通を通って市電に乗る。

急いで学会に戻ったものの、どうしても桜島が見たくなった。
多くの偉人たちがみた山を私も見てみたい。
見るとしたら今日しかない。

一人というのは身軽。
再び市電に乗り城山にいく。
登り始めるとシラス台地の特徴だろうか?低い山が削られ、狭い尾根のような感じ。
急な斜面は市街地が近いのに原生林である。

島津氏は鹿児島を本拠に決めたあと、館が攻められた時のために後詰めの城、上之山城も整備した。しかし山城はその後使われず立入禁止となり、樹木が繁茂した。

2014-03-16 14:02
城山ホテルからの眺め。
Hotel SHIROYAMAはかなり立派なホテルで、格式高そうな宴会、薩摩切子の展示会などに来たのだろうか、着飾った人々が絨毯の通路を歩いてた。

日本の城山はジョウヤマかシロヤマかどちらかに(当たり前だが)決まっている。ここがシロヤマだとホテルに来て初めてわかった。
ちなみに隣の日置市のはジョウヤマ公園、長野市、中野市壁田もジョウヤマである。
2014-03-16 14:05
写真だとぼんやりしているが、やはり立派。
見ているうちに行きたくなった。急いで下りる。

2014-03-16  15:05
フェリーは150円。

2014-03-16  15:13
着いたら、桜島が見えなくなってしまった。

2014-03-16  15:27 
はて、見るものがなく、行くところもない。
変わった木を写す。

2014-03-16 15:39
戦時中に海軍が地下壕を掘った。
中には入れず看板以外見るものはない。
2014-03-16  15:59
市内に戻る。

2014-03-16  16:36
石橋記念公園、西田橋
古い豊かな城下町らしく、かつて市の中心を流れる甲突川には石橋が5つかかっていた。
ところがまだ我々の記憶にある1993年8月、鹿児島を襲った集中豪雨(死者71人)で2つの石橋が流失、残った西田橋と高麗橋、玉江橋をここと隣接する祇園之洲公園に移設、保存した。

2014-03-16  16:51
石橋記念館
5つのアーチ石橋は、江戸末期、肥後の名石工、岩永三五郎の指導のもとに作られた。その史料館。
つい最近まで市民に現役の橋として親しまれていたのだから、そのころ来て歩きたかったな~。

2014-03-16  17:09
祇園之洲公園のそば、高台に東郷平八郎像。
桜島との位置関係は考慮されたものだろう。

2014-03-16  17:26
歩いていたら小学校の校舎にも「敬天愛人、奮励努力」

2014-03-16  17:26
校訓になっている。
大竜小学校(鹿児島市立)創立100周年記念 昭和59年2月。
これだけ多いと、本来は鹿児島全体の言葉でそれを西郷が使って我々が知ったのかもしれない。しかし西郷のイメージが強いフレーズをあえて使ったり、なくてもよいトンネルの正面に彫ったりするのは、やはり西郷愛が強いのだろう。

2014-03-16  17:28
小学校のそば、岩元邸
鹿児島には大きな邸宅が多かった。
明治の顕官を多く出したことと関係があるのか、大きな家を好む県民性があるのかどうか。

夕方、バスで尚古集成館、仙巌園に行ったら閉まっていた記憶もあるのだが、写真がない。行ったのは翌日だろうか。

明治の偉人たちを輩出した加治屋町、甲突川も行ってみた。
やはり夕方の記憶で、維新ふるさと館などは閉まっており、遊歩道、公園になっている川沿いを歩いてホテルに帰った。
大久保利通は没後100年を記念して1979年にようやく銅像が立ったが、西郷と比べてだいぶ人気は落ちるらしい。
2014-03-17   8:50
鹿児島大。翌17日はみっちり学会。
道の端に黒い砂がたまっていた。桜島から来る火山灰だろう。
この日は野間、松岡、朝倉、村山、赤羽、井上隆司、井本各先生にお会いした。森さんも来ていたはずだが会えなかった。

2014-03-17  16:37
鹿児島中央駅そば、宿の近くの八百屋。
種類も値段も面白い。
2014-03-17 16:37

鹿児島に初めて来たのは2003年5月7日。
この時は日帰りで宮之浦町の新日本科学に直行、直帰した。行きの高速道路から小さく桜島が見えたが、見慣れない円錐形だった。あと見たのは本物のシラス台地と、帰りに空港に向かうときの霧島連山の遠景だけ。

だからこの2014年が初めての(最後の?)市内観光だった。
しかし史跡が多すぎて、鹿児島という風土を知る時間がなかった。
学会で来たのだから当たり前だが。


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