2021年2月6日土曜日

日本医大の建て替えと薮下通り、汐見坂の消滅

  あまり書きたくなかったのでしばらく放置していた。

1月26日、湯島から歩いて帰宅した。

東大図書館がずっとコロナで使えないため、千駄木の南のほうは来なかった。

久しぶりの道を根津神社裏門坂まで来ると、日本医大の中央棟が解体されていた。

2021-01-26



2021-01-26

壊す前はこんな感じ。
2020
以前と比べれば既に十分巨大と思われるがさらに高層化したいのだろうか。
同じ文京区の東京医科歯科大、順天堂大などが病院を巨大化していることから日医も建て替えたいのだろう。
薮下通りの上にかかっていた連絡通路は撤去されていた。

着工が平成23年だから坂上の新館と一緒の建築計画のようだ。
地上10階・塔屋1階/地下5階・機械室階とある。
すなわち17階である。
地上11階、高さ46メートルというのは坂上の一番高いところを基準にしているから薮下通りから見たら相当な高さである。文京区は規制が緩いことで有名なうえ、病院ということで住民の反対もなく、抵抗はなかっただろう。

しかしここ千駄木は本来古くからの住宅地である。
薮下通りの景色はさらにコンクリートっぽくならないか。
明治のころの日本医専と違い、これだけ大きくなってヘリポートを備え救急車が忙しく出入りする先端的な大病院は、千駄木に似合わない。

昔霊安室などがあった北東の隅。
解剖坂も明るくなって名前と景色が合わない。

日医を過ぎて薮下通りをすすむと右の家(アパート?)も解体されていた。

2021-01-26
すっかり変わった汐見坂

汐見坂下の家
東京紅団さんhttp://www.tokyo-kurenaidan.com/shiba01.htmから許可を得て借用(2001年撮影)

1979-84 国土地理院
私が毎日薮下通りを歩いていたころ。
裏門坂の角に浜田湯の煙突らしきものが見える。
右にゆるくカーブし、まっすぐに戻るあたりが汐見坂。
両側に樹木がある。当時は2001年の写真より鬱蒼としていた。

坂の途中、朝倉響子邸の石垣が撤去されていた。
残せなかったものだろうか。
新たなマンションの住民も元の石垣を望んだのではなかろうか?
施工者、売り主はコストしか頭になく、汐見坂の過去とか住まいの風情とか考えないのだろう。どうせ高い物件なのだから、通りから見ても風格あるものにすれば買主も通行人も喜ぶのに、販売者にセンス、品性がなかった。

2021-01-26
朝倉石段(仮名)は私の「文京区と谷中の坂道ランキング」でベストテンに入っていたのに。
もはや影も形もない。更新すれば150位くらいか。更新したくないな~。

かつての朝倉石段 2017-02-05 
永井荷風は鴎外邸・観潮楼にいくにこの薮下道、汐見坂をあがった。そして
「私は東京中の往来の中で、この道ほど興味ある処はないと思っている。」
と日和下駄(1915)に書いた。

汐見坂を上がりきると右の崖下が汐見小学校。
かつては谷の向こうに上野、谷中の森、二つの五重塔が見えたという。
荷風から60年後、私が歩いていたときは既に崖側にも民家が立ち谷中は見えなかったが、左は石垣、右は煉瓦塀や樹木で良い道だった。

上の写真の左はかつて早川邸だった。

2018-10-14 早川邸

2021-01-26
早川邸と隣の屋敷あわせて3000平米の敷地に、予定通りのマンション建設中。
右は旧観潮楼、鴎外記念館。

43年前、毎日歩いていたときは鴎外記念本郷図書館で、1階の無料展示室でデスマスクやら原稿をみたものだった。

google 2020
右上のほう、朝倉響子邸は更地、早川邸は更地の上に青いビニールシートがかけてある。

荷風が東京一といい、その60年後(1977)の私も、今思えば東京一とする薮下道は、21世紀に入って汐見坂下の屋敷と向かいのレンガ塀の消失などで魅力が半減し(7割減?)、さらに今回の建て替え工事3件でかろうじて残っていた面影も無残に消えた。
写真は撮ったが、しばらく書きたくなかった理由である。


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