2021年2月27日土曜日

愛宕山、NHK博物館、慈恵医大を歩く

 2月21日、新橋駅そば、港区生涯学習センター(旧桜田小学校)にきた。

練習終わって環二通りを虎ノ門方面に歩く。

2021-02-21 15:31
虎ノ門ヒルズ
一週間前の2月14日、結婚式で来た。
(別ブログ)
そのとき森タワー、51階から愛宕山を見下ろして、登りたくなったのである。

鉄道唱歌一番に、
  汽笛一声新橋を
  はや我汽車は離れたり
  愛宕の山に入り残る
  月を旅路の友として
とあるが、いまや鳥居まで来ないと山は見えない。
2021-02-21
参道は出世の石段。86段。
ここを登るのは2度目か3度目だが、はっきりしている前回は、2014年3月2日。

15:41

それにしても急だ。傾斜40度という。
志賀ジャイアントスキー場が30度というから、まあそんなものか。

1634年家光が増上寺参拝の帰り、山上に梅が咲いているのを見て、
「梅の枝を馬で取ってくる者はいないか」
と言ったところ、讃岐丸亀藩の家臣・曲垣平九郎が見事馬で石段を駆け上がり枝を取ってきて、全国に馬の名人としてその名を轟かせたという。
その後も
1882年、明治になってもと仙台藩馬術指南役・石川清馬が成功。
1925年、参謀本部馬丁の岩木利夫が1分で上り、45分かけて下りた。
この模様はちょうどこの年、山頂にできた東京放送局(JOAK)(NHKの前身の一つ)で中継された(日本初とされる)。
1982年、馬術のスタントマン・渡辺隆馬も、日本テレビの特別番組『史実に挑戦』で安全網や命綱、保護帽などの安全策を施した上で32秒で登頂した。

上りはまだしも降りるときは徒歩でも怖い。
馬の上だと地面はさらに遠く、相当な恐怖であろう。

頂上には火山のように池。

三角点もあった。
標高25.7メートル、自然地形の独立峰で山といわれるものでは23区内最高峰だが、千駄木小学校辺り(21メートル)とあまり変わらない。(戸山の箱根山で44.6メートル)

16:06
1860、水戸藩の浪士達は、ここで成功を祈願してから桜田門外で井伊直弼を襲ったという。
祈願ならどこでもできる。ここは井伊の上屋敷も桜田門、江戸城もよく見えただろう。祈願というより現地を眺めたシミレーションと覚悟かもしれない。
本来ならテロリストだが井伊の敵であった薩長の世の中では英雄となる。人の評価は時代で変わる。
16:04
虎ノ門ヒルズを背景に、西郷隆盛と勝海舟の顔出しパネルがあった。
勝がここから江戸の町を見せ、戦火の及ぶことを防いだとされる。

江戸時代というのは階級が固定されていたが、幕末には本来殿様にお目見えできないほどの家柄の下級武士が国を動かした。いかに乱世だったか分かる。

江戸城無血開城の会談は3月13日、14日と薩摩藩邸で2回行われた。
上屋敷は焼かれていたので高輪の下屋敷と田町の蔵屋敷である。
明治絵画館などの絵では二人だけだが、例えば幕府側は山岡鉄舟、大久保忠寛(一翁)も同席したとされる。
愛宕山に登ったのはいつだろう? 二人だけではなかった気がする。

このころ東山道先鋒総督参謀の板垣退助らは板橋まで進軍して来て総攻撃を主張していた。ここに登った西郷は、勝の案を京都に持ち帰るのだが、慶喜の処遇など寛大すぎると三条、岩倉らの反対にあう。

しかし江戸の町、城と大名屋敷がそっくり残ったことは明治政府がスムーズに動き出すのに大きな助けとなった。もし幕府軍が抵抗したら、あるいは革命成就のため総攻撃をしかけたら、江戸は焼け野原となり、東京遷都もなかったであろう。いまの愛宕山の周囲、虎ノ門ヒルズ、愛宕山ヒルズもなかったであろう。

15:43
愛宕山ヒルズの2つのタワーを背に、NHK放送博物館がある。
1956年開館。昭和の建物はほっとする。
16時閉館なので急ぐ。
入り口、受付から職員がいっぱい。
コロナ対策という以上に人が余っているのではないか?

前回2014年も来た。
館内撮影禁止だった。

第一回からの大河ドラマ一覧

今年の青天を衝けは第60作。はっきり記憶にある弁慶の仁王立ちは第4回(源義経1966)、石坂浩二の天と地とは第7作(1969年)である。
子どものころ祖父や祖母と見たのがずいぶん前のほうになっていて驚く。見なくなってからずいぶん年数がたっている。
19世紀(1896)に始まったオリンピックでさえ、東京(1964)が第18回、今度の東京2020が第32回だから、私も年を取ったわけだ。

15:52 放送体験スタジオはコロナで閉鎖中。
前回来たときは、ここで列車の座席セットに座り、窓の景色が動いている自分の姿を見たり、ニュースを読んだりした。ニュース原稿はカメラのほうに表示され、下を見なくても読めることが分かった。突然ニュースが入って紙を横から手渡されて読む演技をしたりした。

NHKの受信料をめぐっては、見る人も見ない人も、NHK好きな人も嫌いな人も、全国民がスクランブルにしろと言っているが、国会議員は誰も動かない。有り余る受信料の余剰金が議員に流れているのかな。
私はNHK改革は受信料値下げなどでなく、解体し、まっとうな一般企業にするべきだと思うが、ここに来るとなぜかNHKが好きになってしまう。

・・・
愛宕神社に戻り、石段を下りて、大通りを愛宕隧道の前まで来た。
このトンネル、昭和5年という。
2004年に耐震補強工事が行われたらしいが、普通ならこの高さは切通しにするだろう。

16:12
トンネルの左、伝叟院は青松寺の子院。
江戸切絵図では愛宕山の東に子院がびっしり並んでいる。
曹洞宗大本山總持寺出張所でもある。

左は愛宕山ヒルズフォレストタワー、
NHK放送博物館の後ろはパークコート虎ノ門愛宕タワー、
トンネルの上に見えるのは昨年できたばかりの神谷町トラストタワーである。

愛宕山下通りの東は慈恵医大。
16:15
はて、愛宕山下通りの建物も、病院棟も慈恵大学と書いてある。

ウィキペディア含めて一般には東京慈恵会医科大学である。
1951年に財団法人東京慈恵会医科大学は学校法人慈恵大学に変更されている。
しかし翌1952年新制大学として設置認可されたのは、東京慈恵会医科大学である。

2021-02-21 16:17
1989年10月14日、薬理学会関東部会があり、新橋から歩いてここに来た。
ちょうど長尾さんが東大に行かれ、一人で心臓乳頭筋のCa sensitivity、あるいは平滑筋のNa-Ca exchangerをやっていたころか。あるいは循環を離れ神経細胞の培養を始めていたかもしれない。
32年もたち、会場はどこだったか全くわからない。
高木会館
1881年(明治14年)高木兼寛は医術開業試験受験予備校(乙種医学校)の成医会講習所を設立した。
高木は5年間イギリスに留学し、明治21年、初めて選ばれた医学博士5人の一人である。(ほかは池田謙斎、橋本綱常、三宅秀、大澤謙二)

彼は翌1882年、有志共立東京病院なる慈善病院を天光院(増上寺塔頭?)に発足させている。病院は翌年現在地の芝区愛宕町に移転。
16:19
さらに1885年、この病院に看護婦教育所を付設、これが我が国初の看護学校とされる。
後ろは高木2号館。

1921年(大正10年)、大学令の公布を機に東京慈恵会医院医学専門学校は東京慈恵会医科大学に昇格した。戦前から医科大学であった慶応、日本医大とともに御三家と言われる。

16:21
港区には珍しいほどの古い建物もあった。

近年順天堂大、日本医大などは病院、大学の高層化、拡大を急いでいる。
慈恵医大も周りがどんどんビル化される港区にあり、高度利用を進めている。まだ完成形ではないかもしれないが、あまり美しくない。表通りのF棟を生かした、伝統を感じるようなキャンパスになればいい。




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