2022年8月21日日曜日

飯田3 レトロ伊那市で途中下車、長野への直通電車

きまぐれで前日8月12日の夕方、用もないのに飯田に来て、寝ただけで早朝出発。
同じ長野県だが、南から北の端へ、5,6時間かけて実家の信州中野に行く。
迎え盆だからね。

2022‐08‐13 4:49
未明の飯田駅
人口10万なのに駅が小さいのは乗る人が少ないから。
飯田線は単線の地方線。5:00から23:00まで18時間で16本しかない。
ほとんど通学高校生しか乗らないのではなかろうか。

1日2往復の特急「伊那路」は秘境が売り?の飯田発豊橋行き、一方、東京へ行くには快速みすず(1日1往復)でも2時間以上かかって岡谷に出てから中央線に乗り換える。その不便さに名古屋方面、東京方面ともみな高速バスを使う。

長野まで乗車券は3080円。スイカは使えず。

5:00始発の茅野ゆきは一車両に2人しかおらず、一番いいボックス席を独占し、お菓子とジュースを窓際に並べ、パンをかじる。一人旅は楽だ。
これが人と一緒だとゆっくり起きてホテルのレストランで朝食となる。
もちろん前日夕方のように駅から歩いて暗くなる前30分で飯田城を見終わる強行軍など不可能だっただろう。

5:14
昨夜までの雨は上がり、伊那山地までは見える。
その向こうの南アルプスは、晴れたら線路から見えるのか見えないのか分からない。

5:18
伊那谷と書いてきたが、「信濃の国」では、松本、佐久、善光寺と並ぶ4つの盆地の一つ、伊那平である。

山塊に囲まれた伊那平
(赤印が飯田駅、盆地の一番広いところが伊那市)。
天竜川は右下にみえる諏訪湖から発し、左上の静岡方面の山塊に消えていく。
もし天竜の水が山中に海への抜け道を見つけられなかったら、伊那平は琵琶湖のように大きな湖となっただろう。
それにしても、中山道、中央本線はこの広い伊那谷を通らずに、なぜ山しかない木曽谷(右上)を通ったのだろうか?

飯田駅を5:00に出た電車は、6:33に伊那市に着いた。
このあと飯田を5:45に出て長野まで行く電車があるので、途中下車することにした。
30分くらい市内見物できる。

飯田が下伊那郡の中心であるのに対し、伊那市は上伊那郡の郡都である。
しかし飯田が明治8年、すでに町制施行し、1937(昭和12)年に市となった城下町であるのに対し、伊那市は1897(明治30)年にようやく伊那村が町となり、戦後の1954年に中野市などと同じようにようやく市になった。名前で得をしているな。
人口は6万4千人。
駅前の地図には2006年に合併した高遠町なども広域図に描いてある。
ここから高遠支所まで9.5キロメートル

6:36
朝のせいか、ここも人がいない。
正面の看板は「ようこそ 伊那節と勘太郎の街へ」であるが、この意味が分かる人がどれだけいるだろう? 伊那市民はみんな知っているのかな?
越後屋の向こうに少し見えるのは複合ビル「いなっせ」。

伊那市の中心。いなっせ前の交差点。

6:39
街路樹の代わりに植木鉢が並んでいる。見ればすべてバラである。
はっとした。伊那は「ばらサミット」のメンバー自治体だった。
昔からバラには興味がないが知っていた。なぜなら、実家の信州中野も、30代の7年間住み、最後の9年間の職場があった埼玉県伊奈町もメンバーだからだ。
バラを市町村の花にしている自治体を中心に、29自治体が加盟している。

ちなみに埼玉県北足立郡伊奈町、茨城県筑波郡伊奈町(2006年、つくばみらい市)とも、1792年に改易されるまで江戸幕府の関東代官頭を務めた伊奈家にちなむ。伊奈家は足利氏の庶流といわれ室町時代に信濃国伊那郡の一部を与えられたが、のち三河に出て松平家に仕えた譜代大名(のち減封され旗本)。
6:40 小沢川
北に歩くと小さな川にぶつかった。
『あの水この水の天竜となる水音』 山頭火の句碑。
それよりも橋の向こうに「伊那名物 ソースかつ丼」の看板が見えて嬉しかった。

小沢川に沿って下る。
「非常ボタン。エンストしたらボタンを押す」と大きく親切な案内板。
しかも2本!

6:42
たまや 「韓国餅・大福餅・あんころ餅・大福餅・赤飯 受け承ります」
餅なら何でも頼めそうだ。
「大福餅、切り餅、おやき ¥150 アラレ ¥500」
わざわざ看板を作らなくとも商品前に紙片を置くだけでいいと思うが。

6:43
すぐ天竜川に出た。
東海道新幹線で浜松の東、水のない広大な河川敷は何度も見たが、本物の天竜は初めて。
これが途中下車の目的。
諏訪湖の釜口水門から海まで213km(全国9位)。でも諏訪湖に入る八ヶ岳の川から測ればもっと長いだろう。

明治以前、川の名前というのは地域によって違う。古代は静岡と伊那谷では別の川と認識されていただろう。天竜はどこでいつから言われたのだろう?などと考えながら駅に戻りはじめる。
6:46
駅から大分離れているのにスナック、バーが密集。
伊那市は人口1000人当たりの飲み屋の数が全国トップクラスらしい。

飯田線の辰野方面。田舎なのに建物が線路に迫っている。
辰野方面は東京方面だが下りになり、豊橋方面が上りになる。
木曽を走る中央本線も東京方面の塩尻行きが下り。JR東海だからかな?

6:48
看板建築のような昭和レトロな建物が普通に並ぶ。
意識的に残しているのか、今や珍しいのではないか?

6:49
「レトロ伊那 芸能・音楽界有名人」
出身だけでなく疎開した人も含む。高木東六、三沢あけみ、本間千代子、みんな古いな。
私には芸能人じゃない井沢修二(高遠)、伊藤国光、向山光昭のほうがピンとくる。
「レトロ伊那」は商店街のキャッチフレーズかもしれない。

6:52
唯一の現代的ビル「いなっせ」
上伊那郡の役所やホール、生涯学習センターが入っている。

6:54
市の方針に従わずバラを並べない商店もある。もちろん自由だ。
歩行者だってバラ以外の花も見たいだろう。

7:04
駅に戻る。駅前の4階建てビルは空き家、パチンコ屋は廃業していた。
レトロを売りにしても市外、県外から観光客が来るとも思えない。
しかし古い店舗の保存といいバラの鉢を並べるといい、市民は素直に当局の音頭にこたえている。

飯田市と伊那市は、伊那平を南北に分けてそれぞれの中心となっているが、飯田の文化の高さが圧倒的である。城下町として士族がいたことが今に至るまで影響しているのだろうか? 伊那市も平成大合併で内藤3万3千石の城下町高遠を併合したが、離れた高遠町は鉄道が通らなかったため文化は溶けるように消えてしまった。信越本線が通らず発展しなかった松代を併合した長野市に城下町の文化が残らなかったのと似ている。
文化都市になるには士族階級と明治の産業化が必要だったようだ。

7:08 飯田から来た長野行き直通快速「みすず」にのる。

7:36 箕輪町、JR沢駅付近
大正2年、中箕輪高等小学校で教育県長野らしく先進的に行った宿泊登山で学童、教員38人が遭難、11人が死亡した。この事件は名著「聖職の碑」(新田次郎)で知ったが、車窓の外は彼らの地元である。子供たちの目的地だった木曽駒ケ岳は、稜線をたどって大分南にある。

7:47 辰野駅着
辰野は新宿から松本方面に向かう中央線特急「あずさ」から飯田線への乗換駅で、私の高校生のころは重要な駅だった。しかし、1983年以降、中央東線は岡谷-塩尻間で塩嶺トンネルを通るようになり、辰野は素通り。小さな地方駅になった。

辰野といえば、人口2万人に満たない小さな町だが、最後の戦艦大和艦長、有賀幸作と、戦艦武蔵の艦長だった古村啓藏の出身地である。二人とも諏訪中学(現・諏訪青陵高校)から海軍兵学校に入った。古村のほうが1年上だが病のため兵学校は同期である。当時兵学校の定員は100名(卒業89名)、日比谷中や神戸一中など全国の秀才があこがれた超難関であったが、山国から合格、同期で大和、武蔵の艦長を務めた二人とも辰野という山村(町になったのは戦後)出身なのは面白い。
あ、確か薬学の赤羽浩一氏も辰野ではなかったか?
7:54 
辰野を過ぎ、川岸駅付近
家の向こうの天竜川は、諏訪湖を出たばかりでそこらにある小川のよう。

7:59 岡谷駅に到着、
8:08 スイッチバックし塩尻に向かう。

8:16
塩尻、松本あたりでも電車は空いたまま。
8:19 塩尻着
8:40 松本
9:30 姥捨

9:31 姥捨駅
この景色を見るのは生理学会(2012年松本)の帰り以来。
電車を待つベンチは、線路に背を向け外を向いて作ってある。

電車はスイッチバックして並行する下の線路に降り、標高差を稼いで善光寺平に降りていく。左から右の向こうに千曲川が流れ、今朝見た伊那谷を思い出す。

県歌『信濃の国』一番の後半は、
「~松本、伊那、佐久、善光寺 
 四つの平は肥沃の地 
 海こそなけれ物沢(ものさわ)に 」
信州の4つの盆地はそれぞれ他県のほうが近いほど離れていて、文化風習も違っている。しかし、やはり他県よりもお互い似ているのである。

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