9月16日午前中、田町で買い物。
帰路、ランチを団子坂下でしようと、日暮里駅で降りた。
七面坂を下りて六阿弥陀道を南へ。
1978~1981まで毎週通った道である。
途中、右(沢側)に宗林寺がある。新しい石柱は「ほたる澤 はぎ寺」と書いてあるのだろうか?
右の石柱、ひげのように字の先を伸ばす南無妙法蓮華経、日蓮宗である。
江戸時代から一帯は新堀村蛍沢と言われていたが、萩は昔からあっただろうか?
40年前は寺に興味なく、見向きもせず歩いていたから記憶にない。
マメ科らしい葉。蕾の一部はほんのりピンクが見える。
そうだ、ここは鐘楼がある。
我が家で聞こえる除夜の音はここか、吉祥寺か。
ご府内寺社備考によれば境内拝領地3750坪。200坪程度の塔頭もいくつかあった。北はかき氷のひみつ堂から、南はもとアパートいまカフェの萩荘まで敷地は広がっていた。周辺は切り売りしたのか、地主として貸しているのかは知らない。
その六阿弥陀道ぞい、Hagisoの向かいに岡倉天心記念館がある。
天心旧居跡、日本美術院発祥の地である。
天心については以前書いたので略。
40年前、日暮里駅からアパートに帰る途中、トイレを使ったのかベンチかブランコで休んだのか、よく立ち寄った。
六角堂の中の天心坐像は平櫛田中作。
昔は関心なかったから覗いた記憶もない。
そのまま六阿弥陀道を南に進むと三崎坂途中に出る。
坂を途中まで下りて喫茶「乱歩」と伊勢辰の間の角を曲がると昔のアパートに向かうが、すぐ途中で左折、真島坂をあがる。
このあたりは三浦志摩守二万三千石の下屋敷であった。
領国は美作国真島郡勝山だったから、勝山藩と呼ばれたが、明治2年に真島藩と改称、廃藩置県では真島県となった。
そこから谷中真島町、真島坂、真島湯などの名前が生まれた。
江戸期の屋敷は坂下まで広がっていたから、この石垣は坂上に邸宅を構えた渡辺治右衛門が築いたものであろう。彼の名は南にあるあかぢ坂に残る。
1977年から79年ころ、この石垣の下、即ち写真の道路右側、谷中荘に中尾裕史がいた。
今、石垣の上、夕焼けのきれいな家にやはり同級生の田中靖夫、有子夫妻がいるはず。
写真右は谷中小学校。40年前はもう少し古かっただろうが記憶にない。
なぜなら、この真島坂を上がることがなかったからだ。
小学校裏の台東区出張所に2,3回来た時くらい。
今回来たら真島坂の一番風情ある家がなくなっていた。
たいてい広くて、ひと気がなくて、古くて、樹木が茂っていて、坂の魅力となっている家から順に消えていく。
坂上から
40年前、上野からアパートに帰るときは1つ南側のあかじ坂を下り、日暮里駅に行くときは1つ北の三崎坂をつかった。
しかし2013年に引っ越してからは、この坂を何回も下りた。すなわち上野公園から千駄木まで帰るには、谷中のヒマラヤスギから三浦坂上に出て大名時計博物館の東をまっすぐ北に歩いて、この真島坂上にくる。
何回も見たその家。写真を撮っておけばよかった。
この日のランチは菊見せんべい並びのRYU。
トマトソース煮込みハンバーグ、パン、スープ、ドリンク付き1000円はボリュームあった。
関連ブログ
20181120 三崎坂、蛍坂、七面、岡倉天心
20181021 谷アパート~谷中荘、真島湯あと20181023 あかぢ坂、三浦坂
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