2025年2月3日月曜日

新宮1 神倉神社、熊野速玉大社と八咫烏

1月16日の昼まる一日かけた瀬戸内海クルージングも、夕方明石海峡大橋を抜けて終わった。飛鳥IIは日付の変わる前に大阪湾を出て、紀伊半島の西を南下した。

大阪湾から新宮まではかなりの距離である。古代の船なら大変だっただろう(後述)。
2025₋01₋17 0:15の飛鳥の位置

スマホGPSも沖合だと使えない。
Marine Traficというサイトで船名をasukaといれると船の位置が出る。日本近海に拡大すれば、南紀白浜の沖にいた。
ちなみに図のJP HIJ、JP SHNはそれぞれ広島、新宮のAIS港コードである。
このサイトの優れているのは自船だけでなく、他船の位置もわかることだ。

数時間後の1月17日の明け方、何やら窓の外で音がした気がして、ベッドの中でカーテンを開けると小さな船が並行して走っていた。
2025-01-17 6:28
新宮丸と書いてある。
船腹にタイヤをくっつけてタグボートのようだが、飛鳥を押すでも引くでもなく、すぐ離れていった。
6:30
6:51
空もだんだん明るくなり新宮港に入る。
この日は10泊のクルーズ(途中2回横浜に帰港)の最終日、最後の上陸地である。

紀伊半島南部は、黒潮や多雨、また捕鯨、林業などと関連し、学校の社会、地理で習うせいか、他の地域よりも知られた地名が多い。しかし自分の頭の中での位置関係があやふやになっている。
東から紀伊長島、尾鷲、九鬼、熊野市(ここまで三重県)、新宮(ここから和歌山)、那智勝浦、太地(たいじ)、古座、串本(潮岬)、南紀白浜、田辺、と並ぶ。

熊野というのはこれら全体である。すなわち、三重県北牟婁(むろ)郡・南牟婁郡、和歌山県東牟婁郡・西牟婁郡、の4郡を指す。(牟婁4郡はすべて紀伊の国に属した)。現在の行政区ではこの4郡に尾鷲市、熊野市、新宮市、田辺市を加えた4市4郡(4市10町1村)となる。

鳥羽、尾鷲などは大型船は入れないが(錨泊して通船で上陸)、新宮は着岸できる。
二度と来ることはないので朝食後上陸した。

熊野と言えば熊野大社。
全国にある熊野大社、熊野神社の総本社は3つあり、熊野三山という。
3つは、熊野本宮大社、熊野那智大社、熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)であり、前二者が遠く山中にあって行きづらいのに対し、熊野速玉大社はJR新宮駅から1.3キロ、歩ける。
新宮駅は、飛鳥の着岸した新宮港・佐野第3号岸壁の近く、JR紀勢線紀伊佐野駅から2駅、9分、200円。
8:38
飛鳥から下船する。
埠頭には地元観光業者が歓迎「ようこそ」の幟にテントを張り椅子を並べていた。土産物売り場、フードコーナーなど作るのかな?
飛鳥IIが用意した無料バスは勝浦港にいくらしい。
マグロ解体ショー、買い物が目的のようだが、私は一人すどおりした。
8:40
この大きな箱は後で12階から見るとベルトコンベアで岸壁とつながる砂の置き場のようだった。
8:50 紀伊佐野駅
岸壁から950メートル。
9:08 紀勢本線は単線。
電車が少ないせいもあり、ダンス講習会に出られていた乗客夫妻と一緒になった。
9:19
鯨山見跡という小さな山をトンネルでくぐると、砂浜が広がり熊野灘が光っていた。

新宮駅に着いた。
9:25
駅前の地図
さきに神倉神社に行くことにした。
歩き始めるとスマホの地図GPSがとても便利なことをつくづく感じる。
9:37
山の上にご神体のゴトビキ岩がみえた。
9:40
橋を渡り神域に入る。
(現在の)主祭神は高倉下命(たかくらじのみこと)と天照大神の2神。
高倉下命は、尾張連(国造)の遠祖であるが、熊野三党(宇井、鈴木、榎本)の始祖ともいわれる。それがなぜ祭神か、後で述べる。
9:41
鳥居をくぐって始まる参道は石段である。
「鎌倉積み」といって源頼朝が寄進したらしい。

かなり急で、胸付き坂、手つき坂である。
これは信心深い老人にはきつい。
ふもとから拝殿まで538段あるという。
金刀比羅宮ではなだらかな参道でも431段でギブアップしたが、今回は大丈夫かな。
熊野古道というのもこういう感じなのだろうか?


9:50
神倉神社の拝殿とご神体・ゴトビキ岩に到着。
ゴトビキというのは何かを引っ張るという意味かと思ったら、地元の方言でガマガエルのことだという。神話などとは関係なく、ただ形が似ているというだけの名前のようだ。

まだ熊野三山などなかったころ、この岩に熊野の神々が降臨したらしい。

記紀によれば、神武天皇が東征の際に登った天磐盾(あまのいわたて)の山がこの神倉山(=ゴトビキ岩)だという。このとき、天照大神の子孫の高倉下命が神武に神剣を奉げ、八咫烏の道案内で軍を進め、熊野・大和を制圧したとされている。

これは沖合を航行する船からよく見えたであろう。
古代から良い目印になったと思われる。
神々が下りたというのは、人間が降ってくるわけないから、この岩を目印に海から上陸したということだろう。
9:52
拝殿から新宮市街、熊野川河口を望む

下りは上りより怖い。
手すりでもあれば楽だろうが、ないほうが良い。
ちょうどゆるゆると登り始めた老婦人がいて、頂上はどのくらいでしょうかと聞かれ、行かないほうが良いと伝えた。

10:02
「告!橋から中へ(境内)犬を入れないでください」
文章より書体が良い。

神倉神社から熊野速玉神社に向かう。
10:06
家は古く、つっかい棒をしているところもある。

10:14
熊野速玉神社 正門
石柱に熊野大権現とある。
熊野権現とは熊野三社に祀られる神々のことで、神仏習合の本地垂迹説により、仏教の仏たちが権に(かりに)現れたものとしてこう呼ばれた。

先ほどの神倉山に祀られた神々は、第12代・景行天皇の58年にこの地に遷座させられた。
そのときから神倉山を元宮、新しいこの地を新宮とした。新宮という現地名の由来である。

新しい宮は、熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ、伊邪那岐神)と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ、伊邪那美神)を主祭神としたため、熊野速玉大神から速玉神社と呼ばれるようになった。また元宮である神倉山は神倉神社となり、速玉神社の摂社となった。

鳥居をくぐってすぐ右に小さな社があった。
八咫烏神社

八咫烏は熊野三山でカラスの姿の神として祀られている。
また、日本サッカー協会のシンボルマークにもなっているが、すでに1931年大日本蹴球協会のころから採用されているらしい。神武天皇の故事から、よくボールをゴールに導くようにとの願いが込められているという。しかし私などは八咫烏は三本足だからサッカーに有利ということなんだと思っている。(ハンドと同じ反則だが)

この八咫烏神社の説明板によれば祭神は建角見命(たけつぬみのみこと)。

帰宅後調べると、賀茂建角身命とも呼ばれ、日向国高千穂の峯に天下って神武天皇を導き、熊野では大きな烏となって飛翔、先導したとされる。その後、葛城山を経て山城国に入った神で、賀茂氏の祖となったとされる。八咫の咫(あた)は長さの単位で、親指と中指を広げた長さ(約18センチ)のことであり、八咫は単に「大きい」という意味である。
ここではカラスではなく、ちゃんとした人間(神)として扱われている。

司馬遼太郎の小説で一番心に残ったものの一つに「八咫烏」(1961)がある。初期の短編であるからあまり知られていないが、目からうろこが落ちた記憶がある。

イワレヒコ(のちの神武天皇)が日向から東征し、大阪湾から上陸するもナガスネヒコに撃退される。その後、紀伊半島のほうにまわって吉野を越えて大和に攻め入るのだが、なぜ上陸も進軍も楽な紀ノ川あたりでなく、わざわざ遠く離れた熊野に上陸し、険阻、困難な大山塊を越えたのか? また、八咫烏を道案内にしたといってもカラスと話ができるわけがない。さらに、遠征・上陸するには守備側をはるかに超える兵力を必要とするが、日向からそれほどの人数が移動できるわけがない。そうしたもろもろの疑問に答える物語である。

小説によれば、イワレヒコが率いるのは薩摩、日向を根拠とする海(わだつみ)属。背は低く、黒い肌と彫りの深い顔立ちをして漁を業としていた。大和盆地にはナガスネヒコが率いる出雲族がいた。出雲族は体毛薄く長身、大陸から来て出雲、吉備を経て大和に入り、稲作をしていた。また農耕民族に追いやられた大和の先住民は一言主を長とし、大和南部の山間部に穴居する土蜘蛛になった。

大阪湾で撃退された海族は、紀伊半島南部の海族植民地・牟婁(ゴトビキ岩が目印だっただろう)にすむ同族の助けを借りるのである。海族は黒潮の洗う土佐、紀伊などの海岸部に植民地を持っていた。遠征軍は牟婁で補給し、植民地で新たに兵も集め、体勢をたてなおした。しかし海族は大和までの道が分からない。ここに「八咫烏」と呼ばれた孤独な男が登場する。かれは出雲族と海族との混血で、その風貌から牟婁の海族の中で生まれてからずっと差別、迫害を受けてきたが、出雲族の言葉が分かるというので道案内にされるのである。

1992年に読んで忘れているので再び取り出して読んだ。
海族の剽悍さとともに、八咫烏と一言主(土蜘蛛族)によるナガスネヒコの謀殺、そして首領を失った出雲族の弱さが、数に劣る海族が征服できた要因だった。海族は戦闘と首狩りで出雲族の男をことごとく殺し、それまで稀であった異民族の混血がすすんでいったという物語である。

境内を歩いていく。
速玉大社参詣曼荼羅 
一見古そうに見えるが、世界遺産登録を記念に作られた。「熊野権現縁起絵巻」などを参考にしたか?
左にゴトビキ岩の神倉神社、右の熊野川河口近くに阿須賀神社(主祭神は速玉大社と同じで、より古いとされる)が描かれている。

ご神木・梛(なぎ)
樹齢千年というが、ケヤキやクスノキならもっと大きくなるだろう。
「世界平和を祈る梛木のご神木」という石柱が建つ。この木は「世界平和」など大それたものに結び付けないほうが良いと思った。
神門
「未来につなぐ」「日本の祈り」も個人的には好きではない。
神社はなるべく静かで無言なほうが良い。

10:18 
拝殿(中央)の奥に、第一殿、第二殿が並び、その右(東)に上三殿、八社殿がある。
第一殿は熊野夫須美大神を、第二殿は熊野速玉大神を祀る。

拝殿
大きな注連縄はあるが、朱塗りなど寺院のよう。
熊野三山の「山」、熊野権現、などといった言葉からわかるように、神仏習合、仏教的な色彩が濃いのだろう。
上三殿とその前の3つの鈴門
上三殿とは左から第三殿(証誠殿)に家津美御子大神(ケツミミコノオオカミ、スサノオのこと)を祀り、第四殿の若宮に天照大神を、神倉宮に高倉下命を祀る。第四殿までを上四社という。

その右にある八社殿は、前に2つの鈴門がある。これは第五殿から第十二殿までが、中四社と下四社に分かれているためである。各社の祀る神々については省略する。
熊野御幸、すなわち熊野を参詣した天皇、皇族。
23人、のべ141回。
宇多上皇(867- 931)に始まり、鳥羽上皇(23回)、後白河上皇(33回)、後鳥羽上皇(29回)が目立つ。
10:21
「世界遺産 熊野速玉大社」と大書した巨石。
こういう文言はパンフレットにでも書けばいいのであり、神社というのはもっと清らかで静謐なものだと思う。
もっとも何人もこの前で記念写真を撮っていたから、世間的には受け入れられているようだ。

境内には新宮出身の佐藤春夫記念館があった。東京・文京区にあった邸宅を移築したものだが、しかし新宮城近くの市有地に移築するということで閉鎖されていた。(来年度オープン)

速玉大社のすぐ東に熊野川があり、堤防にあがってみた。
10:29 海の方向
ちなみに、この熊野川が三重、和歌山の県境。
三重県側の小山に貴祢谷社(きねがだにしゃ)がある。神倉山に下りた神々が新宮にうつるまえにここに祀られたという。江戸時代までは両岸とも紀伊の国、いや、両岸とも熊野、新宮であった。

川原が初詣客の臨時駐車場になっていた。
熊野川上流方向
これを40キロ近く遡れば熊野本宮大社にいく。

延長183km、日本で15位。
流域面積では26位だが流域人口は相当少ないだろう。

熊野川は1970年に一級河川の指定を受けた時は、河口の地名をとって新宮川とされた。しかし地元は本宮大社から下流を熊野川と呼んでいたため1998年、法定名称が熊野川と変更された。地元名称は、上流の奈良県では天ノ川(てんのかわ)、十津川とも呼ばれる。

(行政は合流前後の川を区別するためもあり、千曲川を犀川と合わさる川中島で信濃川に変えたように、合流地点で下流の名前に変えたがる。しかし地元民が下流の名前を使うことはあり得ない。街道が行き先を名にするのと違い、川は下流の名前にしたら重なってしまう)

平安時代、熊野三山を詣でる人々は本宮大社を詣でた後、船で下り速玉大社に来た。「川の熊野古道」といわれ、現在中間点の道の駅「瀞峡街道熊野川」下から熊野速玉大社横の川原まで16kmを下る川船が運航されている(冬季はナシ、1時間半、4300円)。

新宮は、神倉山のゴトビキ岩が海からよく見え、そのまま船で内陸まで入って行ける。
この平地が、神代から(海族により)開けた理由が分かる気がする。
降りてきた神々というのは、(陸路がなかったから)海から来た人間であることは言うまでもない。

(続く)

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