2025年1月30日木曜日

広島5 平和公園と丹下健三、原爆資料館

1月15日、広島を見物している。

広島城のあと原爆ドームをみて元安川を渡った。

12:26
元安橋から原爆ドームをのぞむ。
橋を渡ると平和記念公園。南に平和の灯と原爆資料館が見えた。
12:27
平和の灯が燃えている。

実は、原爆関連の旧跡、施設は、広島観光での優先順位が高くなかった。
これらは28年前に一度見たので、今回は被服支廠跡、兵器補給廠跡、比治山、広島城を目的地とした。
しかし比治山に行かなかったこともあって時間に余裕ができ、また広島城のすぐそばだったので平和記念公園にも立ち寄った。
12:29
アーチ型の記念碑(原爆死没者慰霊碑)を通して、北の平和の灯、原爆ドームが一直線に並ぶ。反対側には原爆資料館が正対する。
この見事なデザインと広さは日本のほかの都市にはなく、ワシントンの国会議事堂とワシントンモニュメント、リンカーンメモリアルを1直線に結ぶナショナルモールを思わせる。

原爆資料館を含め、公園の全体設計は丹下健三らによる。
1946年、爆心地に近い中島(なかじま)町内10.72ヘクタールが都市計画公園に指定され、1949年には国会で広島平和記念都市建設法が制定された。
同年、コンペティション「広島市平和記念公園及び記念館競技設計」が実施され、約140件の応募案のなかから1等に岸田日出刀審査員(東大建築学科教授)が推す丹下健三らの案が選ばれた。
(丹下は旧制広島高校出身、コンペ当時は独立していたが建築学科助教授で、のち1963年工学部都市工学科教授に就任した。広島平和公園は丹下の出世作といえる)。
12:29
広島平和記念資料館
東西2つの建物を真ん中の細長い建物で結んでいる。
12:30
丹下らは当時計画されていた東西に走る大通り、すなわち相生通り(1952年拡張)、平和大通り(1951年計画、1965年完成、別名100メートル道路)と直交する形で、南北に記念館、広場、慰霊碑、原爆ドームを一本の軸線で配置した。彼は日本の社寺に見られる、個々の建築よりも、その配置がつくりだす環境の秩序を重視したという。他の案は計画道路や川向こうの景色などは考えていなかった。

12:30
「祝・日本被団協 ノーベル平和賞」とある西の建物に行ったら、広島国際会議場とあり、原爆資料館ではなかった。

原爆資料館は同じ形をした東の建物だった。

1955年の開館当初は記念碑に正面で正対する高床式の細長い建物だけが資料館で(広島平和会館原爆記念陳列館といった)、西側に広島市公会堂、東側には広島平和会館本館が配されていた。
西側は1989年に建て替えられて広島国際会議場と改称され、東側は1994年に建て替えられ、中央の高床式建物を平和記念資料館西館、東側を東館とし、空中回路で結ばれた。
2006年には中央の高床式の西館が本館と改称され、これが戦後の建築物としては初めて国の重要文化財となった。
12:32
「広島平和記念資料館」 入り口(東館)
「原爆資料館」では中身がわかりすぎて生々しいのだろう。
入場料200円だが、65歳以上は100円。

まずエスカレーターで3階に上がる。
28年前とは当然入り口、順路などは違っている。
展示室が地下にあったような気がしたのだが記憶違いか。
12:41
最初は原爆投下前の平和な広島の生活が描かれている。

12:42
それが8時14分、たった1発が投下された。

最初の展示室の真ん中に水槽のような円形展示物がある。
12:42
広島の航空写真に、原爆が投下され、爆心地からキノコ雲が建ち、廃墟となるようすが動画として映し出される。効果音も入っていて良くできていた。
12:42
東館から本館に入っていく。
「お急ぎの方は追い越して奥にお進みください」
私は神社仏閣でもお参りもせずあっという間に立ち去るので、たぶんそっと追い越して出てくるだろう。

続く部屋からは、「投下の結果」の展示である。
12:46
全ての人が無言で見入っている。
圧倒的に外国人、とくに白人が多い。
アジア人は買い物とか神社仏閣に行き、こういうものに興味がないのだろう。
12:47
融けた金属塊
ここに生身の肉があったら一瞬にして蒸発しただろう。
痛みに苦しみながら息絶えるのと、このように消えるのと、どちらが悲惨だろう?

被災の様子、人物の絵や人形が展示されている。特に人形は展示することに賛否があったという。反対する理由は、怖すぎるという意見がある一方、逆に、実際はあんなものではなく「想像力を遮断して、誤った固定観念を作りあげる危険」があるという意見もあった。
館内の見学には本来3時間はかかるとされるが、2004年に資料館が行った調査によると、実際の平均時間は45分だった。しかも見学者の多くは前半の東館の見学に時間を取られ、本館の見学は平均19分にも満たないことが判明。特に、修学旅行などの団体客は時間が限られているために、膨大な数の遺品や被爆資料を展示している肝心の本館の見学がおろそかになると指摘され、順路、展示などが工夫された。今回まわった感じはわりと早く本館に行けたと思う。
12:49
本館の展示を見終わると、東館に戻る回廊に出て、北に窓があるギャラリーとなる。
明るいとホッとする。
12:50
写真パネル「平和記念公園の建設」
12:52
原爆投下前の広島。
中島町は広島城のすぐ南に当たり、また水運にも便利であり、江戸時代から栄えていた。
明治以後も市役所、県庁がおかれ、市の中心だった。
原爆投下前 1930年ころ
12:51
その中心街がこれだけの広大な見事な公園に生まれ変わったのは、ある意味、すべてを消し去る原爆のすごさを示している。

この回廊はベンチがあったので、広島上陸以来初めて座り、撮った写真を無料wifiでアップした。

回廊から再び東館に入る。
13:04
原爆ドームと本来の姿(広島県物産陳列館)

本館が被災者の悲惨さを訴えたのに対し、東館3階の北半分は核兵器の恐ろしさを展示している。
13:04
被爆した瓦
「実際に触ってください」とあり、釉薬の融け具合を感じさせる展示である。
しかし触ったら有難い仏像がつるつるになるように摩耗してしまうのではないか?
13:06
ほんとに多くの外国人(白人)が熱心に見ている。
アジア人と違って、自国が核を持っていたり、また核の使用に対し、意識が高かったりするのであろう。

13:07
3階東館から2階(広島市の歩み)、1階(無料展示コーナー)を見下ろす。

2階は原爆に関係なく広島市の歴史が展示されている。
(申し訳ないが)私はこちらのほうをよく見た。
13:09
2階、戦前の広島城(第五師団司令部)
江戸時代以来の国宝天守閣が見える。広い堀にはびっしり何かが育っている。戦時中ならサツマイモだろうが、葉の大きさから戦争前のハスだろうか?
13:09 広島の陸軍施設
明治以来軍都であったことがよく分かる。

見学には3時間かかるというに、私は30分あまりで出てしまった。
28年前もその前年の1996年に長崎の原爆資料館をじっくり見たこともあって、広島では長崎ほどの衝撃は受けなかった。当然、今回も冷静に見られた。(その分、短時間で雑に見た)。
ワシントンのホロコーストミュージアム、震災空襲被害を展示する東京都復興記念館(両国)を見学したり、昔から書物や写真集で悲惨な様子をいっぱい見てきたことなどが、ここの優先順位が出汐倉庫より低かった理由である。

死ぬ人や家族にとっては通常爆弾で死ぬのも原爆で死ぬのも、苦しさ、悔しさ、悲しさは同じだろうという考えがある。確かにそうだろう。
しかし核兵器は「大した労力をかけなくとも」1発で都市を壊滅させる。世界中に何千発もあることを考えると、一瞬で地球にいる生物を破滅させるという点で、やはり特別であり、この資料館は世界中の人々に対して意味がある。

外に出ると、午前中寒かった広島も昼から日が差し、穏やかな陽気だった。
平和記念公園には、遺影や手記などを収集、展示する国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(2002年開館)や様々な記念碑、追悼碑があるが、立ち寄らなかった。一度に見られる量には限りがある。(時間だけではなく、脳の受容量)

すぐ南の平和大通りを渡った。100メートル道路といっても広すぎると困るようで、ほとんどは札幌のように公園となっている。この広さも原爆の遺産といえる。
13:23
広島電鉄路線図
路面電車の「中電前」という停留所でのり、飛鳥のいる宇品港に向かった。

がれきの山や血だらけの人々より(これらは他の空襲でも自然災害でもある)、むしろ、あの100メートル道路や、自由自在に設計できた平和公園の「すっきりさ」こそ、原爆の恐ろしさを示していると思った。

(続く)


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