2025年3月13日木曜日

長浜駅の成立、湖面の城と秀吉、黒壁スクエア

京大森泰生先生の退官講演、晩さん会に妻と出席した。
私は京都で是非行きたいと思うところがないので、本当は日帰りでも良かったのだが、彼女が一泊して観光したいという。妥協点として滋賀県を一日周ることにした。

彦根、大津(坂本、石山)は行ったことがあるから、長浜と安土・近江八幡を歩くことにした。新幹線の始発(東京6:00発、のぞみ)に乗り、名古屋でひかりに乗り換え、米原で降り、在来線に乗る。北陸本線だがJR西日本(1987年発足)は、1988年から京都から米原までを愛称として琵琶湖線と呼び、1991年からは長浜まで含めた。
2025₋03₋06 8:06
在来線・米原駅
隣駅は坂田(北陸本線)、醒ヶ井・彦根(東海道線)である。
坂田の次は田村にとまった。征夷大将軍みたいな駅名だな、と妻に行ったらいい加減にうなずいたから、「意味わかってるの?」と聞いたら、分からないといった。
田村駅のそばに長浜バイオ大学があった。
通勤時間だが逆方向なのか、それほど混んでいない。

8:18長浜駅到着
8:24 長浜の駅舎デッキから
寒い。長浜城が見えた。

2005年8月22日、京都大学のバイオシミレーション(野間)プロジェクトに参加していた頃、朝6:00に京都駅発、琵琶湖を時計回りで一周、京都帰着9:16で急いでKRPに向かったことがある。
そのとき列車から降りなかったが、車窓から長浜城が近くに見えた。その後すぐ駅舎が新しくなったようだが、今も車中から座ったまま見えるのだろうか。
8:26
駅舎は新しい(2006年10月)が、長浜駅は1882年(明治15年)開業だからかなり古い。
日本初の新橋-横浜間の1872年(明治5年)には負けるが、東北本線の上野駅(1883)、東海道線の名古屋駅(1886)、京都駅(1877)、大阪駅(1874)より古いのである。なぜ古いか?
長浜駅周辺
お城と湖が近い。
大きな埠頭などもあって地図上では湊町の雰囲気さえある。

駅が異常に古い理由は、琵琶湖にある。
明治初め、我が国の東西を結ぶ鉄道は、名古屋―京都間は鈴鹿峠を通る東海道ではなく、関ヶ原を通る中山道に決まった。
しかし滋賀県内では当面、琵琶湖の水運を代わりに使うことで、建設を猶予することになった。
そのため、湖に面した港町に船と鉄道の接続駅を設けることになり、1880年(明治13)に大津駅(初代)が開業、また東は長浜から岐阜へ向かって鉄道路線が着工された。

鉄道連絡船(太湖汽船)は1882年に運航を開始。
長浜からの鉄道は当時日本海側の物流拠点であった敦賀へいく路線が先に開業し、翌年は関ヶ原方面の路線も開業した。
しかし1889年(明治22)、東京新橋から長浜まで全通した年、米原駅が建設され、米原以南も湖東線が開業したことから、長浜は陸運と水運の接続点としての役目を終え、単なる北陸方面への中間駅となった。

当時の駅舎は、日本最古として旧長浜駅舎鉄道資料館となり駅の南側に保存されているらしいが、知らずに見損ねた。
地図を見れば長浜市は琵琶湖の北、福井県境まで広がり、姉川、賤ケ岳の古戦場、小谷城跡、余呉湖、竹生島、国友鉄砲ミュージアムなど魅力的な場所が多数あるが、今回はどこも行けない(たぶん今後も)。
時間がないので駅の周りだけ歩く。
8:30
城址公園は豊公園(ほうこうえん)という。
豊は秀吉にちなんだものだろうが、ユタカともトヨとも読まない。明治34年に開設されたというから当時の言語感覚か。今なら単純に長浜城公園くらいの名前にするだろう。
8:32
裏(西)はすぐ湖水になっている。
8:33
城から船に乗れば大津(京都)、安土(信長)もすぐである。北陸への中継点にもなっている。長浜は今考えるよりずっと便利、重要な場所だったであろう。
8:35
「太閤井址」
戦前の1939年、琵琶湖の渇水によって発見された。発見当時は、厚さ3センチほどの木の板で囲まれていたという。長浜城は江戸時代初めに廃城となったから、その当時のものか。空気中より水中のほうが保存されるという例。
何でこんなところにあるかと不思議でもある。

そういえば長浜出身の若森実氏は、ご先祖が秀吉の時代に井戸掘りの技術者だったという話を32年前に聞いた覚えがある。翌日京都でお会いしたが、6年ぶり、奥様とは31年ぶりで、積もる話が多く、井戸のことは聞き損ねた。
8:35
海のように砂浜になっている。
草が多いのは塩分がないためか。
今回は琵琶湖をじっくり見ることも目的の一つだった。
8:36
長浜は今浜と呼ばれていたが、近くの小谷城にいた浅井氏が姉川の合戦(1570)で滅んだ後、1573年(天正元年)、戦功のあった木下藤吉郎が浅井領の北近江3郡を信長から与えられ、この年羽柴秀吉と改名、初めて城もちとなった。(このとき明智光秀は南近江を与えられた)
昔々の大河ドラマで秀吉が半紙に「長浜」と書き「いい名前じゃ」と言ったシーンを覚えてるが、ドラマのタイトルも秀吉役の俳優も思い出せない。「長」は秀吉のことだから信長からとったのだろうか。彼は三成と違って信長の機嫌をとることがうまかった。

信長というのはユニークだった。当時の戦国大名は家康にしろ武田、上杉にしろ、家臣は昔からの領地をもち、合戦のときは自領の壮丁を引き連れて大将の元に馳せ参じた。しかし織田軍の場合、実力主義が徹底していて、5人の軍団長のうち柴田、丹羽は先代からの家老であったから領地を持っていたが、滝川一益、光秀、秀吉は信長に実力を買われて雇われたわけで、自分の領地、領民を持たず、兵は信長から預けられるという形だった。

初めて領地、領民を持った秀吉は、浅井長政の小谷城や1558年に火災に遭った竹生島宝厳寺の復旧資材として長政が寄進した材木などを流用し、ここに築城した。(後年、宝厳寺に大坂城の唐門などが移築された理由は、1598年に死去した秀吉の、この件に関した遺命による)。
8:38
長浜城復元図(本丸跡にあった案内板)
城はいわゆる水城で、湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていた。東に作った城下町は小谷城下からそのまま移した。
城は難攻不落だろうが、湖水につかりながらの工事は大変だったと思われる。戦場を忙しく駆け回っていた秀吉によくできたものだ。

1586年の天正地震により城が全壊し、城の一部は琵琶湖に水没したという。先ほどの井戸はそれで湖底となったのだろうか。なお当時の城主山内一豊の息女も死亡した。
8:38
長浜城天守閣跡
江戸時代に廃城になったから、現在の天守閣は南のほうに1983年作られた鉄筋コンクリート製の模擬天守である。犬山城や伏見城をモデルにしたという。
衣冠束帯の秀吉像があるが、長浜在住期間は短く、長篠、信貴山、播磨、但馬など各地に転戦し忙しかったからこのような衣装をすることもなかったのではないか?
8:41
本能寺の変(1582)のあと、長浜城はいったん明智方に奪われたが、清須会議で長浜12万石は越前の柴田勝家領となった。賤ケ岳(1583)で柴田が滅んだ後は1585年、近江八幡にきた豊臣秀次の家老となった山内一豊が2万石の長浜城主となるも、1590年、一豊は遠州掛川5万石で転封した。

関ヶ原のあと、1606年徳川譜代の内藤信成・信正が城主になるが(長浜藩)、1615年摂津高槻に移封され、長浜は廃城となる。資材の大半は井伊の彦根城築城に流用された。
城の正面にあった説明板を読めば、この地はもと、近江・出雲・摂津・若狭・飛騨・上総の守護をつとめ、バサラ大名としても知られる佐々木(京極)高氏(道誉)が出城を築いたらしい。
彼は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将、守護大名である。近江の地頭である佐々木氏の分家京極氏に生まれ、当初は幕府側だったが、のち倒幕に参加した。

駅に戻り、城下町のあった東口に出る。

8:51
長浜城外堀跡
本丸の周りは水面だったから、家臣の屋敷、町人の城下町は東に作り、堀をめぐらした。

8:52
北国街道を挟み旧開知学校(左)と滋賀銀行
開知学校は三階建てのうえに八角形の櫓が乗っている。
1874年に建てられ、昭和12年に現在地に移転した。

滋賀銀行の前に「滋賀県第一小学校跡」という石柱がある。明治4年(1871)に設立され、滋賀県が成立してから県下初ということで滋賀県第一小学校と命名され、明治7年(1874)には、洋風学校を神戸町に新築し、開知学校と改名、昭和になって旧地の近くに移転してきたというわけだ。現在の長浜小学校の前身である。
前述の若森実氏はこの小学校の出身で、虎姫高校でなく長浜高校から滋賀大経済学部にすすまれ、途中で九州大学歯学部に入学しなおされたユニークな経歴がある。その後、生理学に転じられ京大工学部准教授から東北大歯学部教授となられた。

小学校の次は中学校である。
長浜は1889年(明治22年)4月1日 、町村制の施行と同時に長浜町となった。北近江の中心都市であり、小学校も県下最初であったが、尋常中学(県立)は彦根の一中(1880、現・彦根東)、大津・膳所の二中(1898、現・膳所)に遅れ、水口中学(1919)の翌年1920年に、八日市、今津(1920、現・高島高)とともにできた。しかし長浜町内ではなく、隣の虎姫村だった。虎姫高校は今でも北近江随一の進学校である。
高等女学校は彦根、大津に次いで1911年、長浜実科高等女学校が町立でできている。

ちなみに長浜高校は1976年創立、2016年に長浜実科高等女学校の後身、長浜北高校と統合され校名は消滅した。

滋賀銀行、旧開知学校の交差点を北に曲がる。
8:53
北国街道
同名の街道は中山道信濃追分から越後直江津まで通じる善光寺街道のほうが有名かもしれない。
近江の北国街道は、中山道の鳥居本宿(とりいもとじゅく)のはずれ、中山道・北国街道追分(彦根市下矢倉町)から、長浜、木之本をへて福井県に入り、今庄で敦賀から来る北陸道と合流し福井へと通じる。

道幅が散策するのにちょうど良い。
川越などと比べ、雰囲気は格段に優れている。
もちろん努力しなければこうした景観は維持できないわけで、滋賀県の実力を見た。
8:53
浄琳寺太鼓楼
この右奥のほうにある浄土真宗大谷派寺院の表門らしい。
8:55
黒壁ガラス館(黒壁1號館)
北国街道と大手門通りの交差点は札の辻と呼ばれ、ここを中心として一帯にある黒漆喰の和風建築の黒壁1號館から30號館まで総称して黒壁スクエアというらしい。
交差点角にある黒壁ガラス館は明治33年(1900)竣工の旧第百三十銀行である。
8:55
大手門通り西門
北国街道と直交する大手門通りはアーケード街になっている。
飾りは何だろう?

平日の朝だけに観光客は誰もおらず、店も開いていない。
来た道を戻り、旧開知学校の横を通って南に進む。
9:02
観光客相手でない場所も風情がある。

長浜は2006年から2010年にかけて北のほうと合併し、やはり平成の大合併でできた西岸の高島市についで面積は県下2位。人口は11万人で合併直後は大津と草津に次いで県内3位だったが現在は彦根に抜かれている。

駅前に戻って来た。銅像があった。
9:06
タイトルは「出逢い」とある。
もともと古くからの家臣、領地、領民をもたなかった秀吉は、初めての領内で積極的に人材を採用した。石田三成はここから5キロほど東の長浜市石田の土豪の子として生まれ、法華寺の小姓となる。鷹狩りの際に訪れた秀吉が汗をかいているのを見て、佐吉少年は最初は大きな器にぬるい茶をなみなみと入れ、さらに二杯目を求められると中くらいの器に適温の茶をいれ、三杯目を求められると小さな茶碗に熱い茶をいれたという。秀吉はいたく感心し、召し抱えたとされる。三献の茶という有名な話だが、一杯目は良いとして、二杯目も一杯目と同じで良かったのではないかな、なんて思う。それとも変えたということが重要なのかもしれない。

召し抱えられた佐吉少年はその才能を十分発揮し、賤ケ岳、小牧長久手など戦だけでなく、堺奉行、博多奉行という文官としても活躍した。有能であった分、朝鮮出兵以後、武断派に恨まれたのはよく知られるところである。

秀吉が長浜城主となったころから、父・石田正継、兄・正澄とともに秀吉に仕官した(自身は小姓)というから、三杯のお茶だけで採用されたわけでない。

長浜駅を9:25に出る。
車窓から琵琶湖がみえた。
米原駅で乗り換え、安土に向かう。
9:43
伊吹山を離れていく。
古くは日本武尊が東征の帰路、この山の神(牛のような大きな白猪?)と戦って敗れ、亡くなったというが、そんな神話を生むほど東国との境にある目立つ山だった。
それは今も変わらない。何十回も湖東平野を新幹線で通過したが、そのたび伊吹山は富士山とともに、一番見たい景色だった。今回はこの山を含め近江の風土をじっくり見られた。板塀の家家も美しく、来てよかったと思った。
(続く)

長浜の鳥観図と安土・近江八幡

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