3月6日、京都に向かう途中、長浜城をみて、安土に来てレンタサイクルで安土城から近江八幡にやってきた。
田んぼ道をよたよた走り近江八幡の街中に入ると左手にヴォーリズ学園すなわち近江兄弟社学園があり(前のブログ)、さらに少し行くと右手に鳥居がある。
12:31
日牟禮八幡宮
近江八幡神社という神社はなく、ここが近江八幡の地名の元である。
しかし参拝(というより見物)はあとにして昼食にした。
鳥居の並びにあった千成亭という店で近江牛のすき鍋御膳をたべ、これまた隣にあった「ふとんの西川」の初代から12代の歴代当主が住んだという邸宅も(ほんの少し)見学した。
食事した店や旧西川家住宅の裏は八幡堀になっていて、これに沿ってずっと歩いたら良いだろうな、と思いながらも再び自転車にまたがった。
先ほどの鳥居をくぐると神社のための堀のような八幡堀の橋がある。
13:40
下を見ると、さきほどの旧西川邸の裏あたりから遊覧船がやってきた。
女性客が二人乗っていた。こちらのカメラに笑顔を向けてくれたので手を振ったら向こうも手を振ってくれ、こちらも嬉しくてもっと大きく振った。
13:41
船は東のほうに行った。
地図を見れは様々な水路を経て西の湖、琵琶湖まで続き、水郷地帯を形成している。
このあたりは両岸の歴史的建物と調和し、さきの田んぼのほうは葦の林に埋まるのだろうか。いずれにしろ華美な看板もなく景観は優れ、近江八幡、滋賀県の民度の高さ、底力を感じた。
近江八幡は、 蒲生郡八幡町を中心に1954年に市制を敷いた。本来なら町名そのままに八幡市になるところ、このとき北九州に八幡市があったため近江を冠した。八幡など日本中にあるから仕方がない。(その後北九州市ができて八幡市が消滅、1977年京都の岩清水八幡を市域に持って誕生した八幡市は何も冠していない。)
その結果、「近江八幡」という言葉は東海道線の駅名とともに定着し、あたかもこの名の神社があるかのようである。しかしここから身を起こした近江商人なども連想しやすい歴史を感じさせる市名にもなっている。
近江八幡市は2010年で人口6万9千人であったが、この年、隣の安土町を吸収合併し、いまは80,865人という(2025年推計)。
13:44
日牟禮八幡宮
祭神は全国の八幡さまと同じく応神天皇。
琵琶湖は若狭湾、大阪湾とも近く、道路が未発達な古代は今よりずっと利用されてきた。そして湖上から見る小山は目についたであろう。
奈良京都にも近いから小山のふもとに神社ができるのは自然である。
「ひむれ」とは変わった言葉だ。
伝によれば、この地はさきに大国主神を祀る大嶋神社というのがあり、奥津嶋神社を訪ねた応神天皇が大嶋神社の近くで仮屋をたて休憩した。その後、御座所址から太陽が2つ見えるという不思議な現象があり、住民は祠を建て、日群之社八幡宮と名付けたのが始まりという。
(べつに近江、畿内の古代氏族、和珥氏の祖先、日觸使主(ひふれのおみ)から来たという説もある)
13:45
八幡社境内
平安時代(991年)八幡山(法華峰)の上に社を建立し、宇佐八幡を勧請、さらに1005年、遥拝社をふもとに建立し、上宮、下宮に分かれていたという。
あとで述べる豊臣秀次の八幡山築城の際、上宮を城地にしたから、それを下宮と合祀し、日杉山に祀りなおすこととなった。ところが秀次が領地替えにより尾張清州城に移ったため、移転が延期され、さらに彼が自害したことで八幡山城は廃城、八幡の移転は全面中止となって、下宮(現在の場所)が八幡社の境内となったという。
13:53
八幡社の横にロープウェイ乗り場がある。
頂上に行けば琵琶湖も見えるだろうが、時間とお金をかけるほどではない。
乗り場まで行ってみたがほとんど人はおらず、売店があり、先ほどのすき鍋御膳にも入っていた近江名物「赤こんにゃく」などが売っていた。
近江八幡はほかに見所が多そうなので八幡宮を短時間で切り上げる。
14:01
観光地図を見て豊臣秀次像のある八幡公園に行くことにした。
社会科の教科書には載っていない人物だが叔父の秀吉に振り回されたような人生だった。
鳥居を出て、昼食で寄った千成亭、旧西川邸の面した通りを西に向かう。
左前方の建物にメンタムの看板あり。
14:03
近江兄弟社本社・メンターム資料館
(前のブログ)
14:09
南からふたたび八幡堀を渡り、旧城内?に入る。
橋を渡った道の突き当りに近江八幡市立図書館がある。
その裏山が八幡公園である。
14:13
八幡公園案内図
ただの公園案内図でなく、簡単な歴史地図にもなっている。西のほうに麓から頂上に向かう大手道があり、両側にひな壇上に家臣団の屋敷が並び、一番上に秀次の屋敷があったらしい。
それら一帯も公園敷地内のようであるが(桜の名所?)、ずいぶん広いので行くのは断念して秀次像だけ見ることにした。
豊臣秀次は、秀吉の姉である瑞竜院日秀の長男、つまり甥である。
幼少時、浅井長政の家臣・宮部継潤のもとへ人質として送られそのまま養子となり、次いで三好一族の三好康長(笑岩)の養子となり三好家の名跡を継いだ。秀吉が天下人の道を歩み始めると(1584年)羽柴姓となって翌年は名も秀次とする。
1585年8月、秀次も参加した四国平定が成ると、大掛かりな国替え・加増が行われた。秀次の本人分としては20万石、秀吉から預けられた宿老たち(中村一氏・山内一豊・堀尾吉晴)の分としては23万石が与えられ、併せて43万石の大名となった。領地は信長、秀吉以来の要地、近江国の蒲生・甲賀・野洲・坂田・浅井の5郡。そして秀次はここ八幡山に城を築いた。三層の天守閣は日牟禮八幡宮の上宮を移築したという。
城地の選定から築城まで秀吉が指図したとされ、建物や城下の町人は安土から移築、転居させた。(この時点で安土城は廃城となった)入城した秀次は18歳であった。
これが今の近江八幡市の始まりとなる。
1586年、秀次は豊臣姓となる。
九州征伐の終わった1588年には豊臣政権下で官位順に並べると、徳川家康(大納言)、織田信雄(信長二男、内大臣)、豊臣秀長(権大納言)、豊臣秀次(権中納言)、宇喜多秀家(参議)、前田利家(左近衛権少将)の順となり、四番目まで引き揚げられた。
1590年の小田原攻めの論功行賞の国替えで、家康が関東に、その旧領・東海甲信の五か国が織田信雄へいくことになったが、信雄が移封を拒否して彼は改易された。そのため信雄領であった尾張・伊勢北部5郡などが秀次に与えられ、旧領と合わせて100万石の大大名となった。これに伴い、秀次は居城を八幡山城から信雄のいた清洲城に移し、年寄衆の所領も(空いた)東海に転封された。
ちなみに、例えば山内一豊が長浜城から遠州掛川に行ったのは、こうした事情による。
八幡山城には代わって京極高次が2万8千石で入城した。京極氏は近江源氏、佐々木氏の一族で彼も小谷城京極丸で生まれているから、この地には縁がある。
小田原の翌年1591年、秀吉は頼りにしていた弟の秀長、老いてからの嫡男・鶴松が相次いで死去した。その結果、残った秀次が秀吉の養子となった。この年の末に秀次は文字通り秀吉に次いで関白となり、秀吉の後継者となる。翌1592年は様々な行事で権力の継承を世間に知らしめた。
ところが1593年、淀君が秀頼を生むと秀吉と秀次の関係がおかしくなっていく。最後は1595年、秀次に謀反の疑いがあるとされ、切腹させられた。秀次の首は三条河原で晒し首とされ、その際に、秀吉は「殺生関白」と噂されるほど、眷族すなわち妻子もことごとく残虐に処刑した。この時期の秀吉は無益な朝鮮出兵を強行するなど頭がおかしくなっていたとしか思えない。
この年、八幡山城は築城から10年で廃城とされ、京極高次は大津城へ移った。
京極氏の居城となっていた八幡山城がなぜ廃城されたかは、京都の聚楽第と同じである。1591年12月に秀吉が豊臣氏の氏長者・家督および関白職を秀次に譲ったあと、聚楽第は秀次の屋敷となった。
しかし、1595年7月に秀次が秀吉によって高野山に追放させられ、切腹した。その後、秀吉は、秀次を謀反人として印象付けるためか、翌8月から聚楽第を徹底的に破却した。竣工から破却まで、聚楽第が存在したのは8年弱であった。
この八幡山城も同様であり、このころの秀吉は癇癪を起す信長のようで異常としか言いようがない。
秀次像の顔をしっかり見ることもなく再び自転車にまたがり、八幡山城址をあとにした。
ここから安土までは遠く、無事に着くか不安なのでもう見物せずに帰ることにする。
来た道を戻ると、南に(JRの駅のほうへ)入る道路が何本かある。
途中、新町通りという通りに入った。
14:26
新町通り
予想以上に古い家が残されている。
近江八幡の町は豊臣秀次の時代に作られた。
城の守りとして掘られた八幡堀を北辺とし、碁盤の目のようになっている。
安土と同様に楽市楽座とし、町人を集めた。
八幡山城は秀吉によって徹底的に痕跡を消されたが、町は残った。集まった商人たちはここを根拠として近江商人となり全国的な展開も見せ、今につながる老舗も多い。
これらは秀次の遺産といえないこともない。
(続く)
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