2025年3月24日月曜日

近江兄弟社学園とヴォーリズのメンソレータム

3月6日、京都に向かう途中、長浜で下車、急いで見物し再び電車に乗って安土に来た。

安土ではレンタサイクルを借り安土城をこれまた急いで見て近江八幡に向かう。
雨が降りそうな気配。
ひたすら西に向かってペダルをこぎ、途中で西の湖をみるため北に曲がった。
一日で一番暖かい時間帯のはずだが寒い。
12:03
干拓地なのか道路が真っすぐ。
左にポツンと森が見えた。
新開の森(シガイの森)という心霊スポット。信長の時代の処刑場という話もあるが嘘っぽい。先を急ぐので立ち止まらず。

北風が向かい風となり自転車にはきつい。
後ろから車が大きく膨らみながら、よたよた走る我々を追い越していく。
12:11
西の湖(にしのこ)に出た。
「の」が入っているが湯桶読みだから変な感じ。

琵琶湖かと思うくらい広い。
地図で見れば比べ物にならぬほど小さいのだが、それだけ琵琶湖は大きい。
12:12
寒々としている。
ここ南近江は北近江と違って太平洋側の気候と教科書にあるが、この曇り空は日本海側の天気に見える。広大な琵琶湖が日本海のような役割を果たし、若狭の山が低くて大して勢いを削がれなかった北西季節風が勢力を盛り返すのではないか? などと考えながら自転車をこぐ。
12:12
右(東)をみると先ほど登った安土山の裾野が見えた。
このまま西の湖の周りのサイクリングロードを琵琶湖まで行きたいが、時間も体力もないので目的地・近江八幡に一路向かう。
12:18
蛇砂川を越える橋の坂は自転車を押した。
ここまで来ると大変だからといって安土に引き返すわけにもいかず進むしかない。
押しながら小学校だったか中学校だったか、社会の時間にならった天井川の例は滋賀県だったことを思い出す。

さらに西に向かってこぎ続けるとようやく近江八幡の街中に入った。
学校の前を通った。
12:27
左の表札は「ヴォーリズ学園」
右の表札は「学校法人 近江兄弟社学園」とある。

雪の道中を歩いてきて、疲労困憊の状態で知人の家を探さねばならないというときに、最初の1軒目がその家だった、というような例えとちょっと違うが、いきなり近江八幡の名所に出会った。

1905年滋賀県立商業学校(現滋賀県立八幡商業高校)の英語教師として、米国人ウイリアム・メレル・ヴォーリズが来日した。彼は建築家でもありプロテスタントの伝道者でもあった。そして1922年彼が日本人妻と開いた清友園幼稚園を学園の始まりとする。

ちょうどスクールバスが来て生徒たちが乗り込むところだった。

なおも西に向かうと鳥居の前に出た。
12:31
日牟禮八幡宮
近江八幡神社という神社はなく、ここが近江八幡の地名の元である。
しかし参拝(というより見物)はあとにして昼食にする。
このあたり観光地と思ったが意外と人通りはなく飲食店も少ない。

すぐそばに近江牛と書かれた幟があった。
12:32
千成亭と旧西川邸
自転車に疲れたので最初に目に入ったここに入る。

食事して体力気力が回復してから、千成亭の隣の旧西川邸を見学した。近江商人の代表、ふとんの西川の当主旧宅であるが、時間もないので覗いた程度だった。
さらに日牟禮八幡社をみて(立ち寄って)、近江八幡の町の元を作った豊臣秀次像を見るべく八幡公園に向かった。

ヴォーリズ学園や、鳥居や千成亭、旧西川邸の面した通りを食事前と同じように自転車で西に走る。
左前方の建物にメンタムの看板あり。
14:03
近江兄弟社本社・メンターム資料館

長野ではメンタム、メンタムといっていたがmenturmメンタームだった。
近江兄弟社とは変な社名だが、正式には株式会社近江兄弟社 という。
土佐兄弟の兄弟とは違う。
また兄弟社の社はsocietyの翻訳で、社会とか結社の社であろう。

ここで昼食前に校門前を通ったヴォーリズ学園、すなわち近江兄弟社学園との関係を書く。
14:04
本社は近江兄弟社発祥の地「創(はじめ)の家」に建つ。

1905年2月、日露戦争の最中、24歳でYMCA派遣の英語教師として来日したヴォーリズは放課後、この地にあった自宅を開放し、聖書を読むバイブルクラスを立ち上げ、多くの青年を導いた。
すなわち、ここから建築事業、結核療養所設立、製薬、教育、協会設立などの夢が始まった。
しかし仏教色の強い地域での布教は摩擦を生み、2年後に教職を解かれる。

1908年(明治41年)、建築家レスター・チェーピンと共に再来日。県立商業学校を卒業したばかりの吉田悦蔵と3人で、キリスト教伝道のかたわら生活の糧を得るために建築設計の仕事をスタートさせた。
1910年ヴォーリズ合名会社を創業。
1920年(大正9)会社を解散、新たにW・M・ヴォーリズ建築事務所と近江セールズ株式会社を設立し、建築材料、メンソレータム、ハモンドオルガンなどの輸入販売を行った。

彼の関わった建物は近江八幡だけでなく全国に存在する。
お茶の水の山の上ホテルの本館や主婦の友社ビル、明治学院チャペル、国際基督教大、同志社大などの建物群などが知られ、神戸女学院の建物群は2014年に重要文化財に指定された。
14:09
秀次の八幡山城の濠でもあり、琵琶湖水運の水路でもあった八幡堀

彼の事業の伝道部門は「近江ミッション」と呼んだ。
近江八幡の町は八幡堀で琵琶湖とつながっている。
滋賀県の村々で布教活動を行っていたヴォーリズらは、一時アメリカに帰国した際、モーターボートをもらい、それをガラリヤ丸と名付け、琵琶湖を横切って湖西、湖北の人々に伝道した。
1934年、近江ミッションを近江兄弟社と改称。

1944年、 株式会社近江兄弟社を設立。近江セールズ株式会社の事業を引き継いだ。ここで布教部門の名称が製薬事業の会社にも使われることになる。

彼は1919年(大正8年) 子爵・一柳末徳(播磨国小野藩第11代すなわち最後の藩主)の令嬢・満喜子と結婚した。
日米風雲急を告げる1941年、日本に帰化。夫人の旧姓をとって一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)と名乗った。めれるは本名William Merrell Voriesから来たものだが、米来留という当て字は「米国より来りて留まる」という決意を表したという。
14:05
資料館の中は傷薬で知られるメンターム製品などが並ぶ。
時間がないので写真を1枚撮らせてもらっただけで自転車に戻った。

近江セールズ株式会社は、当初アメリカ、メンソレータム社のメンソレータムを輸入販売していたが、1932年からは国内で製造も始めた。戦後は皆が知る一世を風靡した製品に成長した。

しかし、創業者ヴォーリズの亡きあと、原材料費の高騰、また他社きずぐすりとの市場競争が熾烈を極めた。また不動産部門の採算悪化と1973年のオイルショックの影響もあり、1974年、会社更生法を申請。メンソレータムの販売権を失った。
(翌1975年メンソレータムの販売権はロート製薬が取得、さらに同社は1988年に米国メンソレータム社本体も買収した)。

近江兄弟社は大塚製薬グループの大鵬薬品工業の協力を得て再興を模索したが、メンソレータムの継続生産はできない。そこでメンソレータムの略称として商標登録してあった「メンターム」を商品名として1975年9月メンタームの製造を始め、自主再建の足がかりをつかんだ。

近江兄弟社学園は、株式会社近江兄弟社でなく、近江ミッションの近江兄弟社である。
近江ミッションのメンバーの増加によって、大正期には婦人による自発的な活動の「婦人部」、結核療養所の近江療養院、清友園幼稚園、昭和期には近江勤労女学校、近江向上学園、近江家政塾など特色あるキリスト教主義の社会活動が行われた。

この中の1922年の清友園幼稚園が近江兄弟社学園の始まりで、昭和期の各学校は再編され、近江兄弟社小学校・中学校・高等学校となったが、小学校は2023年募集を停止した。

2015年に学校法人近江兄弟社学園から学校法人ヴォーリズ学園に改名された。まあ、メンタームの会社が経営しているような印象を与えるから当然だろう。
(これとは逆に、1951年、清友園幼稚園を近江兄弟社幼稚園と改称している。現在は近江兄弟社ひかり園)

ヴォーリズには、終戦後、天皇の処遇についてマッカーサーと近衛文麿が会談するにあたり、仲介工作を行ったという話もあり、1949年には昭和天皇に拝謁した。
https://www.omi8.com/omihachiman/local-history/vories/gensui/

1951年社会貢献で藍綬褒章、
1961年建築業界における功績で黄綬褒章を受章。
1958年近江八幡市名誉市民第一号に選ばれる。
1964年永眠の際は近江兄弟社葬と近江八幡市民葬の合同葬。
没後、正五位に叙され、勲三等瑞宝章を受章した。

メンソレータム資料館を見た後、八幡公園の豊臣秀次像を見に行った。
(続く)

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