2025年3月22日土曜日

安土城は全域が摠見寺の所有物だった

3月6日、京都へ行く途中、滋賀県に降りた。
長浜を短時間見た後、安土に来た。
何十回も新幹線で近くを通りながら一度も訪ねたことがなかった。

安土駅は新しい。
冷えてトイレを借りたが、そこもきれいだった。
2025₋03₋06 10:08
駅北口。安土城や琵琶湖のあるほう。
信長像があるから表玄関だと思うのだが、商店街が見当たらない。
駅は大正3年(1914)開業だが、その後発展しなかったらしい。
確かに駅の周りに家が増えるのは大都市圏のことで、地方は駅の周りも過疎化し、廃線にすらなる。東海道線だから大丈夫なわけだ。

安土城は2キロくらい離れている。
当初は歩いて往復し、電車で隣の近江八幡に移動、そこからバスで八幡堀や街並みなど名所を見るつもりだった。
しかし妻が一緒だと往復と安土城上り下りに時間がかかり、近江八幡の時間が足りない。琵琶湖も見られない。
自転車を借りればいいが、彼女は左手が腱鞘炎になっていて難しいかもしれない。天気も今一つ。

人もいない、店もない、タクシー、バスもない、なーんにもない駅前ロータリーで一番目立つのは2軒のレンタサイクル屋だった。
当初乗り気でなかった妻も歩くのは嫌だとみえ、自転車を借りることに同意した。
10:19
レンタサイクルや「たかしま」
一番安いママチャリで2時間500円、3時間700円、5時間1000円。
誰もおらずセルフサービスのようだ。
住所氏名、自転車番号、借りる時刻を用紙に書いて、15時過ぎに戻ってくるとして、2台分2000円を用紙に包んで箱に入れる。
観光パンフレットが多数おいてあり何枚かもらった。
安土城だけでなく、考古博物館、信長の館、観音寺城址、西の湖から近江八幡まで載っていて、いかにも自転車で回りたい地図である。
10:35
自転車は快調。ちゃんと整備されているから家のボロチャリと乗り心地が違う。
最低限の生活をしていると、小さなことでも感激する。
前方の安土山めざし、道はまっすぐ。
この山は198mと地図にもネットにも書いてある。
しかし重要なのは標高よりも麓からの高さであろう。幸いここは琵琶湖がある。その水面が大阪湾を基準として標高85メートルくらいというから、100メートル強か。

安土城は山城に分類される。
平山城は城郭によって山林が消えるほど山が小さいから、安土はやはり「山」である。
10:39
道の両側は麦畑。
旅の楽しみの一つは、その土地の作物が見られること。
昔は信州などにも麦畑があったが、今はない。
麦秋は5月下旬ころ。
10:40
安土山のふもとに沼のような川がある。
このあたりは琵琶湖に近い。というかつながっている。城の濠として掘ったというより、かつて湖水だったところの名残りのように見える。来た道が真っすぐだったことから干拓の跡ではないか?
船があり、いまも農産物の運搬に使われているのだろうか。

10:41
安土城址という石柱
建造物が何もないところが他の有名城址と違う。

史跡内に入り自転車を止めた。
10:45
見ごたえある案内看板
明治26年の地図を見れば、かつては大中の湖、小中の湖、伊庭内湖があり、干拓されたことが分かる。かつて安土城は水に囲まれていたのだ。
案内板の一部に縄張り図がある。
山頂に本丸、二の丸、三の丸があり、周辺(山裾)に家臣らの屋敷が並ぶ。
すべてに「伝」とあるのは、早くに廃城となったため資料が乏しいからだろう。
羽柴秀吉、前田利家の名が見える。しかしこの時期の前田利家すら屋敷を持っているのに他の武将がないのは変である。他の武将がないのは屋敷を持たなかったのか特定できないから書かなかったのか。あるいは山を削った平らな部分が少ないことから、他の屋敷は(地図外の)平地にあったのかもしれない。
10:46
「推定大手門(仮称)」の跡

伝、推定、仮称、という文字が並ぶのは史跡として謙虚である半面、謎が多いということでもある。

石垣はどう見ても新しい。
復元工事の結果だろう。
変な建造物が何もないのが良い。
10:49
受付の門の表札が安土城でなく「臨済宗妙心寺派 摠見寺」とある。
入場料700円。
建造物がない城跡はふつう自治体管理の公園だったり、また維持費がかからないから、たいてい無料なのだが、ここは珍しい。摠見寺の私有地ということか。
注意事項の最後も「山主 摠見寺」とある。

(いま摠見寺の公式サイトをみたら
「特別史跡安土城址の全域は、宗教法人摠見寺の所有地です。一般社団法人安土山保勝会によって護持運営しています。」と書いてあった。)

さて、登り始める。
山頂の天主跡まで石段405段、往復約1時間らしい。
10:50
先ほどの案内板によれば「大手道(仮称)」である。
石垣が立派。草木も生えないほど石だらけ。
私は国宝の松本や彦根、姫路よりも、観光客もおらず変な建物もない、こういう昔が偲ばれる城址が好きだ。来てよかったと早くも思った。
10:51
安土山は佐々木氏嫡流・六角氏(近江守護)の居城・観音寺城の支城があり、それを拡張整備したらしい。

信長以前の近江は、守護大名の六角氏が南近江を支配し、佐々木氏庶流の京極氏の家臣だった国人の浅井氏が力をつけて、北近江の戦国大名となった。しかし六角義賢は信長に攻められ1568年観音寺城を失い衰退する。また浅井長政も織田との同盟を破棄したあとの姉川の合戦(1570)以降衰え、1573年、同盟した朝倉氏とともに滅んだ。

こうして近江を手中にした信長は、1576年1月、総奉行は丹羽長秀、縄張奉行には羽柴秀吉を据えて安土山に築城を開始する。前年の11月に岐阜城を嫡男信忠に渡したので、信長は安土城が出来るまで、譜代家老の佐久間信盛の城を在所とした。

1579年5月、天守閣まで完成して信長は移り住む。しかし天正10年6月2日(ユリウス暦1582年6月21日)本能寺の変が起こり、彼が住んだのは3年に過ぎない。

安土は本能寺の変以降、天守焼失後もしばらく織田氏の居城として、信長の嫡孫秀信(三法師)が清洲会議の後入城するなど、主に二の丸を中心に機能していた。しかし、1585年秀吉の養子豊臣秀次がすぐそばの八幡山で新たに築城し安土は廃城となった。
10:52
見事な石垣。
何やら西洋の城を思わせる。
安土城は当時の大名の居館や砦とちがい、大々的に石垣を使った。
六角氏の観音寺城も山城でありながら石垣が多く、それを参考にしたか。

いま全国に残る近世の城郭は水堀と石垣が特徴であるが、本格的な石垣は安土に始まったと言える。すなわち安土城以前は粗末な山城であったり、平地の居館の周りを一重に濠を掘ってその土をかき上げて土塁にしたような平城しかなかった。

安土に堀がないのは、当時、湖水がすぐそばまで来ていたからである。
石垣だけでも大変だったと思われる。
10:53
「伝豊臣秀吉邸址」
もちろん秀吉が豊臣の姓を正親町天皇から賜ったのは安土が廃城となった後のことで(1586)、ここに屋敷があったころは羽柴秀吉である。
ちなみに秀吉の名が文書に初めて現れたのは、永禄8年(1565)11月、信長から預けられた配下の坪内利定宛て知行安堵状であり、「木下藤吉郎秀吉」とある。1573年7月に名字を木下から羽柴に改めた。
10:54
石は羽柴邸の礎石だろうか。
先を急ぐので説明板など見なかった。

羽柴邸の向かい、すなわち大手道を上るときの右手に伝徳川家康邸址がある。現在、摠見寺の本堂がある。

この寺は信長が短い安土時代に山の西側斜面に建立した。彼は比叡山を焼き払うなど神仏を信じない合理的な人間に思われるが、それは反抗する宗教勢力であったからで、信仰心はあったようだ。
安土城が廃棄された後も寺は残った。しかし 幕末の嘉永7年(1854)、主要な建物がほとんど焼失し、その後、徳川家康邸跡と伝えられる現在の場所に仮本堂を建てた。仮本堂(今は本堂?)というせいもあるが、敷地(安土山全体)に比べると不自然なほど小さく、とても大手道が寺の参道には見えない。

時間もないので摠見寺には寄らず、大手道の石段を上っていく。
10:57
石仏
石垣は土塁と違ってその材料がどこにでもあるわけではない。
築城の際は山から石を切り出すが、廃城となった城からもってきたり時には墓石なども使われた。
この石仏は寺あるいは路傍からもってきたのだろうか。
わざわざ踏みつけられる大手道の石段でなくても良いような気もするが、発見当初のままにしてあるという。
こうして目印を付けたことで観光客に踏まれ摩耗することを免れている。

10:57
こちらの石仏には二人の像が浮き出ている。
賽銭が入れられているのは懐かしいサントリーの灰皿だった。
11:02
大手道はずっと続く。両側は杉林。

11:03
織田信澄邸址、森蘭丸邸址
本丸に近い上のほうは一族など親しいものの屋敷があったようだ。

信澄は信長の同母弟・織田信勝(信行)の嫡男。つまり信長の甥である。父・信勝は信長に殺されたが、信澄は信長の側近として、また、いとこにあたる信忠(信長の嫡男)配下の遊撃軍団の一員として活動した。津田姓も名のる。
本能寺の変で信長、信忠が亡くなると、信澄が光秀の娘婿であった事が災いした。すぐ謀反は信澄と光秀の共謀だという噂が流れ、疑心暗鬼に囚われた織田信孝(信長三男)と丹羽長秀らによって討ち取られてしまった。本能寺の変の3日後の6月5日のことで、なんとも慌ただしく混乱した日々だった。

森蘭丸(1565₋1582)は信長の家臣・森可成の三男。元服後の諱は成利(なりとし)だが、森成利では誰も分からない。森蘭丸は1577年12歳で小姓として信長に召され、本能寺で討たれ享年18。信長の寵愛を受けたという話もあるが、今とは時代が違い、あっても不思議はない。

このあたり山頂に近く、平地が多い。
もっとも大勢の人夫を動員しておおいに山を削ったのだろう。
11:04
黒金門址
ここから先は本丸、二の丸、三の丸のある安土城の中枢である。
東西180メートル、南北100メートル。
選ばれた側近たちと信長が暮らした部分である。
11:04
ふつう山城は上るのが大変だから、岐阜での信長のように城主は麓に住むものだが、安土の山頂に住んだようだ。よほど安土城とその天守が好きだったのだろう。
11:05
ここまで登っても石垣が立派。石も大きい。
このあたり標高180mらしいが、山を削って大石を持ち上げさせた信長の権力の大きさと、近江の石垣積み職人集団・穴太衆の技術の高さがわかる。
11:06
本丸に到達。
「天守跡」ではなく「天主跡」と矢印は書いてある。
天守にしろ天主にしろ宗教的な言葉である。天主はデウス(ラテン語)のことだし、仏教にも帝釈天、毘沙門天がある。ちなみにデウスは信長も興味を持ったキリスト教の神のことで、ゼウスはギリシャ神話の全能の神のことであり別物。
「護国駄都塔」は江戸末期の建立というが由来は不明らしい。

11:07
二の丸跡
織田信長公本廟
11:07 信長廟
本能寺の変の翌1583年(天正11年)に羽柴秀吉が築いたという。
安土城は本能寺の後、明智方に占領されたが、すぐ山崎の合戦が起こり、その直後に原因不明の出火で本丸、二の丸の建物が消失した。
しかし秀吉が担いだ信長の嫡孫・三法師が入城したから、このころ様々な建物ができたのかもしれない。
11:09 本丸跡
二の丸との間には空堀すらなく高低差もない(むしろ本丸のほうが低い)。これを奇異に感じるのはその後の近世城郭が常識になっているからである。
本丸から一段と高いところに天守台がある。もちろん周りに堀はないが、堀の有無を無視すれば、近世の感覚だと天守台が本丸で、本丸と二の丸を合わせたものが二の丸となる。
11:10 天守台跡
礎石が残る。
地下1階地上6階建て、天主の高さが約32メートル。
それまでの城にはない独創的な意匠で絢爛豪華な城であったとされる。
それまで大きな城はなかったのだから独創的になるのは当たり前で、豪華絢爛というのは信長の性格と権力の強さからして想像できる。地味で小さい城で満足する人は天下など取らない。
11:12 
天主台から琵琶湖が見えた。
今陸に見えるところは一面湖水だった。
水に囲まれた要害の地であるだけでなく、地政学的にも抜群である。京都に、また北陸道に近い。水運が使える。秀吉の長浜城、明智光秀の坂本城は安土と船で結ばれ、安土城の支城としても使える。
本当は信長にとっては瀬戸内海、九州を経て大陸、南蛮につながる大阪が最高だろうが、当時は石山に本願寺が頑張っていたから、ここが最高といえる。
11:12 
こちらは西の湖(にしのこ)
干拓から免れている。
11:13 
天主台から見下ろす二の丸の信長廟
木造建築はない。

ほとんど観光客がいない。
来た道を下りる。
11:18
仏足石
上るとき素通りしたが、降りるときにじっくり見た。
信仰の対象として作られ大事に拝まれていたものが、信長によって石材として徴収され、城の材料にされてしまった。昭和初期に登山道を整備するとき石垣の中から偶然発見されたという。

なぜ足形かというと、釈迦の教えにはもともと偶像崇拝はなく、彼(仏陀)を像や絵で描くことはなかった。しかし布教するに当たって何か具体的な「形」が欲しい訳で、そこで生まれたのが仏足石という。釈迦の姿を直接表現するのではなく、足跡という間接的なもので信仰の対象とした。しかし仏像ができてからは、如来、観音、地蔵といった種類も増え、人の形をしたこともあり、圧倒的にそちらが主になった。
11:24
石段を降りてくると安土の町(田んぼ)がみえた。
信長は城を建設中の天正5年(1577)6月に安土城下に楽市令を出して商人を集めたが、今は田んぼである。

ここで下り道が二股になり、大手道でなく右の道をとる。
摠見寺の跡地に出た。
11:28
摠見寺本堂址
信長は安土城を作ると同時に、近隣の社寺から多くの建物を移築し、摠見寺を建立した。
安土城が独創的であることは何度も述べているが、中でも他の城と違うところは城内に大きな寺があることだ。それも頂上の本丸に近い位置である。家臣の屋敷より近い。
思えば大手道の石段は広くまっすぐであり、普通城内は曲輪を経るごとに進路が狭く曲がって敵の侵入を防ぐ工夫があるのに、安土はそうでない。防御用というより天下人の住居として作ったようだ。そこに寺を建てた。信長のことだからそれまで虐殺してきた人々の供養というより自分のためであろう。
11:28
本堂址から西の湖がみえる
しかし摠見寺は信長時代の住職を開山とせず、信長の死後に住職となった円鑑禅師(剛可正仲)を開山とする。彼は織田一族の織田信安の三男であった。
安土城が廃城されてからも寺は残り、18世紀前後には、本堂の他、仁王門、方丈、書院、庫裡、三重塔、鎮守社など22棟の建物があった。しかし 幕末の嘉永7年(1854)の火災により、本堂、方丈、書院、庫裡など主要な建物が焼失し、三重塔と仁王門だけ残った。その後、伝徳川家康邸址に仮本堂を立てたのは前述のとおり。
11:29
重要文化財・摠見寺三重塔
棟札に享徳三年(1454)建立、天文24年(1555)修理との墨書きがある。
信長が甲賀の長寿寺から移築したものとされている。
11:31
下に仁王門が見える。
11:32
重要文化財・捴見寺二王門
金剛力士像は寺院を守るために門に置かれるが、口を開け怒りの表情を顕わにした阿形像と、口を閉じ怒りを内に秘めた表情の吽形像の一対で置かれるため仁王門ではなく二王門と書かれることもある。この門は棟木に、元亀二年(1571)七月甲賀武士山中俊好建立と墨書きがあるらしい。安土城は1576年に築城が始まったから新築の門を甲賀から移築したことになる。金剛力士像は設置100年前の1467年の作とされる。

仁王門からさらにくだる。
11:41
大手道より道中は長い。
今はただの山だが昔は城内で、仁王門は寺だけでなく本丸への道でもあったようだ。

山道が突然開けた。
石垣に囲まれた大手道に出た。
11:43
伝羽柴秀吉邸址
11:44
秀吉邸は上下二段になっていたようで、山道から出てきたのは下段である。
下段は厩だったようだが、はて、畳敷きのような線がみえる。
11:45
下段にも案内の石柱があり、「羽柴秀吉邸」になっていた。
こちらの石のほうが新しいし、説明板も「羽柴」であるから上段の「豊臣邸」を訂正しながら両方残したということか。

摠見寺は檀家を持たなかったから明治になって廃仏毀釈で衰退した。
入山料をとらねばやっていけない。発掘や修復は滋賀県がやっているようだ。

しかし安土城が自治体の公有地とならなくて良かった。
ふつうの城は明治維新で藩主家から国有地になり、地元に払い下げられたりして、市街地なら軍用地、官庁街に、市の中心から離れていたら公園などになった。
安土がそうなっていたら今頃、役所は商工会、観光業者と一緒になり、町おこしと称し税金を使って様々なものを建て観光資源とする。
壮大な石垣は日本人だけでなく海外からのインバウンド客にも喜ばれるだろう。

平日ということもあり、ほとんど人に会わず、いい城跡をみた。
急いで歩いたが、入場門から1時間以上経っていて、あっという間に過ぎた。
これから自転車で近江八幡に向かう。
天気が少し心配。
(続く)

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