2025年3月4日火曜日

パシフィコ横浜、インターコンチネンタルホテルとT型Caチャネル

1月11日朝、飛鳥IIが横浜に帰港、夕方出航するまで暇な時間ができた。

そこで桜木町駅から懐かしいエスカレーターに乗り、ランドマークタワー、クイーンズスクエアを歩いた。私にとって横浜というのはここだった。

クイーンモールの一番東の端のエスカレーターを上がるとパシフィコ横浜の建物群が目の前に広がる。
11:43
手前から会議センター、インターコンチネンタルホテル、国立大ホール。
メロンを切って立てたようなホテルの形はヨットの帆をイメージしているらしい。

1991年7月に会議センターとヨコハマグランドインターコンチネンタルホテルが最初に完成。続けて10月に展示ホールも竣工した。さらに1994年4月には国立大ホール(国立横浜国際会議場、5000人収容)が落成した。
すなわち、パシフィコというのはPacificとConventionからとっている。
11:44
展示ホールはつながっていない。

11:44
会議センター
ペデストリアンデッキからの入り口は2階にあたる。

11:45
入るとすぐ学会参加の受付があった。
会議センターは1000人収容のメインホールと約50の会議室があるので、学会は普通ここで開かれる。

私がここで参加した学会は、出張報告書が残っているものだけでも
1993-03₋26,27 薬理学会年会
1993-05₋18 国際脳浮腫シンポジウム
1999-04₋21,22 日本脳卒中学会
2000-03₋23-25 薬理学会年会
2000-12₋01,02 日本アレルギー学会総会
2001-03₋21-23 薬理学会年会
2001-12₋14,15 日本臨床薬理学会年会
2005-03₋24,25 薬理学会年会
2006-03₋08,09 薬理学会年会
2016-03-27-29 薬学会年会

この中で最も印象に残っているのは2000年の薬理学会である。

2000年3月、日本薬理学会がPerez-Reyesを年会の特別講演の目玉として招待した。彼は1998年世界で初めてT型Caチャネル(α1G、Cav3.1)をクローニングした男である。このときの年会長が長尾拓・東大教授で、元田辺製薬で私の上司だったから、彼が1989年に退職してからもずっとつながりがあった。

当時、第三世代のCa拮抗薬としてT型Caチャネルも阻害するmibefradilがロシュ社から発売された。ところが大型化し始めた矢先、薬物代謝酵素を阻害するという副作用で1998年、突然販売中止となった。そこで副作用のないT型Caチャネル阻害物質を探せば、大型商品となると思われたが、スクリーニング方法がなかった。
ちょうどその時、Perez-Reyesがラットの脳からT型Caチャネル(のちにα1G、Cav3.1と命名)をクローニングし、Natureに発表したのである。L型とT型が1984年に電流として観測され、分子実体としてはL型が1987年にクローニングされたもののT型はずっとクローニングされなかった。

たとえば、それまで森泰生氏らは沼研時代から他のCaチャネルの部分配列をプローブにT型Caチャネルを釣り上げようとしていたが、Naチャネルなどが釣れてしまっていた。私もT型Caチャネルは電気生理学での現象であり、実体は既知のCaチャネルでサブユニットの組み合わせによりT型になるのではないかと考えていた。そんなときT型が新しいチャネル実体として取られたのだから衝撃だった。

すぐさま須藤直樹氏とヒトのT型チャネルのクローニングに着手した。
ヒト脳cDNAライブラリーからクローニング、HEKに導入、組換え細胞をつくり、パッチクランプで確認後、マイクロプレートで阻害薬がアッセイできるよう、fura-2負荷による分光学的スクリーニングシステムを世界で初めて確立した(1999年)。
そして約10,000の化合物の中からL型に作用しないでT型のみを選択的に抑制する化合物に到達した。もちろん世界で初めてである。(それまでmibefradilはじめ世間で言われるT型Caチャネル阻害薬は、T型だけでなくL型はじめ他のチャネルも抑制した。要するに、皆ただの選択性のない化合物に過ぎなかった)。

長尾先生は田辺の研究所の顧問をしていたこともあり、私の動きを知っていて、年会長としてPerez-Reyesを呼ぶときに田辺を頼ろうとした。すなわち、薬理学会では飛行機代とホテル代くらいしか出せないらしく、それだけでアメリカから呼ぶわけにいかない。そこで田辺製薬で講演会を開いてもらい、その講演の謝礼としてお金を払ってもらいたいというのである。

お金の話は私は分からないので、やはり長尾さんの部下だった成田寛氏に丸投げした。講演会が終わって応接室でPerez-Reyesが領収書にサインするのを見たら20万円だった。そのあと薬理研の関係者と川口へ出て、そごうのレストラン階の個室で夕食。食事が終わって私がタクシーで彼を埼玉からはるばる横浜まで送ることになった。

真っ暗な車内で沈黙というのもまずいかと思い、(二人とも眠ればお互い楽だったのだろうが)、彼と延々としゃべり続けた。Caチャネルや研究の話が尽きるとPerez-Reyesというのはどういう姓なのかと聞いたり、Tsutomuというのは日本でポピュラーな名前なのかと言われるような、どうでもいいおしゃべりだった。25年前は今と違ってまだ英語ができた。

タクシーは海沿いを走り横浜ベイブリッジを渡って桜木町からみなとみらいに入った。

ベイブリッジといえば、長尾先生は節目の2000年の会長ということで、薬理学会の新しい時代、21世紀が始まることを謳いたかったらしい。しかし新世紀は2001年からだから21世紀という言葉は入れられない。そこで「世紀の架け橋」という意味を込めてベイブリッジの写真を表紙にしたんだ、と自分のアイデアを嬉しそうに話してくれた。
11:46
エスカレーターで1階に降りる。
11:46
1階には参加者のための臨時クロークが作られた。

11:47
1階の奥のほうに行くとホワイエとメインホールの入口がある。
メインホールは地下1階(ステージ方面)1階(客席後方)まで使う。
会長講演や特別講演はここで行われた。

一般口演やシンポジウムは3,4,5階の会議室で行われる。
沼研で1987年にL型Caチャネルをクローニングした田辺勉氏(当時東京医科歯科大教授)の講演があり、Perez-Reyesが興味を持ち、隣に座っていた私に盛んに通訳を求めた。周りに迷惑にならないように、またへたくそな英語が恥ずかしい、との理由でできるだけ小さな声で話していたことを思い出す。
11:47
インターコンチネンタルホテルへの1階連絡口
ホテルと会議センターは1階と2階に連絡口がある。
ホテルでの食事とかお茶とか待ち合わせとか、よくここを通った。

ホテルのほうに行ってみる。
11:48
横浜グランドインターコンチネンタルホテルの1階ロビー

このホテルは接続する会議センターと同時に1991年に開業した。当時 InterContinental Hotels Group (IHG)は日本で1軒だけだったが、現在は10軒ほどあるらしい。
1946年パンアメリカン航空の傘下でイギリスに本部を置くホテルチェーンとして設立された。
(パンナムは文字通りアメリカのフラッグキャリアで日本でも「兼高かおる世界の旅」でおなじみ、私も1984年の新婚旅行で乗ったが、それ以前から経営が悪化していて、1981年にホテル事業を売却した)。

IHGは1988年、西武のセゾングループに買収されたが、1997年セゾンも経営難に陥り、すでにホリディイン・チェーンを買収していたイギリスのバス・ホテルズに1998年2月売却された。さらに全日空ホテルチェーンも一緒になり、だから今は(狭い意味での)IHG、ANAホテル、ホリデイイン、クラウンプラザなど複数のブランドがIHG(広い意味で)の傘下になっている。海外では後ろのふたつは値段が手ごろだったのとマイレージが貯まるのでよく泊った。
11:48
二階に上がる
2000年3月の深夜、チェックインのためPerez-Reyesと一緒にフロントに行くと、赤羽悟美さんがいた。東京にいるのに、こんな高級ホテルに泊まるのかと驚いたが、彼女は長尾先生のところの助手をしていて学会事務局の仕事が忙しくて泊ったのかもしれない。
(ちなみに私は高くて泊れず、かといって埼玉、川越線の自宅には帰れず、川崎のビジネスホテルに泊まった)
11:49
ラウンジバー「マリーンブルー」
いつの薬理学会だったか分からないが、2階のここで森恵美子さんとお茶を飲んだ。
彼女は泰生氏と一緒にここに泊っていて、彼が忙しいから彼女の暇つぶしに付き合ったのかもしれない。森研の若頭というべき清中茂樹君とおしゃべりした記憶もあるが、その時だったか別の時だったか。
表に出ているメニューを見たら高い。昔はもう少し普通の値段だった。
 Edward Perez-Reyes、 懇親会にて
薬理学会の懇親会は参加費が10,000円もしたからふだんは参加しなかったが、この年は彼のエスコートという仕事があったため、会社が会費を出してくれた。ほとんど食べ物がないのに高いこともあり、多くの人は旧友、研究者仲間と飲むときは桜木町の居酒屋に行く。

さて四半世紀後の2025年、ホテルに来たついでにエレベーターで31階まで上がってみた。
11:53
中華レストラン「驊騮(カリュウ) 」
ランチが7,000円と10,000円のコースしかなかった。
昔は韓国料理を含むエスニックレストランが入っていた。
ランチは安く、1000円台で丼ものが食べられた。
森泰生氏らを案内したから少なくとも2回以上は食べている。
11:53
エレベーターから展示ホールが見える。
屋根は波を表しているらしい。

行ってみよう。
12:02
展示ホール入り口
人が多いと思ったら、家具インテリアの展示販売会だった。
ここは学会しか来なかったが、こういう使い方のほうが多いのだろう。
12:03
薬理学会では、ポスター発表と実験機器展がここで行われた。
私は真面目に口演会場で座っていることがあまりなかった。ここに来ればポスターの前をうろうろする数年ぶりの友人たちに会えた。また誰もいなくても、機器展で装置メーカーの旧知の営業の人から最近の研究動向について情報が得られた。
12:04
入場券がないので中に入れず、当時の雰囲気はここで思い出すしかない。

2000年の年会ではこの会場で須藤氏が筆頭著者としてヒトT型Caチャネルのクローニング、発現組換え細胞をポスター発表した。
その時点で我々は世界初の選択的阻害薬を得ていたが、企業内研究であるため発表できなかった。

その物質、L型抑制のない純粋なT型阻害物質は、期待していたミベフラジルのような降圧作用がなかった。
T型チャネルは、入る電流量(Ca量)は少ないが、より深い膜電位でも開く。このことから当時、そして今でも教科書では他のチャネルより先だって開き、トリガーのような役割を果たすとされ、すなわち心臓ではペースメーカー、脳では神経の興奮に関与するとされた。そのことから心臓では頻脈、脳ではてんかんに効くと期待された。

ところが、世界初の選択的阻害薬を得てみると、徐脈も抗てんかん作用も見られなかった。つまり面白い化合物を手にしたものの、医薬品にするべく適応症が消えてしまった。
こうなるとますます発表しづらくなる。
なぜなら会社にとって発表のメリット(宣伝効果)がないということと、(論文にするときは)教科書と違う結果は査読されるときに厳しいコメントが多いということからである。

(このことからも、教科書に書いてあることは事実と違うということが分かる。教科書では、本来「推定」であったものがいつのまにか、あたかも定説のようになる)

このころ会社はイギリスGSK社と業務提携することになり、研究プロジェクトについて情報交換した。彼らは当時どこもやっていなかったT型Caチャネルに興味を示し、共同研究することが決まった。
するとそれまでずっと私とT型チャネルを無視してきた(というより薬効が見つけられないという理由でマイナス査定という逆風を吹かせていた上層部が突然口を出すようになった。上層部と言っても私と同年代の人々で単に出世する能力があっただけで専門研究に優れていたわけではない。
彼らは新たにプロジェクトチームを作ったのだが、私は呼ばれなかった。お役御免。リード化合物を見つけたらお前に用はないということだ。そしてテーマ立ち上げから育てたT型Caチャネルは奪われるように私の手から離れた。偉くなる人は人の気持ちというものが分からないのだろうか?
(こんなこともあり、ますます私は研究所がいやになり、研究よりダンス、翻訳、歴史散策などのほうに心が移り、最後は転職した)

さて、さすがGSK社は、田辺の物質などあてにせず、α1Gだけでなく、その後クローニングされた別のT型Caチャネルのα1H、α1Iの組換え細胞まで作り、それぞれに選択的な化合物に到達した。しかし彼らにおいても想定される病態モデル動物には効かず、やはり適応症を見つけられなかった。

T型Caチャネルは、それまで漠然と言われていたようなペースメーカーとか、興奮の制御とかに関わっているのではない。おそらく、もっとナイーブな細胞機能に関与しているのだろう。
しかし薬剤師国家試験では相変わらずてんかんにT型Caチャネルが関与するとされ、抗てんかん薬エトスクシミドの作用点とされている。学生は何の疑問も持たずそれを丸暗記し、また薬科大の教員となり、次の世代を古い知識で教えている。私が真相を言っても彼らは耳を貸さないし、私もどうでもいいと思っている。真実よりも常識のほうが大事なのだ。
12:05
犬がいると思ったら、西側のホールで「ペット博」をやっていた。
後楽園ドームの世界ラン展のようなものか。

12:07
ポスター会場にはイスとテーブルもあって協賛企業からの飲み物もあった。
できたばかりの1993年ころは今のようなランチョンセミナーもなかったから、昼飯が面倒だった。周りはまだ空き地が目立ち(例えばクイーンズスクエアは1997年開業)、飲食店があまりなかった。そこでこのポスター会場に崎陽軒などが出張してきていて、シュウマイ弁当などを買ってそのテーブルで食べたことを思い出す。

その学会での昼食だが、2000年の年会については一つ、Perez-Reyeseとの記憶がある。
前のブログに書いたクイーンズスクエアの東端のレストランである。
TAKANASHI Milk RESTAURANT

国立大ホール、ぷかりさん橋のほうを周っての帰路、そのレストランの前を再び通った。
12:43
メニューを見ても店はすっかり変わってしまった。

2000年3月、Perez-Reyesと昼食に行こうとした。途中にぎやかな会議センター受付あたりで森泰生氏と会い、彼もこの分野で世界的な人だから立ち話をした。二人は目立つものだから、そこへ赤羽悟美氏、黒川洵子氏(コロンビア大学から一時帰国)ら数人が通りかかって加わり、10人くらいになってしまった。
昼時でみな昼食にいくのだが、お互い知り合いだったこともあり、なぜかバラバラにならかった。予約していないときに大人数で店を探して動くことほど面倒なことはない。
肝心のPerez-Reyesが中心になって皆と話しているため、「じゃあ、また」と別れるわけにもいかず、クイーンズスクエアあたりまで歩いてきた。

一番手前の店がちょうどテラス席に座れそうで、全員入った。
Perez-Reyesの分は私が奢ってやろうと思っていたが、10人分も払いたくないな、困ったな、と思った。今なら割り勘にするのだが、なぜか当時は企業にいる私が全部払ってやろうという見栄もあった。ひょっとしたら会社が払ってくれるかな、いや、前もって言ってないから駄目だろうな、でもPerez-Reyes、森、赤羽、ほか田辺の研究所で知られている人たちが話し続けてランチになってしまったわけだから・・・・なんて色々思案していたら、隣からPerez-Reyesが「飲み物も頼んでいいか?」と聞いてきて、はっと我に返ったことを思い出す。
こんな状態だったから、何を食べたかもちろん記憶にない。

その16年後、日本薬学会の年会がここであり、私の最後のパシフィコとなったのだが、その店を写真に撮ってあった。
2016₋03₋27
Grill dining Roselaitという名前だったが、2000年の店とは違うだろう。
2016₋03₋28
それでも、2025年の今より2016年のほうが、年数でも店の雰囲気でも当時に近い。

13:00
この日はパシフィコ横浜から、クイーンズスクエア、ランドマークタワー、桜木町駅、市役所前、と来た道を逆にたどり、大さん橋の飛鳥IIに戻った。

パシフィコ横浜は研究者として過ごした職業人生の多くの部分を思い出す場所である。もうそこに二度と行かないことを思うと少し寂しい気がした。


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