2025年3月27日木曜日

近江商人とふとんの西川家、当主たちの旧宅

3月6日、京都に向かう途中、安土で降り、10時半ころレンタサイクルを借り、安土城から近江八幡にやってきた。

田んぼ道からやっと近江八幡の街中に入ると左手にヴォーリズ学園すなわち近江兄弟社学園があり、さらに少し行くと右手に近江八幡の地名の元になった日牟禮八幡宮の鳥居があった。
この八幡社こそ老人には少々きつかったサイクリングの、安土城と並ぶ、もう一つの目的地であった。しかし寒くて疲れたこともあり、見物は後にして昼食にする。

このあたりは観光地と思ったが意外と人通りはなく飲食店も少ない。
鳥居のすぐそばに近江牛と書いた幟があり、妻が反応した。
12:32
千成亭
自転車に疲れたのでもう他を探すことはやめ、最初に目に入ったここに入る。
一階は近江牛の肉製品など土産物の販売店になっており、二階に上がる。
12:38
ほぼ観光客の店内は壁に向かう並び席しか空いていなかった。

千成亭のマークは瓢箪である。
ちなみに千成瓢箪は秀吉の馬印(旗印)だが、近江八幡に城を築いた甥の秀次のそれは金の御幣だったという。
12:39
すき鍋御膳2420円が一番安かった。
追加肉は70グラム1540円。リブロースだと50グラム2200円という。
13:21
千成亭を出ると、滋賀県名物「飛び出し君」がいた。
店の法被を着て「献上品・近江肉の味噌漬け」を持っているから千成亭が作ったのだろう。
飛び出し坊や(とび太くん)は各人が自由に作って公道に設置しても良いようだ。

飛び出し君の向こう、つまり千成亭の隣に旧西川甚五郎邸があった。
13:23
西川甚五郎・旧本邸
ふとんの西川である。
初代西川仁右衛門は八幡山城築城にもかかわった大工組西川家に生まれた。
彼は数え18歳の時、蚊帳などの生活用品を天秤棒で肩に担ぎ行商を始めた。その永禄9年(1566)を創業の年とする。名高い近江商人の代表といえる。

時代は、信長が桶狭間の戦い(1560)のあと1565年犬山城にいた一族の織田信清を破ることで尾張の統一を果たしたものの、美濃には道三の孫・斎藤龍興がいて、近江への道を阻んでいた頃である。
北近江には浅井長政、ここ近江八幡のある南近江は近江の守護大名・六角氏がいた。

初代仁右衛門は天正15年(1587)近江国八幡町に、当時の屋号「山形屋」として店を開いた。羽柴秀次がここに城を築き、翌年楽市楽座としたからその将来性を見込んでのことらしい。
その初代から12代目まで(昭和17年ころまで)が実際この屋敷に暮らしていたという。建物200坪、庭を入れると700坪という。

二代目は初代の四男・甚五が継ぎ、萌黄蚊帳を考案、家業を発展させた。
、5代目利助からは蚊帳のほかに弓も扱い、7代目利助は中興の祖とされ、隠居後に甚五郎を名乗った。

また西川家は1843年には尾張藩に御用金を1000両、1866年長州征伐の幕府に1800両を上納した。
明治20年代には11代甚五郎が布団の販売も始める。
13:25
現在、代表取締役会長CEOは西川康行(通称・八一行、やすゆき)氏。銀行マンからの婿養子で、2006年に38歳で社長に就任、創業450年西川の15代目となる。彼は年配層に認知されていた寝具の西川産業を「睡眠」のソリューション企業に変え、アスリートに支持されるAiR(エアー)を生み、新たなブランドとして西川を復活させた。
ちなみに布団の西川は、2019年、西川産業(東京西川)・西川リビング(大阪西川)・京都西川(1750年開設)の三社が統合し、西川株式会社となった。
13:26
敷地の一角に土産物店があり、さすがに布団は売っていなかったが、妻はタオル地のハンカチを買った。
店員さんの応対が(東京と比べ)とても感じ良かった。それは千成亭でも感じた。近江商人の「三方よし」(売り手よし、買い手よし、世間よし)の精神が生きているのだろうか。

西川邸のとなり千成亭の横から裏にまわると八幡堀。
13:36
近江商人たちはこれを使えば琵琶湖に通じ、北陸や京大阪も近い。

感心したのは時代劇にも使われるという景観。
人がいないのも良い。
近江八幡、滋賀県の実力を感じた。変な商業主義に負けないでほしい。
13:36
堀に沿ってずっと歩いたら良いだろうな、と思いながらも自転車を止めていた千成亭に戻る。

2,3軒分(数メートル)東の八幡宮の鳥居の真ん前に明治風の建物がある。
13:39
白雲館
1877年(明治10年)、蒲生郡八幡町に八幡東学校(現・近江八幡市立八幡小学校)として建てられた。近江商人が子どもの教育充実を図るために建設したもので、建設費の大半が先ほどの西川家を代表とする商人たちの寄付によってまかなわれた。しかし1891年に校舎としての役割を終え、1893年以降は八幡町役場や蒲生郡役所などに使用された。
戦後、1966年以降は民間所有となっていたが、1992年に近江八幡市に移管され、現在は観光案内所などとなった(登録有形文化財)。棟梁は近江蒲生郡の大工高木作右衛門だが、信州松本の開智学校に似ている。

ちなみに、八幡町と近江商人と教育について考えると、明治時代にヴォーリズ(前のブログ)が英語教師として赴任した滋賀県立商業学校(現・八幡商業)のことが思われる。すなわち、校名に八幡の文字がないことに、滋賀県における近江商人と当時の八幡町の実力が分かる。この学校は近江商人の士官学校とも言われた。

・・・
白雲間の前の鳥居から日牟禮八幡宮の境内に入り、ざっと見物してまた白雲館前に戻った。
しかし白雲館には入らず、前の道路を西に、豊臣秀次像があるという八幡公園に向かった。
途中、近江兄弟社のメンターム資料館をすぎ、八幡公園まで行ったが、特に見るものもなく、秀次像の写真だけ撮って安土へ戻ることにした。

来た道を戻ると、南に(JRの駅のほうへ)入る道路が何本かある。
その一本に入った。
近江八幡の町は豊臣秀次の時代に作られた。
城の濠として掘られた八幡堀を北辺とし、碁盤の目のようになっている。
前のブログで書いたように、八幡山城は徹底的に破却されたが、楽市楽座で集まった近江商人たちは残った。その当主たちの家々が今も残る。
14:26
新町通り
予想以上に古い家が残されている。
どうせなら「止まれ」も書かなければいいのに。
14:27
旧西川家住宅と私が乗って来たレンタサイクル。

のれんに西川利右衛門、「大」とあるのは屋号の大文字屋を表す。
ふとんの西川(山形屋)と同じく代表的な近江商人だが別の家である。
越前朝倉氏が滅んでその家臣、木原勘右衛門数吉が近江に来て、西川家の養子となる。蒲生郡市村で生まれた長男が八幡町新町に移住し、 (初代)西川利右衛門数政となった。

初代は馬一頭を買って荷を載せ、山形屋のように蚊帳と畳表などを売り歩き財を成し、大坂では近江屋八右衛門、江戸では大文字屋嘉兵衛の名義で店を構えた。江戸では江戸城本丸、西の丸の畳替えを一手に引き受け、一代で隆盛を極めた。
こうして初代から昭和5年に11代が没するまで、約300年間に渡って近江商人の代表のように繫栄した。11代が没した後、分家の西川庄六家の厚意によって市に土地建物共に寄贈された。
14:28
西川庄六邸
二代目利右衛門の次男が分家し庄六家を興した。
14:29
ポストも昔のまま。
ほんとに機能しているのか(郵便屋さんに忘れられていないか)確かめるために横を見れば収集は、市の中心部でありながら一日一回。

14:30
近江八幡市立歴史民俗資料館(郷土資料館)
石柱に彫った「歴」の文字が略字になっているのは珍しいのではないか?
どうでもいいことに気づいたくらいで中に入らず。
建物は、明治19年に八幡警察署として建設、1953年に大幅に改築された。
敷地は近江商人の一人、西村太郎衛門邸跡。
14:31
このあたりは見物に飽きてきてひたすら帰り道を自転車こぐ。

ちなみに、近江商人はここ近江八幡と日野町(蒲生氏郷の城下)、東近江(五個荘)を出身とするものが多い。
近江を源流とする有名企業は、堤康次郎の西武グループ、伊藤忠商事、双日(日商岩井、ニチメン)、高島屋(創業者飯田新七の出身地・高島郡は北部だが)などが有名。三井は伊勢だが元は六角氏の家臣だったというし、武田薬品は道修町で日野発祥の近江屋喜助からのれん分けした。

14:34
八幡公民館(八幡コミニティセンター)
近江八幡は公民館まで歴史的建造物である。他の地ではわざと擬古的なデザインで新たに作るのだが、ここではそのものを使っているように見える。

時間がないので(疲れたし、飽きたこともある)もうどこも見物しなかった。
新町通りは、先ほど述べた県立商業学校の後身・県立八幡商業高校の塀にそって走っているのだが、何も知らず通り過ぎた。
信号で止まることはあっても自転車を下りることはなく、ただひたすら安土まで帰路を急いだ。
頭の中は、近江商人のことなど忘れ、安土に無事にたどり着くかどうか、その心配だけになって来た。

(続く)

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