薬学昔々 第87話 薬学会の総会、懇親会に使われた料理屋
薬学雑誌 1910年度(第340号) C1-42
第85話に明治時代の総会、懇親会に使われた会場の一覧表を示した。
その中の料理屋について書く。
開花楼
明治13年1月、在京の30人が集まって毎月親睦会を開こうと決めたのは神田明神境内の開花楼。翌14年1月、会を学術的なものにし、会則、会費も決めようと話したのもここだ。(これが年会の第一回となる)。
明治10年創業、当時としては珍しい木造三階建てだった。海も見えたかもしれない。
数年前、神田明神から東に階段を下りると新開花という高級割烹があった。ご主人は開花楼から数えて4代目である。ランチでもあるかと前を通ったのだが、私など寄せ付けない雰囲気であった。
長蛇亭
明治16年総会に使われたのは、上野不忍池、弁天島の南岸にあった長蛇亭である。この島は維新前にはもっと酒亭があったらしいが、このころは取り払われて1軒だけ営業が許され、さまざまな会合に利用された。もちろん今はない。
私事だが3、40年ほど昔、堂の西側の、傾いたような茶店で蓮の花を見ながらところてんやあんみつを食べた。当時は道の両側に2軒あったのだが、その後、北側の1軒だけになった。今もあるだろうか。
三河亭
明治17年、18年に会場となった三河亭は、神田三河町の三河屋であろうか。
東京初の洋食屋として有名である。牛鍋屋は瞬く間に広がったが、ナイフとフォークを使ってコースに沿って料理を出すような店は、精養軒、三河屋、富士見軒あたりしかなかったという。製薬学科本科生は全寮制で洋食を食べていたらしいから、こういうものに慣れていたのだろうか。三河屋は関東大震災で閉店した。
万代軒
明治20-22年の神田淡路町万代軒も西洋料理で有名だった。各種学会の会合に利用され、二階に玉突台があり、学士会の活動(親睦)はここから始まったとか。
富士見軒
明治23年の麹町区富士見軒も西洋料理で有名。この年の総会は薬学展覧会も併催され、文部大臣榎本武揚ら多数の来賓があった。日本数学会が21年に東大以外で初めて総会をしたのも富士見軒である。
上野精養軒
明治25年以降は総会が帝大薬学教室、懇親会が上野精養軒というパターンが多かった。ここは今も健在である。明治5年の築地精養軒ホテルから始まり、上野は公園ができた明治9年に支店として開業。明治時代の海外出張や留学前の壮行会、帰朝したときの歓迎会などがよく開かれたので、薬学雑誌によく出てくる。
築地は関東大震災で焼け、上野が本店になった。2009年倒産した洋菓子の神田精養軒は戦後ベーカリー部門が独立したものらしい。
また私事。
学部卒業式の日、私のいた部屋では、教授が四年生に精養軒でご馳走してくれるのが恒例となっていた。しかし1979年、彼は海外出張?していて、助教授の先生がフランス料理のフルコースをご馳走してくれたのは本郷の別の店だった。
初めて入ったのは、学生時代、屋上のビアガーデンである。
当時夕方になると、のちに妻となる女性が帰宅するのにあわせ、公園をよく散歩したのだが、ここには一度も入らなかった。
初めてレストランなど内部をじっくり見たのは、その数年後、結婚式場を探していたときである。丁寧に案内され説明を受けたが、結局ここではやらなかった。
そして33年後、長女の相手の方と初めて会うことになり、いろいろ考えて不忍池が見下ろせる、ここのカフェレストランを指定した。彼らと別れた後、妻と彼の印象について話しながら千駄木まで歩いて帰ったのが、昨年5月。 伊藤若冲展、最終の日曜だったか、公園に人が多かった。
千駄木菜園 総目次
1.野菜作り 2.お出かけ・散策 3.医薬史、地図史、 http://tkobays.blogspot.com/2019/11/blog-post_24.html (目次サイト:見てね!)
2017年11月3日金曜日
第86 中之島、大阪ホテルでの薬学会総会
初めて地方開催された年会:大阪大会(明治36年)
薬学雑誌1903年度p413-430から
第85話で触れた大阪大会についてもう少し書く。
正式に決まったのは明治35年9月神田福田屋での評議会。
年が明けて1月、在京の岸田吟香(あの劉生の父)ら4名、大阪では道修町薬業界の武田長兵衛、田辺五兵衛、塩野義三郎、小野市兵衛など27名が準備委員に選ばれた。
2月からは委員長辻岡精輔のもと
「すでに学会において期日を広告なりし上は、当市において万一総会に不利なること出来する場合あるといえども、毫も変更せずして挙行すること」と準備に総力を挙げた。
明治の飛行機研究家として知られる二宮忠八はこのとき大日本製薬の社員であったが準備委員会ナンバー2の常務委員として大活躍した。
大会は学術講演会から始まった。
4月3、4の両日で12題。二宮も小学校卒でありながら田原、丹波の博士らに混じって大会講演に選ばれクレオゲストについて発表した。
5日夕方5時、中之島大阪ホテルでの大懇親会の様子が薬誌にある。
「表門に一大緑門、大国旗二旒を交叉し、階上より垂下して第23回薬学会総会宴会場と大書したる票札を掲ぐ。大広間は食卓に無数の挿花を散在し、正面の花瓶には高さ三丈に余る一大桜花を挟み、満室あたかも春野に逍遥するがごとし。(略) 用意の号砲しきりに開会を報ずるや車軸相並びて雲霞のごとく表門に蝟集し陸続として来る。(略)」
午後6時、陸軍軍楽隊の吹奏起こり、それまで別室で茶菓を供せられていた一同は宴席についた。
「光栄ある来賓と、服装態度実に社会の表に起つ親愛なる会員の綺羅たるこの一大光景は何たる盛挙ぞや。」
いったい何事かと宿泊中の西洋人も見物に来た。同ホテル開業以来の盛大な会で、和酒、麦酒、赤酒から料理までホテルの最も精選、吟味したものが供された。
宴会中、淀川中流につないだ煙船はしきりに妙火を大空に放った。しかし河中に仕掛けた長さ30間余の「日本薬学会万歳」と大書したる仕掛け花火は降雨のために、会員が見物席に移動してくるまで待てず、外の市民のみが楽しんだ。
初めて地方で開かれた総会参加者の内訳は、大阪113、東京38、兵庫25、京都15、石川11をはじめ、合計3府27県で273人であった。それまでの総会参加者は100人程度であったから成功と言えよう。
長井会頭はテレーゼ夫人、子息、日野九郎兵衛、溝口恒輔氏とともに8日難波駅を出発、和歌の浦の風景を賞し、続いて高野山に上った。空海大師の偉業を探り11日に帰阪したという。
今ここまで書いて、中之島のホテルが気になった。
国会図書館のレファレンス共同データベースに以下のようにある。
『川口居留地 1』(1988.5)p.23-26 自由亭ホテル/堀田暁生
『大阪春秋』51(1987.11) p.78-81 写真が語る自由亭ホテルと大阪ホテル/堀田暁生
この2点の資料によると、自由亭の概略は次のとおり。
明治元年 草野丈吉によって洋食屋として梅本町(現在の西区)に開業
明治14年 中之島に自由亭支店を新築開業
明治17年 自由亭の東隣にあった温泉場と清華楼を購入
明治19年 草野丈吉没
明治28年 草野丈吉の長女 草野錦が洗心館(もと清華楼)を改築して「大阪ホテル東店」を開業
明治29年 「大阪ホテル」(西店)開業
明治31年 11月に行われた陸軍大演習のため来阪した明治天皇の御膳部用命を拝する
明治32年 10月 大阪ホテルを大阪倶楽部に売却、「大阪倶楽部ホテル」
明治34年 火災で全焼
明治36年 大阪倶楽部により再建され、「大阪ホテル」として開業
大正13年 大阪ホテル 全焼
薬学会が行われたのは全焼して明治35年再建されたあとである。
堂島川左岸(淀川は大川といい、中之島の北を堂島川、南を土佐堀川という)、今の中央公会堂の東にあった。
当時、東京帝国ホテル、箱根冨士屋ホテル、京都都ホテル、日光金谷ホテルと並び、日本の5大ホテルと言われたらしい。
薬学雑誌1903年度p413-430から
第85話で触れた大阪大会についてもう少し書く。
正式に決まったのは明治35年9月神田福田屋での評議会。
年が明けて1月、在京の岸田吟香(あの劉生の父)ら4名、大阪では道修町薬業界の武田長兵衛、田辺五兵衛、塩野義三郎、小野市兵衛など27名が準備委員に選ばれた。
2月からは委員長辻岡精輔のもと
「すでに学会において期日を広告なりし上は、当市において万一総会に不利なること出来する場合あるといえども、毫も変更せずして挙行すること」と準備に総力を挙げた。
明治の飛行機研究家として知られる二宮忠八はこのとき大日本製薬の社員であったが準備委員会ナンバー2の常務委員として大活躍した。
大会は学術講演会から始まった。
4月3、4の両日で12題。二宮も小学校卒でありながら田原、丹波の博士らに混じって大会講演に選ばれクレオゲストについて発表した。
5日夕方5時、中之島大阪ホテルでの大懇親会の様子が薬誌にある。
「表門に一大緑門、大国旗二旒を交叉し、階上より垂下して第23回薬学会総会宴会場と大書したる票札を掲ぐ。大広間は食卓に無数の挿花を散在し、正面の花瓶には高さ三丈に余る一大桜花を挟み、満室あたかも春野に逍遥するがごとし。(略) 用意の号砲しきりに開会を報ずるや車軸相並びて雲霞のごとく表門に蝟集し陸続として来る。(略)」
午後6時、陸軍軍楽隊の吹奏起こり、それまで別室で茶菓を供せられていた一同は宴席についた。
「光栄ある来賓と、服装態度実に社会の表に起つ親愛なる会員の綺羅たるこの一大光景は何たる盛挙ぞや。」
いったい何事かと宿泊中の西洋人も見物に来た。同ホテル開業以来の盛大な会で、和酒、麦酒、赤酒から料理までホテルの最も精選、吟味したものが供された。
宴会中、淀川中流につないだ煙船はしきりに妙火を大空に放った。しかし河中に仕掛けた長さ30間余の「日本薬学会万歳」と大書したる仕掛け花火は降雨のために、会員が見物席に移動してくるまで待てず、外の市民のみが楽しんだ。
初めて地方で開かれた総会参加者の内訳は、大阪113、東京38、兵庫25、京都15、石川11をはじめ、合計3府27県で273人であった。それまでの総会参加者は100人程度であったから成功と言えよう。
長井会頭はテレーゼ夫人、子息、日野九郎兵衛、溝口恒輔氏とともに8日難波駅を出発、和歌の浦の風景を賞し、続いて高野山に上った。空海大師の偉業を探り11日に帰阪したという。
今ここまで書いて、中之島のホテルが気になった。
国会図書館のレファレンス共同データベースに以下のようにある。
『川口居留地 1』(1988.5)p.23-26 自由亭ホテル/堀田暁生
『大阪春秋』51(1987.11) p.78-81 写真が語る自由亭ホテルと大阪ホテル/堀田暁生
この2点の資料によると、自由亭の概略は次のとおり。
明治元年 草野丈吉によって洋食屋として梅本町(現在の西区)に開業
明治14年 中之島に自由亭支店を新築開業
明治17年 自由亭の東隣にあった温泉場と清華楼を購入
明治19年 草野丈吉没
明治28年 草野丈吉の長女 草野錦が洗心館(もと清華楼)を改築して「大阪ホテル東店」を開業
明治29年 「大阪ホテル」(西店)開業
明治31年 11月に行われた陸軍大演習のため来阪した明治天皇の御膳部用命を拝する
明治32年 10月 大阪ホテルを大阪倶楽部に売却、「大阪倶楽部ホテル」
明治34年 火災で全焼
明治36年 大阪倶楽部により再建され、「大阪ホテル」として開業
大正13年 大阪ホテル 全焼
薬学会が行われたのは全焼して明治35年再建されたあとである。
堂島川左岸(淀川は大川といい、中之島の北を堂島川、南を土佐堀川という)、今の中央公会堂の東にあった。
当時、東京帝国ホテル、箱根冨士屋ホテル、京都都ホテル、日光金谷ホテルと並び、日本の5大ホテルと言われたらしい。
第85 薬学会年会の参加者数と会場
明治時代、薬学会総会の場所と会員数の変遷――東京と地方
薬学雑誌1903年度p413-430
薬学会は明治14年帝大薬学科の30人で始まった。
その後、地方会員が増え続け、明治23年7月には大阪支会が発足した。
その10年後、明治24年末には10倍に増えた総員402名のうち、在京170、地方232名と逆転し、翌25年1月の第12回総会決議で東京薬学会から日本薬学会と改称した。
以後、会員の爆発的な伸びは主に地方会員の増加によるものであった。
そして明治36年4月、大阪で第23回総会が開かれた。
開催日が1月から4月に変わって最初の総会であったが、初めて東京以外で開かれた会でもある。ちょうど大博覧会が大阪で開かれ、薬学会会員の中にも来阪するものが多かろうというので大阪開催となったらしいが、増加する地方会員への気配りもあったことが長井会頭の総会演説からうかがえる。
大阪府立医学校講堂で4月3,4日に学術演説会、5日総会、懇親会、6,7日に各所参観、全5日間という盛大なものであった。
しかし地方開催はやはり困難なようで、明治が終わる1912年まで、第30回の熊本以外はすべて東京で開かれた。
たいてい第11回以来の会場すなわち帝大薬学教室で総会、上野精養軒で懇親会を行った。ただし、大阪以前の総会には学術講演会がなく(講演会は月例会で開かれていた)、午後から会務報告などのみであった。しかし大阪大会の次の第24回以来、会期は2日間となり、初日午後と二日目午前に学術講演会、そのあと総会、夕方懇親会というパターンが定着した。
地方会員は月例会に出られないのだから、総会のときに最先端の薬学の話がたっぷり聞けるのはありがたい。
(実は二日間にわたる会合は大阪の前年の臨時大会が始まりである。この時は総会こそなかったが、初日に学術講演8題、二日目に模範薬局、東京衛生試験所、赤十字社病院、東京市水道部、日本麦酒株式会社の見学会、そして懇親会があった。地方会員のためのプログラムであろう。)
さて現在、薬学会は毎年各地で開かれる。
2009年の京都以来、岡山、静岡、札幌、横浜、熊本、神戸、横浜、仙台ときて、2018年3月は金沢である。
半分がパシフィコ横浜で固定されている日本薬理学会の年会よりも楽しい。各地で市民講座を開いて全国で薬学関係者が活躍できればよい。
薬学雑誌1903年度p413-430
薬学会は明治14年帝大薬学科の30人で始まった。
その後、地方会員が増え続け、明治23年7月には大阪支会が発足した。
その10年後、明治24年末には10倍に増えた総員402名のうち、在京170、地方232名と逆転し、翌25年1月の第12回総会決議で東京薬学会から日本薬学会と改称した。
以後、会員の爆発的な伸びは主に地方会員の増加によるものであった。
そして明治36年4月、大阪で第23回総会が開かれた。
開催日が1月から4月に変わって最初の総会であったが、初めて東京以外で開かれた会でもある。ちょうど大博覧会が大阪で開かれ、薬学会会員の中にも来阪するものが多かろうというので大阪開催となったらしいが、増加する地方会員への気配りもあったことが長井会頭の総会演説からうかがえる。
大阪府立医学校講堂で4月3,4日に学術演説会、5日総会、懇親会、6,7日に各所参観、全5日間という盛大なものであった。
しかし地方開催はやはり困難なようで、明治が終わる1912年まで、第30回の熊本以外はすべて東京で開かれた。
たいてい第11回以来の会場すなわち帝大薬学教室で総会、上野精養軒で懇親会を行った。ただし、大阪以前の総会には学術講演会がなく(講演会は月例会で開かれていた)、午後から会務報告などのみであった。しかし大阪大会の次の第24回以来、会期は2日間となり、初日午後と二日目午前に学術講演会、そのあと総会、夕方懇親会というパターンが定着した。
地方会員は月例会に出られないのだから、総会のときに最先端の薬学の話がたっぷり聞けるのはありがたい。
(実は二日間にわたる会合は大阪の前年の臨時大会が始まりである。この時は総会こそなかったが、初日に学術講演8題、二日目に模範薬局、東京衛生試験所、赤十字社病院、東京市水道部、日本麦酒株式会社の見学会、そして懇親会があった。地方会員のためのプログラムであろう。)
さて現在、薬学会は毎年各地で開かれる。
2009年の京都以来、岡山、静岡、札幌、横浜、熊本、神戸、横浜、仙台ときて、2018年3月は金沢である。
半分がパシフィコ横浜で固定されている日本薬理学会の年会よりも楽しい。各地で市民講座を開いて全国で薬学関係者が活躍できればよい。
(日本薬学会沿革史から苦労して作成)
第84 薬学会年会の時期と名称
薬学会年会は昔から春だったか?
年会?総会?どっちが正しい?
薬学雑誌 1910年度(第340号) C1-42、C253、1890年度p69
私が初めて年会に参加したのは1985年の金沢だった。
学食のテレビで野球を見た記憶がある。高校野球だったかプロ野球オープン戦だったか覚えていない。しかし会場となった大学が城内にあって石垣にかかる桜が満開だったことは記憶にある。年会は桜の季節だ。
しかし年会が3月末もしくは4月初めになったのは第23回の1903年(明治36年)からである。それまでは1月の第3土曜日と決まっていた。
(例外は第17回、英照皇太后(孝明天皇正妃)1897年1月11日崩御につき、2月13日に延期したときのみ)。
1月から4月への変更は地方会員の便宜のためであった。
明治22年の東海道本線開通はじめ鉄道網の発達は著しく、地方会員も上京して参加することも可能となった。しかし冬の正月に旅することはやはり難儀である。
4月は季節もよい。他の学会も開かれており東京の用事も多く、学校関係者も試験休みが使える、と明治35年の総会で変更が決まった。
以後、桜の年会は続いている。
来年はまた金沢。
公式名称は「日本薬学会第138年会」という。
昔は「年会」とはいわなかった。
1880年(明治13年)1月、創立メンバーが神田明神境内の開花楼に集まり、翌2月から毎月第4土曜日に月例親睦会を開くことを決めたのは「新年会」である。
翌1881年1月再び全員集まって、月例会参加者の減少を反省し会を学術的なものにしようと決議したのも「新年会」。1883年1月、不忍池弁天社内長蛇亭で雑誌編集、会計などに関する会務報告をしていたのも「新年会」である。
しかし翌1884年と1885年の1月、神田三河町三河亭に参集したのは「大会」といった。そして1886年以降は「総会」となる。
「年会」とは言わず「大会」「総会」といっていたのは、今のような学術講演会がなく、会務報告、役員選挙、会則改正討議などだけであったからかもしれない。
(学術講演会は毎月の例会で行われていた)。
総会はたいてい午後1時から始まり、夕方懇親会に続いた。
また第138年会などと数字が入ったのは、明治23年の「第10回総会」が最初である。
「客年まで第何回とは記せざりしが明治14年初めて本会を起こしたるを以て本年を10回とす」
と当時の総会の記事にある。
明治14年の「初めて本会を起こしたる」という新年会は1881年。
なるほど2018年は138回目である。
年会?総会?どっちが正しい?
薬学雑誌 1910年度(第340号) C1-42、C253、1890年度p69
私が初めて年会に参加したのは1985年の金沢だった。
学食のテレビで野球を見た記憶がある。高校野球だったかプロ野球オープン戦だったか覚えていない。しかし会場となった大学が城内にあって石垣にかかる桜が満開だったことは記憶にある。年会は桜の季節だ。
しかし年会が3月末もしくは4月初めになったのは第23回の1903年(明治36年)からである。それまでは1月の第3土曜日と決まっていた。
(例外は第17回、英照皇太后(孝明天皇正妃)1897年1月11日崩御につき、2月13日に延期したときのみ)。
1月から4月への変更は地方会員の便宜のためであった。
明治22年の東海道本線開通はじめ鉄道網の発達は著しく、地方会員も上京して参加することも可能となった。しかし冬の正月に旅することはやはり難儀である。
4月は季節もよい。他の学会も開かれており東京の用事も多く、学校関係者も試験休みが使える、と明治35年の総会で変更が決まった。
以後、桜の年会は続いている。
来年はまた金沢。
公式名称は「日本薬学会第138年会」という。
昔は「年会」とはいわなかった。
1880年(明治13年)1月、創立メンバーが神田明神境内の開花楼に集まり、翌2月から毎月第4土曜日に月例親睦会を開くことを決めたのは「新年会」である。
翌1881年1月再び全員集まって、月例会参加者の減少を反省し会を学術的なものにしようと決議したのも「新年会」。1883年1月、不忍池弁天社内長蛇亭で雑誌編集、会計などに関する会務報告をしていたのも「新年会」である。
しかし翌1884年と1885年の1月、神田三河町三河亭に参集したのは「大会」といった。そして1886年以降は「総会」となる。
「年会」とは言わず「大会」「総会」といっていたのは、今のような学術講演会がなく、会務報告、役員選挙、会則改正討議などだけであったからかもしれない。
(学術講演会は毎月の例会で行われていた)。
総会はたいてい午後1時から始まり、夕方懇親会に続いた。
また第138年会などと数字が入ったのは、明治23年の「第10回総会」が最初である。
「客年まで第何回とは記せざりしが明治14年初めて本会を起こしたるを以て本年を10回とす」
と当時の総会の記事にある。
明治14年の「初めて本会を起こしたる」という新年会は1881年。
なるほど2018年は138回目である。
第83 テトロドトキシンと田原良純
薬学昔むかし フグ毒テトロドトキシンの命名
薬学雑誌 1909年度(明治42年)p587-625
Naチャネルを阻害するテトロドトキシンは、生理学の分野で最も重要な薬理ツールの一つである。かつてはどこの薬理、生理学研究室にもあったが、最近は毒物管理の面倒くささから、ずっと弱いリドカインなどで代用している。
さて、テトロドトキシンの化学的研究には日本の薬学者が深く関わっている。
1964年、名大平田義正、ハーバード大R・ウッドワードらと同時に、独立して構造を発表したのは東大薬の津田恭介であるし、そもそも世界で初めて(不十分ではあったが)精製単離し、テトロドトキシンと命名したのは我が国最初の薬学博士、田原良純(1855- 1935)である。
田原は、薬学雑誌39ページにわたる大論文の第1章で多くの医薬品が天然毒から生まれていることを指摘、植物毒に比べ遅れている動物毒研究の重要さを述べた。そして高峰博士のアドレナリンが、副腎に微量存在する動物毒素を分離して止血薬となった成功例であると続けた。つまりアドレナリンは薬であって毒素であり、フグ毒も医薬になると考えていたようだ。
第2章は「河豚には三種の属あり。曰くTetrodon, Tridon, Diodon是なり。歯の数により之を類別す」で始まり、それまでのフグ毒研究の歴史を辿る。
過去、高橋順太郎、猪子吉人らにより、毒は腐敗産物ではなく生魚中既にあること、煮沸しても変化しないためタンパク質ではないこと、運動神経のほかに延髄の諸中枢を麻痺する点でクラーレと異なること、などが報告されていた(明治22年)。
田原本人は、東京衛生試験所(1881、明治14年入所)において1884(明治17)年ごろからフグの研究を始めた。明治20年所長、ドイツ留学で中断したが、明治27年2月フグ産卵期に再開、酸性物質と思われる毒素を銀塩として単離、河豚酸と命名した。
最少致死量は7mg/kg(ウサギ、皮下注)。また、致死量26-30㎎/kgの第二の毒素を結晶として単離、こちらはテトロドニンと命名した。(薬誌、明治27年p732)
さて、明治42年の本論文は、第3章以降でその後の成果を述べている。
今度はフグ卵巣1400個から出発、河豚酸を得たが、致死量は3-4mg/kg(ウサギ、マウス)であった。このとき酸の性質が極めて弱いことが判明し、名前をテトロドトキシンと改めた。
また第二の毒素テトロドニンは、別の結晶性物質に毒素が付着していた可能性が高いとし、フグ毒はテトロドトキシン一種類と結論した。
現在、テトロドトキシンのマウス皮下注LD50は、8μg/kgと分かっているから、田原の精製物に毒本体は0.2%しかなかった。
残りは彼本人も論じていたように酢酸銀の可能性が高い。
このとき田原は54歳、29歳ころからのライフワークの総括である。
田原良純については別に書く。
薬学雑誌 1909年度(明治42年)p587-625
Naチャネルを阻害するテトロドトキシンは、生理学の分野で最も重要な薬理ツールの一つである。かつてはどこの薬理、生理学研究室にもあったが、最近は毒物管理の面倒くささから、ずっと弱いリドカインなどで代用している。
さて、テトロドトキシンの化学的研究には日本の薬学者が深く関わっている。
1964年、名大平田義正、ハーバード大R・ウッドワードらと同時に、独立して構造を発表したのは東大薬の津田恭介であるし、そもそも世界で初めて(不十分ではあったが)精製単離し、テトロドトキシンと命名したのは我が国最初の薬学博士、田原良純(1855- 1935)である。
田原は、薬学雑誌39ページにわたる大論文の第1章で多くの医薬品が天然毒から生まれていることを指摘、植物毒に比べ遅れている動物毒研究の重要さを述べた。そして高峰博士のアドレナリンが、副腎に微量存在する動物毒素を分離して止血薬となった成功例であると続けた。つまりアドレナリンは薬であって毒素であり、フグ毒も医薬になると考えていたようだ。
第2章は「河豚には三種の属あり。曰くTetrodon, Tridon, Diodon是なり。歯の数により之を類別す」で始まり、それまでのフグ毒研究の歴史を辿る。
過去、高橋順太郎、猪子吉人らにより、毒は腐敗産物ではなく生魚中既にあること、煮沸しても変化しないためタンパク質ではないこと、運動神経のほかに延髄の諸中枢を麻痺する点でクラーレと異なること、などが報告されていた(明治22年)。
田原本人は、東京衛生試験所(1881、明治14年入所)において1884(明治17)年ごろからフグの研究を始めた。明治20年所長、ドイツ留学で中断したが、明治27年2月フグ産卵期に再開、酸性物質と思われる毒素を銀塩として単離、河豚酸と命名した。
最少致死量は7mg/kg(ウサギ、皮下注)。また、致死量26-30㎎/kgの第二の毒素を結晶として単離、こちらはテトロドニンと命名した。(薬誌、明治27年p732)
さて、明治42年の本論文は、第3章以降でその後の成果を述べている。
今度はフグ卵巣1400個から出発、河豚酸を得たが、致死量は3-4mg/kg(ウサギ、マウス)であった。このとき酸の性質が極めて弱いことが判明し、名前をテトロドトキシンと改めた。
また第二の毒素テトロドニンは、別の結晶性物質に毒素が付着していた可能性が高いとし、フグ毒はテトロドトキシン一種類と結論した。
現在、テトロドトキシンのマウス皮下注LD50は、8μg/kgと分かっているから、田原の精製物に毒本体は0.2%しかなかった。
残りは彼本人も論じていたように酢酸銀の可能性が高い。
このとき田原は54歳、29歳ころからのライフワークの総括である。
田原良純については別に書く。
2017年11月1日水曜日
イチジクに支柱、冬野菜は発育悪し。
2017年10月31日の朝。
今春、苗を植えたイチジク。
7月のヒョウで受けた傷はまだ幹に多数残る。
イチジクは木なのに枝が柔らかく、葉が重いので枝が垂れてくる。
ネットを見て二本立てにしようと支柱を立てた。
春どりキャベツ。今年で3回目。
農家のニンジンはすでに大きくなっているのに、9月3日に蒔いたまま、ちっとも成長しない。昨年と同じ。このままだと人参ができずに春になって葉だけ大きくなる。2年続いて失敗。日当たりか肥料か。
白菜。
9月2日にポットに蒔いたもの。
ネットをかけたのに虫に食われている。蚊トンボのような成虫が中で飛んでいた。ネットを張る前に卵を産み付けられていたのだろうか。
大根。
9月3日種まき、今年で4回目。
年末に太いのを食べたいと思うが、今年も発育不足。
昨年より虫に食われている。
肥料をまくほど本格的にするつもりはないのだが、しかし何年も失敗が続くと気分がめいる。
趣味だから良いが、私が農家なら一家離散、アルバイトに出なくては食べていけない。
エシャロット。
秋に出る葉は細く、このまま冬に枯れる。
翌春に出てくる葉はもう少し太く、ネギとしても使える。
落花生を収穫、塩茹で
落花生は病気にもならないし、虫にも食われないから栽培が楽である。
昨年初めて挑戦した時はホームセンターで買った1鉢の2本をケチくさく株分けして地植えした。1株は収穫間近にコガネムシ幼虫に根を食われ萎れてきたので、早めに2株とも収穫したが、結構とれた。
今年は、その千駄木1世の子供たちである。
5月3、12、14日に全部で15粒蒔いて13粒発芽。
1mx2mくらいのところに株間30~40㎝で13株植えた。
落花生は収穫まで時間がかかる。
とはいえ、標準では種まきから130日、9月中旬から10月中旬と言われるから、我が家の2世たちは、ちょっと遅い。
これ以上おいても成長しそうもないし、抜いたときに実についている紐が切れると回収困難となるので、10月末日に収穫した。いちおう2鞘だけ掘って、網目状のものができていたので、全部掘り出した。
2017-10-31
2017-10-31
大豆同様、根粒が見える。
全部で13株。
豆があまりついていない。
肥料を一切やらなかったためか。
昨年よりだいぶ少ないのは、樹木の陰で日当たり不足だったからか。
洗って数えると、食用になりそうなもの(右)は2粒鞘が80、1粒鞘が28。つまり188粒。
重さでなく、数えられてしまうのが情けない。
このほかに食べられそうもない小さいもの(左)がある。これは来年まいてみる。
栽培用の種は、太った良いものを残すのが普通。
(野菜の種でも塩水に入れて沈むものだけ選ぶとか。)
しかし昨年の落花生実験では、この小さいものでも発芽した。
種の大きさと収穫量に関係があるかどうか、今年、ちゃんと追跡しなかったことが心残りである。
半分量を塩茹でした。
塩水で40分煮て、放置。
炒ったものと比べて、実が縮んでおらず殻にくっついているので剥きにくい。
茹でピーナツは、ネットをみると、たいてい絶賛している。確かにうまいが、ピーナッツ好きの私からすると、やっぱり炒ったほうが香ばしさは優れている。
残りの半分は昨年のように中華鍋で炒ろう。
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