2017年11月3日金曜日

第87 開花楼、長蛇亭、三河屋、精養軒

薬学昔々 第87話 薬学会の総会、懇親会に使われた料理屋
薬学雑誌 1910年度(第340号) C1-42

第85話に明治時代の総会、懇親会に使われた会場の一覧表を示した。
その中の料理屋について書く。

開花楼
明治13年1月、在京の30人が集まって毎月親睦会を開こうと決めたのは神田明神境内の開花楼。翌14年1月、会を学術的なものにし、会則、会費も決めようと話したのもここだ。(これが年会の第一回となる)。
明治10年創業、当時としては珍しい木造三階建てだった。海も見えたかもしれない。
数年前、神田明神から東に階段を下りると新開花という高級割烹があった。ご主人は開花楼から数えて4代目である。ランチでもあるかと前を通ったのだが、私など寄せ付けない雰囲気であった。

長蛇亭
明治16年総会に使われたのは、上野不忍池、弁天島の南岸にあった長蛇亭である。この島は維新前にはもっと酒亭があったらしいが、このころは取り払われて1軒だけ営業が許され、さまざまな会合に利用された。もちろん今はない。
私事だが3、40年ほど昔、堂の西側の、傾いたような茶店で蓮の花を見ながらところてんやあんみつを食べた。当時は道の両側に2軒あったのだが、その後、北側の1軒だけになった。今もあるだろうか。

三河亭
明治17年、18年に会場となった三河亭は、神田三河町の三河屋であろうか。
東京初の洋食屋として有名である。牛鍋屋は瞬く間に広がったが、ナイフとフォークを使ってコースに沿って料理を出すような店は、精養軒、三河屋、富士見軒あたりしかなかったという。製薬学科本科生は全寮制で洋食を食べていたらしいから、こういうものに慣れていたのだろうか。三河屋は関東大震災で閉店した。

万代軒
明治20-22年の神田淡路町万代軒も西洋料理で有名だった。各種学会の会合に利用され、二階に玉突台があり、学士会の活動(親睦)はここから始まったとか。

富士見軒
明治23年の麹町区富士見軒も西洋料理で有名。この年の総会は薬学展覧会も併催され、文部大臣榎本武揚ら多数の来賓があった。日本数学会が21年に東大以外で初めて総会をしたのも富士見軒である。

上野精養軒
明治25年以降は総会が帝大薬学教室、懇親会が上野精養軒というパターンが多かった。ここは今も健在である。明治5年の築地精養軒ホテルから始まり、上野は公園ができた明治9年に支店として開業。明治時代の海外出張や留学前の壮行会、帰朝したときの歓迎会などがよく開かれたので、薬学雑誌によく出てくる。
築地は関東大震災で焼け、上野が本店になった。2009年倒産した洋菓子の神田精養軒は戦後ベーカリー部門が独立したものらしい。

また私事。
学部卒業式の日、私のいた部屋では、教授が四年生に精養軒でご馳走してくれるのが恒例となっていた。しかし1979年、彼は海外出張?していて、助教授の先生がフランス料理のフルコースをご馳走してくれたのは本郷の別の店だった。
初めて入ったのは、学生時代、屋上のビアガーデンである。
当時夕方になると、のちに妻となる女性が帰宅するのにあわせ、公園をよく散歩したのだが、ここには一度も入らなかった。
初めてレストランなど内部をじっくり見たのは、その数年後、結婚式場を探していたときである。丁寧に案内され説明を受けたが、結局ここではやらなかった。
そして33年後、長女の相手の方と初めて会うことになり、いろいろ考えて不忍池が見下ろせる、ここのカフェレストランを指定した。彼らと別れた後、妻と彼の印象について話しながら千駄木まで歩いて帰ったのが、昨年5月。 伊藤若冲展、最終の日曜だったか、公園に人が多かった。


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