2024年3月1日金曜日

鎌倉・鶴岡八幡宮と河内源氏から実朝まで

熱海に行く途中、鎌倉に寄り道した。

東京の天気予報では午後から降るようなことだったが、鎌倉は朝から雨だった。
じつは鎌倉はほとんど初めて。
最初は中学の修学旅行。
二度目は30年以上前の1990年ころ、職場の鏑木さんの父上だったか母上だったか亡くなられて研究室のみんなと焼香に来た。鎌倉駅から逗子へバスで行ったから、鎌倉はほんの一部しか見ていない。

いつか行こう行こうと思いながらこの年になって、しかも他に行くついでとは・・・
西日暮里を8時過ぎに出て、1時間10分程度で着く(945円)
2024₋02₋25 9:19
鎌倉駅
駅舎は1984年というが、改装もしているだろうし、全く記憶がない。
9:22 東口
鳥居が左に見える。まっすぐ行けば鶴岡八幡かな?
観光案内所が券売機のすぐ横にあったので入って地図をもらう。
9:27
駅から見えた鳥居は参道かと思ったが、扁額を見れば「鶴岡八幡宮」ではなく、「八幡宮近道」と書いてあった。縦柱には「小町通り」とある。要するに商店街のアーケード入り口のモニュメントのようだ。さすが鎌倉、感心した。
この通りはよく散歩、グルメ番組で出てくるが、やはり鎌倉と言えば若宮大路を歩きたい。
9:28
雨に濡れた路上の地図で確認すれば、ツルオカではなく、ツルガオカである。
なんでもインバウンド客に迎合することはないと思うが、ローマ字併記が便利なこともある。
オオギガヤではなくオオギガヤツということは知っていた。
9:29
若宮大路に出た。ここから南は一の鳥居を過ぎて由比ヶ浜までのびる。
北の終点は山を背にした鶴岡八幡。
まるで京都の大内裏から羅城門まで延びる朱雀大路のようだ。
実際、頼朝は三方の山と海に囲まれた鎌倉を本拠地にして都市計画を進めたとき、北山に守護神の八幡社を置き、社殿を中心に幕府の中枢となる施設を建てたから、朱雀大路と同じである。
9:30 二の鳥居
ここから先は中央分離帯のように、車道の真ん中に並木道がある。
観光客は日本人より外国人のほうが多い。

鎌倉はもともと桓武平氏の当主、平直方が京都を本拠地にしながら関東に所領を得て鎌倉に居館を設けたことに始まる。一方、清和源氏の一派、河内源氏の2代目、源頼義が1036年、48歳で相模守として受領(ずりょう)に任じられたとき、平直方の娘をめとったことから、直方は頼義に鎌倉を譲った。
河内源氏は、初代頼信が平忠常の乱を、次いで頼義・義家(八幡太郎)が前九年の役、後三年の役で武功を重ね、摂津源氏、大和源氏などを抑えて「武家の棟梁」とみなされるようになった。これに伴い、東国の坂東武士(大半が平氏)の中には、河内源氏の家人となるものも出て、河内源氏の一部は北関東にも土着した(上野・新田氏、下野・足利氏、常陸・佐竹氏など)。

鎌倉に入った頼義は、平直方から譲られた大蔵(鶴岡八幡の東)の屋敷に住み、鎌倉が河内源氏の東国支配の拠点となった。(実際は頼義も直方も京都を拠点とする軍事貴族である)

1063年、頼義は、前九年の役に際して戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮(あるいは河内源氏の氏神・壺井八幡宮)を鎌倉の由比郷鶴岡(現 材木座1丁目)に鶴岡若宮として勧請した。(現在は住宅街の中に小さな神社として残り、グーグルストリートビューで見ると「元鶴岡八幡宮」という石柱が通りに建っている)。彼は東京、杉並の大宮八幡宮も創建している。
若宮というのは新しい神社ということである。

それから100年余り後、頼朝が1180年8月、伊豆で挙兵、相模から安房にわたり上総、下総、武蔵を平定して10月、鎌倉へ入った。そしてすぐに由比の鶴岡若宮を小林郷北山(現在地)に遷座させた。父祖伝来の地であるだけでなく山と海に囲まれた要害であるため、本拠地に決めたのであろう。1182年には、京都の朱雀大路を倣って新しい若宮から由比ガ浜まで直線道路を開き若宮大路と名付けた。
9:31
若宮大路は盛土によって中央部分が一段高く、両側を石で押さえている。
これを段葛(だんかずら)というらしい。

鎌倉に入った頼朝は36歳で待望の嫡男、のちの頼家を得る。懐妊中の政子の安産を願っての大路の造成であった。有力御家人たちが土や石を運んで段葛を作り、頼朝が自ら監督したという。

発掘調査の結果、大路の幅は広いところで11丈(33メートル)あったらしいから、現在の両側の車道も大路だったようだ。段葛構造は、当初は鶴岡八幡宮の社頭から一の鳥居までの1300 mに渡ってつくられたが、その後の地震や津波、さらには横須賀線の建設で明治時代には二の鳥居から南がなくなったという。
9:32
鳩サブレの豊島屋本店があった。
そうだ、鏑木さんはよくお土産で部屋にもってきてくれた。

9:38
両側はわりと古い、きれいな店舗が多い。
けばけばした店がないのは街並み規制があるのか民度が高いのか。
9:39 八幡宮前、三の鳥居
鳥居をくぐると境内。東西に広がる源平池の中央、くびれた部分に太鼓橋がかかる。これは文化財で通れない。通れたとしても傘を持ったまま滑って転びそうなほど急である。横目で見ながら陸地部分を通って進む。
左手に鎌倉文華館・鶴岡ミュージアムがあるが10時の開館前だったので素通り。
9:43 舞殿
1186年、静御前が、義経を慕った今様の歌にあわせ頼朝と政子のまえで白拍子を舞い、頼朝の怒りを買った。当時この舞殿はなく、舞ったのは若宮(下宮、石段下の東)の回廊だったとか。

舞殿の後ろの石段を上がると本宮(上宮)と呼ばれる本殿。
楼門は神田明神と同じく、両側に一対の武士坐像がある。
説明は何もない。
頼義と頼朝なら面白いのだが、違う。
9:45
楼門は随身門と言って、坐像は貴人(平安貴族)を警護する武人(随身・ずいじん)をかたどっている。寺院の仁王門に相当し、神田明神のほかにもよくある。
9:46
本宮前から南を臨む。天気の良い日は太平洋も見えるという。
頼朝の時代は樹木も小さかったから鎌倉の町がよく見えたことだろう。

1199年頼朝がなくなると長男頼家が18歳で家督を継ぎ(2代鎌倉殿)、3年後に征夷大将軍となる。しかし1203年頼家を後見してきた乳母父・比企能員と、頼朝の次男実朝を担ぐ北条時政の対立から、能員は謀殺され、頼家は伊豆に流され、翌年北条の手兵によって殺された。
1203年に12歳で第3代征夷大将軍となった実朝は、1206年兄頼家の嫡男・公暁を養子にしたが、1219年1月の大雪の日、右大臣就任を祝って鶴岡八幡宮を参拝、石段を下りたところで公暁に襲われ落命した。28才。北条義時は躊躇なく公暁を誅殺し、頼朝の血筋は絶え、以後は北条の天下となった。

境内を出る途中、源平池の西半分・平家池を覗いた。
昔は源平の白旗赤旗にちなみ、東の源氏池は白い蓮、西の平家池は赤い蓮が咲いていたというが、今は混在しているらしい。
9:52
鎌倉文華館・鶴岡ミュージアム
池のほとりに立つ鎌倉文華館は、日本最初の公立近代美術館として1951年、神奈川県立近代美術館として開館した。開館時は国有地であったが、その後鶴岡八幡の土地となったため、県の土地貸借契約の期限が切れるのを機に2016年閉館した。

契約では更地になることになっていたが、建物の保存運動が起こったのは記憶にある。結局建物は鶴岡八幡に譲渡され、耐震補強などして2019年鎌倉文華館・鶴岡ミュージアムとしてオープンした。
カフェなどもあるらしく、もっと近くに行っても良かったのだが雨で寒くて元気がなかった。

公暁が実朝を襲うとき隠れていたという石段脇の大銀杏は、2010年3月の強風で倒れたが新芽が出て再生しつつあるという。もっともイチョウは外来種で頼朝以降(鶴岡八幡造成以降)に植えられただろうから、公暁の時代は隠れるほど大きい銀杏はなかったそうだ。
その再生中の銀杏を見損ねたが、もちろん雨の中、戻る気は起きなかった。
雨というのは見物する気分をしぼませる。
この日、最高気温は5.8度(東京)である。

さて雨の鎌倉はつぎにどこへいこうか。
(続く)

千駄木菜園・お出かけ 目次へ  (ご近所から遠くまで

2024年2月27日火曜日

杉並の和田堀廟所と明大は陸軍火薬庫跡地

2月23日、杉並区競技ダンス大会が永福体育館であった。
京王線下高井戸駅から北へ8分、甲州街道(国道20号)、中央高速(首都高4号線)、玉川上水(跡)の3本の筋が重なる場所をすぎ、坂を下って神田川の手前にある。

永福体育館の東は広大な墓地をもつ築地本願寺和田堀廟所、さらに明大和泉キャンパスがある。はて、同じ場所に地名が3つあるのはなぜか。

今、このあたりの住所は永福1丁目で、和田堀はさらに北の善福寺川のあたりの地名だし、和泉は井の頭線の東側の地名である。

昔は(1932年の東京市拡大前までは)一帯を豊多摩郡和田堀町といい、和泉は合併前の村名(のち大字)だった。永福は永福寺村だったが合併して和田堀町大字永福寺、1932年に杉並区永福町となった。
そして永福町は1966年の住居表示で和泉町の一部(井の頭線の西)を編入して杉並区永福となった。ちなみに明大前で交差し京王線の北側にうつった井の頭線の永福町駅は北方の神田川を越えたところにある。

ダンスは午前、ラテン部門が早く敗退し、午後の15時からのスタンダード部門まで時間があった。勝ち残った人の踊りを見る気もせず、暇ですることもなかった。

この日、東京は雨、かつ最高気温4.0度というこの冬一番の寒さだったが、今後二度と来ないような気がしたので、傘をさして外に出た。
2024₋02₋23 13:06
本願寺の子院、真教寺のわき、ゆるやかな坂を上ると甲州街道と玉川上水跡に出る。坂の上に川があるというのは変な感覚だが、上水道というのはひとたび低いところに落ちれば先は上がれないから、ひたすら尾根を通った。このあたりで甲州街道と重なり、新宿淀橋浄水場まで続いていた。
13:09
上水あとの歩道を東に歩きながら北を見下ろせば、築地本願寺和田堀廟所の墓が見える。
谷中あたりの寺院墓地、あるいは都心の都営霊園と比べて、一区画が大きい。
13:11
和田堀廟所の入口に到着
となりは明治大学の武骨な校舎が迫るが、都内では仕方がない。
13:11
甲州街道に面した門徒会館は、トイレや線香販売などの売店、休憩所もそなえた巨大な機能的建物である。あたかも長屋門のようで、寺の総門に当たり、ここをくぐって墓域にはいる。
13:12
極楽橋の向こうが本堂
築地の本願寺とおなじく伊東忠太の設計であることがすぐ分かる。

当廟所は浄土真宗本願寺派(西本願寺)に属する築地本願寺の分院である。
大正12年(1923)の関東大震災で築地の本願寺は、本殿の西南(いまの場外市場)に広がっていた57の子院とともに焼失した。区画整理が行われ、本殿はインド風の意匠で現地に復興されたが、本殿の西南にあった子院と墓地は移転が決まった。
ちょうど豊多摩郡和田堀町で陸軍省火薬庫跡地が払い下げられることになり、明治大学とともに取得、ここに墓地が移転した。

新しい12,000坪の公園墓地は富士も望まれた。
しかし1945年5月の空襲で築地から移転した木造瓦葺の旧本堂と瑞宝殿など建物はすべて焼失(皮肉にも都心の築地は空襲にあわなかった)、本堂は1953年に再建されたという。
13:16
本堂内部は、お彼岸のちょうど一か月前だが外と同様に誰もいなかった。
線香炉の脇に墓地の案内パンフレットがあった。
樋口一葉の墓があるという。
彼女は明治29年(1896)24歳で死去しているから、築地に葬られたのだろう。
墓地の移転というのは墓石だけでなく骨あるいは還ったとされる土なども運ぶのだろうか?

せっかくなので一葉の墓を探してみる。
メイン通路に案内柱が立っていて「最初の通りを右に折れて6番目」とあった。
13:22
先祖代々之墓 樋口氏
と、確かに書いてあるが、何も案内板がない。
大きな区画が多い和田堀では小さいほうだった。他と違って新しい花が供えられているが、それだけでは一葉の墓という証拠にはならならない。
傘をさしたまま狭い墓石の間を失礼して裏に回ると葬られた人の名が刻んであった。
13:24
智相院釈妙葉信女 明治二十九年十一月廿三日
俗名はなかったが、戒名に「葉」の文字、帰宅後に死亡日を確認して間違いない。
彼女は母と妹がいて戸主であったが、家の墓はもともと築地本願寺であったのだろうか。

当時は築地御坊とでも呼ばれていたか?
そもそも築地というのは、明暦の大火で東日本橋から移転を余儀なくされた浜町御坊のために、沖に地面を築いたことから生まれた地名。埋め立てに貢献した佃島の門徒たちの墓もあるそうだが、見損ねた。

代わりにパンフレットにあった笠置シズ子の墓を訪ねた。
13:30
こちらははっきり「俗名笠置シズ子(亀井静子)」と彫ってある。
昭和六十年三月三十日没行年七十二才
戒名は寂静院釈尼流唱
静、唱という文字が入っている。
なぜか墓石は横を向き、俗名のある側面が通路からよく見えるように立つ。

他にも古賀政男、服部良一、海音寺潮五郎、佐藤栄作、瀬島龍三、藤原銀次郎、中村汀女、九条武子らの墓もあるようだが、あまりにも寒くて探す気は起きなかった。
13:35
帰り際、ひときわ大きな墓があった。辻家墓所とある。
正面の大きな墓石は戒名だけなので、裏に回ると辻嘉六とあった。
大正から昭和の実業家、児玉源太郎、原敬らの知遇を得、立憲政友会系大物政治家と密接な関係をもち、政界のフィクサー、黒幕と言われた人。
目を引いたのは大きな二基の墓石に「家来之墓」とあったこと。
「家来」とは久しぶりに聞く言葉だが、墓石に彫るような文字かな?
13:37
この墓も大きいが、寒くて誰の墓か見る元気もなかった。
向こうに都立永福学園(養護学校)の校舎が見えた。

どの墓も新しいのに広い。中には大名家のような墓所もある。
改めて雨に濡れたパンフレット下半分の墓地・納骨堂の案内をみた。
1メートル x 1メートルで450万円か。
驚くのは室内の仏壇型の納骨墓でも高いのは1000万円もすること。年次冥加は6万円。
冥加というのは、本来、神仏から受ける加護のことである。
それを受けるために必要なお金ということか。
それなら冥加金と書けばいいが、暴力団を連想するか。(これも本来は営業許可を得るため幕府、藩などに払った税金のようなもの)
墓地では管理料というのが適切だろう。

寒かったがここまで来たついでに隣の明治大学も覗いてみた。
13:42
井の頭線の駒場に住んでいた頃、よく明大前で京王線に乗り換えた。
当時、駒場東大前から比べると「明大前」というのはちっとも「前」ではないと思ったものだ。しかし初めて来てみれば、ホームから校舎が見えないだけで、改札を出て甲州街道の歩道橋を渡れば正門だから「明大前」という駅名は正当であることがわかった。

13:44
いまや大学にはなくてはならないコンビニ(ファミリーマート)が向こうに見えた。

創立者3人のレリーフがあった。早稲田、慶応と違いあまり有名な方がたではない。

明治大学もやはり関東大震災で本願寺同様、駿河台の校舎が焼失、もともと狭かったため郊外への移転を決定、この陸軍火薬庫跡地を取得した。
和泉キャンパスは予科の校舎が建てられ、その流れか戦後は各学部1年生のキャンパスとなったが、その後工学部、農学部は駿河台、生田に移転して、いまは文系5学部(法・商・政経・文・経営)教養課程のキャンパスとなっている。
13:44
最高気温4度の日、体は芯まで冷えた。しかし夕方から始まったスタンダード部門(ワルツ、タンゴ、スローフォクストロット)は21組中6位に入賞し、ラテン部門の雪辱を果たした。


前のブログ

千駄木菜園・お出かけ 目次へ  (ご近所から遠くまで

2024年2月20日火曜日

暖冬の朝、夏キャベツの定植と野菜収穫10種類

 記録的に暖かい2月。大根、白菜などトウ立ちする野菜は今から早く取っていかないと3月、廃棄処分になってしまう。

2024₋02₋16
白菜(右)は頑張って食べたり差し上げたりして、ようやく場所が空いてきた。そこでサツマイモのあとに植えてあった長ネギ(食べた後の根っこ)をもってくる。

長ネギのあとには夏キャベツの苗を定植した。
バイト先や教科書では定植する2週間前に施肥して土づくりをしろというが、千駄木では場所が空けばその日に植える。土を休ませる余裕(時間、スペース)などない。
2024₋02₋16
キャベツを40x45センチ間隔で16株を定植。
葉は小さくとも根はポット内に広がっていた。
秋11/15に種を蒔き36株育てていたが、発育の悪い20株は保険としてポットに入れたまま間に埋めておく。
もう保温ビニールではなく、防虫ネットをはる。
梅雨どきの6月、7月に収穫予定。

キャベツ定植時期は、近年 3/8(2023)、 3/30(2022)、 2/21(2021)であった。今年は陽気で早まったかと思ったが、私の場合、よく考えればスペースの空き具合で時期を決めていることに気が付いた。

翌2月17日は法事で長野に帰省した。
かの地も季節外れのように暖かかった。抜群にうまいリンゴ、桃、ブドウを育てる柳沢の叔父は、この陽気を心配していた。
関東にいると、暖冬の心配と言えば、野菜の生育が早まり値崩れすることなどだが、奥信濃では遅霜の心配が大きい。
気温は直線的に上がるものではなく変動しながら春に向かう。当然、暖かい日もあれば寒い日もある。暖冬で果樹などに芽が出てしまえば、寒波が来たときにやられてしまう。
「冬が寒い年は豊作だ、と昔からよく言われたものだ」
と彼は、作物にとって冬は冬らしく寒くないとダメだという。

しかし、二毛作三毛作をめざす千駄木菜園では、冬暖かければ、早く育ち早く耕作スペースが空いて好都合である。

長野へ日帰りした翌朝、妻が二女の家に野菜を持っていくというので、いろいろ収穫した。
2024₋02₋18
この日の収穫
手前左から小松菜、野沢菜、白菜(2.3kg以上、測定不能)、ホウレンソウ、パプリカ(最終)、後列左から春菊、サニーレタス、大根(1.3kg)、夏ミカン(550g)、キャベツ(1.1kg)。以上10種類。(板幅は18センチ)

このほかに長ネギ、分葱、カブ、山芋、茎ブロッコリー、温州ミカンも上げられるが、持ちきれないというので割愛。

収穫時期ではないが、庭を見れば菜花、イチゴ、夏キャベツ、玉レタス、玉ねぎ、そら豆、スナップエンドウを育てている。
もちろん夏はナス、キウリ、トマト、ピーマン、シシトウ、オクラ、サツマイモ、ジャガイモ、落花生、大豆(枝豆)、トウモロコシ、人参、
畝建てしていない庭の端のほうには、ニラ、ミョウガ、セリ、フキ、コゴミ、ウルイ、シソなど野草系のものが何年も同じ場所に自然と生えてくる。

ほとんどのものは千駄木でとれる。
ジャガイモと玉ねぎは年中食べるから足りず弟からもらっていたが、今年から自給しようかな。今回植えたばかりのキャベツをはじめ白菜大根などは自家消費分の3~4倍とれるから、これらの作付けを減らせば十分自給できるだろう。
するといよいよスーパーで買うものはレンコン、キノコ類くらいになる。
あ、肝心の米は自給できそうもないな。3人の子供たちが出て行った部屋で室内栽培もできなくはないが。
それより300個以上取れる柿を干して砂糖代わりにするのが先か。
そうやっても、もちろん肉、魚は自給できない。
かといって昔の信州のような昆虫食をする気はないが・・・。

これから何を目標にして生きていくのか分からなくなってきた。


2024年2月18日日曜日

芽が出た玉ねぎから苗を作る方法

玉ねぎの苗はホームセンターで買える。
買えば簡単、何も問題ない。
しかしホームセンターが遠い人、安上がりにしたい人は種から始めればよい。
ダイソーで2袋110円である。

しかし、種は意外と難しい。
初めて種まきした一昨年は発芽はするが成長する前に冬になってしまい、ほとんどとれなかった。
昨年も苗が小さく、あまりとれなかった。
今年は少しマシだがどうなるか分からない。

そこで苗を買ってくるわけでもなく、種をまくでもない、第3の方法を示す。
玉ねぎそのものを使う。
たぶん誰もやらなかったと思う。
方法は3つある。
1.玉ねぎの捨てるべき根の部分を埋める。
2.料理に使えない屑玉ねぎから苗を作る。
3.保存中に芽が出てしまった古い玉ねぎを使う。

方法1は昨年トライした。
2022-10-31
底の部分を切り捨てるとき、すこし上のほうも付けて四角錐型に切り取る。
これを埋める。
2022‐12‐07
一株からいくつも芽が出た。
長ネギよりも分けつしやすいようだ。

2023₋06₋05
しかし玉ねぎ1つから芽が4つ、5つと出て栄養を奪い合うのか、大きくならない。

方法2
昨シーズン収穫したもののうち妻が使ってくれなかった超小玉、チューリップの球根より小さいものを埋めた。すると芽が出てきた。
2024₋02₋09
このままだと昨季の方法1同様、小さい玉になってしまう。
そこで、掘り出して包丁で分断した。
5玉から10本とれた。
これを植える。
2024₋02₋09
自分で種から作った苗(前2行)よりずっと太いものが短期間でできる。

方法3
法事で長野に帰省し、物置にあった玉ねぎを大量にもらってきた。
2024₋02₋17
芽が出ているのもある
芽が出ると水分を吸い取るのか、外側の鱗片が腐ったようにぶよぶよになってくる。
外側の皮、腐ったような鱗片を取り除く。
芽の伸長が著しいものは腐った?部分も大きく、手で向いただけで苗状のものが芯から現れてくる(右)。
しかし新芽が短いもの(左)は玉ねぎとしてもしっかりしているから、包丁で四方の側面を切り落とす。
四方を切り落としたあと、残った鱗片の破片を手で取り除く。
もちろん取り除いた鱗片は料理に使う。
こうして、まっすぐ伸びた苗状の芽が残る。写真では4本プラス4本で8本ある。
このまま、方法2のように1本1本の苗に分けたくなるが、まだ根が伸びていないため、今切るのは危険。この状態で土に埋める。
2024₋02₋18
これで青い芽が伸びてきたら、おそらく地中でも根が伸びているから、その段階で1本1本に分割する。玉ねぎ4つから20本くらいできる。種まくより出来は少ないが、(妻の場合)捨てる部分なので上々である。

本当は6月にうまく玉ねぎができてから書くべきかと思うが、自信があるので書いた。
問題はただ一つ。
植えるスペースがないことだ。

前のブログ



2024年2月7日水曜日

雪かきはしなくても良いか

 2月5日、月曜日、関東は午後になってみぞれ、それが雪に変わり、夕方には積もってきた。

2024₋02₋05 16:39
ダイコン、白菜は雪をかぶり、レタスなどの保温ビニールトンネルは重みでたわんでいる。
白黒の世界だがもちろんカラー写真である。 
16:40
育苗中の春キャベツのトンネルはつぶれてしまった。
大雪を心配するのと期待するのと半々の気持ちで寝た。

雪は夜も降り続け、火曜日。
ふつう、大雪の翌日は晴れの日が多いが、曇り。ときおり小雨。寒い。
テレビは各地の通勤通学客の混乱を報じている。
大変だ大変だと言っても能登半島のことを考えたら都会の雪などお祭りのようで問題にならない。
窓の外を見る。

2024₋02₋06 9:19
大根白菜も全く見えない。
前夜は大丈夫だったトンネルもすべてつぶれた。
しかし寒くて直す気はしない。

妻がパートに出かけ、ひとりコタツに首まで入っている。
だらしない退職老人である。
テレビにも飽き、天井を見ていたら外で雪かきの音がする。
うちもやらないとまずいかな、と外に出たが、シャーベット状の雪は大したことなく、すでに多くの人が歩いた跡がある。小雨のせいか、すこしずつ融け始めていて、放っておいても消えるだろう。
そもそも、雪国と違ってめったに降らない都会では(運送業の人などを除いて)一般人は雪を喜んでいる人のほうが多いのではないか? わざわざ早く消すことはないではないか。

歩くには支障がない。
しかしこのままだと明日朝凍るかもしれない。片付ければ早く乾くというのは分かる。

テレビでは転ばないように歩幅を狭く、両手を出して、と繰り返している。
しかしテレビは大げさ、余計なお世話だ。転んだら転んだで本人の問題、何年かに一遍のことだ、いいではないか。

かといって自分の家だけ雪片付けしないというのも、小心者だから気が引ける。
11:02
そっと家の周りを見ると、自分の門の前を少しだけ片付けた家はあるが、道路はそのままだった。夏ミカンの盗難防止ネットが雪の重みで落ちていたので、それだけ直して家に入った。放っておいてもじきに融けるだろう。

水曜日。
数日ぶりの太陽が出た。
菜園は一転、明るくなり暖かくなったが、泥になるから作業はしたくない。
しかし妻がホウレンソウが欲しいというので庭に出た。
雪はだいぶ溶けている。
トンネルの上の雪をどかしビニールをはがす。

2024₋02₋07 10:59
ホウレンソウと春菊
天然色の世界が戻ってきた。
今年は保温ビニールのせいか、育ちが良い。
10:59
取り残したパプリカは雪をかぶったが、まだ生きている。凍傷にもなっていない。
いつになったら枯れるのか?春になったらどうなるのだろう? 実験で置いておこうかな。

11:05
今年初めて作った秋キャベツ。
ビニールトンネルが功を奏し食べごろ。しかし食べきれない。
11:19
白菜と大根は雪にかぶっていたので、そっと雪をどかした。
放っておいても今日中には溶けると思うが、植物も雪は冷たいだろう、と葉っぱを雪の下から出してあげた。
「放っておいても今日中には溶けるが・・・」
これは前日私がコタツの中で思ったことと同じ。放っておいても雪はなくなるから雪片付けはせず、自分の好きな野菜はほんの短時間でも雪をどかしてあげる。要するに昨日は、やりたくないことの、やらない理由を一生懸命考えていたと言われても仕方がない。
12:38 本日の収穫
ホウレンソウと茎ブロッコリー、二人で食べるだけ。
退職してから付き合いが減って、収穫した作物をもらってくれる人がいない。おそらくかなりの野菜が植わったまま処分することになろう。
13:27
スナップエンドウのネット
トンネルは玉ねぎ。手前はそら豆
奥のネットはカブ

あちこちビニールトンネルを直していて、エンドウの弦が伸びているのに気付いた。
ネットを張った。

空腹は感じなかったがトイレに行きたくなったので家に入ると、13時半を過ぎていた。3時間ほど作業したことになる。昼食を食べながらパソコンをつけた。
今季カブはまだまだ収穫していないが、塩漬けになっているカブがある。JCRファーマは機関にもてあそばれ今日も下落、高値の3分の1になってしまった。