2025年7月17日木曜日

千葉大亥鼻キャンパスと薬学部の移転

7月2日、薬物乱用防止講演で千葉市に来て、終わってから市内を歩き、38年ぶりに亥鼻城をみた。 (別ブログ)

亥鼻城のすぐそばに千葉大医学部がある(と書くと同じキャンパスにある看護学部、薬学部に怒られるか)
医学部だけあえて取り上げたのは、亥鼻は明治以来、千葉大医学部(という名前ではなかったが)の代名詞であったからだ。

亥鼻城址の北のバス通り(旧東金街道)の坂を上がってすぐ、通用門みたいなものがあったのでキャンパスに入った。
2025₋07₋02 16:53 看護学部前
通勤通学用の自家用車が自由に停められている。
まだ千葉大はふんだんに土地がある。

少し歩くと旧正門があった。
千葉大は西千葉キャンパスのほうがなじみ深いが、亥鼻のほうも最低3回は来ている。
最初は大学院生だった1980年ころ、生物活性研究所の山崎幹夫先生のところにアフラトキシンを産するカビのスラントをもらいに来た。
2回目は1987年3月、薬理学会を初めて聴講に。
3回目は2003年5月、シンシナチ大シュワルツ教授を常宿のオークラで内藤一秋氏とピックアップしブランチを食べたあと、医学部薬理学教室の中谷晴昭先生のところまで連れてきた。中谷教授は私より12年ほど前にシュワルツ研に留学されていて、シュワルツは来日すると会いたがられ、他にも1度食事会をセッティングしたことがある。
16:55 千葉大医学部 旧本館
旧正門からまっすぐ右斜めにある。
最後に来てから20年以上たっているがまだ残っていてうれしかった。

16:57 医学部正面玄関
かなり大きな建物だが現在は使われていないようだ。
1987年、2003年のときはこの中に入った。入れば何か思い出すかと思ったが
鍵がかかっていて無人のようだ。
16:59
奥に進むとミルフィーユのような建物があった。
ゐのはな同窓会館とあった。
左の向こうは旧医学部本館

ゐはW・Iと入れれば変換される。たしかにウィであるが、13世紀には音は「い」と一緒になり文書では大いに混同された。しかし明治以降の学校教育で復活し、井、位、為、猪はこのように書かれた。ただし人々が「うぃど」「うぃのしし」と発音したわけではない。
同窓会は過去とのつながりが大事だからこの字を用いるのであろう。実際「亥鼻会」、「いのはなかい」よりも良いと思う。
17:00
中を覗くと講演会場にもなるようだが、四方ガラス張りでエネルギー効率が悪そう。

17:02
旧医学部本館の裏に古びた建物があった。
このあたりは亥鼻台地の北縁に当たり、北に向かって崖のようになっている。
この古い建物は何だろう、と思って近くの案内図を見たが、書いてない。
代わりに5号塚、6号塚、などが目に留まった。
その一つの6号塚にはいってみた。
17:03 七天王塚
塚というが高さはほとんどない。7つの塚はいずれも径10mの円ないし類円形、高さは0.5mから1.5mほどの小円墳という。疫病除けとして牛頭天王をまつり、亥鼻城の大手口に北斗七星の形で並んでいるという。

しかし7つの塚をつなげても北斗七星の形に見えない。ただ千葉氏の家紋が月星紋・九曜紋という天体から採ったもので、北斗七星というのもあながち嘘ではないかもしれない。
(ちなみに千葉周作も千葉氏の末裔を名乗り、紋は月星紋、剣は北極星にちなむ北辰一刀流である。)
17:06
七天王塚をみたあと、さっきの古い建物が気になったので戻って中に入ってみた。
17:07
山岳部、軽音楽部、
学生のクラブ活動の部室だった。
敷地に余裕があるから歴史的建物も保存できる。

17:10
薬学部
薬学部は昭和41年(1966)以来、他の教育学部や工学部などと一緒に西千葉キャンパスにあったが、2004年と2011年に半分ずつ(新校舎の完成に合わせて)亥鼻に移転してきた。

ところで、我が国の薬学部は2006年度の入学生から6年制になった。
これは1999年に厚生省が「薬学教育のあり方に関する調査研究協力者会議」を設置、2002年には文部省と厚生省が合同で「薬学教育モデル・コアカリキュラム」を策定、薬学教育6年制の具体的検討を進めた結果である。これには薬科大学や薬剤師会の意向が入っている。

この変更は薬学教育を従来の有機化学主体の製薬化学から臨床薬学に大きく舵を切るもので、増えた2年間を臨床薬学の教育に充てることになった。
臨床薬学というのは生命倫理とか、薬局実習、病院実習などで、東大などは従来大学院修士課程で2年間実験していた学生が(将来あまり役に立つとは思えない)調剤実習に行ってしまうことで我が国の基礎薬学(有機化学、生命科学)が衰退してしまうことから大反対した。
しかし多くの私学や薬剤師会は2年間分の学費の収入が増えることと、医師と同じ6年になることで薬剤師の地位が上がるのではないかという期待から強く後押しした。

(ちなみに地位向上の期待は裏切られた。なぜなら6年制は学費収入が1.5倍になるということで新設薬科大が乱立、薬剤師が過剰となったからである。さらに6年制薬学部の学生は研究をほとんどしなくなってしまったため、製薬会社の研究所には就職できなくなるなど、ライフサイエンスの分野では理学部、農学部の学生(4年制プラス修士2年)に太刀打ちできなくなった)

さて、6年制になると医療現場と薬学はぐっと近くなる。千葉大薬学部の亥鼻移転はこうした流れと時期が重なることからそれに合わせたものかと思ったが、どうだろう?
よく分からないが、とにかく亥鼻に医学部、薬学部、看護学部が集まった。

千葉大薬学部は戦前の千葉医科大学附属薬学専門部から続いている。当時は薬剤師になるものが多かったが、戦後、国内での製薬業の興隆とともに基礎科学である製薬化学が重視されるようになり、1966年工学部や理学部(当初は文理学部)などのある西千葉に移転した。

すなわち、亥鼻(矢作町)→西千葉→亥鼻という校地の変遷は、薬剤師→創薬研究者→薬剤師という養成すべき人材の変遷と一致する。

薬学部の新しい2つのビルを見た後、奥(東)にすすむと真新しい大きなビルがあった。
亥鼻の主・医学部である。
この大きなビルを見れば、先に見た旧医学部本館が空っぽになったのもうなづける。
17:12
遠く離れていても大きく見える医学部。

千葉大医学部の前身については、20年近く前、ファルマシアのコラム「薬学むかしむかし」に何回か書いた。
すなわち、明治15年亥鼻城址の一角に創立された県立千葉医学校が、明治20年官立(国立)第一高等中学の医学部になったのが始まりである。第一高等中学というのは本郷弥生に本部があり、明治27年には第一高等学校となった。

当時の5つの官立高等学校は学部を持ち、二高(仙台)、四高(金沢)の医学部はそれぞれ本部の地にあったが、三高(京都)は岡山に、五高(熊本)は長崎に医学部を置いた。その後、二高、三高は帝国大学に昇格、他の官立高等学校は帝国大学の予科となり、付属の医学部は官立医学専門学校として独立した。
大正の終わりにはこれら官立医専は官立医科大学に昇格する。
岡山、長崎、千葉が戦後、入試制度で国立一期校に割り振られたのは、その設立母体の一部にこれら戦前の官立大学が入っていたからである。

ちなみに、これら高等学校附属の医学部には薬学科が付設されていた。
千葉も明治23年薬学科が附設され、卒業生は薬学得業士の称号が与えられ、試験免除で薬剤師免許が得られた。大正時代に薬学科は千葉医科大学附属薬学専門部と改称した。 
ちなみに、千葉は薬学部としての独立が早かった。東大は京都帝大ができるまで日本で唯一、学士を輩出する大学の薬学科であったが、薬学部として医学部から独立したのは昭和33年である。しかし千葉は戦後新制大学となったと同時に薬学部として独立している。
医学部の前の道
北は崖である。
ここで再び、初めて亥鼻に来たときのことを思い出した。
1980年、修士課程の2年目、生物活性研究所にきたとき、やはり左側が崖だった。秋の夕方だった気がする。それまでうまくいかなかったペニシリン、セファロスポリンの生合成に関する研究をやめ、アフラトキシン類の生合成研究に切り替えようとしていた。
亥鼻台の地形
生物活性研究所は戦後すぐの1946年 9月、千葉医科大学に付設された腐敗研究所が前身であった。いまは改組され真菌医学研究センターとなっている。場所はどこだったか分からない。もちろん地形図を見ても分からない。

地形図では県庁の横で渡った都川が北を流れている。亥鼻の崖は川が作ったというより太古は海が入っていて波が斜面を洗って削ったのだろう。
17:14
医学部正面
威圧感があり、入りたい気も起きず素通り。
17:14
医学部の向こうに附属病院が見えた。
空も広いが、敷地も広い。
17:16
外来診療棟ロビー
 2014年夏に竣工。
ドラマでよく見ている。調べたらドクターX(大門未知子)、ブラックペアンなど数多くのロケに使われている。
17:17
二階に上がってみた。
この時間だと診療時間でないから人は少ない。
17:26
旧正門
薬学部、医学部、病院、みな東のほうに新築して正門も東に移ったが、歩きの人はこちらのほうが使いやすい。
17:30
旧東金街道を下る。
昔の道は尾根を通った。千葉氏がいたころからこの道はあったか。

17:32
亥鼻台の東、北、西を流れてきた都川まで降りて亥鼻城をみる。
近世の城であれば、このあたり家臣などの住んだ武家町であろうが、あれは城ではなく郷土博物館だから、ここに城下町の雰囲気はない。
17:43
県庁前に向かうモノレール。
亥鼻に行くとき通った地点に戻って来た。

歩いてくる途中、かつての千葉町の中心に、通りの名前にもなっている官民共同複合ビル「きぼーる」があった。中央区役所、千葉市科学館、子育て支援館、保健福祉センターなどが入居する。その前に「公立千葉病院の跡」という碑があった。

明治7年創立の共立病院は、
明治9年にこの地で公立千葉病院と改称し、医学教場を付設した。
それが明治15年に県立千葉医学校と附属病院、明治21年に第一高等中学医学部となり、
明治23年9月、亥鼻台に移転したと、記されていた。
すなわち、県立千葉医学校は、多くの人が信じているように亥鼻城址の一角にあったのではなかった。

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薬学むかしむかしバックナンバー

2025年7月15日火曜日

千葉駅と千葉氏、亥鼻城

7月2日、薬物乱用防止講演で千葉市に来た。

千葉というのは長野から上京して50年、あまり縁がなかった。

学生時代でも就職しても、仕事でも遊びでもあまり来る機会がない。

九十九里に海水浴で2回行ったくらいか。

2025₋07₋02 12:26 
千葉駅改札内
現在の駅舎は2016年に完成した4代目。
中央改札口は3階にあり、線路は2階にある。

先日(2025年4月20日)ダンス競技会で千葉公園の体育館(YohaSアリーナ)に来たが、朝は急いでモノレールに乗り換え、帰りは西千葉駅まで歩いたため、この駅はじっくり見なかった。

エキナカはどこも似たようなものなので、改札から外に出てみる。
12:29
北東方面
先日のったモノレールの線路が見えた。2路線あって1号線は県庁前に、2号線は千葉公園を経て千城台に行く。構造をよく見れば、吊り下げ式ということが分かる。

下は佐倉方面のJR線路。
ちなみに総武本線というのは千葉が終点ではない。東京駅を起点とし佐倉(ここで成田線が分かれる)を経て銚子が終点である。

千葉駅はYの字を東(南東)に向けて横にした中心に位置し、西の東京から来て左(北東)に行けば銚子方面、右(南東)に行けば安房鴨川に行く外房線、内房線である。
12:31 南東方面
反対方向に出るとそごうが見えた。
そごうは各店舗が地域子会社であったが、2000年に22法人が経営破綻し半数以上の店舗が閉鎖。大宮、川口、柏など計13社は再生計画認可となり、営業を続けたが柏は2016年、川口は2021年に閉店した。
この千葉そごうは健在なのだろうか。

そごうの手前、地上4階に横たわっているのはモノレール駅である。
右(南)に行くと市役所前駅を経て、終着の千葉みなとでJR京葉線につながる。
その下に見える線路は京成線で右に行くと津田沼、上野方面。
外房線は足の下を向こうに伸びているから見えない。
12:31 東京方面
とくに何も見えない。

千葉市の東京への通勤通学率はどのくらいだろう?
総務省の統計では神奈川34.6%、さいたま市28.3%、横浜23.1%、千葉市21.5%とされる。
わりと低く、そごうなどもやっていけるのかもしれない。
地理的条件は和歌山と似ているが、紀伊半島とくらべ成田、銚子、木更津などをもつ千葉市のほうが商圏は大きく、駅前のにぎやかさに現れている。

用事が終わって千葉駅に戻って来た。
16:15 千葉駅正面玄関
千葉駅は東京方面から列車が来て、北東(佐倉、銚子方面)と南東(蘇我、安房鴨川方面)の二股に分かれることは書いた。
駅前広場はそのYの字型の股の部分にある。
前回来たときは1963年完成の3代目駅舎で、この二股部分の1階に改札があり、そこから2階の線路に上がった。
16:16
右は外房線、京成線の線路の高架。駅前広場から見る線路は2階だが、地形は東京方面が高くなっているため、駅の西側は線路が地上と同じレベルになる。
外房線は房総半島を横断し、大網を経て安房鴨川へ行く。途中蘇我で内房線が分かれ、こちらは東京湾に沿って南下、木更津、館山などをへて安房鴨川で外房線と出会う。

この高架に沿って南東に千葉の町を歩いた。
一駅分歩いて京成線の次の駅の前に出た。
16:28
京成線 千葉中央駅
駅名通りこのあたりが千葉市の中心だろうか。
以前は京成千葉駅といったらしいが、1987年4月1日に 国鉄分割民営化に際して、国鉄千葉駅前駅を京成千葉駅と改称するのに伴い、こちらを千葉中央駅に改称した。そして2002年、ホテルや映画館も入る高層ビルとなった。

千葉というのはどういう町だろう?
千葉は平安時代の坂東武士、すなわち先日書いた豊島氏の祖・秩父氏などとともに坂東八平氏の一つといわれる千葉氏にちなむと思う人もいるが、そうではない。千葉氏は桓武平氏の平忠常の曾孫である常兼が、下総国千葉荘に住んで千葉氏を称したわけだから、それ以前から地名としてあった。

千葉氏は鎌倉時代こそ歴代当主が下総国守護をつとめたが、室町時代になると本拠地を現在の千葉市から佐倉、酒々井の一帯に移し、衰退の一途をたどる。千葉氏がいなくなった後の千葉の町は寒村となっていたが、江戸時代になって千葉佐倉街道や東金御成街道が整備されると宿場町となった。
佐倉街道は千住宿から船橋・大和田・臼井などを経て佐倉に至る道筋で、成田参詣の道としてにぎわった。(いまバイト先のシェアガーデン北千住は佐倉道沿いにある)。
ただし千住を経由すると遠回りとなるため、日本橋から行徳へ水路をとる道筋が一般に用いられた。

1746年以後の後期堀田氏時代には11万石のうち7万石が下総にあり、このあたりを含む千葉郡31か村が佐倉藩領であった。佐倉藩は陸上・海上交通の要衝である千葉に役所を設け、また文政8年(1825年)には海防のために猪鼻山に陣屋が置かれた。
長岡藩が新潟を、長州藩が下関、三田尻を管理したように、佐倉藩は千葉を藩の外港とした。

私のような一般人は港としての千葉はぴんと来ないが、千葉港は国が指定する18の重要港湾の一つで、国際戦略港湾(東京、横浜、川崎、大阪、神戸)につぐ国際拠点港湾(室蘭、仙台、清水、名古屋、博多など15港)の一つである。JR千葉駅からモノレールで2駅である。

さて、歩いているところは政令指定都市の真ん中で港や海など全く感じさせない。
京成も外房線も千葉駅をでると東に向かっているイメージがあるが、千葉中央駅のあたりはほぼ南に向かっているから方向感覚が狂う。千葉中央駅の前の大通り(きぼーる通り)はほぼ東に向かっている。
16:29
モノレールの線路があった。
左が千葉駅方面、膨らんでいるのは葭川公園駅があるからだ。
モノレールに沿うように右折、南に向かう。
16:34
都川に沿う千葉県庁(の裏?)

頭に地図を浮かべると、千葉県というのは鉄道をもとにすると
1.総武線で千葉までの間の市川、船橋、津田沼など
2.松戸から常磐線沿いの柏、安孫子など
3.千葉から佐倉、成田、香取、銚子
4.千葉から茂原を経て大網、勝浦、九十九里など
5.東京湾沿いの蘇我、木更津、館山と分けられる。
このうち、1,2はまだしも、3,4,5は本当に土地勘がない。

これら5つの地域をまとめるなら、この千葉というのは適地かもしれない。
16:37
千葉県庁の東側に回り込む。
千葉県立羽衣公園になっていて、初の民選県知事の立像があった。

東に進むと県立中央図書館、千葉県文化会館などのある亥鼻公園の丘にぶつかる。
一角に寺院があった。
16:42
胤重寺(いんじゅうじ)
変わった寺名だが、1558年、千葉常胤の孫、武石三郎胤重の子孫である雲厳上人が祖先・胤重の菩提のため建立したという。

先ほど書いた千葉氏についてさらに書けば、千葉常胤(つねたね)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての千葉氏第3代当主。頼朝挙兵に際しすぐに参陣し、千葉氏を地方豪族から鎌倉御家人の地位まで登らしめた千葉氏中興の祖といわれる。その三男が下総国千葉郡武石郷(千葉市花見川区付近)を領したことで武石三郎胤盛と称し、その子がこの寺の名前にもなった武石三郎胤重であるが、武石氏はすぐに陸奥国亘理郡に移ったとされるから、千葉宗家でもないのに、ここに菩提の寺がある理由は不明。

寺の西の坂の上に城が見えた。
千葉氏はこの丘を本拠としたとされる。
すなわち千葉常胤の父である千葉常重が平安時代の1126年、上総国大椎城(千葉市緑区大椎町)からここに拠点を移し、1455年、千葉胤直が下総原氏(千葉氏の庶流)に追われるまで、千葉氏13代、約330年に渡り両総に覇を唱えた千葉氏の拠点であった。
しかし、中世の館であり、こんな江戸時代風のお城があったわけではない。
1967年(昭和42年)模擬天守として作られた。
16:45
亥鼻城
というより、城の形をした千葉市立郷土博物館である。

1987年3月31日、近くの千葉大医学部で日本薬理学会が開かれた。それまで薬物代謝という有機化学の分野から、生理学、薬理学という生物学に転向しようとしている時期だったため、発表される演題はこちらに知識がなくさっぱり理解できなかったことを覚えている。
学会が終わって京成の駅まで歩こうと、途中ここに立ち寄ると、花見を盛り上げるためか頭上に提灯が張り巡らされていた。

その1987年にはなかった騎乗武士の像があった。
「飛躍 大空に鏑矢を放つ」
2001年、千葉市制80周年・政令指定都市移行10周年を記念し建立したらしい。
武将像だが千葉氏とも関係なく歴史上のモデルもない。税金を使ってわざわざ建てるほどのものでもない。というより設置することで本来の史跡の雰囲気に合わないと思う人もいるだろう。
本来何もしないのが無難であり、公務員というのはそういうものだと思っていたが、ひょんなことで予算がついてしまうと、一切逆らわず執行するというのもお役所である。

ちなみに亥鼻というのは台地の先端がイノシシの鼻に似ているという説と、上総台地が亥の方角(北北西)にせり出しているからという説がある。北西でなく北北西というのは細かい。
国土地理院 千葉市中央部
JR千葉駅(左上)は北西からの丘陵が尽きたところにあり、駅前広場が1階、線路が2階というのがよく分かる。
千葉市の中心はこの台地と、亥鼻台地に挟まれた低地で、埋め立て前は海がすぐそばだったこともよく分かる。


2025年7月8日火曜日

豊島園の跡と練馬城の丘

 6月22日、西武池袋線大泉学園駅から南の牧野富太郎記念館を見たあと、そのまま歩いて石神井公園に来て石神井城址を見た。(前のブログ)

この城は豊島氏の居城の一つだったが、1477年太田道灌に攻められ落城、廃城となった。
当時、豊島氏は練馬城、平塚城(北区上中里)も持っていた。
その練馬城に行ってみる。

石神井城址の西武線・石神井公園駅から池袋行きの各駅停車で練馬高野台、富士見台、中村橋、と3駅挟んで練馬駅についた。8分、4.6kmというのは、二つの城の距離のヒントになる。

練馬城のある豊島園駅は練馬駅で乗り換え一駅。
電車の本数が少なく、若いころだったら歩いてしまっただろうが、ベンチに座ってぼんやり待った。
ようやく、池袋から豊島園行き電車が到着。
2025₋06₋22 12:09
電車がハリーポッターである。
中は若者ばかり。
そうか、豊島園廃園のあと、ハリーポッターのテーマパークができたのだった。
12:14
豊島園駅到着
ロンドンの町を模したのか、赤い電話ボックスまで置いてある。
覗いたら「この電話は使えません」と書いてあった。
(ロンドンではなくてホグズミート駅らしい)

駅から出ると人々はみなまっすぐ歩いていく。
12:15
駅前広場か公園入口か

広場の案内地図をみれば一帯は練馬城址公園というらしい。
しかし奇妙である。
駅名には残っている「豊島園」の文字はいっさいない。
代わりに以前は誰も気づかなかった「練馬城址」の文字。
南東(現在地)と北西の隅のだけが小さく赤色、それが赤い糸で結ばれている。
北のほうに「スタジオツアー東京」。
それを含め「練馬城址公園」は真っ白である。
12:17
フェンスが張り巡らされ、地図の赤色部分以外は立入禁止になっている。
豊島園の跡地は入れない。

申し訳程度に小さく、豊島園の記念展示があった。
12:18
ジェットコースター「サイクロン」のレールの一部。
横に「この土地の歴史と思い出」というパネル。

「この土地の歴史」は室町時代から始まる。
「この場所には、中世に石神井川沿いに勢力を広げた豊島氏が石神井城の支城として築いた練馬城がありました。練馬城は1477年に扇ガ谷上杉氏の重臣太田道灌に攻められ落城しました。」

その後は雑木林か畑か、何の歴史もなかったのか、次は中世から一気に500年近く飛んで大正時代。 樺太工業(のちの王子製紙)専務であった藤田好三郎が1916年(大正6年) 自身の静養地として、石神井川南側の高台12,000坪を入手。さらに北側などを買い足したが、個人で独占するのはやめて景勝地として一般開放することにした。1926年「練馬城址 豊島園」として部分開園している。

ところで、藤田好三郎は名前だけよく知っている。
家の近所に東京都指定名勝・安田楠雄邸がある。千駄木駅への途中にあり、13年前から見続け、いま週に3日は立派な門前を過ぎるが一度も入ったことがない。この家こそ藤田が1919~1920年に本邸(自宅)として建てたもの。しかし関東大震災(1923)のあと藤田は中野に転居し、同年日本橋小網町の自宅を焼失した安田善四郎(安田財閥創業者・善次郎の女婿)が、藤田邸を“居抜き”で購入し、その後は安田家の邸宅として受け継がれた。

さて、豊島園は1931年 競売にかけられ、この後、経営者が転々とする。
1941年武蔵野鉄道(のちの西武)のものとなる。戦後は回転木馬やサイクロンなどが設置され、人気を博した。

豊島園は一度だけ来た。
就職して2年目の1982年10月3日、会社の運動会だったが、グラウンドだけ借りて遊園地で遊んだわけではないので、何の記憶もない。(その前年の運動会は井の頭公園の近くの日産グラウンドだったが、埼玉戸田事業所の自社グラウンドをなぜ使わなかったか不明)
12:20
石神井川を渡る

しかし豊島園は2020年閉園した。
向ケ丘遊園、横浜ドリームランドとおなじく経営不振だった。(2019,2020は黒字だったものの2018年は赤字で、薄利が続き、遊具の老朽化も顕著であった)
さらに大きな理由があった。
以前から東京都の防災避難公園化の都市計画があり、2011年の東日本大震災で具体化、西武に対して土地買収の交渉を始めた。2019年にワーナー・ブラザースが交渉に加わり、ハリー・ポッターのテーマパーク建設案も浮上し、西武は東京都からの土地買収および閉園要請の回答期限が2020年度であったことなどから、同年8月末で閉園した。
最初に見た真っ白で何もない「練馬城址公園」の地図の意味はこれだった。

石神井川の橋を渡るとハリポタテーマパーク。中国人観光客も多い。
12:21
Warner Bros Studio Tour Tokyo
The Making of Harry Potter
なるほど、テーマパークのことをスタジオ・ツアーというのか。
The Makingは製作過程という意味か。

子どもたちが小さいころ、英語の勉強をさせるために学会出張のたびにビデオや本を買ってきた。ハリーポッターもよく買ったが、私は見なかった。長女はよく見ていたが下の二人はどうだったか記憶にない。

ところで、ここに来た目的の練馬城に行きたい。
石神井川の南の丘にあるはずだが、渡る橋がない。というか、橋はいくつもあるが、すべてフェンスでふさがっていて、どこまで行っても川を渡れない。
12:23
延々と続く石神井川沿いの道
右は倉庫のように大きいハリポタスタジオの壁。
この道は例の地図の赤い線(現在入場できる公園部分)に当たる。

結局諦めて入口まで戻り、いったん公園から出て外から練馬城への入口を探すことにした。
12:40
南側の住宅地にまわっても豊島園側はフェンスが延々と続く。
閉園して5年、東京都はいつまでこの状態を続けるのだろう。何かを作るわけではないのだから、遊園地のアトラクションの危険なものだけ撤去すれば、立入禁止のフェンスはもっと小さくて済むのではないか?

12:46
とうとう南西の隅まで来てしまった。
フェンスに切れ目はなかった。

石神井城のとき少し触れた豊島氏のことを書いておこう。
室町時代の15世紀、1455年、第5代鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、室町幕府と結んだ山内上杉家・扇谷上杉家が、足利成氏と争い、戦乱は関東一円に拡大。足利成氏は下総古河に移り古河公方と称された。
ほぼ利根川を境に東は古河公方、西は上杉方が支配し、乱は28年も続いた。

上杉方は扇谷上杉家家宰の太田道真・道灌父子に岩槻城、河越城、江戸城を築かせた。江戸城は豊島氏の本拠の石神井城に近く、その後、豊島氏と太田氏が対立するようになっていく。
さらに1476年上杉家有力家臣の長尾景春が関東管領家の執事(家宰)になれなかった不満のため、上杉家に反旗を翻し鉢形城にて挙兵した。豊島氏は景春に加担して上杉家と対立した。
1477年4月13日、上杉方の太田道灌が江戸城を出発し、練馬城に矢を撃ち込むとともに周辺に放火した。これをみた練馬城主の豊島泰明は、石神井城にいる兄の豊島泰経に連絡を取り全軍で出撃。道灌もこれを引き返して迎え撃ったため、両者は江古田原・沼袋原でぶつかった。戦いの結果、豊島方は泰明ほか数十名が討ち死にし、生き残った泰経と兵は石神井城へと敗走した。
しかし4月21日には石神井城も落城、豊島泰経は王子の平塚城を経て足立方面に逃亡、武蔵東部の名族豊島氏は滅んだ。
12:53
坂を下り石神井川をわたり旧豊島園の北西まできた。
ここが「練馬城址公園」の唯一公開部分である。
皮肉にも城ではなかったところが公開されている。
むこうにハリポタスタジオがみえた。
疲れたけれど、現状はどうやっても練馬城址に行けないということだけは分かった。

石神井川に沿って練馬駅まで歩いたほうが近いけれど、地形を見るため来た道を戻った。
13:03
左(北)が豊島園址。
道の先に谷が見える。
このあたりは右(南)から川が石神井川に流れ込み、いくつかの浸食谷があったようだ。
練馬城はそれらを東西の濠とし、北の石神井川と合わせて3方の守りとした。

13:05
練馬城の南側は平たん、現在は大きな住宅が並ぶ。
当時はこちらに大手門が開いていたのだろう。

さらに東に戻ると、再び谷になった。
坂はどんぶり坂という。
13:06
左:区立向山庭園、右:どんぶり坂。
先ほどの谷と合わせ、練馬城の堀としたのだろう。
区立庭園には池もあり、豊島園址に入れない現在、これが唯一練馬城を思わせる景色かもしれない。


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2025年7月2日水曜日

石神井城址は山城のよう。豊島氏と豊島郡

2000城余りある城の一覧表を作ったことは書いた。
「日本100名城」には42城に、「続100名城」には12城に行った。天守現存12城に関しても8城をみてきた。
しかし、2000余城を分母にすればまだ90城くらいしか行っておらず、5%にも満たない。
少しでも率を上げるべく、一番近い石神井城と練馬城を訪ねることにした。

6月22日、西武池袋線大泉学園駅から南の牧野富太郎記念館を見たあと、そのまま歩いて石神井公園に来た。

2025₋06₋22 11:03
公園には着いたけれど、よくあるように入口がなかなか見つからない。
北西の隅から東に芝生広場などを見ながら西縁を南下すると西にも森が出てきた。
芝生広場などは区立、森や池などは都立の石神井公園のようだ。

ようやく入れるとすぐ下に池が見える。
11:05
三宝寺池
この池の南に石神井城の鎮守として豊島氏が大宮の氷川神社から勧請し石神井氷川神社、さらにその南にこの池の名にもなった三宝寺がある。1394年、豊島氏の祈願寺として、石神井城とともに創建されたとされる。

三宝寺には家光が鷹狩りで立ち寄ったことにちなむ御成門、また赤坂・勝海舟邸から練馬兎月園をへて移築された長屋門などもあるらしい。それらは帰宅後に知った。
ぼんやり、ゆっくり何度も散策するなら別だが、パッと行ってパッと帰ってくる私の訪問では、ちゃんと調べていくべきであった。北側の練馬区立石神井松の風文化公園(日銀の運動場跡地) にあるふるさと文化館も練馬の歴史を展示しているというし。
11:07
園内は都心の公園と違い自然が良く残されている。
井の頭公園と同じくらい知名度はあるが、訪問する人はあちらが圧倒的に多いのではないか?井の頭はアクセスがよく若者に人気の吉祥寺と隣接するのに対し、こちらはやはり近隣の人がゆったり訪れている感じがした。
私も井の頭は何度か行ったが、こちらはずっと気になっていたまま今回初めてだった。
11:08
水がこんこんと湧き出ている。
神田川の井の頭池、善福寺川の善福寺池、妙正寺川の妙正寺池のように、石神井川の水源かと思ったが、よく考えると南のほうにすでに石神井川は流れている。この川は小平の小金井カントリー倶楽部敷地内の湧水を水源とし、練馬区、板橋区を流れ北区王子駅をくぐって隅田川に入る。

それにしても、忍野八海とはいかずとも見事な湧き水だと思ったが、調べたら湧いているのではなかった。三宝寺池は井の頭池や善福寺池とならぶ武蔵野台地の3大湧水池として知られ、かつては石神井川の主水源であった。しかし湧水が減少したため、1971年に190mの深井戸が掘られ、いまは地下水をポンプで揚水しているらしい。
11:09
23区内の公園とは思えない。

11:10
城は南の石神井川と北の三宝寺池の間の高台に築かれたはずだから、城址は池の南である。
しかし、池が大きくなかなか南に渡れない。

11:11
ようやく橋があって渡れた。
11:12
石神井城址の記念碑

この城は豊島氏の居城の一つだったが、1477年太田道灌に攻められ落城、廃城となった。

豊島氏というのは、桓武平氏良文流の秩父氏から分かれた。すなわち、三浦、千葉、大庭、梶原、長尾などに並ぶ坂東八平氏のひとつ、秩父氏を祖とする。秩父氏は畠山、河越、豊島、江戸、葛西、稲毛などの諸氏に分かれた。
武家というのはすべて地方の開墾地主が始まりである。諸氏の領地を見ると、斜面が多い秩父から、湿地帯の多かった関東平野に進出していくのがわかる。稲作は雨季と乾季を人工的に作らねばならないから、はじめは給水排水が容易な山裾で発達し、のち大規模土木工事が可能になってから湿地帯を含む平地で新田が開発されていった。

豊島氏は前九年の役(1050)のころ秩父氏から分かれたようである。
北区豊島という武蔵野台地が東に尽きたところが発祥の地とされ、上中里の平塚神社あたりに館があったらしい。

鎌倉時代は幕府の御家人として家は続き、南北朝時代(1349)に石神井郷一帯の支配をはじめ、石神井城を築き、本拠を移したのは14世紀終わりとされる。
室町時代になって古河公方の足利成氏と鎌倉の関東管領上杉家が対立したとき、扇ガ谷上杉家の家宰だった太田道灌が岩槻城、河越城、江戸城を築き、平塚、練馬、石神井を根拠地とする豊島氏と対立するようになる。1476年長尾景春の乱で豊島氏が長尾方についたことから道灌が攻め、1477年、両者は江古田原・沼袋の合戦でぶつかり、豊島氏は滅んだ。

1477年というのは応仁の乱が終わった年で戦国時代の始まりと言われる年である。
東京都というのは太田道灌が大好きで、あちこちに銅像やら山吹やらの歌碑がある。
しかし太田道灌は江戸の発展にまったく貢献しなかった。これが他の都市だったら文句なしに徳川家康か慶喜を顕彰するであろう。
おそらく明治政府が徳川を嫌ったのであろう。家康が立つべき江戸城前の広場に楠木正成というのは明らかに尊王攘夷・維新政府の意向である。

太田道灌に滅ぼされた豊島氏は、しかし太田道灌と違って名を残した。
北区豊島、豊島園、豊島区などである。
(一方道灌はどうか。もちろん大田区は道灌と関係ない。日暮里の道灌山だって怪しい)

かつて豊島はもっと大きな地名だった。
墨田川から西つまり東京23区都心部の大部分は豊島郡だった。湯島や麻布、赤坂、芝も、日本橋のあたりも豊島郡だった。
明治11年の郡区町村法により、豊島郡の南東部は東京の中心として東京15区となり、残った周辺は南北二つの郡となった。明治22年15区が東京市になったとき、南豊島郡は、内藤新宿町、淀橋町、渋谷村、千駄ヶ谷村など2町6村。北豊島郡は巣鴨町、高田町、日暮里村から石神井村、下練馬村など4町15村。
(江戸周辺の郡は川で分けられ短冊のように長い。明治になって郡が南北に分かれるとき足立、葛飾は東京府の部分を南、埼玉部分を北にしたが、豊島郡の分け方はよく分からない。)

ちなみに南豊島郡のほうは明治29年(1896)すぐ西の東多摩郡(いまの中野、杉並)と合併し豊多摩郡となり、消滅した。北豊島郡のほうは昭和7年の東京市拡大で荒川、滝野川、王子、豊島、板橋(練馬含む)の区となるまで存続した。日暮里、中里など千駄木のすぐそばでも戦前の住所を見ると北豊島郡がよく出てくる。

さて、石神井城に戻る。
石神井城は南の石神井川と北の三法寺池(かつては川?)の間の台地に築かれた。南北の水系は東で合流するから東に向かった舌状台地である。普通は3方向が崖となる先端部に築城するが、中央部で東西を空堀でくぎって、築城してある。東は偵察用などの出丸とすればいいだろうし、北の三法寺池の広いところが防御の点で良いと思ったのであろう。

11:15
内郭西側の空堀址。
左(東)側が内郭跡で、フェンスによって立入禁止、保護されている。
東京23区の城址とは思えない景色である。練馬の田舎さというか偉大さというか。

再び三宝寺池に降り、北岸を東に歩くと道路(都道444号、井草通り)にぶつかり、道路を越えても公園は広がっていた。池もあり、こちらは石神井池と言い、水生植物が生い茂る三宝寺池と違って開放的でボートも浮かんでいる。野外ステージもある。(あとで地図を見たら墓地まであった)。

このあたりは、もともとは三宝寺池から石神井川に入る三宝寺川と水田だったが、地元の資産家であった豊田銀右衛門が、大正5年(1916)に川の北と南に「第一豊田園」「第二豊田園」を造成した。折しも西武池袋線の前身・武蔵野鉄道の池袋―飯能間が開通した翌年である。
1934年には川をせき止め石神井池が作られ、公園の体裁が整った。 
その後、第一豊田園は宅地化され、第二豊田園の方は都が土地を取得し、昭和53年(1978)に「記念庭園」と名をあらため、都立石神井公園の一部となった。

石神井池の北は高級住宅地である。
11:30
石神井公園駅に向かう道から石神井池を振り返る。
周りは大きな家が並ぶ。
もう引っ越すことはないのに、つい、ここに住んで朝散歩することなど想像してしまう。