2017年5月28日日曜日

谷中墓地2 佐藤泰然の墓さがし、代々の善甫、良甫



5月27日、笹の雪のあと、谷中墓地の佐藤尚中の墓に行ったので、その足で養父、佐藤泰然の墓に行く。つい最近行ったばかりだが、写真を撮らなかったので、また行くのだ。

かつて泰然の墓は芋坂と御隠殿坂のあいだ、線路脇の崖の上にあった。

私がここらを歩き始めたのは、15年くらい前だろうか。
就職以来、職住とも埼玉にどっぷりつかり、谷中、千駄木と縁がなくなっていたが、ダンスで日暮里サニーホール(ホテル・ラングウッド)へはしばしば来ていた。駅の反対側にある墓地もたまに訪ねた。
20年以上経ち学生時代とは違って歴史が好きになっていた。
あるとき、線路際の崖上を歩いていたとき、更地に小さな案内板が刺さっていた。
佐藤泰然の墓が移動した旨と、新しい番地も書いてあったが、メモらなかった。
数年後、千駄木へ転居した2013年に来たら、スカイツリーが見えたが、板はなくなっていた。

つい最近、日暮里駅北口から階段を上がってすぐのところに標柱を見つけた。
順天堂始祖佐藤泰然先生墓所入口とある。
ああ、ここに移ってきたのね、と中に進むと立派な一角がありました。


入り口に佐藤泰然墓という新しい標柱と
その奥、つまり墓域の右手前に「佐藤家」という新しい墓石がある。
平成7年建立、御子孫が入っておられるようだ。

佐藤家墓所の一番奥の正面に石柱が立つ。フェンスの向こうはセブンイレブン。

柱は古く、台のコンクリートが新しい。いかにも移転したという感じ。
佐藤信圭/室 瀧子 之墓 とある。

泰然は通称、信圭(のぶかど)が名前である。
1804年 - 明治5(1872)年4月10日没

泰然の墓の手前、右側にも石柱がある。
彫が崩れて読みにくいが
 前侍醫法眼松本戴 墓
 同 夫人三浦禄子
とある。

後ろに回ると
戴 明治10年2月6日卒
禄 同 14年11月6日卒
とあった。
    


すなわち松本良甫(1806-1877)である。
幕府御典医・蘭方医師。名、載。字、成伯。

親しかった泰然の実子順之助を養子にとった。のちの良順である。
一方、泰然は山口甫僊の次男を養子にとった(佐藤尚中)。

正面に向かって左、つまり良甫の向かいに墓とは思えぬ石碑がある。
見ると6人の名が記されていて、最初は
 圓桂院殿善甫法眼源興正 元禄八年四月六日卒
とあり、他もすべて善甫法眼、源姓である。(宇田源氏)
最後の人だけ善を良にかえて、
 覚性院殿良甫源善賢 文政九年八月三十日
すなわち、いわゆる我々が知る松本良甫の父である。
彼だけ法眼でないのは、最後の善甫が奥医師を改易され、初代良甫は町医者となったからである。


その手前に立つ松本銈は、松本良順の長男、佐藤泰然の孫。

ベルリン大学でホフマンに近代化学を学び、明治8年(1875)日本人で初めてドイツ化学界に論文を発表。留学7年にして病気となり帰国、すぐに没する。29歳だった。(1850-1879)

養父、実父と子、(さらには松本家6代の先祖)の墓がありながら、良順本人の墓だけがないところが面白い。
しかしこうしてみると、ここは松本家の墓だったような気がする。
平成7年に泰然が来て正面中央を明け渡したようにも見えるが。

佐藤家の墓地の裏、つまり御殿坂のすぐ上はまだ空き地が少しある。
東京都は無縁墓を整理しても新たに分譲せず、公園として整備するらしいと聞いたが、なかなか進まないだろう。
あきらめたのか、今年も都は分譲するらしいが、こういうところは残してほしいものだ。

千駄木菜園 総目次

御隠殿坂、芋坂、正緑荘

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5月27日、笹乃雪を出て、御隠殿坂に行った。
京浜東北線は上野台地の東ふちに沿って北上、電車からずっと崖がみえる。
私の散歩コースといえる一番南の御隠殿坂から、順に北へ、一番近い西日暮里駅の「間の坂」まで、6つの坂をブログに残す。

1 御隠殿坂

根岸から京成線をくぐり、跨線橋の階段を上る。
自転車の車輪用にスロープがあるが、非常に急で、かつ長く、以前自転車を押して上がろうとして途中で力尽き、諦めて戻ったことがある。普通の人は自転車を降ろすときに使えるくらいだろう。

 電車が良く見える。

橋を渡り終わって谷中墓地に入る。振り向いて坂の上から。
右が跨線橋へ。
左が昔の坂道。

輪王寺宮が歩いたころ、勾配はどのくらいだったのだろう。
明治時代は、線路が斜面を削って敷かれ、坂を下りると踏切になっていた。相当急な坂だったのではないか? おそらく階段であっただろう。

徳川慶喜の墓や、ウエムラショウゾウはこの坂から行くと近い。

2.芋坂

御隠殿坂のすぐ北、これも谷中墓地から線路に降りる坂である。
坂の下には羽二重団子の店があった。
鴎外が団子を買いに馬で降りたとか。子規、漱石、田山花袋の文章にも出てくる坂である。
谷中墓地から跨線橋を渡らずに左に降りていく。
右側、線路との間に小さな児童公園がある。芋坂はZ字状だったのだろうか?


国会図書館デジタルコレクション
江戸切絵図を見ると北側にカーブしているので、今の芋坂は昔と同じ道筋かもしれない。

児童公園に降りても行き止まり。
坂の途中から安立院、天王寺のほうへ上がっていく階段がある。

つい1,2年前まで、坂の左側の崖は、レンガ塀のかけらや石が埋め込まれていた。(下の写真) レンガ塀は震災で出たものという話がある。
一帯は人けがなく、東京とは思えない不思議な風景だったが、今その崖は、すっかり新しくなってしまった。
2013-06-09撮影

半分だけ残った石段を上がって振り向いて写す。
(写真の階段はアパートに入るもので、上がってきた石段は手前にあり、映っていない)

上がった場所には赤い六角堂?があった。
説明も何もなく、これも不思議な景色だった。
(上の2013年の写真には小さく屋根だけ映っている)
今、その場所には保育園が建っている。

保育園の北には大きな老人ホーム「たのしい家 台東谷中」ができていて、あまりの変わり様にびっくりした。
かつてここには正緑荘というアパートがあった。
谷中墓地、寺と線路(崖)に四方を囲まれ、車も入ってこれず、開発の波に取り残されて、いや、暴力的開発の嵐から守られて、ここだけ時間が止まっているように思えた。

昭和50年に東京に出てきたときは、まだこういうアパートがあちこちにあって、切ないくらい懐かしかった。
今ネットを見ると二階建て二棟、80室以上あったという。昭和12年建築当時は高級アパートだったらしい。小松崎茂が住んでいたというが、彼の名前も懐かしい。

以下、2013-6-9撮影したもの
A棟入口

2013年の時点でも空室が多い。

友人の部屋を思い出す。私も古いアパートだったが、これほど大きくなかった。



こちらは裏にあったB棟
すべて消えてしまった・・・・

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笹乃雪と公弁法親王、御隠殿あと

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谷中墓地から根岸に降りる坂は北から、御殿坂(日暮里駅北口)、もみじ坂(日暮里駅南口へ)、芋坂(羽二重団子)、御隠殿坂 となる。線路ができて、いずれも跨線橋によって電車は良く見えるが、坂は中断されてしまった。

御隠殿坂の下に寛永寺の住職・輪王寺宮親王の別邸があった。
江戸時代、日光輪王寺の管主は代々親王か天皇の養子が就き、上野寛永寺の管主も兼ね、これを輪王寺宮と称した。輪王寺宮は1年のうち9か月は上野に常駐しており、上野山の坂下にあった屋敷が御隠殿である。敷地3500坪あったが、彰義隊の上野戦争で完全に焼失、いまは跡形もない。
国会図書館デジタルコレクション・尾張や版江戸切絵図

御隠殿は東叡山とつながって、その一部のように書いてある。その上の三嶋大明神は今も鶯谷駅の近くにある。御隠殿のまえの善光寺はもちろん善性寺の間違い。その前の植木屋の角が羽二重団子、「芋坂ト云」の文字が見える。

この根岸に豆腐料理の笹乃雪がある。
元禄四年(1691)、公弁法親王(1669-1716、後西天皇の第6皇子)が輪王寺宮となり関東に下向したとき、京都からお供して来たという。創業326年。
法親王はその豆腐を「笹の葉につもりし雪のごとき」と褒め、それが屋号になったという。

この店は学生時代から知っており、前の通りも何回か通ったことがあるが、60過ぎまで一度も入ったことがなかった。
そこで今日入ってみた。
ちょうど法事の団体客が入っていった。
老舗らしい店構え。
ランチは2200円だが土曜なので一番安いものでも2800円。
何品めかにでた雲水という湯葉とそうめんを豆乳で煮たものに入っていた肉団子1つが唯一の動物性食品。あとはすべて豆腐。
ごま豆腐がうまかった。

なお、JR鶯谷や谷中初音の森の由来となるエピソード、京都から美声で早鳴きの鶯を3,500羽取り寄せ、根岸の里に放鳥したという輪王寺宮は、この公弁法親王である。

食事後、その輪王寺宮の別邸、御隠殿の跡に寄った。
3年前に一度来たが場所が分からず、うろうろした。

御隠殿跡は、焼けて更地になったせいか、線路や住宅地となり跡形もない。
公民館みたいなお寺(根岸薬師寺)に、記念碑がある。


なお、御隠殿が焼けた上野戦争の時の輪王寺宮、つまり最後の輪王寺宮は、公現(こうげん)入道親王(1847-1895)である。
(入道親王と法親王の違いは略)

彼は慶応4年、徳川慶喜の依頼を受けて東征大総督・有栖川宮熾仁親王を駿府城に訪ね、東征中止の嘆願を行うが、一蹴され、寛永寺へ戻った。

その後、寛永寺に立て篭もった彰義隊に擁立されて上野戦争に巻き込まれ、5月15日の敗北により寛永寺を脱出、榎本武揚率いる幕府海軍の手引きで長鯨丸へ乗り込み東北に転戦、7月、奥羽越列藩同盟の盟主に擁立された。

官軍による奥羽平定後、江戸に護送され、実家の京都、伏見宮家で蟄居、親王の位も解かれた。
しかし明治2年、処分を解かれ伏見宮に復帰、能久の諱に戻った。
その後プロシアに留学、ドイツ軍で訓練を受けたり陸軍大学校で学んだりした。留学中に北白川宮家を相続、明治25年(1892)に中将に昇進。

明治28年(1895)、日清戦争後、日本に割譲された台湾で起きた乙未戦争に征討近衛師団長として出征するも、マラリアに罹り、台湾全土平定直前に薨去。

北白川宮能久親王の像は、近衛師団のあった北の丸公園にある。

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2017年5月27日土曜日

野沢菜の花と種取り

10年以上前の貴重な野沢菜の種は、来年2300粒すべて蒔いても数株しか発芽しないことが分かった。(4月30日ブログ)

そこで奇跡的に出た今年の菜から種を取ることにした。
父親の形見だと思って。


野沢菜の種はもちろん花から取る。
唱歌「朧月夜」の舞台、奥信濃、飯山あたりの千曲川沿いに広がる菜の花は野沢菜の種を取るものである。
千駄木菜園の場合、ちゃんとした株は食べてしまったので、残っているのは細かった不良品。


そのうちに花弁が散って種(さや)ができると思っていたら、意外なことに、どんどん先端が伸び、長期にわたり、花は先の方、先の方へ咲き続けた。そして順に散った花のところに順に鞘ができ、多数の鞘が並ぶことになった。
恥ずかしながら長野の農家の長男として、初めてこの形を知った。





2017-04-23
  
 2017-5-27
久しぶりの晴天。
枯れてきた鞘が乾いていたので収穫しようと触るとはじけて種がこぼれた。
慌ててそーっと枝ごと切って袋に入れ、種を取った。


10年前の種の発芽率は百分の一以下だった。
長野の種はそれらで絶えてしまうかと思われたが、これで生きながらえた。

しかも、この種は親より優れているかもしれない。

種は自家受精であっても減数分裂、受粉しているから染色体の組み合わせが親と違う。
兄弟同士も異なる。
つまり、この種は10年前の種から発芽率の良いもの、千駄木の土にあったものが選抜されているかもしれない。(それを考えると良い株から種を取るべきだった)



2017年5月23日火曜日

第22 飛行機研究家、二宮忠八と薬学

薬学雑誌1903年度P328、1906年度P656

明治の薬学雑誌を読んでいると思いがけない人物に出会う。
第21話で紹介した「人頭黒焼き売買事件(明治35年)」の道修町での様子を書いたのは、なんと二宮忠八(1866- 1936)である。

飛行機開発の世界的パイオニアとして吉村昭の小説『虹の翼』やテレビにも取り上げられ有名になったが、明治35年、このとき彼は意外なことに日本薬学会の大阪地区通信員であった!
ウィキペディアなどでも飛行機関係ばかりで薬学との関連が書かれていない。ゆえに、その点を中心に記す。

明治20年22才で陸軍に入隊、衛生兵として勤務,演習行軍中にカラスの滑空を見る。
少年の頃から奇抜な凧を工夫して作ることが好きだった彼は,以来、毎夜薬剤師国家試験の勉強に加えて飛行機の研究を続け、明治24年,ライト兄弟に先立つこと12年,ゴム動力のプロペラ式飛行機を飛ばした。

当時の日本の科学水準を考えると奇跡のような偉業である。
さらに人が乗れる両翼2メートル,車輪もある玉虫型飛行機をつくるも個人ではこれ以上無理であった。そこで兵器としても有用なことから3回にわたって軍に上申するが、いずれも荒唐無稽と却下される。

こうなったら独力で開発しようと資金を貯めるために除隊、明治31年、設立されたばかりの大阪製薬に営業部員として入社した。本ブログでも紹介したが、会社は大日本製薬を吸収,社名変更する。
その間、彼は懸命に働く一方,難溶性であった内服用殺菌剤、結麗阿曹篤(クレオソート)の溶解性を高めたクレオゲストを発明したことで、明治36年薬学会の総会演説に選ばれた(薬誌には4頁にわたる講演要旨がある)。

小学校卒の二宮が帝大教授や博士の丹波,田原らと並んで講演したことはこれまた偉業である。さらに下剤の硫酸マグネシウムMgSO4を精製した二宮舎利塩は内国博覧会で金賞。

これをもとに大阪精薬合名会社を設立、ようやく資金も貯まり、多忙な業務の合間を縫って一人で飛行機製作を再開する。

しかし、明治41年石油発動機を載せる機体を作成中、新聞でライト兄弟の偉業を知る。
ショックと悔しさで飛行機をハンマーで叩き壊し,暫くは口も聞けなかったという。

その後、大日本製薬の支配人まで出世、大正になって二宮の飛行機研究を知った軍や国から表彰もされたが、悔しさ,寂しさは一生消えなかっただろう。

メモ
M5年  長兄,売上金を使い込む
M11 13才 小学校卒業,高橋菊五郎商店(呉服) 奉公に出る
M12 14たこ作りやめて、平井写真館の助手になる
M13 15薬種商の叔父の下で働く(2年半)。
M18 20 測量士の助手,風船ダコ
M19正月 ビラまきダコ
M20 22  陸軍衛生部入隊(看護卒)
M22 10月 もみの木峠の烏から飛行機を思いつく
調剤手となり薬剤官の助手となる
M23 25 11月丸亀衛生病院付き,陸軍三等調剤手で下宿可能
夜は薬剤師国家試験の勉強と飛行機の研究
M24 4月 世界初の模型飛行機とぶ
M25 薬剤師国家試験初挑戦,学科は合格
m26 人が乗れる両翼2メートル,プロペラ,車輪もある玉虫型飛行機をつくるも動力の問題未解決.(丸亀にも見られるようになった自転車を想定)
M27 上申書,長岡外史却下
M28
M29 31 動力源に石油発動機を思いつく 巡査の月給が9円のときに500円
大島少将 上申書却下
3回目の上申書,山口師団長却下
m30 大阪製薬設立
m31 33 大阪製薬に入社(販売部、月給15円),1ヵ月後工場の技師長の補佐役に
大日本を吸収
m32工場完成
m33 東京出張所開設、主任 月給30円)
m34 大阪薬品試験会社に移る(事務長,実質の経営責任者)
クレオソートの改良・・クレオジスト
m36 38 第5回内国勧業博覧会準備委員
大阪で薬学会総会 初めて東京以外 クレオジストの講演
m38 舎利塩(MgSO4,下剤)の改良
m39 41 二宮舎利塩,内国博覧会で金賞,大阪精薬合名会社設立
m41発動機と精米所を買う。より大きな発動機のために設計しなおし。
10月、ライト兄弟が1時間飛行に成功したと言う記事を読む。実は1903(m36)にキティホークで53mとんだ。
M43 大日本製薬,資本と経営を分離、常務制を辞め、初代支配人(最高経営責任者)に二宮
T8 白川に設計図を見せる。
T10 陸軍航空本部から表彰される
T14 逓信大臣から表彰
S12 教科書に。

第21 人体を材料とした薬

薬学雑誌1902年度(明治35年)256頁など

当時,全国各地で墓が暴かれ生首が売買された.
黒焼きが梅毒の特効薬とされたのだ.
明治35年は東京でも大阪でも人頭黒焼き売買事件があり,この様子が薬学雑誌大阪地区通信(P194)にある.

「ずいぶん素人の間にて喧伝するも道修町側には馬耳東風に付せり.しかる所以は幕政時代はともかく今は泰西薬物の需要盛んにして,かかる素人向け薬品を取引する輩はきわめて下層の薬種商に限り,これらは常に別視する仲間なり」

しかし長い間バイブルであった明の李時珍による本草綱目は,薬物を材料別に分類して全52巻,この最後の第52巻は人部として,ヒト由来の医薬品を扱っており,明治時代は漢方医も庶民も信じていたのである.
日清戦争では大陸で人胆の製造で大もうけした業者もいた.

西洋科学を信奉する日本薬学会会員は迷信とみて相手にしなかったが,忌避するあまり知識のない読者もいたのだろうか、翌3月号(P256)には4ページにわたって人体を材料とする漢方薬について本草綱目の解説が載った.

生首の黒焼きは天霊蓋という.
頭垢,歯垢,胆石,淋石,人糞,人尿,人精,陰毛,人勢(陰茎),紫河車(胎盤),紅鉛(婦人月水を乾固したもの)など37種.

その3ヵ月後の薬誌,愛媛県の地区通信(P620)は,
「・・密売し,また薬種商に販売せしこと発覚し5月30日その筋において墳墓発掘に対しては重禁固1年6ヶ月罰金10円,人頭骨を他の薬剤に混し密売したるは売薬規則違反として罰金30円に処せられたり」
しかしその後も、薬を作る目的で,福島(明治40年),三重(明治41年)で墓が暴かれた。

江戸時代は何の問題もなかったのが法律制定で一転,犯罪となり新聞沙汰になっただけで,生産者も消費者もなんの悪びれたところがない.
気味が悪いというのは現代の健康人の感覚である.効く薬がほとんどなかった頃は皆,神仏迷信に頼るしかなく,必死な者は何とか金を工面して自分のため愛する者のため,不治の病の「特効薬」を手に入れようとした.

なおP256の記事は日本薬学会常議員,ジャーナリストでもあった岸田吟香(洋画家岸田劉生の父)の述,P194の大阪地区通信を書いたのは、飛行機研究家でもあった大日本製薬の支配人、二宮忠八である.


メモ  
天靈蓋
明治35年 奇々怪々な黒焼剤にまつわる生首売買事件
「生首売買事件東京に起こらんとす」という新聞記事で,当時の社会にかなり大きな衝動を与えた怪事件があった.当時の新聞によると,「古来薬品として人体の一部を黒焼きにして,霊天蓋,人胆,天粉,天末,人油などと称して売買され,死刑に処されしものの頭蓋骨は,これらの原料として公売していたが,明治3年4月にこれらの禁令が発布され禁止されたにも拘わらず,これらの薬品は以前売買されている.日清戦争の際に彼地にてこれを製造し,あるいは人胆で巨利を得たものありと伝えられており,その余波は越中富山に及び,反魂胆本家として有名な薬店も家宅捜査を受け,それにより9個の天印を発見し,調査により東京より買い入れたことを確かめた」(東京日々新聞)とある.警視庁は調査を進めた結果,天粉,天末,人油等の死体を原料として製造した薬店が,東京市中の至る所の薬店で売買していることをつきとめた.しかし細末として販売しているため,それが人の生首から製造されたのか判明しなかった.とにかく生首が売買されたことは事実で,奇怪な事件として,当時異常な衝動を与え,当局でも厳重な取締をしたが,その需要は絶えないということであった.
(出典:http://www001.upp.so-net.ne.jp/yokai/meijiryoukishi2.htm)


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第20 明治の新潟に湧く石油

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日本石油会社の出油と上越鉱業界(新潟縣通信)
薬学雑誌1901年度3月号(明治34年)296頁

まず、以下の現代の新聞記事から

止まらぬ石油に住民悲鳴、新潟・旧油田跡「手作業もう限界」 
日経2013/8/17付

 かつて油田があった新潟市秋葉区の住宅の床下と空き地から石油を含んだ泥水とガスが噴き出し、住民らが手作業で処理を続けている。石油は純度が低く、使うことも売ることもできない。私有地のため行政の支援が受けられず、既に80万円以上の自費をつぎ込んだ土地所有者もいる。

 「外出もままならず、噴き出すたびに炎天下で油まみれになって処理している。もう限界だ」と疲れた表情で話すのは、自宅の床下から石油が噴出している山田隆さん(65)。4月27日午後11時すぎ、「ボコボコ、ジャージャー」と大きな音が聞こえたため外に出ると、床下と隣接する空き地の地面に複数の穴が開き、石油臭がする大量の泥水が流れ出ていた。

 7月中旬からは15~20時間おきに300リットルほどが噴出し、周辺に石油の臭いを充満させている。泥水はいったん空き地に掘った穴にためて水と石油を分離させ、表面の石油を一杯一杯ひしゃくですくってはポリタンクにためる。作業は1回4時間近くかかり、これまでに千リットル以上たまった。

 一帯はかつて日本一の産出量を誇った新津油田の跡地。採掘の歴史を紹介する「石油の世界館」友の会(新潟市秋葉区)の中島哲広事務局長は「油田閉鎖の際に採掘用の穴を完全に閉じなかったのではないか」と推測する。また、石油が大量にたまっている地層があり、ガスの圧力で断続的に噴出する自然現象の可能性もあるという。

 噴出は止まる気配がないが、市からは吸着シートや土のうが提供されただけ。山田さんらは「これは自然災害。行政が原因を調査し、対策を取るべきだ」と訴えている。

さて、
越後の手掘り石油については、
古くは天智天皇の御宇,燃える水が献上されている.
臭かったので草生水(くそうみづ)と呼ばれ,湧いている草生水谷,草生水川は越後各地にあった.悪臭と農作物への害だけでなく一旦火がつけば田畑を燃え尽くすこともあり長いこと厄介ものであったが,江戸時代には近くの農民たちが焚き木の代わりに使うようになる(灯火としては悪臭ゆえ菜種油の半値).
燃料として使われ始めた慶長年間には,湧き口を持つものはわずかだが年貢も納めている.

薬学雑誌に記事の出た明治34年は,英国で建造中の最新鋭艦三笠でさえ燃料が石炭であるなど,まだまだ石油は生産,利用とも発展途上であった.しかし実業界の期待は相当なものである.

「上越の山野至るところ鉱区地ならざるは無し.採油地より製油所に送油鉄管の埋設は雪を冒して工事を急げり.車に橇にまた人肩によりて運ばるる原油は幾百石幾千石なるを知らず」
運送行列の桶から滴一滴漏れる油は雪解け水と一緒になり道路一面に漲った.

「日本石油,長岡興業等は競うて鉱区買占め,スタンダード石油は北越鉄路株を一手にし運輸の便を掌握せんと企て,壮大なる建物を増築せられつつあり.一方では送油管を東京市根岸近傍まで埋めんと計れり・・・山師的投機者の時期は過ぎ慎重なる鉱業家の時期となれり.北越の石油界また多望なるかな」

この薬学雑誌の記事からわかるように,かつては石油の分析,精製なども薬学の守備範囲であった.医薬品化学や薬理学がなかったのだから、むしろ無機化学やこちらの方が本業だったかもしれない。
少子化時代に理系で一番巨大な、一学年13,034人(H28、入学定員)にもなった薬学部のほとんどが極めて狭い薬剤師国家試験の勉強ばかりに力を入れているのは異常といえる。


メモ
1872(明治5) 春日永太郎、営業としては初の精油所を尼瀬に開く。
1873(明治6) 中野貫一や上野昌治ら、新津で上総掘りといわれる石油採掘を始める。
1874(明治7) 長野県出身の石坂周造(1832‐1903)が尼瀬(現・出雲崎)の諏訪神社境内でアメリカから輸入した綱掘式機械を据え付けて石油掘削を試みる。長岡-新潟間に川蒸気船が走る。
1876(明治9) 長岡に女紅場ができる。
1879(明治12) 長岡に第六十九銀行開業。
1880(明治13) 尼瀬の加藤直重、宅地内に油井を掘る。出水防止の工夫「打上げ法」により、「加藤の浜井戸」として有名になる。以降、尼瀬では手掘全盛期となる。
また精油所も群生し、一時は丘陵から海岸にかけて精油所が軒を連ねたという。この群小精油所の中に、後年大協石油、昭和石油の主軸となった山岸、新津、早山の諸精油所もあった。川蒸気船の安全社が設立され、信濃川の舟運が大いに繁栄する。
(略)
1888(明治21)内藤久寛が日本石油(現・新日本石油)を石地町で設立。
小坂松五郎、長岡に北越石油を設立。
1893(明治26) 山田又七、宝田石油を設立。翌年から米国製掘削機を用いて機械掘り採油を開始。後に他社を次々と買収して日本石油会社と並ぶ本邦二大石油会社のひとつとなる。
以降、銀行、鉄道、紡績、製紙、海運などと並んで石油関連の株式会社が多数設立された。
1998(明治31) 北越鉄道開通。本邦初のガソリン自動車輸入。
1899(明治32)《条約改正》、これにより関税自主権を回復し、石油輸入には関税を課して国内石油産業を保護するようになる。
1900(明治33) 西山油田ー柏崎間18kmにパイプライン敷設。この頃、柏崎には40ヶ所、長岡には16ヶ所の精油所。
1901(明治34) 小坂松五郎、東千手に火力発電所を作る。
1902(明治35) 新潟鉄工所が長岡分工場を設立。
1904(明治37) 長岡に北越水力電気を興す。
1906(明治39) 長岡に電話開通。その後、電話は急速に普及、大正時代には長距離用の電話普及率で全国一となる。
1906 田村文四郎(1854‐1920)イネワラを原料とした製紙工場を建設。翌1907年、北越製紙を創設。
1906 高野毅、日本天然瓦斯を設立。
1906 新潟鉄工所の渡辺嘉政(1875‐1968)ら、長岡鉄工所組合を設立して鉄工業の振興に尽力する。
1913(大正2) 越後鉄道開通。    
1914(大正3) 秋田油田の生産が本格化
1915(大正4) 栃尾鉄道開通(栃尾-下長岡間)。東山油田の鉱業用機械を運ぶ。開戦に伴う重要物資の供給途絶を契機に技術国産、科学主義工業の機運高まる。
1916(大正5) 長岡鉄道開通(西長岡-寺泊間)。

参考:戦前期の石油・機械工業と柏崎・新津・長岡(小林進、三上喜貴)
http://kjs.nagaokaut.ac.jp/mikami/niigata/chronology.htm

石油が出続けていたら、新潟はとんでもない場所になっていただろう。太平洋戦争もああならなかっただろうし、ロシア、朝鮮をふくむ日本海沿岸地域の中心都市になったと思われる。