2017年5月23日火曜日

第22 飛行機研究家、二宮忠八と薬学

薬学雑誌1903年度P328、1906年度P656

明治の薬学雑誌を読んでいると思いがけない人物に出会う。
第21話で紹介した「人頭黒焼き売買事件(明治35年)」の道修町での様子を書いたのは、なんと二宮忠八(1866- 1936)である。

飛行機開発の世界的パイオニアとして吉村昭の小説『虹の翼』やテレビにも取り上げられ有名になったが、明治35年、このとき彼は意外なことに日本薬学会の大阪地区通信員であった!
ウィキペディアなどでも飛行機関係ばかりで薬学との関連が書かれていない。ゆえに、その点を中心に記す。

明治20年22才で陸軍に入隊、衛生兵として勤務,演習行軍中にカラスの滑空を見る。
少年の頃から奇抜な凧を工夫して作ることが好きだった彼は,以来、毎夜薬剤師国家試験の勉強に加えて飛行機の研究を続け、明治24年,ライト兄弟に先立つこと12年,ゴム動力のプロペラ式飛行機を飛ばした。

当時の日本の科学水準を考えると奇跡のような偉業である。
さらに人が乗れる両翼2メートル,車輪もある玉虫型飛行機をつくるも個人ではこれ以上無理であった。そこで兵器としても有用なことから3回にわたって軍に上申するが、いずれも荒唐無稽と却下される。

こうなったら独力で開発しようと資金を貯めるために除隊、明治31年、設立されたばかりの大阪製薬に営業部員として入社した。本ブログでも紹介したが、会社は大日本製薬を吸収,社名変更する。
その間、彼は懸命に働く一方,難溶性であった内服用殺菌剤、結麗阿曹篤(クレオソート)の溶解性を高めたクレオゲストを発明したことで、明治36年薬学会の総会演説に選ばれた(薬誌には4頁にわたる講演要旨がある)。

小学校卒の二宮が帝大教授や博士の丹波,田原らと並んで講演したことはこれまた偉業である。さらに下剤の硫酸マグネシウムMgSO4を精製した二宮舎利塩は内国博覧会で金賞。

これをもとに大阪精薬合名会社を設立、ようやく資金も貯まり、多忙な業務の合間を縫って一人で飛行機製作を再開する。

しかし、明治41年石油発動機を載せる機体を作成中、新聞でライト兄弟の偉業を知る。
ショックと悔しさで飛行機をハンマーで叩き壊し,暫くは口も聞けなかったという。

その後、大日本製薬の支配人まで出世、大正になって二宮の飛行機研究を知った軍や国から表彰もされたが、悔しさ,寂しさは一生消えなかっただろう。

メモ
M5年  長兄,売上金を使い込む
M11 13才 小学校卒業,高橋菊五郎商店(呉服) 奉公に出る
M12 14たこ作りやめて、平井写真館の助手になる
M13 15薬種商の叔父の下で働く(2年半)。
M18 20 測量士の助手,風船ダコ
M19正月 ビラまきダコ
M20 22  陸軍衛生部入隊(看護卒)
M22 10月 もみの木峠の烏から飛行機を思いつく
調剤手となり薬剤官の助手となる
M23 25 11月丸亀衛生病院付き,陸軍三等調剤手で下宿可能
夜は薬剤師国家試験の勉強と飛行機の研究
M24 4月 世界初の模型飛行機とぶ
M25 薬剤師国家試験初挑戦,学科は合格
m26 人が乗れる両翼2メートル,プロペラ,車輪もある玉虫型飛行機をつくるも動力の問題未解決.(丸亀にも見られるようになった自転車を想定)
M27 上申書,長岡外史却下
M28
M29 31 動力源に石油発動機を思いつく 巡査の月給が9円のときに500円
大島少将 上申書却下
3回目の上申書,山口師団長却下
m30 大阪製薬設立
m31 33 大阪製薬に入社(販売部、月給15円),1ヵ月後工場の技師長の補佐役に
大日本を吸収
m32工場完成
m33 東京出張所開設、主任 月給30円)
m34 大阪薬品試験会社に移る(事務長,実質の経営責任者)
クレオソートの改良・・クレオジスト
m36 38 第5回内国勧業博覧会準備委員
大阪で薬学会総会 初めて東京以外 クレオジストの講演
m38 舎利塩(MgSO4,下剤)の改良
m39 41 二宮舎利塩,内国博覧会で金賞,大阪精薬合名会社設立
m41発動機と精米所を買う。より大きな発動機のために設計しなおし。
10月、ライト兄弟が1時間飛行に成功したと言う記事を読む。実は1903(m36)にキティホークで53mとんだ。
M43 大日本製薬,資本と経営を分離、常務制を辞め、初代支配人(最高経営責任者)に二宮
T8 白川に設計図を見せる。
T10 陸軍航空本部から表彰される
T14 逓信大臣から表彰
S12 教科書に。

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