2017年5月23日火曜日

第20 明治の新潟に湧く石油

千駄木菜園 総目次


日本石油会社の出油と上越鉱業界(新潟縣通信)
薬学雑誌1901年度3月号(明治34年)296頁

まず、以下の現代の新聞記事から

止まらぬ石油に住民悲鳴、新潟・旧油田跡「手作業もう限界」 
日経2013/8/17付

 かつて油田があった新潟市秋葉区の住宅の床下と空き地から石油を含んだ泥水とガスが噴き出し、住民らが手作業で処理を続けている。石油は純度が低く、使うことも売ることもできない。私有地のため行政の支援が受けられず、既に80万円以上の自費をつぎ込んだ土地所有者もいる。

 「外出もままならず、噴き出すたびに炎天下で油まみれになって処理している。もう限界だ」と疲れた表情で話すのは、自宅の床下から石油が噴出している山田隆さん(65)。4月27日午後11時すぎ、「ボコボコ、ジャージャー」と大きな音が聞こえたため外に出ると、床下と隣接する空き地の地面に複数の穴が開き、石油臭がする大量の泥水が流れ出ていた。

 7月中旬からは15~20時間おきに300リットルほどが噴出し、周辺に石油の臭いを充満させている。泥水はいったん空き地に掘った穴にためて水と石油を分離させ、表面の石油を一杯一杯ひしゃくですくってはポリタンクにためる。作業は1回4時間近くかかり、これまでに千リットル以上たまった。

 一帯はかつて日本一の産出量を誇った新津油田の跡地。採掘の歴史を紹介する「石油の世界館」友の会(新潟市秋葉区)の中島哲広事務局長は「油田閉鎖の際に採掘用の穴を完全に閉じなかったのではないか」と推測する。また、石油が大量にたまっている地層があり、ガスの圧力で断続的に噴出する自然現象の可能性もあるという。

 噴出は止まる気配がないが、市からは吸着シートや土のうが提供されただけ。山田さんらは「これは自然災害。行政が原因を調査し、対策を取るべきだ」と訴えている。

さて、
越後の手掘り石油については、
古くは天智天皇の御宇,燃える水が献上されている.
臭かったので草生水(くそうみづ)と呼ばれ,湧いている草生水谷,草生水川は越後各地にあった.悪臭と農作物への害だけでなく一旦火がつけば田畑を燃え尽くすこともあり長いこと厄介ものであったが,江戸時代には近くの農民たちが焚き木の代わりに使うようになる(灯火としては悪臭ゆえ菜種油の半値).
燃料として使われ始めた慶長年間には,湧き口を持つものはわずかだが年貢も納めている.

薬学雑誌に記事の出た明治34年は,英国で建造中の最新鋭艦三笠でさえ燃料が石炭であるなど,まだまだ石油は生産,利用とも発展途上であった.しかし実業界の期待は相当なものである.

「上越の山野至るところ鉱区地ならざるは無し.採油地より製油所に送油鉄管の埋設は雪を冒して工事を急げり.車に橇にまた人肩によりて運ばるる原油は幾百石幾千石なるを知らず」
運送行列の桶から滴一滴漏れる油は雪解け水と一緒になり道路一面に漲った.

「日本石油,長岡興業等は競うて鉱区買占め,スタンダード石油は北越鉄路株を一手にし運輸の便を掌握せんと企て,壮大なる建物を増築せられつつあり.一方では送油管を東京市根岸近傍まで埋めんと計れり・・・山師的投機者の時期は過ぎ慎重なる鉱業家の時期となれり.北越の石油界また多望なるかな」

この薬学雑誌の記事からわかるように,かつては石油の分析,精製なども薬学の守備範囲であった.医薬品化学や薬理学がなかったのだから、むしろ無機化学やこちらの方が本業だったかもしれない。
少子化時代に理系で一番巨大な、一学年13,034人(H28、入学定員)にもなった薬学部のほとんどが極めて狭い薬剤師国家試験の勉強ばかりに力を入れているのは異常といえる。


メモ
1872(明治5) 春日永太郎、営業としては初の精油所を尼瀬に開く。
1873(明治6) 中野貫一や上野昌治ら、新津で上総掘りといわれる石油採掘を始める。
1874(明治7) 長野県出身の石坂周造(1832‐1903)が尼瀬(現・出雲崎)の諏訪神社境内でアメリカから輸入した綱掘式機械を据え付けて石油掘削を試みる。長岡-新潟間に川蒸気船が走る。
1876(明治9) 長岡に女紅場ができる。
1879(明治12) 長岡に第六十九銀行開業。
1880(明治13) 尼瀬の加藤直重、宅地内に油井を掘る。出水防止の工夫「打上げ法」により、「加藤の浜井戸」として有名になる。以降、尼瀬では手掘全盛期となる。
また精油所も群生し、一時は丘陵から海岸にかけて精油所が軒を連ねたという。この群小精油所の中に、後年大協石油、昭和石油の主軸となった山岸、新津、早山の諸精油所もあった。川蒸気船の安全社が設立され、信濃川の舟運が大いに繁栄する。
(略)
1888(明治21)内藤久寛が日本石油(現・新日本石油)を石地町で設立。
小坂松五郎、長岡に北越石油を設立。
1893(明治26) 山田又七、宝田石油を設立。翌年から米国製掘削機を用いて機械掘り採油を開始。後に他社を次々と買収して日本石油会社と並ぶ本邦二大石油会社のひとつとなる。
以降、銀行、鉄道、紡績、製紙、海運などと並んで石油関連の株式会社が多数設立された。
1998(明治31) 北越鉄道開通。本邦初のガソリン自動車輸入。
1899(明治32)《条約改正》、これにより関税自主権を回復し、石油輸入には関税を課して国内石油産業を保護するようになる。
1900(明治33) 西山油田ー柏崎間18kmにパイプライン敷設。この頃、柏崎には40ヶ所、長岡には16ヶ所の精油所。
1901(明治34) 小坂松五郎、東千手に火力発電所を作る。
1902(明治35) 新潟鉄工所が長岡分工場を設立。
1904(明治37) 長岡に北越水力電気を興す。
1906(明治39) 長岡に電話開通。その後、電話は急速に普及、大正時代には長距離用の電話普及率で全国一となる。
1906 田村文四郎(1854‐1920)イネワラを原料とした製紙工場を建設。翌1907年、北越製紙を創設。
1906 高野毅、日本天然瓦斯を設立。
1906 新潟鉄工所の渡辺嘉政(1875‐1968)ら、長岡鉄工所組合を設立して鉄工業の振興に尽力する。
1913(大正2) 越後鉄道開通。    
1914(大正3) 秋田油田の生産が本格化
1915(大正4) 栃尾鉄道開通(栃尾-下長岡間)。東山油田の鉱業用機械を運ぶ。開戦に伴う重要物資の供給途絶を契機に技術国産、科学主義工業の機運高まる。
1916(大正5) 長岡鉄道開通(西長岡-寺泊間)。

参考:戦前期の石油・機械工業と柏崎・新津・長岡(小林進、三上喜貴)
http://kjs.nagaokaut.ac.jp/mikami/niigata/chronology.htm

石油が出続けていたら、新潟はとんでもない場所になっていただろう。太平洋戦争もああならなかっただろうし、ロシア、朝鮮をふくむ日本海沿岸地域の中心都市になったと思われる。


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