2019年10月23日水曜日

根岸の子規庵、羽二重、善性寺

10月14日、鶯谷・新世紀に行くのに日暮里駅南口から根岸を通った。
何回も歩いているのだが、ブログする前だったから写真を撮っていなかった。

2019-10-14 子規庵
撮影者背中側に中村不折旧宅、書道博物館がある。

ダンスパーティで日暮里に来た2001年ころ以来、何回か前を通っているがいつも閉まっていて(閉館16時)、入ったのは2015年11月3日。
日暮里ファーストプレイスでの競技会、27組中最下位のあと訪問。
中は撮影禁止だったから写真はない。


2019-10-14 子規庵裏口
右に見える小屋で記念品が売られていた。
子規の居た頃は線路も狭く家も低かったから上野の山が借景となっただろう。

この辺り一帯は前田侯爵(13代斉泰)の下屋敷だった。
加賀前田藩の下屋敷ではなく明治以降の前田家の別邸。

むかし、子規庵の建物は前田家の長屋を移築したと聞いて、本郷からもってきたのだろうかと不思議に思ったが、この地図を見れば、もともとこの地にあったもののようだ。

その使用人用二軒長屋(子規庵)は、子規の死後、震災も経て老朽化したため、昭和元年に解体。瓦や梁などそのまま使って再建、しかし空襲で焼失。
昭和25年、弟子の寒川鼠骨らが、戦前の形にそっくり復元再建した。

子規庵を出て線路方面を見る。ラブホテル街である。
右に行くと子規庵、左は尾久橋通りに出る。
左手前からくる道がうぐいす横丁

2019-10-14 笹の雪。 体育の日。
2017年5月27日に息子のおごりで食事した。

この日はそのまま鶯谷の駅前を過ぎて新世紀に行く。
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しかし根岸の名所といえば、羽二重団子。
日を改め
10月20日、新装なった本店に団子を食いに来る。

「王子街道」「右いも坂みち」の石柱、奥の句碑などは昔のまま。
昔の店を撮っておけばよかった。

初めてここに来たのは2011年11月26日。
この年7月に千駄木の家をみつけ手付金350万円を払った。地元民になったようで嬉しくてしばしば谷根千に来た頃である。その日は田端・千駄木から谷中墓地を歩いて、鴎外・漱石のように「王道」芋坂を下りて来店した。

運よく、案内された席は池もある中庭の前だった。
テーブルには根岸の昔を描いたランチョンシートが敷いてあった気がする。
当時は携帯をもっていなかったから写真がない。
しかしずいぶん狭くなった。
マンションに建て替え、かつての1階は団子の工場のほか、アトラス日暮里マスターコートの豪華なエントランス、住民の駐車場、駐輪場になってしまった。

17時閉店の16時に入ったからガラガラ。
好きなところに座っていいと言われても、昔を知る者にとっては座りたい場所がない。
立ち食いソバやのような、壁に向かった席に。
前回と同じものを注文。
税込み616円は消費税以上に上がったか。

持ち帰り二本セットと同じ値段でお茶が出るのが嬉しい。
以前の店で食べるのはとても魅力的だったが、しかし今の店内ではどうだろう?

羽二重団子は日暮里駅、西日暮里駅構内はじめ他にも出店している。
わざわざ本店を訪れる人と違い、彼らには明治の文豪たちに愛されたという老舗の付加価値は関係ないだろう。
パティシエの作る豪華なケーキのある時代に、スーパーの団子より高いのに売れ続けるというのは、なかなかのものだ。人間の味覚はそう変わらないということか。
以前の中庭にあったものを少しばかり狭いところに並べてあるが。

刀は、上野戦争のとき芋坂から逃げてきた彰義隊兵士が藤ノ木茶屋(羽二重団子)に置いて行ったもの。

羽二重団子のご主人、澤野家の表札は、北豊島郡日暮里村大字谷中本千百三十七番地とある。
この家まで日暮里村、すぐ南東の家から下谷区上根岸だった。
しかし、明治22年の市制町村制施行までは、一体が根岸だった。
上野の山の根っこ、音無川の岸ということだろうか。
風光明媚な土地だったらしく文化人が好んで住んだ。

羽二重団子6代目澤野庄五郎氏が昔の根岸について地図を残している。
笹の雪は、音無川のほうにあったが、昭和2年、尾久橋通り、尾竹橋通りが通るため現在地に移転した。
地図の番号は澤野氏による説明用だが、いまネットで見つからない。
前田侯爵、諏訪子爵、牧野子爵、日露戦争で活躍した瓜生外吉大将、鴎外が北千住から移った住まいのほか、旧岡野(このはな園)、伊香保などもみえる。

そういえば以前陸奥宗光邸を探したことがある。
2015-09-22 根岸小学校の裏あたり


2015-09-22
屋敷地はもっと広かったと思われる。

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さて2019年、羽二重団子を食べたあと、向かいの善性寺に寄った。
2019-10-20
山門へのアプローチが橋のようになっていて、見れば将軍橋とよめる。
音無川(石神井川用水)にかかっていた橋である。
反対側には石橋にした年号明治39年が彫ってある。
するとここが音無川かと思ったが、川は道のこちら側で、昭和7年に暗渠としたとき善性寺がもらいうけ、山門前に敷いたらしい。

将軍橋というのは、六代将軍家宣の生母長昌院が葬られ、また家宣の同母弟、松平清武(舘林藩主)がここに隠棲し、家宣のお成りがしばしばあったことから。
日蓮宗の名刹、善性寺は大寺で、敷地は尾久橋通りまである。写真右のマンションは通りの向こうにあるが、道路ができるまでは向こうまで寺の敷地だった。
大黒天の持っている板のようなものは何だろう?
小判、いや、特大の大判だろうか、
確かに重そうだが、黄金なら持てないだろう、
いや大黒天は人間じゃないから、
などと思って振り返ると、黒のスーツを着た小柄な年配の男性が車から降りて歩いてこられた。
会釈すると立ち止まられ、これは京都からもらってきたんです、と説明された。

そのあと、善性寺の説明をしてくださった。
先々代?の住職、日謙上人は偉くて、立正大学の学長になられたとか、日蓮宗の信者だった双葉山が現役時代に身延山で日謙上人の車いすを押していとき、双葉山の右目が悪いことを見破った話などをされた。

あれが双葉山のお墓ですよ、
と教えてくださったあと、左奥のお住まい?に歩いて行かれた。
墓石には龝吉家としか書いてなく何の案内板もない。
半信半疑で帰宅後調べたら
双葉山の本名は龝吉定次(あきよしさだじ)といった。


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鶯谷駅:かつての山の手もラブホテル街
笹乃雪と公弁法親王、御隠殿あと
御隠殿坂、芋坂、正緑荘


千駄木菜園 総目次

2019年10月22日火曜日

鶯谷:かつての山の手もホテル街

10月14日、鶯谷に来た。
北口駅前。
駅名は美しい。
江戸時代、上野寛永寺の管主として下向した公弁法親王(1669-1716、後西天皇の第6皇子)が、京都から美声の鶯を3,500羽取り寄せ、別邸(御隠殿)のあった、ここ根岸の里に放鳥したという。
これが鶯谷の由来である。
谷というと両側に山がある感じだが、下谷、入谷という地名もあるし、片側だけでも谷というのだろうか。あるいは谷根千の谷(初音の森)あたりを鶯谷と称し、それが駅名になったか。
駅前は山手線の駅とは思えないほど狭く、車も入ってこない。

東に歩くと言問通りに出る。
言問い通りは谷中(左)の方から線路を越えて降りてくるが、
その車道側面に「寛永寺陸橋」と書いてある。
寛永寺などずっと西なのに、この名前があるのは寛永寺坂からとったものだろう。

陸橋に沿って言問い通りの下を西へ歩くと線路にぶつかる。
線路で削られる前、ここに寛永寺坂があった。
36もの塔頭を従えた大寺。
南側の信濃坂、屏風坂、車坂などは寺内であったから、寛永寺坂とはつけなかった。

もちろん私も人工的な陸橋となった寛永寺坂しか知らない。
初めて通ったのは40年くらい前。
浅草で家庭教師のアルバイトをしたとき谷中から自転車で越えた。
千駄木に引っ越してからも2016年7月、入谷朝顔市へ自転車で通過している。

寛永寺陸橋の南も北もラブホテル街
駅前に戻る。
線路側に昔ながらの居酒屋が並ぶ。
信濃路の二階は神社のようである。

一本東側の通りを歩くと元三島神社がはっきりする。
階下はやはり飲食店。
神社というのは緑に囲まれた静謐さがふさわしいが、ご利益だけがあればよいという、都会らしい構造。

門のほうまで回ると神社らしいが、周りはラブホテルだらけ。
元三島神社は、伊予一宮、大山祇(おおやまづみ)神社を上野の山に勧進したのが始まり。
大山祇神社は瀬戸内海の大三島をご神体とし、三島神社ともいう。
寛永寺造営のために立ち退きを迫られ、浅草小揚町に遷座したが、氏子たちが遠くなったというので、根岸(元三島神社)、金杉村(入谷の三島神社)にもつくった。浅草は本社三島神社という。

狭い路地にラブホテルの密度がすごい。
化粧した中年女性が立っていた。
一人歩く男を狙っているのだろうが、私は声をかけられなかった。
この公園は、数十年前はもっと木や建物が小さく、日当たりの良い開放的な場所だった気がする。冬の朝散策した時も客探しの女性が立っていた。
露地をすすむと、新坂、鶯谷駅南口からの道路に出る。

それにしても、鶯谷はなぜ、こんな町になったのだろうか。

本来、線路の敷かれる前、上野の山裏は東向きの緩やかな斜面で音無川も流れ、その先は田園が広がるという風雅な土地だった。日本橋の大店や文化人が好んで別邸を建てた。
前田侯爵、諏訪子爵だけでなく、正岡子規、陸羯南、陸奥宗光のほか薬学の下山順一郎なども住んだ。

上京したハイカラな高級サラリーマンや文化人などが住むところを山の手と定義するなら、根岸、本郷は、第1山の手とされ、四谷・市ヶ谷から青山・麻布にかけての第2山の手、世田谷・目黒・杉並の第3山の手より早かった。

一方、上野の山を借景に温泉を模した宴会場、伊香保や塩原、岡野(この花園)などの料亭も栄えた。

地域雑誌「谷根千」27号から(明治34年)
思うに、戦後、空襲の跡に旅館が多くたったのではなかろうか。
疎開していた人々が一斉に上野駅に着いたとき、自宅は焼け、泊るところが不足した。上野周辺、谷中あたりまでも旅館がたち、それでも布団部屋にも客を入れるほど旅館が不足した。

鶯谷、根岸でも土地権利関係が複雑だったのか、区画整理が進まないまま旅館が乱立し、それがラブホテル街になったのではなかろうか?
上野と浅草の歓楽街の間に位置し、山手線の駅があったこと、料亭、宴会場のあった歴史から、ワールド、スター東京などのキャバレーもでき、独特の雰囲気を作っていったのであろう。

なお、大正時代に三業地に指定され花街になったのは、ずっと東のおぎょうの松のあたりで、ここは関係ない。
陸橋に上がると線路の向こうに鶯谷駅南口の駅舎が見えた。
上野の山から駅南口を経て下りる道は新坂という。
明治11年(1878) 内務省製作の『上野公園実測図』にある「鶯坂」がこの坂のことと考えられる、という案内板を皆引用しているが、
しかしの明治11年の「実測東京全図」を見れば、御隠殿坂の南は一つ坂があるが(上野花園丁とある)、寛永寺坂でも新坂の場所でも道がないようにみえる。
明治11年内務省地理局「実測東京全図」
まだ鉄道がない。

いまはこんなに線路が並ぶ

南口も狭いがタクシーは来る。
そうだ、ソープランド街で名高い吉原へ行くときは、ここでタクシーに乗る。
鶯谷は、名前と異なり、すっかりそういうイメージがついてしまった。
駅に入る。
線路に寛永寺墓地から葛の蔓が京浜東北線のレールにまで伸び、とても山手線の駅とは思えない。29駅中、乗車人数は断トツで最下位、みどりの窓口もないという。

ここはホームのスピーカーから鶯の鳴き声が流れる。
最近、駅は英語だけでなく中国語、韓国語もながれ、まことにうるさい。こんな「おもてなし」は過剰だ。戸惑いながら楽しむのが海外旅行である。駅のホームは野鳥の声だけでよい。放送は事故、遅延の時だけにするべきである。


別ブログ
根岸:子規庵から羽二重団子まで
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2019年10月19日土曜日

海蔵寺、身禄行者と向丘のアパート

台風一過の9月13日、荒田先生、清水先生が過ごされ、ひょっとしたら辻申三郎もいた正行寺・清風荘をみにきた。

帰路、本郷通りを渡り、家まで近道しようと向丘の住宅街に入ると、昔住んでいた友人を思い出した。
向丘 2-18-11あたり。
この近くのアパートに理学部化学科に進学した末村耕二がいた。
部屋は二階で、壁にゴルフウェアの竹下景子が貼ってあった。彼女は我々の1歳上。
世の重役たちの、息子の嫁にしたい女性ナンバーワンと言われた頃である。

そこから真浄寺の長い塀にそって北に行くと、広い道に出る。
この景色は40年前と全く変わらない。
2019-10-13 左は顕本寺
この道は、南東の谷中ではなく北の本駒込に向かっているから、よく歩いたのは1977年か。
2019-10-13
真浄寺の隣は海蔵寺。
何回か前を通っているが、入るのは初めて。

身禄行者の墓があるという。
これは通称で本名は伊藤伊兵衛。身禄は弥勒菩薩から。
富士講の指導者で、1733年、63歳の時、駒込の自宅を出発して富士山で断食を行い35日後にそのまま入滅。 骨の一部が菩提寺の海蔵寺に葬られた。
行名(富士講修行者としての名前)として食行身禄とも呼ばれる。
本堂。
身禄の死後、彼の娘や門人によって次々と富士講は増えた。
現世に不満を抱く人々から熱狂的に迎え入れられ、江戸八百八講と呼ばれるまでになった。あちこちに富士塚と呼ばれる小型の富士山が築かれたという。
なんと、では都内各地の富士塚ファンにとって海蔵寺は聖地ではないか。

身禄の墓のそばに鳥居。寺の中に鳥居とは珍しい。

鳥居の奥は富士塚であった。
富士講の塚というより、信者たちが教祖のために墓石のつもりで積んだのであろう。
最も重要な富士塚でありながら、しかし都内で最も知られていない富士塚に違いない。
私もこの日初めて知った。

・・・・
海蔵寺を出てすぐ、大観音通りに出る直前、角から右に二軒目に高倉仁史のいたアパートがあった。長野高校剣道班からの付き合い。
40年前は家が小さかったのか、もっと家と家の間が空いていた。
南の道路から敷地を奥まで入り、西北の隅のドアを開けると、北向きに板の間の台所と南に6畳の部屋。
「大家さんもいい人で、家賃を持っていくとケーキがもらえます」
という彼独特の字のハガキがとってある。

同じ剣道班だった由井克之が松本から上京した時は3人で白山上で飲み、ここで別れた。
それから由井と私は谷中のアパートに向かった。由井は翌日東日本医学部剣道大会ということで竹刀と防具を持っていたのではなかったか?
あの夜、私はだいぶ酔っていた。


2019年10月18日金曜日

栗拾いと台風19号

超大型台風19号が近づく10月11日金曜日、
早く仕事を片付けて帰らなくてはいけないのに、ふと職場の近くの森に出かけた。
朝、駅から歩くときにイガが落ちていた場所。
歩道から中に入ると、ひっそり栗の木があった。

2019-10-11
大学の所有地のせいか、蜘蛛の巣張る暗いジャングルのせいか、誰も立ち入らない。

栗というのはこのようにイガにつつまれたまま落ちたものもあるが、裸で落ちたものもある。むしろそちらの方が多く、なるほど、「栗拾い」である。
落ちて時間がたったものは虫に食われたり、濡れて質が落ちたりする。

市販のものよりだいぶ小さいが、茹でてみた。
数個、変な味のものがあったが、まあ食べられた。
職場の11階から。
 ここはもと国際電電公社KDDの敷地だったところで原生林のような森に囲まれている。
2019-10-11 この季節は密林。
2019-01-25 冬に葉が落ちれば地面が見える。
栗やクヌギなど落葉広葉樹、クスノキ、シイなど照葉樹に赤松が交じる。
2019-01-25
2019-04-06
若葉のころ、白く見えるのは桜。
2019-05-09 春はスミレがかわいらしい。

さて、台風。
翌10月12日は午後から電車が止まるというので、職場は休み、自宅待機。
先月の15号では夜中に目が覚めるほどの強風だったので、雨の中、飛びそうな板や園芸用品を室内や縁の下に入れた。
しかし12日夜、関東直撃にしては思ったより風雨は少なかった。

翌13日朝は台風一過、晴れ。
信州中野の弟に電話。中野市でも岩船は大丈夫だったが、片塩あたりは避難勧告が出たという。長野市穂保の堤防決壊で義妹(弟の嫁さん)の兄の家が水に浸かったらしい。
我々と同じテレビでしか様子はわからないようだ。

翌14日朝、また弟に電話。
彼の嫁さんの実家は、幸い浸水は免れたが停電のため、一人暮らす母親が娘の嫁ぎ先である弟のところに避難してきた。嫁さんの兄の家は一階が水没、彼の嫁さんの実家に避難しているという。
中野市でも立ヶ花、栗林のあたりは千曲川が越水、私の母の実家柳沢も夜間瀬川が氾濫したらしいがニュースにならず。
テレビでは千曲川というと新幹線が浸かった穂保地区と、上田電鉄の鉄橋落下、護岸が崩れて流れた家ばかり放送しているが、松代、須坂など千曲本流で少なくとも17か所、支流18か所、あわせて35か所が決壊、越水したらしい。

この日、水が引いて弟、義妹、甥たちは義妹の兄の家に片づけにいった。
泥はもちろん、初めて持つ泥水を吸った衣服、家具などはたいそう重く、「腰が痛くなった」という。
現場に立ち会った人々皆の気持ちも泥のように重かっただろう。
アルバム、思い出の品々やら楽しかった過去は無残に流され、現在は疲労、将来は不透明な不安。

被害のなかった文京区から15日、職場に行くと赤松の大木が折れていた。
埼玉の方が風が強かったのだろうか。
奥の方にも、もう一本、水平に倒れていた。

虫が食っていた。
2019-10-15
松の脇に新たな栗の木を発見したが、拾う気になれなかった。

穂保地区の堤防決壊で水没したド真ん中を、国道18号のバイパスが通る。
16日夜まで不通だったという。
両側に果樹園のみが続く、通称アップルライン。
中野から長野、東京に向かう道。
父の運転で、私の運転で、何十回通っただろう。

祖母の葬式出席のため長野駅に着いた結婚前の妻と義父を乗せて実家に連れて行ったのもこの道。義父は窓から見える桃やリンゴを指して「あれは何の木かね?」と聞いた。
高速道路ができてから久しく走ることは無くなってしまったが、両脇のリンゴ直売所とともに、赤沼、長沼という地名看板が思い出される。
昔は沼があったかもしれないが、水田や湿地などはなく、川も見えず、むしろ水はけのよい場所に見えた。

弟たちは明日19日も片づけの手伝いに行くらしい。