2021年3月13日土曜日

首相官邸から桜田門まで

3月7日午後、新橋駅そばの港区生涯学習センターで練習の後、霞が関まで歩き、

財務省の前を通り、文科省(旧館)の中庭を入って外堀の石垣跡など見た。

そして霞が関ビルのコンビニでアイスを食べた。(別ブログ)

そのあと霞が関ビルとなりの特許庁を外堀通りから回り込んで坂を上がる

2021‐03‐07 17:05
下を首都高環状線が通る内閣府下交差点
ここから向こうが永田町、手前から右(東)が霞が関。
首相官邸(左)は高い壁に囲まれ、警備のものが何やら柵のようなものを運んでいる。
このあたり交通量がないのにやけに道が広い。
(一般車両は通行規制されている?)
この石垣は明治以降に組みなおしたものか昔のものか。
中は全く見えない。

17:07
首相官邸反対側は中央合同庁舎8号館(内閣府)、内閣府、国会記者会館と並ぶ。
写真ビルは国会記者会館と衆議院第二別館
これらからなら官邸も見えるだろうが、もちろん入れない。

首相官邸の敷地は、17世紀後半、南側が越後村上藩内藤家中屋敷、北側は旗本屋敷から信濃飯山藩本多家上屋敷、丹後峰山藩京極家上屋敷へと移り変わったと書いてある。

明治維新後に鍋島家の所有となるも明治25年完成の洋館は関東大震災で被害を受け、敷地は復興局へ売却された。1926年(大正15年)、震災復興に伴う中央諸官衙建設計画の一環として、総理官邸を新設することとなり、1929年(昭和4年)に旧官邸が完成したという。

誰もいないのに、警備は厳重。
この機動隊の車は移動手段でもあり、休憩室でもあるのだろう。
ずっと立っているのは疲れるから、交代で休まなくてはいけないからね。

17:08 総理官邸前交差点
誰もいないけど、広い通りの向こうにメガホンで怒鳴っている男がいた。
警備のものが数人囲んでいたが、互いに手を出すわけでもなく、ただ至近距離で囲んでいた。
「安倍首相」とか言っていたが、ちゃんと聞かなかったから彼の主張はわからない。

撮影は注意されると思ったので素早く撮った。

こちら側の警備の人々はすることもなく、みんなぼーっとメガホンの男を見ていた。
暇だからみなそれぞれ別のことを考えているのだろう。

それにしても多い。
無駄である。いったいどんな危機があるのか?
防犯カメラを見て何かあったら集まってくるだけでいいと思う。
公務員の雇用確保ということか。
17:10
この場所だと官邸と旧官邸が少し見える。

総理官邸、首相官邸の前身は太政大臣官舎。
1878年(明治11年)から当時の太政大臣三条実美が住み、1885年(明治18年)の内閣制度発足に伴い内大臣となった三条の公邸となった。(すると総理の伊藤の官舎はどこだったか?)
1888年から枢密院の事務所として使われていたという。
いまの国会議事堂の前庭付近にあり、西洋風の木造2階建て、建坪は723坪(約2,390平米)と、1890年頃の大臣官舎の中でも最大級だったらしい。

旧官邸は関東大震災の後、1929年(昭和4年)3月竣工
鉄筋コンクリート4階建(地上3階・地下1階)
延床面積:7000平方メートル
歴史事件となった515事件、226事件の舞台になったところだが、つい最近まで普通のテレビニュースで写っていたから記憶にある。
新官邸建設に伴い、敷地内を曳家工事により移動し、いま総理大臣公邸となっている。

現在の総理官邸は、1999年から工事が始まり、2002年から使われている。
縦の飾り木の使い方など隈研吾を思わせるが、設計は建設大臣官房官庁営繕部。

斜面に立つため、西側が1階、南の公邸側が2階、東の正面玄関が3階になる。
よくテレビニュースで総理が向こうが歩いてきて、記者が「総理、総理」と呼びかけるところを手を挙げるだけで通り過ぎるのは正面玄関である。総理は毎回どこに行くのだろう?
また、組閣の後の閣僚記念撮影は、2階から3階に向かう階段らしい。

西側の向こうは山王パークタワーと東急キャピトルタワー
昨年夏、すぐこの坂下まで散歩に来た。日枝神社、日比谷高校など回って疲れているところに千代田線の駅があったので、坂を上がらず家に帰ってしまった。

17:12
首相官邸の北隣は衆議院第一議員会館
向こうに衆議院第二議員会館、参議院議員会館と並ぶ。
国会議事堂の中でどちらが衆議院か、とわからなくなっても、これら外の建物の配置を見れば南側が衆議院とわかる。

斜めはす向かいの国会議事堂側に渡り、塀から離れたら官邸がみえた。
写真を撮っていたら警備の人に撮らないでと言われた。
彼らも仕事だから、「年寄りが田舎から東京見物に来たんですから許してください」と言って暇な仕事に付き合ってあげた。

写真を撮るなと言ってもグーグルでこんなにきれいに見える。
でも、彼は写真を撮るな、ということしか仕事がない。
ワシントンDCなら、あんな危ない国でも、ホワイトハウスは全貌みえて、観光客はみんな記念撮影している。議事堂なんて石段に座って写真も撮った。1984年の話だが。

17:15
総理官邸との対角線は国会議事堂、衆議院通用門
注意された警備の人に押してもらうわけにはいかず、自撮り。
自撮り用のレンズはだいぶ汚れていることが分かった。

ゆるやかな茱萸坂を下りて回り込むと国会議事堂正面。
17:21
1995年か96年ころだったか、一人で来て裏から入ったことがある。日に何回か見学ツアーがあり、何人かと一緒に会議場など見学した。その日は千駄ヶ谷の国立競技場から靖国神社のほうまで回った日だったかどうか。

二回目に来たのははっきりしていて、2016年1月21日、先に述べたJCTAの新年会の後、ここに立った。

これほど排他的である必要はあるか?

2016年の時は国会前の憲政記念公園をゆっくり歩いた。
17:24
そのとき入った憲政記念館も一見の価値あり。
水谷豊が相棒とよく話をしている場所。
桜田濠のむこうに桜田門と警視庁が見える。
2016-01-21 5年前にも眺めた

ここは彦根井伊家の上屋敷があったところ。
直弼が登城するとき水戸浪士に襲われた桜田門外の変は、すぐそこ。
当時急を知らせるものが走ってくると、屋敷の者もここから目と鼻の先に現場の騒ぎを見て、すぐ駆け付けたであろう。
161年経った今でも景色が想像できる珍しい事件だ。

明治以降は陸軍省と参謀本部がおかれた。
17:27
なんとかの井戸

17:37
この鳥は何だろう? 
鳥類は哺乳類と比べ種類が多くよく目にするのは、捕まえられないからだろうか。
珍しいものを見ても名前がわからない。死ぬまで知らないままかな。


17:40 桜田門
正式には外桜田門というのは、三の丸に入る桔梗門を内桜田門というから。

1993年6月9日、今上天皇の結婚パレードはこの門から出たのではなかったか。
山下氏と見物に来て、桜田門近くで待っていた。パレード直前に雨が上がったことを覚えている。
桝形門から城内(西の丸下)に入ると東京駅周辺のビルが見えた。
井伊直弼と同じように総理大臣も皇居に参内するときは井伊家上屋敷に近い官邸から坂を下りて桜田門を入るのだろうか。

17:42 桜田門、内門
城門の正面はどこも隙間のないほど美しい石垣になっている。

祝田橋から日比谷公園北辺を通って有楽町駅まで歩いた。
新橋駅そばから2時間近い散歩、官庁の霞が関、政治の永田町、外側だけざっと見てきた。

17:59
JRガード下に古いポスターの貼ってある壁があった。
上映当時から貼ってあるにしてはきれいに残りすぎている。
近年貼ったにしても、自由に触れる人通りの多い道で、誰もいたずらしないでいるとは民度が高すぎる。あるいは壁が最近まで何かに覆われていたのだろうか。
この日、一番心に残った。

20210311 官庁街の外堀石垣と霞が関ビル

20200703 日枝神社の日枝、日比谷高校の日比谷

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2021年3月11日木曜日

官庁街の外堀石垣と霞が関ビル

3月7日午後、新橋駅そばの港区生涯学習センターで練習のあと、例によって用もないのに日比谷公園の南、国会通りを霞が関、官庁街まで歩いた。

いわゆる霞が関は、日比谷公園の西、西幸門前の交差点から西側。

国会通りの南は広大な通産省(産総研もある)、北側は人事院(厚労省などの合同5号館の別館)、農水省、林野庁(合同1号館)と続く。

明治のころはこの通りの南が衆議院、貴族院、北側が海軍省だった。

やがて桜田通りに出る。千代田線と日比谷線の霞が関駅がある。

2021-03-07 16:25
国会通りと桜田通りが交わる霞が関二丁目交差点
新橋駅から1.3㎞ 16分。

北を見れば手前(左)が外務省。
法務省(司法省)とともに震災前から場所が変わらない。
外務省のむこう(右)の高いビルは総務省などはいる合同庁舎2号館。
合同3号館は外務省の向こうに小さくアンテナだけ写っている。
通り沿い、2号館の先は警視庁、桜田門がみえる。
写真には見えないが、桜田通りの東、すなわち2号館の向かいは東京高裁、地裁。
その北に赤レンガの法務省旧本館。
写真で左の潮見坂を上がれば永田町に入り、国会議事堂の南東の角にぶつかる。

交差点で南に目を転ずると
手前から財務省、文科省(旧館)。
タワーは合同庁舎7号館(西館、東館)

16:26 財務省
本来は区役所のように誰でも入れるはずだが、いつもは守衛が建っていて納税者、国民を近づけない。こんな威圧的なところにいると自分は偉いと勘違いするだろう。
でもやはり美しい建物は良い。

財務省と文科省の間は三年坂。
そこから文科省の中庭に入ろうとしたが守衛さんがいたのでやめて桜田通りに戻る。
文化庁、文部科学省、スポーツ庁の表札
字体も材質も年代も違う。
スポーツ庁だけ看板を立てるときの長官が書いたのかな。

建物は1933年完成、旧館とも保存棟とも呼ばれる。
文字のせいもあり威圧感は少ない。

平日だと旧館の中に入れて、明治以降の文部行政に関する展示が見られるのだが、日曜だから閉まっていた。しかし中庭に入れる通路があった。
16:30
ここは溜池の北側にあたり、外堀の石垣が保存されていた。

横の壁面には説明パネルがある。

本丸が隣の西の丸ではなく、九段坂上、北の丸のほうから続いていることが分かる図。

この石垣がもともとここにあったのか、合同庁舎をたてるとき発掘されたものを移築したのか確認しなかった。もし元々あったものなら、さらに地下深くまで続き、また外堀に沿って延長線上にいくらでも発掘されるだろう。

外堀の内側は外桜田という曲輪で大名屋敷が並んでいたところ。
タワービルを建ててもいいから、石垣と堀が残っていてほしかった。
世界に誇る首都の景観になったのではなかろうか。

文科省の外、溜池・外堀通りに面したところにも石垣が展示?されている。
16:36
こちらの石は天下普請に動員された大名の印がはっきりわかる。

誰もいないのにエスカレーターが動いていて溜池の底から上がると、合同庁舎7号館、高層ビルの広場に出た。
16:39
ここは文部省と会計検査院があったのだが、再開発で2005年着工、2007年竣工した。
西館(写真中央)は民間も入っていて、官庁は7号館西館だが、企業向けには霞が関コモンゲート西館と呼ぶらしい。左は霞が関ビル。

霞が関ビル
地上36階、地下3階、地上高147m。
三井不動産所有。
わが国初の超高層ビル。
旧・東京倶楽部ビル跡と霞会館(旧・華族会館)の敷地に、1965年3月起工、1968年(昭和43年)4月オープンした。この時私は信州の小学校6年生。廊下にあった小学生新聞のニュースを覚えている。
今では考えられないが、当時は大正以来の百尺規制というものがあり、高さは31メートルに制限されていた。いわゆる東京駅の前、丸ビルの高さである。しかし東京オリンピックを控えた1961年に建築基準法が改正され、特定街区制度、1963年に容積地区制度が創設され、霞が関ビルが生まれた。
絶対高さ制限が撤廃されたのは1970年の建築基準法改正で、容積率規制が全面導入され、新宿副都心などの超高層化時代に突入した。
霞が関ビルは初めての高層ビルとして、後続の建設に大いに参考となった。

ちなみに100メートルを超える超高層ビル第2号は 
世界貿易センタービル(浜松町、1970年、163m、40階、今年解体)で、
新宿住友ビル(1974年 210m、52階)で200メートルを超え、
横浜ランドマークタワー(1993年、70階、296m)、
あべのハルカス(2014年、60階、300m)で300メートルに達した。

中を見物しようとしたが、守衛さんが二人、中からこちらを見ており、臆して入れず。
横に回ったら下の飲食店街に入る入口があったので降りる。
16:51
休日でしまっている店もあるがファミマが開いていた。
アイスクリームを買ってロビー?のベンチで食べる。

ここからエスカレーターで上がったらさっき守衛さんが立っていたところに出た。
16:57
見たかったのは、この入居者一覧。
中央辺り「K」のところに
一般社団法人 霞会館 34F
とある。
このビルができる前、この地に3000坪の霞会館(旧華族会館)があった。
ワークスタイリング霞が関ビルディング(36階、10分300円)などを除けば、最上階にある。ちなみに現在会員は約650家の740人という。

2019-02-13 虎ノ門交差点
この日訪れた文科省旧館、霞が関ビル。
2年前の静岡中央銀行の窓から写したもの。

霞が関ビルを特許庁側の出口から出たら、目の前に商工会館・弁理士会館があった。
2014年から2016年、ここに毎年正月に来た。
3年間、日本化学品輸出入協会のアドバイザーをしたので、新春賀詞交歓会という立食パーティに呼ばれたのである。
2021グーグル
右の桜田通り沿いに外務省、財務省、文科省
下の外堀通り沿いに右から文科省、霞が関ビル、特許庁、

食べ物は美味しいのだが、出席者は商社やメーカー関係ばかりで知っている人が誰もいなかった。当時はまだ自分の世界を広げようと思っていたので出かけたが、巣ごもりの年齢になった今なら行かないであろう。

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2021年3月9日火曜日

啓蟄に出るのは幼虫か成虫か

今年は暖かい。

さらに啓蟄も過ぎた。

2016、2017は3月5日

2018,2019は3月6日

2020,2021は3月5日

うるう年で直前に1日入った年と翌年は5日になる。

2021-03-06
フキノトウは開き、こごみも株によっては青芽が出てきている。

小松菜は巨大化しトウが伸びてきた。
急がないと食べられなくなるが、差し上げる人がいない。
近所にもっていっても喜ぶか迷惑に思うか不明。

次女が美容院に来て立ち寄った。
3週間前に結婚式をしたとき以来だが、ゆっくり話すのは1年ぶりくらいではなかろうか。
野菜を持っていくというので収穫した。
2021-03-06 16:57
左から巨大小松菜、白菜、フキノトウをもたせた。
今年失敗作のニンジンは要らない、と言った。
大根は葉を落としても1530g、どこに出しても恥ずかしくない出来だ。しかし3月になってトウが立ち始め、身の様子、固さを調べたいので持たせなかった。

大根、白菜の場所は12月以降、収穫したところから空きはじめた。
ここは5月まで植えることはないのでもったいないことをした。
都会の貴重な土地、来年は玉ねぎでもやろうかな。

さて、啓蟄。
冬眠していた虫が暖かくなって出てくる季節、という。
啓は、啓蒙の「蒙をひらく」のように動詞だから、主語と目的語がある。
昔は虫が主語だと思って、「蟄啓」のほうがいいのではないかと思ったが、年を取って毎朝庭を眺める生活になると、主語は天、気候ということをしみじみ思う。
もっとも実際は蟄虫啓戸(七十二候)のように虫が主語であるかもしれないが。
2021-03-09 6:53
真ん中のトウだけ先に食べた巨大小松菜にネットをかけた。
むこうはキャベツ。

さて、啓蟄で冬眠から覚めるのは何か?
昔の虫は獣、鳥、魚以外のものすべてを指したから蛇、カエルなども含まれただろうが、
目立つのはチョウだろう。あるいは青虫だろうか。

異常に暖かい日が続いた2週間前の2月21日、モンキチョウが1匹飛んでいた。
それ以来姿を見ないがまた眠ったのだろうか。
モンキチョウと似たものにキチョウという種もあるらしい。ともにシロチョウ科 Pieridae モンキチョウ亜科 Coliadinaeに属するが、モンキチョウ属とキチョウ属とに分かれる。
両方とも国内に普通に分布、姿も似ている。前者の出現期は3-11月頃。幼虫で越冬し、早春に羽化する。いっぽう後者は成虫のまま越冬するという。

一匹だけならいいが、雄雌が飛んで卵を産み付けたら厄介なのでネットを張ることにした。
残っている白菜、小松菜、それとほうれん草。
本当はまだネットは張りたくなかった。網は日光で劣化しやすく一気に崩れたら散乱して回収できず、やがてマイクロプラスチックになるからだ。だから張る期間は短くしている。

でもそんなケチなことを考えず張れば、今後暖かくなってチョウが来ても安心。
また、地中にいる幼虫が羽化するのは防止できないが、ネットがあれば成虫が網の中にトラップされ、殺処分できるから来年以降の虫害を減らせるかもしれない。
ほうれん草の出来はまあまあ。
左上はエンドウ。右は春菊と白菜(ともに出来損ない)。
白菜の不良苗は秋から試しに置いておいたが、やはり成長しなかった。
しかし啓蟄以降の虫の発生、飛来の観察台にちょうどよい。

2021-03-07 8:55
このところいつも来る。スズメより大きい。
私のように、常に一匹だけで来て、地面をつついて回っている。
我が家は害虫が多いが、農薬噴霧や捕殺処分は嫌なので、なるべく彼女(彼)に食べてもいらいたい。


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追記
3月13日、春の雨が上がった夜、ヒキガエルが庭を歩いていた。

2021年3月5日金曜日

上野公園9 韻松亭から精養軒、梅川亭を歩く

3月2日朝、湯島へ仕事に行ったらシフトが変更になり私は不要になっているという。

そんな連絡はなかった。

がっかりしたが怒りはわかず。

老人力か。

上野駅に行こうとしたらヨドバシカメラがあった。アメ横をうろうろして時間をつぶし9:30開店と同時に入る。リモートワークが続きそうなのでパソコンを買う。

店を出たら雨が上がっていた。

荷物が増えたので埼玉の職場に行くのはやめ、千駄木へ歩いて帰るのに上野公園を通る。

上野駅から不忍池は1000回とはいかなくても数百回は歩いて(通過して)いるが、最近は年に数回かな。

2021-03-02 10:48
韻松亭
ランチメニューが大きく出ていた。
以前はこんなに派手な看板はなかった。客が少ないのだろうか。

明治8年(1875)創業、145年。
上野公園開業式は明治9年5月だが実際の公園利用はそれ以前からあり、明治4年には茶屋280件あったという(武江年表)。
明治政府は正式開園にあたり江戸時代からの茶店を撤去し、新たに新規の茶屋を認定し開業させた。築地の精養軒や浅草八百善(のち桜雲台)も開業式に合わせて上野に進出。韻松亭もそのころ来たのだろう。

以前にも書いたが、明治25年、27年の日本薬学会会員名簿を見ると、平野一貫と伊藤修郎の住所は、「下谷区上野公園地韻松亭」となっている。

妻は埼玉にいるとき息子の学校の母親会の集まりで韻松亭で食べたという。
いっぽう私は何十年も前を通るだけで、入ったことがなかった。
しかし2013年8月27日、ファルマシアOBの佐藤真喜子さんが企画をしてくださり、滝沢博正氏、小尾紀行氏と四人で食事した。終わってからゆっくり歩いて帰った。転居して4か月、大好きな上野公園の近くに来たことを実感した。

その後、2018年息子が結婚前に彼女の両親に挨拶するとき、ここでご馳走になったらしい。
韻松亭・玄関前の道
あたかもここから精養軒の敷地であるかのような看板(右)。
しかし土地は東京都と寛永寺、借りている事業者との間で入り組んでいるはず。

10:48 鐘楼
韻松亭のすぐ横に、奥に押しやられた寛永寺の飛び地がある。
韻松亭は漠然と風に鳴る松の意味かと思っていたが、「鐘は上野か浅草か」と唱えられたこの鐘が「松に響く」さまを愛でた、当時の博物館館長、町田久成が付けたという。彼は他の多くの茶屋の名付け親でもあるらしい。

道を挟んで鐘の反対側に小山がある。
何度もここを通っているが立ち寄ったことはなかった。
10:49
この小さな高台に1631年釈迦如来の大仏が立てられた。
当初は漆喰だったが、1655~60年頃、6メートルの銅仏になり、
1698年には大仏殿が作られた。
いま、このパゴダの中には薬師如来があるらしい。

明治6年になって大仏殿が解体され露天となり、さらに関東大震災で頭が落ちてしまった。
胴体は戦時中に供出してしまったため頭だけ残り、しかし頭だけなら「これ以上落ちない」ということで受験生の絵馬が多い。

大仏殿跡の西は精養軒。

東大に近く、大人数の洋風会食ができたから、当初から学会の親睦会やら留学の歓送迎会などに使われ、明治時代の学会誌にもよく出てくる。しかし今は普通のレストラン。

平日の11時前だが、客の出入りがほとんどない。

一階のカフェラン・ランドーレは、いつ見てもおばさんのグループが行列(椅子待ち)だったが、この日は午前ということもあり誰もいない。季節のプレートランチが2680円か、と入り口の看板を見ていたらドアマンの人に「お食事ですか」と声をかけられた。

10:56
まだ腹は減っていないので、コロナで客の入りはどうですか?と世間話をした。
精養軒のメインレストランであるグリルフクシマは休業中。
特別な会食くらいはやっているらしい。
宅急便の人が小荷物を持ってきてドアマンの服装の彼(写真右)がサインして受け取っていた。

学生時代、屋上のビアガーデンに来た。
高木重和さんは覚えているが、他に人がいたかどうか、一回か複数回か記憶にない。

二度目に入ったのは1983年、池田さんと結婚式場探しで見学に来た。

三回目はその33年後、2016年5月7日、長女が付き合っているという人を私と妻に引き合わせた。一階のカフェラン、窓際の席で池を見下ろしながらのお茶だった。
彼は出向先の九大から連休で帰京したらしく、博多駅で買ったのだろうか、お菓子の手土産をくれた。
10:58 うなぎの伊豆栄梅川亭
その長女と彼と次に会ったのが、精養軒半年後の11月19日、ここ梅川亭。
二人が結婚するという報告だった。
お開きのとき仲居さんに「おともはどうされますか」と聞かれ、分からず恥をかいた。
タクシーを呼ぶかどうかという意味だったが、上野駅はすぐ近く。
彼らは駅に向かい、私は妻を誘って家まで歩いた。

次に梅川亭に来るのはいつだろう?

さて2021年のこの日は、このあと新鶯亭の前で初対面の女将と立ち話を1時間以上して、2016年と同じように東京都美術館、芸大横を抜け、谷中三崎坂をおり、千駄木団子坂を上がって帰宅した。


(追記 2021‐06‐25)
以前書いた後半部を切り取って別ブログ(上野公園10)とした。

別ブログ