2021年4月17日土曜日

御茶ノ水4 神保町古書店街は日曜休み

4月4日、秋葉原にきた。
13:50に神田川にかかる万世橋をみて、昌平橋をすぎ淡路坂を上がった。
御茶ノ水駅の聖橋側改札口は西に移動していた。
丸善の前をとおって、14:16御茶ノ水橋のスクランブル交差点から明大通りを駿河台下交差点まで下りてきた。
(別ブログ)
2021‐04‐04 14:30 駿河台下交差点
辞書は三省堂 辞書はコンサイス
この看板は意外だった。 この街は昭和のままなのか?
辞書を引かなくなってから何十年も経つ。

靖国通りを西へ、いよいよ数年ぶりの神保町古書店街、
と思ったら日曜は休みのようだ。
昔から日曜休みだったかな? 
もっともわざわざ埼玉からくることはなくて、たいてい近くで学会があった時だから日曜に来ることはあまりなかった。
14:37
空いている店も少しはある。
洋書専門、理工学書中心など、古本でも店によって特徴があったが、閉まっているとどこがどこだったか分からない。

1975年、上京して大学に慣れたころ、フランス語の辞書を買いに来た。新品同様だったが定価2000円が1800円くらいだった。生協で買っても1割引きだから意味なかった。当時国鉄は初乗り30円、渋谷からお茶の水まで片道50円。フランス語学習の参考書も神保町で買った。
今思うと、古本といえど後のブックオフと比べると安くない。

当時は1972年のパンダブームが過ぎたころで、大量に売れ残り裁断所から流れた来たようなパンダ本が「天」の部分に赤マジックで線を入れて横積みされていたのも覚えている。
当時は古本は安いという意識しかなかったから関心もなかった。
しかし90年代になり、人文科学に興味が出たころ、また近くに来たら覗くようになった。
古い地図を床に広げて脚立の上から写真を撮っていた店はどこだっただろうか?
古地図で有名な人文社は2013年倒産した。本社は文京区大塚に移転する前、神保町でなく三崎町のほうだったから、違うようだ。

丸のバックナンバーなど戦記物を多くそろえていた店は靖国通りだったかスズラン通りのほうへ入る道だったか。福井静夫著作集で持っていないものを探した。

巌松堂ビル澤口書店の前に本の山。
仕入れは簡単だが売るのは大変だときいた。

澤口書店は靖国通りに3店あり、ここにはこけしや筆などもあった。

ネット時代になって雑誌、書籍が売れなくなり、書店もどんどん閉まっている。
古書、稀覯本にはネットにない情報もあるしマニアもいるから、一定の需要はあるだろうが、それでもアマゾンなどで探して注文してしまう。
神保町も経営が苦しいのではないか、と店員さんに聞いてみると、それほど人出、売り上げは減っていないという。ネットで本を買うより、店をはしごして歩きながら手に取り、ときには予期せぬものを見つけるのは確かに楽しい。
14:48
靖国通りと白山通りが交わる神保町交差点

神田古書センターは1階に高山本店
確か司馬遼太郎が坂の上の雲を書くとき、登場人物に関係する書籍、手紙などトラックいっぱい資料を買い集めたというが、ここの主人に頼んだのではなかったか?

ちょっと覗くと何やら古い資料が横積みになっている。
敷居が高くて入れず。
高山書店は「街道をゆく」全43冊揃いを13200円でネット販売していた。1冊300円か。昔、持っていないものを古書店を歩いて買ったが、1冊600円くらいだった。

狂言五十番、25万円。
高山本店のショーウィンドウは高そうな本が並んでいた。

14:57 
壁側一面書棚の矢口書店は健在

澤口書店神保町店
懐かしい絶版漫画が並ぶ。水木しげるや梅図かずおは今でも違う判元から出そうだが、望月三起也、上村一夫、桑田次郎、川崎のぼる、貝塚ひろしなど今の人は知らないだろう。

高速道路が見えてくる専修大前交差点にアダルト本専門の芳賀書店があったはずだが、気づかなかったか、そこまで行かなかったか。帰宅後調べたら2016年の時点でエロ本よりDVDの店になっていたらしい。ネットで無料動画が見れる時代、エロ本自体が少なくなって、マニア向けの古書エロ本を扱うしかなかろう。

白山通りまで戻り、
15:19
靖国通りから並行するスズラン通りに行く途中、偶然さぼうるに出くわした。
この老舗の喫茶店は初めだが、日曜は休みのようだ。

スズラン通りはきれいになったが、何となく寂しい。
学生時代、神田が詳しい綱島の叔母に中華料理をごちそうになった。
二階に上がる店だったが、どこだったか不明。

湘南堂書店
未整理本、掘り出し物がありそう。隣は虔十書林。
芳賀書店とともに古書店連盟の地図にはない。加盟していないのかな。

再び神保町交差点に出る。
白山通り
昔はこちらにも古書店はけっこうあった。
靖国通りのように軒並みではなかったが、ときには覗きながら水道橋駅から帰った。
アングル別冊1979年10月をみると古書店らしきが17店数えられたが、今回もらった神田古書店連盟の地図では7店。
こちらは昔からこだわりある店は少なかった気がする。
こだわりがないとブックオフのようなきれいで安くて探しやすい店には勝てない。

この交差点から後楽園遊園地が見えた。
そこからなら何回も歩いて帰ったことがある。
神保町交差点から千駄木の家まで4.1km。
仕事を辞めたら自転車で月1回くらい来てもいい。


2021年4月14日水曜日

御茶ノ水3 明大通りを歩く。杏雲堂、日大、中央大

4月4日、秋葉原から神田川にかかる万世橋、昌平橋、聖橋を見ながら歩いてきた。
(別ブログ)

 2021‐04‐04 
駅前の御茶ノ水橋から北を見ると建て替えられた東京医科歯科大、順天堂大の巨大病院ビル。すっかり景観が変わった。

14:16
スクランブル交差点ときくとなぜかここが浮かぶ。
さだまさしの檸檬の歌詞にもあり。
そのころは若者であふれていたのに、今ここは薬局だらけになってしまった(別ブログ)。
 あまり多いと儲かりすぎているのではないかと勘繰ってしまう。
医薬分業というのは必要なのだろうか?
医薬品が粗悪だった時代は医師に任せると不安だったが、今や書いてある用法用量を守ればたいてい事故はない。

黒沢楽器、石橋楽器、お茶の水楽器、オーディオユニオン、下倉楽器、谷口楽器と、お茶の水らしい店がまだ残っていてまだ残っていて、ほっとする。

14:18
御茶ノ水橋から駿河台下に降りる通りは明大通りというらしい。
通りの西側に並んでいた明大校舎もすべてビルになってしまった。
駿河台下から西側を上がってくると、ヒマラヤスギ?のある古い本館?と立て看板など乱雑に並ぶ汚い校舎があったが、すっかり新しいビルになっている。

下倉楽器をすぎると左の角に佐々木研究所・杏雲堂病院。
佐倉順天堂で佐藤泰然らに、その後長崎でポンペについてオランダ医学を学んだ佐々木東洋が、大学東校病院院長を経て、1882年(明治15年)、ここに杏雲堂医院を設立した。
この界隈では済安堂・井上眼科に次いで二番目に古い。戦前まで、本郷の南から駿河台にかけては医師の邸宅と病院の集積地だった。

佐々木研究所は、東洋の養嗣子である佐々木政吉の養嗣子佐々木隆興が、政吉の自宅内研究所を発展させて1939年設立した。彼は吉田富三(第2代所長)とともに実験腫瘍学で学士院賞受賞、ノーベル賞候補にもなった。杏雲堂は今でもがん治療で知られている。

植え込みに大久保彦左衛門の屋敷跡という石碑があり、その向こうに銅像の後ろ姿が見えた。もちろん大久保ではなく、佐々木家三代の誰かであろう。

杏雲堂病院の東は日大の歯学部や理工学部などがニコライ堂の南、本郷通りまで広がっている。理工学部何号館だったか、CBI学会で来たことがある。

杏雲堂病院の横の歩道に法政大学発祥の地という説明板。
杏雲堂病院の東隣、旧日大病院の場所に明治13年東京法学社が設立されたとある。
社というのは有志による勉強会のようなものだろうか。
それが学会になることもあれば学校になることもあった。
駿河台はそういう土地柄である。

通りの西側は明大駿河台12号館(写真左、1994竣工12階)とアカデミーコモン(右、2004年竣工11階)。地下の明大博物館は以前入った。

14:24
さて通りの東側、杏雲堂病院の次の区画は主婦の友社があったところだが、日大病院になっていた。

この一帯は主婦の友社の子会社、御茶ノ水スクエア社がバブルのころ1987年開発しA館、B館、C館ができた。しかし経営が苦しく2001年日大が一帯を買収、北側のB館、C館は壊されて、すぐ北にあった1963年築の日大病院が2014年新築移転した。
カザルスホールなどもあったA館は残り、日大法科大学院となったが、2014年日大法学部のある神田三崎町に移転し、そのあとに理工学部の図書館が移転してきた。
日大公式サイトから
日大は6,9号館が2018年竣工18階建ての高層ビル、「タワー・スコラ」になった。
2014年の計画では5号館の敷地まで入る設計であったが、縮小された。

さて明大通りを続いて南下する。
日大理工図書館の南は明大紫紺館。2006年竣工、校友会館である。
学生時代このあたりでおいしい学食は中央大学と聞いたが見つからず、まだ古かったここに入った気がするが記憶はおぼろ。

14:26
明大紫紺館のとなりは内外地図があったはず。
中2階の店舗は楽器店になっていた。
昔はここがショールームのようになっていて全国の5万分の1地図が売っており、登山者などが買いに来た。私も地図が好きだったからたまにのぞいた。
1997年10月21日、ここで明治大正昭和の東京5枚地図セット「地図で見る東京の変遷」を買った。泉麻人が明治の原宿で渋谷川の水車を見つけたとエッセイで書いていた地図である。
当時私は東京の歴史より地形に興味があった。今のようにネットでデジタル標高地図が見れる時代ではなかった。明治初期の実測地図は建物や文字が少ないため都心でも等高線が書いてあり、それを赤鉛筆でなぞったりした。

ここは内外地図の自社ビルであり、店舗は6階に移動していた。
エレベーターで上がったら閉まっていた。

14:30 駿河台下交差点
辞書は三省堂 辞書はコンサイスという看板は意外だった。

交差点を渡り振り向くと明治大学リバティータワー23階建てがそびえていた。

以前この辺りはスポーツ用品店が集まっていた。
今でもビクトリア、石井スポーツなどはあるが、減った気がする。
昔はスキーやアウトドア製品も買うのにお茶の水まで来たものだが、いまはネットや家の近所のホームセンターで買う時代になった。

帰宅して、日大理工学部のキャンパス地図を見ていて、新しい日大「タワー・スコラ」18階建ての西隣に中大駿河台記念館があることに気づいた。
中央大学は私が大学3年生だった1977年に多摩キャンパス(八王子)が完成し、M2になった1980年、駿河台キャンパスを閉鎖、跡地は大正海上火災に売却、いま三井住友海上駿河台新館(22階建て)となっている。
中大記念館は1988年、創立100周年記念館として7階建てで竣工したが、周りに合わせて20階のビルに建て替えるらしい。2023年完成予定。
都心回帰の一環として中央の看板、法学部は茗荷谷に来るようだが、20階というのは学生も来るのかな?

かつてお茶の水、駿河台は若者の街だった。
日本のカルチエ・ラタンと言われ、たしかに中大、明大、日大、その他予備校、専門学校の学生が喧騒の中をたむろし、飲食店、書店、楽器、など若者文化の中心だった。ほかの大学の学食や校舎にも入れたから、一つのキャンパスのようだった。他大学の異性と出会うこともあったのではないか。

しかし中大が移転、周囲の商業ビルも高層化され景色は変わった。
近年大学にも都心回帰の流れがある。しかし校舎を高層ビルにしてキャンパスの収容学生数をむりやり増やしても、まるでビジネス街のようで、とてもカルチエラタンとは言えない。閉鎖的な箱に閉じこめられたようで、他の大学の学生と出会うこともないだろう。

2021年4月12日月曜日

神田川1 万世橋と昌平橋から聖橋まで歩く

4月4日、秋葉原に来た。
すっかり変わった秋葉原で、1974年高校3年以来の、いくつかの記憶を引き出した。
(別ブログ)
電気街から西のほうに歩くことにする。

2021‐04‐04 13:48
中央通りを渡って秋葉原電気街を振り返ると総武線が通った。

南の万世橋を渡る。
前回来たのは2017年、千駄木から自転車で日本橋まで行った時。(別ブログ)
最初に渡ったのは1975年、初めてのデートで畑さんと上野公園・広小路から歩行者天国を散歩していたら銀座まで行ってしまった。
万世橋
この名の橋は1873年(明治6年)、江戸時代の筋違橋と桝形門が壊されるときにその石を使って作られた。九州に多い眼鏡橋の技術者が招かれたという。石だからよろづよ橋と名付けられたが次第にマンセイ橋と呼ばれるようになった。
しかし筋違橋はここではない。
江戸絵図(安政6年)
筋違御門橋、昌平橋の内側は八ツ小路という広場になっていた。
数えれば9本の道が入っている。
中山道はここに入って昌平橋を渡る。

明治10年
その1873年、すぐ上流の昌平橋が洪水で流され、万世橋(筋違橋のところ)の下流に仮の木橋が作られた。
明治10年の地図を見れば今の万世橋の場所に昌平橋とある。

明治29年(1896)昌平橋が復旧した。
明治36年(1903)仮の昌平橋が撤去したあとに万世橋が架けなおされた。
1906年、筋違橋のところにあった元の万世橋は撤去され、現在の位置関係になった。

13:50
今の橋は関東大震災(1923)で被災した後、1930年に同じ場所にかけなおされたもの。
西を見れば昌平橋が見える。

13:52
中央線のガードを見上げながら万世橋を渡っていたら、まさかの「肉の万世」。
万世とは橋の名前だから、そこに「肉の」とつけるのは変な店名だが、社名は「万世」だから仕方ない。創業した鹿野明は、戦後秋葉原電気街でヤマギワに勤めていて、鹿野無線に独立するも売り上げ不振、1949年、精肉・コロッケ商「万世」へ業種転換したという。

大宮から川越に行く国道16号の万世でこま切れ肉と玉ねぎを炒めた鉄板焼きが好きだった。
30年も前だがまだあるのかな?

渡れない道路のむこうをしばらく見つめ、ふとこちらの道端に目を戻したら、万世のカツサンドの自動販売機があった。700円だったが、5千円札しかなかったこともあり買わなかった。

中央線のガード下はカフェなどが入っている。
マーチ・エキュートという。
通り抜けできるのかな? 駅のエキュートと違いおしゃれすぎて入らなかった。
煉瓦の壁に沿って外を歩くと途中、旧万世橋駅というドアがあった。
1935階段、2013プラットホームと書いてある。

13:54
万世橋駅に鉄道博物館(のち交通博物館)ができることになり、近い出口として1935年に作られた階段。万世橋駅は1912年開業、都心から新宿、立川方面に行く列車の起点として重要な駅だったが、東京・上野間、東京・万世橋間が開通して近くに神田駅、秋葉原駅ができると役割を終え、1943年に廃止された。

階段を上がるとプラットホームのように線路と並行したデッキ。
「2013プラットホーム」というから、2013年にできたのだろう。
神田川側に行き止まりの線路、南側は中央線快速の線路がある。

13:58
13:58
お茶の水側の古い階段を下りて外に出ると「1912階段」と書いてあった。
開業時はこちらの階段だけだったのだろう。

交通博物館は2006年閉鎖され、跡地(道を挟んだ南側)にはJR神田万世橋ビルが2013年竣工した。

14:01 昌平橋
左中央線、右総武線
国道17号は万世橋だが、旧中山道は昌平橋を通る。
東を見れば万世橋が見える。

実は昌平橋駅というのもあった。
明治45年 最新番地入り東京市全図
当時は中央停車場(のち東京駅)が建設中で、新橋と上野の間に駅はなかった。(秋葉原は貨物駅)
甲武鉄道(明治39年国有化)はお茶の水まで来ていたが、明治41年(1908)東に伸び、昌平橋停車場が終点となった(上図中央)。すなわち都心から西へ向かう始発駅で、かつ都電の路線も集まっていたから、交通の要衝だった。地図の停車場前広場には万世橋側に広瀬中佐銅像と書いてあるが、杉野兵曹の像もあった。

しかしその4年後、さらに東に延び明治45年万世橋駅ができると、昌平橋駅は閉鎖された。
さらに伸びて万世橋駅も閉鎖されたのは先に書いた。

14:04
昌平橋を過ぎるとすぐに淡路坂

これだけ近くで電車の底を見られる場所は少ない。
石が飛んできたら危ない。
淡路坂は神田川を挟んだ北側の昌平坂と並行しているから、両者を相生坂ともいう。

14:08
湯島聖堂などを見ていたら、赤い丸ノ内線が神田川を渡った。

御茶ノ水駅は近い。
わざわざ昌平橋駅、万世橋駅と、ほんの少しずつ伸ばしていった意味が分からない。

坂を上りきると左にお茶の水ソラシティ。
キョーリン製薬、小尾氏の好意で見せてもらった高層階からの絶景は以前書いた。

2021‐04‐04 14:11
御茶ノ水駅の工事はまだ続いている。
すっかり新しくなった聖橋のむこうに、新しい東京医科歯科大のビルが見えた。

初めて東京を歩いた高校3年の夏の日、聖橋を向こうから渡ってきて、たまたま目に入った千代田予備校にもぐりこみカレーを食べた。




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2021年4月10日土曜日

秋葉原2 ラジオセンターと秋葉神社

秋葉原駅のまわりは直交する二本の線路で座標面のように4分割されている。
北西にあった青果市場は秋葉原UDXなどになり、すっかり様相が変わった(別ブログ)。

2021‐04‐04 13:28
しかし南西の第三象限はあまり変わっていない。
電気街秋葉原としては昔からの表玄関である。
かつては改札を出たここで包丁や万能スライサーなどキッチン道具の実演販売などもやっていた。

「世界のラジオ会館 秋葉原」のロゴも昔のまま

戦後、神田須田町の靖国通り沿いに闇市が並んだ。
昔、その万世橋、昌平橋辺りは都電が何本も通り交通の要衝で、闇市のなかには軍から横流しされた電気部品を売る露店も多くあった。
近くにあった電機工業専門学校(現東京電機大)の学生が安い部品を組み立てラジオを作りそれが高く売れたらしい。農家にもっていって食料と交換したのである。
しかしGHQが露店排除を命じたことで露天は行き場を失う。その電器屋の収容を目的に「ラジオ会館」が建てられた。当初は電気製品・部品を扱う店が多く入っていたが、時代とともに一般家電、オーディオなどが並ぶようになった。私の学生時代1979年には46店舗が入っていた(別冊アングル1979,10月号)。

1984年12月石油ファンヒーターを買いに来たとき、普通の大型電気店のようなラジオ会館にも入った。
改札出たら目立つからね。

その後パソコンのショールームが次々とオープン、しかしほかに移転、一般家電なども縮小し、今外から外壁を見るに、アニメやカードなどの店が多いのかもしれない。
ラジオ会館の旧館は2012年に解体され、今のビルは2014年に竣工したという。
別冊アングル1979年10月

秋葉原にきた露天商が集団で入居したのは、ラジオ会館のほかに、総武線ガード下のラジオセンター、ラジオストア、中央通りの向こう、セガの隣の東京ラジオデパートなどである。

「ラジオ」というのは、テレビがなかった時代、無線で何か面白いものが聞こえるものとして若者が自力で作ろうとしたのであろう。真空管や電気部品一般を扱う商店はみな○○無線、○○ラジオという店名にし、ラジオは電子部品一般の代名詞だったのではないか。

1979年10月号
ラジオストアのあった一角は2013年閉鎖されたが、ラジオセンターは今も残る。

13:30 ラジオセンター
しかしコロナ禍で三密になりやすい休日は自主的に閉店しているようだ。

1987年から88年ころ、ここに電気部品を買いに来た。
東大薬理の遠藤實先生、飯野正光先生のところはよく測定機器を自作した。
私のひと世代前は電気生理学を研究するにはアンプ(文字通り細胞の微小膜電位、微小電流を増幅させる)を自作した。
さすがに私のころアンプは実験機器メーカーから市販されていたが、有機合成化学や生化学と違い、生物学というのは物理の知識と、細かいはんだ付けや旋盤工作の技術とを必要とする。例えば超微小筋肉片の張力を図るに、金属片がわずかな力で変形すると抵抗が変わることを利用し、ブリッジ回路を作ったりした。
ラジオセンターも中には開いている店もある。

その切片を入れる実験槽の容量もわずかであるから微量液量でも測れる温度計も自作した。
様々な値の抵抗やコンデンサー、ケーブル、スイッチ用のケースなど買って帰った。
新しい発見、人と違うデータを出すには、新しい装置を作らねばならない。飯野先生らの哲学だった。

ラジオセンターを出ると中央通り。
13:33
上野から銀座まで続く中央通りと総武線

1984年石油ファンヒーターを買いに来たときは商品を見ていたら、「安くしますよ」と声を掛けられた。中央通りを渡ると人通りも少なくなって、連れていかれたのは箱に入ったまま積んである小さな問屋のような店。電気街は思ったより広がっていた。

学生時代のステレオなどは生協だったし、就職してからのラジカセやビデオカメラは大宮。ビデオデッキはどこだったかな? そのうち大宮に量販店もできて、わざわざ秋葉原まで来て電気製品を買ったことはたぶんない。

中央通り沿いの九州電気。
1979年の図だと同じ場所に九州電子。同じ店だろう。

再びラジオセンターに入る。
13:35
かつては暗くて狭い路地?通路?に入ると、地面に箱を並べて電子部品やジャンク品を売っている一角があった。

シンシナチで娘同士が小学生の同級生だったインド系のRajan Rati夫妻が1996年6月来日、埼玉の我が家に一泊した。翌日東京案内でこのラジオセンターに連れてきた。東京タワーや増上寺よりその路上部品ショップに感激したようで写真を撮りまくっていた。東南アジアなどの猥雑な生鮮市場がハイテク日本ではこういうふうになるのかと思ったのではあるまいか。日本だってふつうは輪島の朝市など路上は野菜の箱やかごが並ぶのだが。
13:36
ブースというか棚を月1500円で貸していた(2か月目からは2500円?)。

結婚当初家電を買った大宮、北浦和のラオックスなどは戦後、秋葉原の一坪の店から大きくなった。
アメリカではよくベンチャー企業がガレージからスタートするが、この1500円の棚に出品した子供からハイテク大企業が生まれればいいな。
今はネットの時代で昔ほど必要性ないかもしれないが、コアな人が集まり現物を手に取れるメリットはある。

戦後そのままのようなラジオセンター2階への階段。
なぜか昭和30年からの年表が貼ってあった。

周囲がきれいになる秋葉原になぜここだけ戦後が残ったかというと、すぐ上を総武線の線路が通っていてどうにもいじれないから。一時移転すれば改装は可能だが、渋谷のような全面的高層化はいったん線路を地下に作ってからでないと無理だろう。いや地下は地下で日比谷線、TXが南北に走っているから無理だ。

13:39
天井に配線が走る階段踊り場に神棚のような神社。
さては秋葉神社か!?とおもったらお稲荷さんだった。

この地は火事の多かった江戸の北。火除け地として家屋を撤去し火災鎮護の神、秋葉神社を勧進した。幕末の切絵図にはないが、明治11年の実測図にはある。
旧昌平橋と和泉橋の間

この秋葉社は上野からの鉄道の延伸にともない、台東区松が谷(上野公園と浅草の間)に遷座した。
アキハバラは国鉄の駅の読み方で定着したが、昔はアキバッパラとかいろいろ呼ばれた。
だから1999年11月3日、次女の七五三で埼玉指扇の秋葉神社アキバジンジャにいったときはアキバハラが正しいのではないか、と思ったが、いま浜松の本宮、秋葉神社はアキハと読むことを知った。
13:41
ラジオセンターのすぐ横までアトレが迫っている。
戦後から続く昭和のラジオショップがどこも同じ駅ビルのようになったら寂しいな。

埼玉からはるばる秋葉原に来ることは滅多になかったが、2002年8月、ダンス雑誌の懸賞で燕尾服が当たり、東の昭和通りのほう、再開発前の小さな出口から出て岩本町のカインドウェアに採寸に来た。(しかしまだダンス競技は始めておらず、パートナーも見つからず、服は2年以上タンスにつるされたままだった。)

次に来たのは2010年。
駅はすっかり変わっていた。
東側は貨物駅が1975年に廃止になった後、上野発着列車の留置線になったが、それもヨドバシカメラやTXの駅、広場になった。青果市場と電気街があった西側は
改札を出ると総武線の下をくぐる自由通路ができていた。
朝市のように地面に電子部品の箱が並んでいた一角はなくなっていた。

2010年は秋葉原UDXでMDC社のオートパッチクランプ装置のユーザーミーティングだったのだが、駅の変わりように驚き少し周りを歩いた。メイドの格好をした少女がティッシュを配り、フィギアを求めるむさくるしい男たちが行列を作っていた。ゲームセンターに入ると視覚と聴覚が刺激されすぎて気分が悪くなった。昔も独特な駅だったが、また違う方向に変貌していた。

左・秋葉原ダイビル 2005年竣工
右・秋葉原UDX 2006年竣工
ダイビルは1923年創業の大阪ビルヂィングの略「大ビル」だろう。
UDXはUrban Development Xという。

UDXは翌2011年もイオンチャネル創薬のセミナーがあり、澤田、関野、黒川、今泉氏と会ったとメモにある。ここは階段席の会議ホールもあり、交通至便、また来るだろうと思ったら、転職したこともありまったく用事がなくなった。

その、戦後闇市、電気街から大変貌してびっくりしてから早くも10年、あのとき新たに登場したメイドカフェ、AKB48もすっかり古くなってしまった。
13:42
線路越しに東のヨドバシカメラが見えないかと振り向いたら、昭和のまんまの京浜東北線と駅舎が見えた。

別ブログ

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