2025年3月25日火曜日

近江の日牟禮八幡と豊臣秀次の築城と最後

3月6日、京都に向かう途中、長浜城をみて、安土に来てレンタサイクルで安土城から近江八幡にやってきた。

田んぼ道をよたよた走り近江八幡の街中に入ると左手にヴォーリズ学園すなわち近江兄弟社学園があり(前のブログ)、さらに少し行くと右手に鳥居がある。

12:31
日牟禮八幡宮
近江八幡神社という神社はなく、ここが近江八幡の地名の元である。
しかし参拝(というより見物)はあとにして昼食にした。
鳥居の並びにあった千成亭という店で近江牛のすき鍋御膳をたべ、これまた隣にあった「ふとんの西川」の初代から12代の歴代当主が住んだという邸宅も(ほんの少し)見学した。

食事した店や旧西川家住宅の裏は八幡堀になっていて、これに沿ってずっと歩いたら良いだろうな、と思いながらも再び自転車にまたがった。
先ほどの鳥居をくぐると神社のための堀のような八幡堀の橋がある。
13:40
下を見ると、さきほどの旧西川邸の裏あたりから遊覧船がやってきた。
女性客が二人乗っていた。こちらのカメラに笑顔を向けてくれたので手を振ったら向こうも手を振ってくれ、こちらも嬉しくてもっと大きく振った。
13:41
船は東のほうに行った。
地図を見れは様々な水路を経て西の湖、琵琶湖まで続き、水郷地帯を形成している。
このあたりは両岸の歴史的建物と調和し、さきの田んぼのほうは葦の林に埋まるのだろうか。いずれにしろ華美な看板もなく景観は優れ、近江八幡、滋賀県の民度の高さ、底力を感じた。

近江八幡は、 蒲生郡八幡町を中心に1954年に市制を敷いた。本来なら町名そのままに八幡市になるところ、このとき北九州に八幡市があったため近江を冠した。八幡など日本中にあるから仕方がない。(その後北九州市ができて八幡市が消滅、1977年京都の岩清水八幡を市域に持って誕生した八幡市は何も冠していない。)

その結果、「近江八幡」という言葉は東海道線の駅名とともに定着し、あたかもこの名の神社があるかのようである。しかしここから身を起こした近江商人なども連想しやすい歴史を感じさせる市名にもなっている。

近江八幡市は2010年で人口6万9千人であったが、この年、隣の安土町を吸収合併し、いまは80,865人という(2025年推計)。
13:44
日牟禮八幡宮
祭神は全国の八幡さまと同じく応神天皇。

琵琶湖は若狭湾、大阪湾とも近く、道路が未発達な古代は今よりずっと利用されてきた。そして湖上から見る小山は目についたであろう。
奈良京都にも近いから小山のふもとに神社ができるのは自然である。

「ひむれ」とは変わった言葉だ。
伝によれば、この地はさきに大国主神を祀る大嶋神社というのがあり、奥津嶋神社を訪ねた応神天皇が大嶋神社の近くで仮屋をたて休憩した。その後、御座所址から太陽が2つ見えるという不思議な現象があり、住民は祠を建て、日群之社八幡宮と名付けたのが始まりという。
(べつに近江、畿内の古代氏族、和珥氏の祖先、日觸使主(ひふれのおみ)から来たという説もある)

13:45
八幡社境内
平安時代(991年)八幡山(法華峰)の上に社を建立し、宇佐八幡を勧請、さらに1005年、遥拝社をふもとに建立し、上宮、下宮に分かれていたという。

あとで述べる豊臣秀次の八幡山築城の際、上宮を城地にしたから、それを下宮と合祀し、日杉山に祀りなおすこととなった。ところが秀次が領地替えにより尾張清州城に移ったため、移転が延期され、さらに彼が自害したことで八幡山城は廃城、八幡の移転は全面中止となって、下宮(現在の場所)が八幡社の境内となったという。
13:53
八幡社の横にロープウェイ乗り場がある。
頂上に行けば琵琶湖も見えるだろうが、時間とお金をかけるほどではない。
乗り場まで行ってみたがほとんど人はおらず、売店があり、先ほどのすき鍋御膳にも入っていた近江名物「赤こんにゃく」などが売っていた。

近江八幡はほかに見所が多そうなので八幡宮を短時間で切り上げる。
14:01
観光地図を見て豊臣秀次像のある八幡公園に行くことにした。
社会科の教科書には載っていない人物だが叔父の秀吉に振り回されたような人生だった。

鳥居を出て、昼食で寄った千成亭、旧西川邸の面した通りを西に向かう。
左前方の建物にメンタムの看板あり。
14:03
近江兄弟社本社・メンターム資料館
(前のブログ)
14:09
南からふたたび八幡堀を渡り、旧城内?に入る。
橋を渡った道の突き当りに近江八幡市立図書館がある。
その裏山が八幡公園である。
14:13
八幡公園案内図
ただの公園案内図でなく、簡単な歴史地図にもなっている。西のほうに麓から頂上に向かう大手道があり、両側にひな壇上に家臣団の屋敷が並び、一番上に秀次の屋敷があったらしい。
それら一帯も公園敷地内のようであるが(桜の名所?)、ずいぶん広いので行くのは断念して秀次像だけ見ることにした。

豊臣秀次は、秀吉の姉である瑞竜院日秀の長男、つまり甥である。
幼少時、浅井長政の家臣・宮部継潤のもとへ人質として送られそのまま養子となり、次いで三好一族の三好康長(笑岩)の養子となり三好家の名跡を継いだ。秀吉が天下人の道を歩み始めると(1584年)羽柴姓となって翌年は名も秀次とする。

1585年8月、秀次も参加した四国平定が成ると、大掛かりな国替え・加増が行われた。秀次の本人分としては20万石、秀吉から預けられた宿老たち(中村一氏・山内一豊・堀尾吉晴)の分としては23万石が与えられ、併せて43万石の大名となった。領地は信長、秀吉以来の要地、近江国の蒲生・甲賀・野洲・坂田・浅井の5郡。そして秀次はここ八幡山に城を築いた。三層の天守閣は日牟禮八幡宮の上宮を移築したという。

城地の選定から築城まで秀吉が指図したとされ、建物や城下の町人は安土から移築、転居させた。(この時点で安土城は廃城となった)入城した秀次は18歳であった。
これが今の近江八幡市の始まりとなる。
14:19
遊具がある場所の向こう、枯れ木立の中に立像の顔が見えた。

1586年、秀次は豊臣姓となる。
九州征伐の終わった1588年には豊臣政権下で官位順に並べると、徳川家康(大納言)、織田信雄(信長二男、内大臣)、豊臣秀長(権大納言)、豊臣秀次(権中納言)、宇喜多秀家(参議)、前田利家(左近衛権少将)の順となり、四番目まで引き揚げられた。

1590年の小田原攻めの論功行賞の国替えで、家康が関東に、その旧領・東海甲信の五か国が織田信雄へいくことになったが、信雄が移封を拒否して彼は改易された。そのため信雄領であった尾張・伊勢北部5郡などが秀次に与えられ、旧領と合わせて100万石の大大名となった。これに伴い、秀次は居城を八幡山城から信雄のいた清洲城に移し、年寄衆の所領も(空いた)東海に転封された。

ちなみに、例えば山内一豊が長浜城から遠州掛川に行ったのは、こうした事情による。

八幡山城には代わって京極高次が2万8千石で入城した。京極氏は近江源氏、佐々木氏の一族で彼も小谷城京極丸で生まれているから、この地には縁がある。

小田原の翌年1591年、秀吉は頼りにしていた弟の秀長、老いてからの嫡男・鶴松が相次いで死去した。その結果、残った秀次が秀吉の養子となった。この年の末に秀次は文字通り秀吉に次いで関白となり、秀吉の後継者となる。翌1592年は様々な行事で権力の継承を世間に知らしめた。
14:19 豊臣秀次像
ところが1593年、淀君が秀頼を生むと秀吉と秀次の関係がおかしくなっていく。最後は1595年、秀次に謀反の疑いがあるとされ、切腹させられた。秀次の首は三条河原で晒し首とされ、その際に、秀吉は「殺生関白」と噂されるほど、眷族すなわち妻子もことごとく残虐に処刑した。この時期の秀吉は無益な朝鮮出兵を強行するなど頭がおかしくなっていたとしか思えない。

この年、八幡山城は築城から10年で廃城とされ、京極高次は大津城へ移った。

京極氏の居城となっていた八幡山城がなぜ廃城されたかは、京都の聚楽第と同じである。1591年12月に秀吉が豊臣氏の氏長者・家督および関白職を秀次に譲ったあと、聚楽第は秀次の屋敷となった。
しかし、1595年7月に秀次が秀吉によって高野山に追放させられ、切腹した。その後、秀吉は、秀次を謀反人として印象付けるためか、翌8月から聚楽第を徹底的に破却した。竣工から破却まで、聚楽第が存在したのは8年弱であった。
この八幡山城も同様であり、このころの秀吉は癇癪を起す信長のようで異常としか言いようがない。

秀次像の顔をしっかり見ることもなく再び自転車にまたがり、八幡山城址をあとにした。
ここから安土までは遠く、無事に着くか不安なのでもう見物せずに帰ることにする。
来た道を戻ると、南に(JRの駅のほうへ)入る道路が何本かある。

途中、新町通りという通りに入った。
14:26
新町通り
予想以上に古い家が残されている。

近江八幡の町は豊臣秀次の時代に作られた。
城の守りとして掘られた八幡堀を北辺とし、碁盤の目のようになっている。
安土と同様に楽市楽座とし、町人を集めた。

八幡山城は秀吉によって徹底的に痕跡を消されたが、町は残った。集まった商人たちはここを根拠として近江商人となり全国的な展開も見せ、今につながる老舗も多い。
これらは秀次の遺産といえないこともない。

(続く)

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2025年3月24日月曜日

近江兄弟社学園とヴォーリズのメンソレータム

3月6日、京都に向かう途中、長浜で下車、急いで見物し再び電車に乗って安土に来た。

安土ではレンタサイクルを借り安土城をこれまた急いで見て近江八幡に向かう。
雨が降りそうな気配。
ひたすら西に向かってペダルをこぎ、途中で西の湖をみるため北に曲がった。
一日で一番暖かい時間帯のはずだが寒い。
12:03
干拓地なのか道路が真っすぐ。
左にポツンと森が見えた。
新開の森(シガイの森)という心霊スポット。信長の時代の処刑場という話もあるが嘘っぽい。先を急ぐので立ち止まらず。

北風が向かい風となり自転車にはきつい。
後ろから車が大きく膨らみながら、よたよた走る我々を追い越していく。
12:11
西の湖(にしのこ)に出た。
「の」が入っているが湯桶読みだから変な感じ。

琵琶湖かと思うくらい広い。
地図で見れば比べ物にならぬほど小さいのだが、それだけ琵琶湖は大きい。
12:12
寒々としている。
ここ南近江は北近江と違って太平洋側の気候と教科書にあるが、この曇り空は日本海側の天気に見える。広大な琵琶湖が日本海のような役割を果たし、若狭の山が低くて大して勢いを削がれなかった北西季節風が勢力を盛り返すのではないか? などと考えながら自転車をこぐ。
12:12
右(東)をみると先ほど登った安土山の裾野が見えた。
このまま西の湖の周りのサイクリングロードを琵琶湖まで行きたいが、時間も体力もないので目的地・近江八幡に一路向かう。
12:18
蛇砂川を越える橋の坂は自転車を押した。
ここまで来ると大変だからといって安土に引き返すわけにもいかず進むしかない。
押しながら小学校だったか中学校だったか、社会の時間にならった天井川の例は滋賀県だったことを思い出す。

さらに西に向かってこぎ続けるとようやく近江八幡の街中に入った。
学校の前を通った。
12:27
左の表札は「ヴォーリズ学園」
右の表札は「学校法人 近江兄弟社学園」とある。

雪の道中を歩いてきて、疲労困憊の状態で知人の家を探さねばならないというときに、最初の1軒目がその家だった、というような例えとちょっと違うが、いきなり近江八幡の名所に出会った。

1905年滋賀県立商業学校(現滋賀県立八幡商業高校)の英語教師として、米国人ウイリアム・メレル・ヴォーリズが来日した。彼は建築家でもありプロテスタントの伝道者でもあった。そして1922年彼が日本人妻と開いた清友園幼稚園を学園の始まりとする。

ちょうどスクールバスが来て生徒たちが乗り込むところだった。

なおも西に向かうと鳥居の前に出た。
12:31
日牟禮八幡宮
近江八幡神社という神社はなく、ここが近江八幡の地名の元である。
しかし参拝(というより見物)はあとにして昼食にする。
このあたり観光地と思ったが意外と人通りはなく飲食店も少ない。

すぐそばに近江牛と書かれた幟があった。
12:32
千成亭と旧西川邸
自転車に疲れたので最初に目に入ったここに入る。

食事して体力気力が回復してから、千成亭の隣の旧西川邸を見学した。近江商人の代表、ふとんの西川の当主旧宅であるが、時間もないので覗いた程度だった。
さらに日牟禮八幡社をみて(立ち寄って)、近江八幡の町の元を作った豊臣秀次像を見るべく八幡公園に向かった。

ヴォーリズ学園や、鳥居や千成亭、旧西川邸の面した通りを食事前と同じように自転車で西に走る。
左前方の建物にメンタムの看板あり。
14:03
近江兄弟社本社・メンターム資料館

長野ではメンタム、メンタムといっていたがmenturmメンタームだった。
近江兄弟社とは変な社名だが、正式には株式会社近江兄弟社 という。
土佐兄弟の兄弟とは違う。
また兄弟社の社はsocietyの翻訳で、社会とか結社の社であろう。

ここで昼食前に校門前を通ったヴォーリズ学園、すなわち近江兄弟社学園との関係を書く。
14:04
本社は近江兄弟社発祥の地「創(はじめ)の家」に建つ。

1905年2月、日露戦争の最中、24歳でYMCA派遣の英語教師として来日したヴォーリズは放課後、この地にあった自宅を開放し、聖書を読むバイブルクラスを立ち上げ、多くの青年を導いた。
すなわち、ここから建築事業、結核療養所設立、製薬、教育、協会設立などの夢が始まった。
しかし仏教色の強い地域での布教は摩擦を生み、2年後に教職を解かれる。

1908年(明治41年)、建築家レスター・チェーピンと共に再来日。県立商業学校を卒業したばかりの吉田悦蔵と3人で、キリスト教伝道のかたわら生活の糧を得るために建築設計の仕事をスタートさせた。
1910年ヴォーリズ合名会社を創業。
1920年(大正9)会社を解散、新たにW・M・ヴォーリズ建築事務所と近江セールズ株式会社を設立し、建築材料、メンソレータム、ハモンドオルガンなどの輸入販売を行った。

彼の関わった建物は近江八幡だけでなく全国に存在する。
お茶の水の山の上ホテルの本館や主婦の友社ビル、明治学院チャペル、国際基督教大、同志社大などの建物群などが知られ、神戸女学院の建物群は2014年に重要文化財に指定された。
14:09
秀次の八幡山城の濠でもあり、琵琶湖水運の水路でもあった八幡堀

彼の事業の伝道部門は「近江ミッション」と呼んだ。
近江八幡の町は八幡堀で琵琶湖とつながっている。
滋賀県の村々で布教活動を行っていたヴォーリズらは、一時アメリカに帰国した際、モーターボートをもらい、それをガラリヤ丸と名付け、琵琶湖を横切って湖西、湖北の人々に伝道した。
1934年、近江ミッションを近江兄弟社と改称。

1944年、 株式会社近江兄弟社を設立。近江セールズ株式会社の事業を引き継いだ。ここで布教部門の名称が製薬事業の会社にも使われることになる。

彼は1919年(大正8年) 子爵・一柳末徳(播磨国小野藩第11代すなわち最後の藩主)の令嬢・満喜子と結婚した。
日米風雲急を告げる1941年、日本に帰化。夫人の旧姓をとって一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)と名乗った。めれるは本名William Merrell Voriesから来たものだが、米来留という当て字は「米国より来りて留まる」という決意を表したという。
14:05
資料館の中は傷薬で知られるメンターム製品などが並ぶ。
時間がないので写真を1枚撮らせてもらっただけで自転車に戻った。

近江セールズ株式会社は、当初アメリカ、メンソレータム社のメンソレータムを輸入販売していたが、1932年からは国内で製造も始めた。戦後は皆が知る一世を風靡した製品に成長した。

しかし、創業者ヴォーリズの亡きあと、原材料費の高騰、また他社きずぐすりとの市場競争が熾烈を極めた。また不動産部門の採算悪化と1973年のオイルショックの影響もあり、1974年、会社更生法を申請。メンソレータムの販売権を失った。
(翌1975年メンソレータムの販売権はロート製薬が取得、さらに同社は1988年に米国メンソレータム社本体も買収した)。

近江兄弟社は大塚製薬グループの大鵬薬品工業の協力を得て再興を模索したが、メンソレータムの継続生産はできない。そこでメンソレータムの略称として商標登録してあった「メンターム」を商品名として1975年9月メンタームの製造を始め、自主再建の足がかりをつかんだ。

近江兄弟社学園は、株式会社近江兄弟社でなく、近江ミッションの近江兄弟社である。
近江ミッションのメンバーの増加によって、大正期には婦人による自発的な活動の「婦人部」、結核療養所の近江療養院、清友園幼稚園、昭和期には近江勤労女学校、近江向上学園、近江家政塾など特色あるキリスト教主義の社会活動が行われた。

この中の1922年の清友園幼稚園が近江兄弟社学園の始まりで、昭和期の各学校は再編され、近江兄弟社小学校・中学校・高等学校となったが、小学校は2023年募集を停止した。

2015年に学校法人近江兄弟社学園から学校法人ヴォーリズ学園に改名された。まあ、メンタームの会社が経営しているような印象を与えるから当然だろう。
(これとは逆に、1951年、清友園幼稚園を近江兄弟社幼稚園と改称している。現在は近江兄弟社ひかり園)

ヴォーリズには、終戦後、天皇の処遇についてマッカーサーと近衛文麿が会談するにあたり、仲介工作を行ったという話もあり、1949年には昭和天皇に拝謁した。
https://www.omi8.com/omihachiman/local-history/vories/gensui/

1951年社会貢献で藍綬褒章、
1961年建築業界における功績で黄綬褒章を受章。
1958年近江八幡市名誉市民第一号に選ばれる。
1964年永眠の際は近江兄弟社葬と近江八幡市民葬の合同葬。
没後、正五位に叙され、勲三等瑞宝章を受章した。

メンソレータム資料館を見た後、八幡公園の豊臣秀次像を見に行った。
(続く)

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2025年3月22日土曜日

安土城は全域が摠見寺の所有物だった

3月6日、京都へ行く途中、滋賀県に降りた。
長浜を短時間見た後、安土に来た。
何十回も新幹線で近くを通りながら一度も訪ねたことがなかった。

安土駅は新しい。
冷えてトイレを借りたが、そこもきれいだった。
2025₋03₋06 10:08
駅北口。安土城や琵琶湖のあるほう。
信長像があるから表玄関だと思うのだが、商店街が見当たらない。
駅は大正3年(1914)開業だが、その後発展しなかったらしい。
確かに駅の周りに家が増えるのは大都市圏のことで、地方は駅の周りも過疎化し、廃線にすらなる。東海道線だから大丈夫なわけだ。

安土城は2キロくらい離れている。
当初は歩いて往復し、電車で隣の近江八幡に移動、そこからバスで八幡堀や街並みなど名所を見るつもりだった。
しかし妻が一緒だと往復と安土城上り下りに時間がかかり、近江八幡の時間が足りない。琵琶湖も見られない。
自転車を借りればいいが、彼女は左手が腱鞘炎になっていて難しいかもしれない。天気も今一つ。

人もいない、店もない、タクシー、バスもない、なーんにもない駅前ロータリーで一番目立つのは2軒のレンタサイクル屋だった。
当初乗り気でなかった妻も歩くのは嫌だとみえ、自転車を借りることに同意した。
10:19
レンタサイクルや「たかしま」
一番安いママチャリで2時間500円、3時間700円、5時間1000円。
誰もおらずセルフサービスのようだ。
住所氏名、自転車番号、借りる時刻を用紙に書いて、15時過ぎに戻ってくるとして、2台分2000円を用紙に包んで箱に入れる。
観光パンフレットが多数おいてあり何枚かもらった。
安土城だけでなく、考古博物館、信長の館、観音寺城址、西の湖から近江八幡まで載っていて、いかにも自転車で回りたい地図である。
10:35
自転車は快調。ちゃんと整備されているから家のボロチャリと乗り心地が違う。
最低限の生活をしていると、小さなことでも感激する。
前方の安土山めざし、道はまっすぐ。
この山は198mと地図にもネットにも書いてある。
しかし重要なのは標高よりも麓からの高さであろう。幸いここは琵琶湖がある。その水面が大阪湾を基準として標高85メートルくらいというから、100メートル強か。

安土城は山城に分類される。
平山城は城郭によって山林が消えるほど山が小さいから、安土はやはり「山」である。
10:39
道の両側は麦畑。
旅の楽しみの一つは、その土地の作物が見られること。
昔は信州などにも麦畑があったが、今はない。
麦秋は5月下旬ころ。
10:40
安土山のふもとに沼のような川がある。
このあたりは琵琶湖に近い。というかつながっている。城の濠として掘ったというより、かつて湖水だったところの名残りのように見える。来た道が真っすぐだったことから干拓の跡ではないか?
船があり、いまも農産物の運搬に使われているのだろうか。

10:41
安土城址という石柱
建造物が何もないところが他の有名城址と違う。

史跡内に入り自転車を止めた。
10:45
見ごたえある案内看板
明治26年の地図を見れば、かつては大中の湖、小中の湖、伊庭内湖があり、干拓されたことが分かる。かつて安土城は水に囲まれていたのだ。
案内板の一部に縄張り図がある。
山頂に本丸、二の丸、三の丸があり、周辺(山裾)に家臣らの屋敷が並ぶ。
すべてに「伝」とあるのは、早くに廃城となったため資料が乏しいからだろう。
羽柴秀吉、前田利家の名が見える。しかしこの時期の前田利家すら屋敷を持っているのに他の武将がないのは変である。他の武将がないのは屋敷を持たなかったのか特定できないから書かなかったのか。あるいは山を削った平らな部分が少ないことから、他の屋敷は(地図外の)平地にあったのかもしれない。
10:46
「推定大手門(仮称)」の跡

伝、推定、仮称、という文字が並ぶのは史跡として謙虚である半面、謎が多いということでもある。

石垣はどう見ても新しい。
復元工事の結果だろう。
変な建造物が何もないのが良い。
10:49
受付の門の表札が安土城でなく「臨済宗妙心寺派 摠見寺」とある。
入場料700円。
建造物がない城跡はふつう自治体管理の公園だったり、また維持費がかからないから、たいてい無料なのだが、ここは珍しい。摠見寺の私有地ということか。
注意事項の最後も「山主 摠見寺」とある。

(いま摠見寺の公式サイトをみたら
「特別史跡安土城址の全域は、宗教法人摠見寺の所有地です。一般社団法人安土山保勝会によって護持運営しています。」と書いてあった。)

さて、登り始める。
山頂の天主跡まで石段405段、往復約1時間らしい。
10:50
先ほどの案内板によれば「大手道(仮称)」である。
石垣が立派。草木も生えないほど石だらけ。
私は国宝の松本や彦根、姫路よりも、観光客もおらず変な建物もない、こういう昔が偲ばれる城址が好きだ。来てよかったと早くも思った。
10:51
安土山は佐々木氏嫡流・六角氏(近江守護)の居城・観音寺城の支城があり、それを拡張整備したらしい。

信長以前の近江は、守護大名の六角氏が南近江を支配し、佐々木氏庶流の京極氏の家臣だった国人の浅井氏が力をつけて、北近江の戦国大名となった。しかし六角義賢は信長に攻められ1568年観音寺城を失い衰退する。また浅井長政も織田との同盟を破棄したあとの姉川の合戦(1570)以降衰え、1573年、同盟した朝倉氏とともに滅んだ。

こうして近江を手中にした信長は、1576年1月、総奉行は丹羽長秀、縄張奉行には羽柴秀吉を据えて安土山に築城を開始する。前年の11月に岐阜城を嫡男信忠に渡したので、信長は安土城が出来るまで、譜代家老の佐久間信盛の城を在所とした。

1579年5月、天守閣まで完成して信長は移り住む。しかし天正10年6月2日(ユリウス暦1582年6月21日)本能寺の変が起こり、彼が住んだのは3年に過ぎない。

安土は本能寺の変以降、天守焼失後もしばらく織田氏の居城として、信長の嫡孫秀信(三法師)が清洲会議の後入城するなど、主に二の丸を中心に機能していた。しかし、1585年秀吉の養子豊臣秀次がすぐそばの八幡山で新たに築城し安土は廃城となった。
10:52
見事な石垣。
何やら西洋の城を思わせる。
安土城は当時の大名の居館や砦とちがい、大々的に石垣を使った。
六角氏の観音寺城も山城でありながら石垣が多く、それを参考にしたか。

いま全国に残る近世の城郭は水堀と石垣が特徴であるが、本格的な石垣は安土に始まったと言える。すなわち安土城以前は粗末な山城であったり、平地の居館の周りを一重に濠を掘ってその土をかき上げて土塁にしたような平城しかなかった。

安土に堀がないのは、当時、湖水がすぐそばまで来ていたからである。
石垣だけでも大変だったと思われる。
10:53
「伝豊臣秀吉邸址」
もちろん秀吉が豊臣の姓を正親町天皇から賜ったのは安土が廃城となった後のことで(1586)、ここに屋敷があったころは羽柴秀吉である。
ちなみに秀吉の名が文書に初めて現れたのは、永禄8年(1565)11月、信長から預けられた配下の坪内利定宛て知行安堵状であり、「木下藤吉郎秀吉」とある。1573年7月に名字を木下から羽柴に改めた。
10:54
石は羽柴邸の礎石だろうか。
先を急ぐので説明板など見なかった。

羽柴邸の向かい、すなわち大手道を上るときの右手に伝徳川家康邸址がある。現在、摠見寺の本堂がある。

この寺は信長が短い安土時代に山の西側斜面に建立した。彼は比叡山を焼き払うなど神仏を信じない合理的な人間に思われるが、それは反抗する宗教勢力であったからで、信仰心はあったようだ。
安土城が廃棄された後も寺は残った。しかし 幕末の嘉永7年(1854)、主要な建物がほとんど焼失し、その後、徳川家康邸跡と伝えられる現在の場所に仮本堂を建てた。仮本堂(今は本堂?)というせいもあるが、敷地(安土山全体)に比べると不自然なほど小さく、とても大手道が寺の参道には見えない。

時間もないので摠見寺には寄らず、大手道の石段を上っていく。
10:57
石仏
石垣は土塁と違ってその材料がどこにでもあるわけではない。
築城の際は山から石を切り出すが、廃城となった城からもってきたり時には墓石なども使われた。
この石仏は寺あるいは路傍からもってきたのだろうか。
わざわざ踏みつけられる大手道の石段でなくても良いような気もするが、発見当初のままにしてあるという。
こうして目印を付けたことで観光客に踏まれ摩耗することを免れている。

10:57
こちらの石仏には二人の像が浮き出ている。
賽銭が入れられているのは懐かしいサントリーの灰皿だった。
11:02
大手道はずっと続く。両側は杉林。

11:03
織田信澄邸址、森蘭丸邸址
本丸に近い上のほうは一族など親しいものの屋敷があったようだ。

信澄は信長の同母弟・織田信勝(信行)の嫡男。つまり信長の甥である。父・信勝は信長に殺されたが、信澄は信長の側近として、また、いとこにあたる信忠(信長の嫡男)配下の遊撃軍団の一員として活動した。津田姓も名のる。
本能寺の変で信長、信忠が亡くなると、信澄が光秀の娘婿であった事が災いした。すぐ謀反は信澄と光秀の共謀だという噂が流れ、疑心暗鬼に囚われた織田信孝(信長三男)と丹羽長秀らによって討ち取られてしまった。本能寺の変の3日後の6月5日のことで、なんとも慌ただしく混乱した日々だった。

森蘭丸(1565₋1582)は信長の家臣・森可成の三男。元服後の諱は成利(なりとし)だが、森成利では誰も分からない。森蘭丸は1577年12歳で小姓として信長に召され、本能寺で討たれ享年18。信長の寵愛を受けたという話もあるが、今とは時代が違い、あっても不思議はない。

このあたり山頂に近く、平地が多い。
もっとも大勢の人夫を動員しておおいに山を削ったのだろう。
11:04
黒金門址
ここから先は本丸、二の丸、三の丸のある安土城の中枢である。
東西180メートル、南北100メートル。
選ばれた側近たちと信長が暮らした部分である。
11:04
ふつう山城は上るのが大変だから、岐阜での信長のように城主は麓に住むものだが、安土の山頂に住んだようだ。よほど安土城とその天守が好きだったのだろう。
11:05
ここまで登っても石垣が立派。石も大きい。
このあたり標高180mらしいが、山を削って大石を持ち上げさせた信長の権力の大きさと、近江の石垣積み職人集団・穴太衆の技術の高さがわかる。
11:06
本丸に到達。
「天守跡」ではなく「天主跡」と矢印は書いてある。
天守にしろ天主にしろ宗教的な言葉である。天主はデウス(ラテン語)のことだし、仏教にも帝釈天、毘沙門天がある。ちなみにデウスは信長も興味を持ったキリスト教の神のことで、ゼウスはギリシャ神話の全能の神のことであり別物。
「護国駄都塔」は江戸末期の建立というが由来は不明らしい。

11:07
二の丸跡
織田信長公本廟
11:07 信長廟
本能寺の変の翌1583年(天正11年)に羽柴秀吉が築いたという。
安土城は本能寺の後、明智方に占領されたが、すぐ山崎の合戦が起こり、その直後に原因不明の出火で本丸、二の丸の建物が消失した。
しかし秀吉が担いだ信長の嫡孫・三法師が入城したから、このころ様々な建物ができたのかもしれない。
11:09 本丸跡
二の丸との間には空堀すらなく高低差もない(むしろ本丸のほうが低い)。これを奇異に感じるのはその後の近世城郭が常識になっているからである。
本丸から一段と高いところに天守台がある。もちろん周りに堀はないが、堀の有無を無視すれば、近世の感覚だと天守台が本丸で、本丸と二の丸を合わせたものが二の丸となる。
11:10 天守台跡
礎石が残る。
地下1階地上6階建て、天主の高さが約32メートル。
それまでの城にはない独創的な意匠で絢爛豪華な城であったとされる。
それまで大きな城はなかったのだから独創的になるのは当たり前で、豪華絢爛というのは信長の性格と権力の強さからして想像できる。地味で小さい城で満足する人は天下など取らない。
11:12 
天主台から琵琶湖が見えた。
今陸に見えるところは一面湖水だった。
水に囲まれた要害の地であるだけでなく、地政学的にも抜群である。京都に、また北陸道に近い。水運が使える。秀吉の長浜城、明智光秀の坂本城は安土と船で結ばれ、安土城の支城としても使える。
本当は信長にとっては瀬戸内海、九州を経て大陸、南蛮につながる大阪が最高だろうが、当時は石山に本願寺が頑張っていたから、ここが最高といえる。
11:12 
こちらは西の湖(にしのこ)
干拓から免れている。
11:13 
天主台から見下ろす二の丸の信長廟
木造建築はない。

ほとんど観光客がいない。
来た道を下りる。
11:18
仏足石
上るとき素通りしたが、降りるときにじっくり見た。
信仰の対象として作られ大事に拝まれていたものが、信長によって石材として徴収され、城の材料にされてしまった。昭和初期に登山道を整備するとき石垣の中から偶然発見されたという。

なぜ足形かというと、釈迦の教えにはもともと偶像崇拝はなく、彼(仏陀)を像や絵で描くことはなかった。しかし布教するに当たって何か具体的な「形」が欲しい訳で、そこで生まれたのが仏足石という。釈迦の姿を直接表現するのではなく、足跡という間接的なもので信仰の対象とした。しかし仏像ができてからは、如来、観音、地蔵といった種類も増え、人の形をしたこともあり、圧倒的にそちらが主になった。
11:24
石段を降りてくると安土の町(田んぼ)がみえた。
信長は城を建設中の天正5年(1577)6月に安土城下に楽市令を出して商人を集めたが、今は田んぼである。

ここで下り道が二股になり、大手道でなく右の道をとる。
摠見寺の跡地に出た。
11:28
摠見寺本堂址
信長は安土城を作ると同時に、近隣の社寺から多くの建物を移築し、摠見寺を建立した。
安土城が独創的であることは何度も述べているが、中でも他の城と違うところは城内に大きな寺があることだ。それも頂上の本丸に近い位置である。家臣の屋敷より近い。
思えば大手道の石段は広くまっすぐであり、普通城内は曲輪を経るごとに進路が狭く曲がって敵の侵入を防ぐ工夫があるのに、安土はそうでない。防御用というより天下人の住居として作ったようだ。そこに寺を建てた。信長のことだからそれまで虐殺してきた人々の供養というより自分のためであろう。
11:28
本堂址から西の湖がみえる
しかし摠見寺は信長時代の住職を開山とせず、信長の死後に住職となった円鑑禅師(剛可正仲)を開山とする。彼は織田一族の織田信安の三男であった。
安土城が廃城されてからも寺は残り、18世紀前後には、本堂の他、仁王門、方丈、書院、庫裡、三重塔、鎮守社など22棟の建物があった。しかし 幕末の嘉永7年(1854)の火災により、本堂、方丈、書院、庫裡など主要な建物が焼失し、三重塔と仁王門だけ残った。その後、伝徳川家康邸址に仮本堂を立てたのは前述のとおり。
11:29
重要文化財・摠見寺三重塔
棟札に享徳三年(1454)建立、天文24年(1555)修理との墨書きがある。
信長が甲賀の長寿寺から移築したものとされている。
11:31
下に仁王門が見える。
11:32
重要文化財・捴見寺二王門
金剛力士像は寺院を守るために門に置かれるが、口を開け怒りの表情を顕わにした阿形像と、口を閉じ怒りを内に秘めた表情の吽形像の一対で置かれるため仁王門ではなく二王門と書かれることもある。この門は棟木に、元亀二年(1571)七月甲賀武士山中俊好建立と墨書きがあるらしい。安土城は1576年に築城が始まったから新築の門を甲賀から移築したことになる。金剛力士像は設置100年前の1467年の作とされる。

仁王門からさらにくだる。
11:41
大手道より道中は長い。
今はただの山だが昔は城内で、仁王門は寺だけでなく本丸への道でもあったようだ。

山道が突然開けた。
石垣に囲まれた大手道に出た。
11:43
伝羽柴秀吉邸址
11:44
秀吉邸は上下二段になっていたようで、山道から出てきたのは下段である。
下段は厩だったようだが、はて、畳敷きのような線がみえる。
11:45
下段にも案内の石柱があり、「羽柴秀吉邸」になっていた。
こちらの石のほうが新しいし、説明板も「羽柴」であるから上段の「豊臣邸」を訂正しながら両方残したということか。

摠見寺は檀家を持たなかったから明治になって廃仏毀釈で衰退した。
入山料をとらねばやっていけない。発掘や修復は滋賀県がやっているようだ。

しかし安土城が自治体の公有地とならなくて良かった。
ふつうの城は明治維新で藩主家から国有地になり、地元に払い下げられたりして、市街地なら軍用地、官庁街に、市の中心から離れていたら公園などになった。
安土がそうなっていたら今頃、役所は商工会、観光業者と一緒になり、町おこしと称し税金を使って様々なものを建て観光資源とする。
壮大な石垣は日本人だけでなく海外からのインバウンド客にも喜ばれるだろう。

平日ということもあり、ほとんど人に会わず、いい城跡をみた。
急いで歩いたが、入場門から1時間以上経っていて、あっという間に過ぎた。
これから自転車で近江八幡に向かう。
天気が少し心配。
(続く)

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