5月17日、コロナ自粛が緩んできた日曜。
新しい大塚駅をみて、昔の大塚三業地から千川の暗渠と南大塚の高級住宅地、
養育院跡の大塚病院、大塚公園を歩き、
東京教育大跡地で歴史をみてきた。
別ブログ
20200521 大塚三業地と文京区大塚のもやもや20200523 養育院、大塚公園、白鷺坂と地形
20200524 智香寺の引っ越し、東京教育大と文理大
引き続き小石川台地の東斜面を南下する。
国土地理院公式サイトから
東京教育大跡地、占春園が南に接する道は湯立坂。
東の千川通から春日通りのほうに上がっていく。
12:45 湯立坂
松平大学頭上屋敷と旗本6千石、高井石見守下屋敷の間、江戸時代からあった。
昔、橋がなくて対岸の簸川神社に渡ることができなかった氏子たちが、こちら側で湯を沸かし、湯花(泡)を神社にささげたという。
野村不動産のマンション、崖を抉った駐車場をすぎ、
2020-05-17 12:48
国重要文化財・旧磯野家住宅。別名あかがね御殿
湯立坂中腹にある。
切通しの向こう、窪町東公園の上から緑青の屋根が見えたが、ここから中は見えない。
表札は大谷
山林王と言われた磯野敬によって1912(大正元年)に建てられた。その後、新潟の石油王・中野貫一が譲り受け、さらに戦後、ホテルニューオータニ創業者・大谷米太郎の子・大谷哲平の所有を経て大谷美術館(古河邸ももつ)に移管された。
12:51
南に回って月極め駐車場から覗いたがよく見えない。
12:58
住所は湯立て坂を境に、大塚三丁目から小石川五丁目に変わっており、このあたり落ち着いた住宅地である。さらに南下する。
13:03
左、竹早公園、右、区立一中。
このあたり、戦前は光岳寺、智香寺があった。
昭和7年
東京高等師範は不忍通りまで広がっている。
中央やや下、いま区立一中あたりに智香寺がある。
学校の記号があるが区立中学は戦後である。
13:06
竹早公園の南の一角が小石川図書館。
文京区の図書館はみな小さい。
前の道を団平坂という。案内板を見れば米つきを商売としたらしいが、庶民の名が残るとは珍しい。相当強烈なキャラだったか?
しかし、この辺り旗本屋敷が連なり町屋はなかったと思うが、と江戸切絵図を見ていたら、ちょうど小さく小石川清巌寺前とあった。町屋の灰色に塗ってなかったから気づかなかった。団平さんはここに住んでいたようだ。
団平坂、上から下の方をみる
おそらく、図書館の先の交差点から坂下一帯は松平播磨守(常陸府中、2万石)の上屋敷があった。団平坂はそこまでだから短い。
今この辺りきれいに区画整理されている。新興住宅地のようで、坂道としてはつまらない。
松平播磨守は、守山藩松平家とおなじ水戸徳川家の御連枝、家紋も八角に三つ葉葵で同じ。
明治になって一帯は宅地となった。
今の小石川パークタワーあたりに屋敷を構えた松平は、華族となった播磨守の子孫だろうか。戦後、その邸宅の北に、広い環状3号線となる播磨坂の道路が開かれた。
団平坂の一本南の通りを下る。
13:08
石川啄木終焉の地
啄木は本郷を歩いても音羽を歩いてもゆかりの地がある。
文京区で引越しを重ね、4か所目。
これで4か所ともブログに書いた。
石川啄木顕彰室は閉館
明治45年(1912)、26歳で人生を終えている。
ちょうど3年前の2017年5月14日、息子が一人暮らしをしてみたいと家を出た。小石川5-30-19のアパート。ここから1,2分のところ。私が見物に行く前に1年ほどで王子に引っ越した。彼はたぶん啄木に興味ないだろう。
13:14 播磨坂
千駄木の家から坂下まで2.1 ㎞
大塚からあちこち立ち寄りながら歩いてきて腹が減った。
坂を上がり春日通りのカフェでハンバーグ定食を食べた。
コロナで一人営業の店主は大忙し、少し待たされた。
昼食後、未知の地区に入っていく。
学芸大竹早中学の手前を東に坂を下りる。
14:21
この坂は昔からあった。右は松平讃岐守下屋敷(親戚の松平大学頭から借りた土地?)、左は幕臣の居住地だった。通りにタカジャウ丁と書いてあるが、駒込と違って付近に鷹匠屋敷、鷹匠部屋などがあるわけではない。
振り返る。鷹匠坂とする。
14:25 道の真ん中に井戸。
本来の道は人がすれ違うのもやっとだったのだろう。
案の定行き止まり。幼稚園のフェンスがあった。
14:28
ぐるっと回ると、さっきの幼稚園の正門
光円寺 明照幼稚園
公式サイトはmeishoだが、あきあきら幼稚園というらしい。
北区の明照幼稚園とは別のようである。
光円寺の奥にもう一つ寺がある。
慈照院
14:29
辰巳屋惣兵衛の墓があるというが知らない。
この辺りほんとに地元の人しかいない田舎のようである。
慈照院を過ぎるとすぐ坂に出る。
14:30
上がれば三百坂をへて都立竹早高校、あるいは伝通院横にでる。坂下にかけて幕末、旗本5000石、大久保因幡守忠豊の抱え屋敷があった。江戸絵図(尾張屋版、近江屋版)だとこの辺りまで慈照院なのだが、江戸復元情報図だと大久保屋敷しか坂に面していないので、大久保坂とした。
疲れたから上がらず帰ろうと降りるとマンション建設現場。
慈照院の裏に当たる。大久保因幡守の屋敷跡。
帰宅後調べたら、以前は大熊製美堂という印刷会社だった。だいぶ前にどこかのカタカナ名の会社に吸収されたが、1950年代、火の鳥やジャングル大帝を連載した「漫画少年」を印刷した会社である。
14:32
地上8階、という。
標識は「文京区ワンルームマンション等の~~条例」によって設置したとある。
コロナがあっても東京集中は止まらない。
かつては都心の住宅価格の高いことが一極集中に対するブレーキだったが、今後はいくら高くても中国人たちが買う。貧しいアジア人も夢見て移住してくるだろう。
やがて江戸、明治などに興味ない人々が増えていく。
いま開発にブレーキを掛ける原動力の一つに歴史景観の保護があるが、それがなくなる。地面があったら好き勝手にビルを作って売るという時代である。
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