2017年11月19日日曜日

松代1・大本営予定地跡

11月18日 日帰りで信州中野に行った。
毎年お盆に帰っているのだが、今年は原因不明の発熱と歩行困難により帰省できなかった。それで3か月遅れで母親の顔を見に行ったのである。

息子にレンタカーを運転してもらい、妻と一緒に朝5:15、千駄木出発。
途中、長野ICで降りて松代に立ち寄る。
松代は1995年5月、家族で行って以来22年ぶりだが、高速道路で帰省するときは必ず皆神山をみていた。
8:50、観光駐車場はまだガラガラ。軽トラ1台だけ。

最初に行ったのは松代大本営地下壕(象山地下壕)の工事跡。
息子を誘うに当たり、いろいろ松代の魅力を話したとき唯一興味を示した場所。
彼は防衛省にいる。

途中までの道はすっかり忘れていたが、案内板に従ってたどり着くと記憶がよみがえった。以前と変わったところは、ヘルメットが用意されたこと、おじさん一人の案内小屋ができたこと。公開は9:00からだが、ちょうどその時間になっていた。

2017‐11‐18
1995年5月。長女と次女と。
壕が試験的に公開されたことを知り、訪問。
しかしすでに「不戦の誓い」はある。

1995年はヘルメットがなかった。
公開部分も入り口付近だけ。

2017
今は入り口付近の斜面は板が敷かれ歩きやすくなった。

延々と続く。
ところどころ補強されている。
我々のほかには誰もいない。
22年前に来たときは動員された朝鮮人労働者が残したとされるハングル文字の落書きなど探そうとした記憶がある。今回はそういう案内も何もなかったので、むしろ全体の大きさを感じることができ、当時の作業の大変さが想像できた。
松代は海岸から遠いという点と、地盤が強いという点で選ばれた。
象山は小さい山だが薄皮まんじゅうのように岩盤の塊のうえに土の皮がついている感じ。
資材、燃料、食糧あらゆるものが不足するなか、昼夜兼行で働かされた人々の苦難はいかばかりであったか。
公開部分の限界の遠くに、山の反対側の入り口が見えた。

象山地下壕は大本営つまり陸軍、海軍の中枢が入る予定だった。戦後一部を信州大学が宇宙線観測所として利用している。22年前、森さんに話したら父上の勤務先だそうで、「前もって言ってくれたら見学できたのに」といわれたっけ。

22年前と比べて変わったところはまだある。
一番目立ったのは朝鮮人犠牲者追悼碑。

働き盛りの男は根こそぎ軍隊にとられ、極端な労働力不足の状態で、昭和19年10月、急きょ突貫工事が命ぜられた。満州から部隊が呼び寄せられたり、地元勤労奉仕隊のほかに多数の朝鮮人労働者が過酷な労働に従事させられた。
ダイナマイトとつるはしで掘り進める作業は危険であり、また劣悪な食事、居住環境で健康を害すこともあり、亡くなった人もいたのであろう。
人数については、実際知っている人は口をつぐむし、明らかにしようとする人は誰も証拠がないから大げさな数字を出す。

朝鮮人の待遇や、動員までの経緯(強制連行か、賃金を払う労務者か)に関しては、いろいろな説がある。しかしハングルの目立つ記念碑は、今となると従軍慰安婦少女像を連想させてしまい、政治的なにおいがして良くなかったのではないか。

ガイドさんもいるらしいが、左か右、どちら側に立っている人かで、説明が異なるであろう。この理由で新しくできていた記念館も入らず。

平和の大切さ、戦争の愚かさ悲惨さは、堅い岩盤と縦横に走る長いトンネルを見るだけで十分伝わる。

22年ぶりに書棚から本を取り出した。
『信州・昭和史の空白』(信濃毎日新聞社、1993)

松代は象山(イ地区、大本営)、舞鶴山(ロ地区、両陛下御座所)、皆神山(ハ地区、備蓄庫)で工事が進められた。9か月で総延長10kmに及んだ。国家の中枢を移すのに、松代だけでは足りず、北の須坂や長野市のほうにも地下壕が掘られた。
ここまでして戦争を続けようとするのは狂気である。おかしいと思った民衆もいただろうが、反対もできず黙って従った。

ここから少し離れた舞鶴山地下壕は、手前にコンクリート製の建物が作られ、戦後は気象庁地震観測所となった。22年前きたとき、皇后御座所が地震関連の資料室になっていて、江戸時代の善光寺地震(1847)の研究資料(被害地図など)が展示されていた。現在は非公開というのでいかなかった。



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