2018年4月30日月曜日

亀戸、伊藤左千夫の普門院は荒れていた

亀戸天神にきたついで、地図で気になったので立ち寄る。

福聚山善應寺普門院という。
ほー、カネボウ、カネカ、カネミ油につながる鐘が淵の地名は、この寺の鐘が由来だったか。
三股城主は千葉氏である。

規模や中の様子からは名刹と呼ぶにふさわしいのだが・・・・不思議な寺だった。
雑踏の亀戸天神の北東、大観光地のすぐそばなのに、誰一人いない。

恐る恐る中に入ると左手すぐ、密林の中に観音菩薩だろうか、大きな像がそびえ立つ。

亀戸七福神の毘沙門天があるお堂。

樹木に埋もれた戦災殉難慰霊供養の碑をはじめ、大きな石碑がいくつもあり、かつては立派な寺だったことをうかがわせる。

粗大ごみが多い。
境内というか、林の中に車いすやら、テーブルやら、壺、板、物干し、いろんなもの。
ガラスケースに入った樹木の飾り物が雨ざらしになっている。
誰か住んでいらっしゃるようだ。
お寺の住職というよりホームレスの方を思わせるような持ち物が外に出ていた。
広いからごみ屋敷にならずに済んでいる。

本堂は立派。
しかし何年も扉を開けていない雰囲気。
その前のイスとテーブル。

本堂の石段を上がると、だれか住んでいらっしゃるような別棟がみえる。
が、樹木で様子は不明。
南側に墓地がある。
立派なものが多いが、墓域の端の方は、樹木に飲み込まれてしまっている。

瓦屋根つきレンガ塀に囲まれた立派な墓も、樹木で覆われ、墓石も見えない。

 
伊藤左千夫の墓
上総(いまの山武市)の農家に生まれ、正岡子規に師事、子規没後はアララギ派の中心となり、後進を育成した。若いころは、この近く、錦糸町駅前で乳牛を飼育したりしていた。

牛飼がうたよむ時に世の中のあらたしき歌おほいに起る

この有名な歌は、彼がこの辺りにいたから生まれた。
しかし我々は教科書にあった野菊の墓の方がなじみ深い。
桜桃やへちま、菜の花など、作家がなくなると熱心な信者が記念の植物を供えたり植えたりする。つい「野菊」を思わせるものがないかと探したが、この荒れ方ではあるわけがない。

何となく早く結核で死んだイメージがあるが、48歳、この近く大島町にて、脳溢血でなくなった。
墓石の題字は、四角くて特徴あり、新宿中村屋のロゴを連想させる。同じく子規の門人で年も近く親しかった中村不折であろう。

廃寺のような、不思議な普門院。
その門を出るとき、最後にまた謎を見つけた。
墓石のような立派な案内石柱。
左千夫の没年は1913年(大正2年7月)である。
なぜ、「大」という文字がないのか?
他の字は深くはっきり彫ってあり、彫り忘れたとも考えられず、修正もないところは意図的だと思うのだが。
立てたのは江東区。

普門院の経営、管理はどうなっているのだろう?
一部を駐車場にして貸しているようだが、不動産業者が切り売りしてくれ、と言ってきそうなほど、広くて、かつ荒れている寺であった。


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