2018年9月30日日曜日

50年ぶりの成田山

小学生のころ、親輪舎の叔父が成田山へお参りにいくのについてきた。
彼は昭和9年生まれだから当時30そこそこ、先日亡くなった叔父が川口にいて、そこまで長野から車で来て、あとは電車で行ったと思われる。
というのは、上野駅だか日暮里駅だかの、目の前にあった石垣を覚えているからだ。たぶん京浜東北線下りのホームだから帰るときだろう。

私にとっては保育園のとき上野動物園に来て以来二回目の上京であった。しかし覚えているのは、この石垣のシーンと、買ってもらった漫画雑誌にあったW3(ワンダースリー、手塚治虫)の場面と、川口の叔父宅でふるまわれた上品な雑煮とおせちくらい。餅は焼いてありハムは脂が分かれたロースハムだった。いずれも長野で食べるものと違っていた。

この食べ物の記憶から、これは初詣とわかる。また、漫画のW3を調べたら1965年5月から66年5月まで少年サンデーに連載とあるので、66年1月、私が小学校3年の時だと今判明した。

しかし、肝心の成田山新勝寺の記憶がまったくない。
行けば記憶がよみがえるかもしれないと思いながら、いままで機会がなかった。
空港に行くたびに通過しても、荷物もあったし、もともと信心深くもない。

ところが、千葉県ダンススポーツ選手権大会が成田であることを知り、行くことにした。
大型台風24号が近づく9月30日、競技は早く負けて、中台(地名)の体育館から歩いて新勝寺に向かう。
朝来るときは大雨で京成電車が途中35キロに速度規制をしたのに、いまは嵐の前の静かな曇り。

それにしてもこのあたり、佐倉もそうだったが地形が面白い。台地と谷の入り組み方は人工的と思えるほどで、要害堅固な平山城がどこにでも作れる。
体育館の台地から谷におり、JR成田線をくぐってまた登ると参道にぶつかった。
日曜日は歩行者道路になるらしく、車はいない。
休日の観光地、12:30なのに、人もいない。
超大型台風にそなえ、皆外出を控えているのか。
店舗も閉まっているところがある。

しばらく行くと下り坂。外国人はここでも多い。
何処でご飯を食べようかな。
広い意味での荒川利根川水系の古い町は、川魚料理が多く、参道も鰻、てんぷら、そばが目立つ。
川豊の店先では職人さんが大量のウナギをさばいて串にさしている。
外国人でなくても足を止めたくなり、呼び込みのお姉さんがいれば、満員もうなずける。

二軒隣の近江屋は呼び込みのお姉さんもいたがガラガラ。
一見客ばかりの観光地でこの差はありえない。
皆ネットで調べてくるのだろうか。

私はここに入った。
靴とかさを預け、畳の上の椅子で、鰻でなく天丼をいただく。

さらに下ると広い間口の梅屋旅館。
閉まっている。立派な木造建築も、二階三階の手すりなど塗りがはげているのを見ると、廃業されたようにみえる。何とか保存できないものか。

写真に見える大黒屋の向こうは大野屋旅館。
昭和10年築、屋上に望楼をのせ、国の登録有形文化財。
ウナギと鉄砲漬けが有名なようだが、ここもシャッターが下り閉店していた。台風の影響だろうか。

写真右手の甘栗を売っていたのは中国人。天津から来たわけではあるまい。


創業三百数十年、成田山一粒丸を売る土蔵造りの薬屋は、三橋薬局という普通の名前だった。やっぱり○○堂みたいな名前がいい。
ちどめ きずぐすり とひらがなは迫力ある。


新勝寺総門

ふつう参道といえば総門からまっすぐ伸びていて、歩いていけば寺の正面に出るものだが、ここは歩いていくと横に突然寺がある。
しかも参道は台地の上からわざわざ下ってくる。
このことから今の参道は、実は台上に成田駅ができてから新たに作られたものではなかろうか。
今の表参道の門前町は江戸時代からあったというが、古地図をみるまで納得したくない。





仁王門をくぐると池


石段を上がって再び台地の上に来ると本堂と三重塔。

小布施北斎の天井絵を思わせる

一切経堂。
回る経蔵の下の鬼たち。回ったらすりつぶされそう。

本堂の中ではパチパチと護摩を焚いていた。
坊さんの一人がたたく太鼓が和太鼓のように実に現代的なリズム、
数人が唱和するお経もテンポがよく、文言わからないこともあり音楽のようだった。

本堂の西、釈迦堂。
これは元本堂であったが、昭和39年に今の本堂を作るとき、この地に移設したとか。

こちらは誰もいなくて中の本尊にまで近づける。
本堂の本尊は不動明王だが、ここは堂の名前通り、釈迦如来である。

ここは奥山広場。土産物店が並んでいたが半分以上が閉まっていた。
「奥山」は浅草にもあるが、一見仏教用語らしくない。
これは、いろは歌にもある「有為の奥山」(無常の現世をどこまでも続く深山に喩えたもの)らしい。

帰り道、近江屋の前をとおると、店員さんが覚えていて、先ほどはありがとうございましただったか、お気をつけてだったか、声をかけられた。

上り坂の参道を歩き続けると成田駅(JR、京成)。
新勝寺本堂と駅は同じ台地上にあり、近い。
明治時代に駅ができて新たな参道をつくるとき総門を西に付け替えるわけにいかず、強引に台地から総門前まで坂を下ったように、どうしても思えてしまう。

京成成田駅に入ったら、JR東日本からのお知らせ。
本日、山手線を含め首都圏全路線を20時以降運休するとか。山手線まで止めてしまうなんて、今まであっただろうか。

電車はちょうど出たところで、20分、ぼーっとベンチに座っていた。目の前には谷を隔てて南にやはり台地があった。
結局、成田山新勝寺にきても、子供のころの見たものは何も思い出さなかった。

2018年9月29日土曜日

いたずら猫への恨み

2018-09-28
冷たい雨が上がって朝、外に出ると、猫の掘った穴。
いくら早く起きても、彼(ら)はもっと早い。

大事に育てているホウレンソウの苗床に行ってみると、愕然。
猫が掘り返している。

そして臭い。
気を取り直して、土の中からほうれん草を丁寧に救い出してみるが、ほとんど根がちぎれていた。
ほぼ全滅。

ずっと猫には悩まされてきた。
というより怒ってきた。
近所の飼い猫である。

臭いに閉口しながら、苗を探して丁寧に土をわけたのに糞が見つからない、と思ったら、サンダルの底に黄色い(新鮮な)ものがべったり。
他所で踏んで知らずに歩いてしまったから、物干しのデッキや芝生の上まで広げてしまった。


憎しみ頂点に達す。

ここに入ってきてはダメだ、と躾けるには、捕まえてせっかんするか、侵入したらパチンコで打つくらいしかないのだが、四六時中庭で見張るわけにはいかないし、まず不可能だ。
ただ、飼い主が外に出さないようにしてくれることを願うのみだが、彼等は決して被害者のことは思わないだろう。

もちろん私は谷中で「かわいい、かわいい」と餌をやったり写真を撮ったりする人の気持ちにはなれない。

しかし猫に罪はない。
(すくなくとも過失はない)
昔なら、あるいは田舎なら、わざわざ人家の奥まで入ってこなくても、いくらでも糞をする土の空き地や道端はあっただろう。

千駄木と言えば、「吾輩は猫である」。
主人公のほかに車屋の黒、二弦琴師匠の三毛子、筋向うの白君、隣の三毛君。当時はネズミが多かったから猫を飼う家も多かった。
漱石の借りた(その10年前には鴎外も住んだ)千駄木57番地の家は、菜園を入れて400坪もあり、すぐ近くには太田ヶ原や桑畑があって、猫の害など問題にならなかった。
いまやその家は、住宅密集地のなかの、コンクリートの日医同窓会館、猫どころか人間にとっても近寄りがたい箱となり、我が家の周りでも猫がほじくれる土は少なくなってきている。

猫除けネットに大根の葉がひっかかるようになったが、
これは当分外せない

2018年9月25日火曜日

前の古家が解体された

我が家のあたりは、江戸切絵図では「植木ヤ多シ」とあるが、明治になって宅地となった。
その後、車社会になる前に家が立て込んだから、道が狭い。
さらに借地の家が多いこともあり、権利が複雑で開発が進まない。


右の平屋のお宅は昭和25,6年の築。


おかげで山手線の内側にありながら、道は草が生えている。
雨の日はヒキガエルが歩き、時代が止ったかのようである。

2018-09-23

借地の家というのは勝手に建て替えできないから古い家が多い。

その中の1件、我が家の真ん前の家が突然解体された。
廃屋のような、山小屋のような平屋で、壁は板。
くすんだえんじ色のペンキが剥げ、良い味を出していた。
2018-09-17
平屋とはいえ、門のわきに大きな木があったから、それらを含めて取っ払われると、一気に我が家のリビングから千駄木小学校の校舎まで見える。
明るくなったが借景が消えて、殺風景となった。
2018-09-23

今回もまた、写真を撮っておけばよかった、と後悔。
過去の写真が3枚だけ見つかったが、肝心の正面からのものがない。

西側から 2017-05-05

東側から 2016-01-17
以前はここも土の道だったという。

近所の人の話によると、解体前にこの家の所有者が挨拶に来られたそうで、20年以上ずっと住まずに地代だけ払っていたらしい。

借地というのは建物がなくなれば借地権が消滅し、底地は更地にして無償で地主に返さなければいけない。
しかし借地権は売買できるから、建物が残っているうちに(権利があるうちに)第三者に売ることができる。
ただし、この辺りは地主が相続で人数が増え、話し合いができず、建て替えも、第三者への権利譲渡も難しい。

業者による解体は非常にのんびりしたもので、雨天や休日は作業をしない。
このことからすぐに何かを建てるわけでもなさそうだ。
解体した人は他に家があり、単純に放棄、すなわち地主に底地を返したのかもしれない。

辛うじて玄関周囲の板壁が残っている。
先々週だったか、大きな植木鉢を廃材と一緒に捨てようとしていたから欲しかったのだが、妻にやめなさいと釘を刺された。
いくら作業が遅いとはいえ、見るたびに作業は進んでいる。
洗面所など、昭和、戦前の匂いがする。
2018-09-23
ほとんど処分して更地のようになったのに、ここにきて突然、人参のアルコール漬けが現れた。
縁の下あたりに忘れられていたのだろうか。
これを作ったのは、解体を決めた人の親だろうか、祖父母だろうか。
そのころ、車の来ない土の道は、遊ぶ子供でにぎやかだっただろうか。

2018年9月23日日曜日

大根、ほうれん草は発芽したが

冬野菜は難しい。
ほうれん草、発芽率は9割くらいだが、すぐに何者かに食べられ、ここ2、3年は全滅している。
昨年から、白いケースにまいて、コンクリートの上に置いている。ナメクジなど検知しやすいように、また草むらからの害虫から守るようにして、育ててから地植えする予定だ。
しかし、発芽してしばらくすると、根本が枯れるように細くなり、萎れてしまう。病気だろうか。
2018‐09‐23
地面に撒いたほうは、17,18日の夕方豪雨で土を被ったせいか、食われたか、列に隙間ができていたので、白ケースから、移植した。

大根も何者かに食われるようで、朝、茎が途切れて倒れていたり、ちぎれた葉っぱが落ちていたり。
するとまいた列に隙間ができる。
3日ほどで発芽するから、繰り返し隙間に種をまいていたのだが、これから気温が下がっていくとき、数日の遅れが収穫に影響する気がして、過密の個所から間引いて移植することにした。
大根は値をまっすぐ下に伸ばしていくから、途中で移植すると、根が二股になったり、短くなったりする。だから普通移植はできないのだが、昨年実験して移植可能と分かった。
左側が9/7にまいたもの。
右が9/15にまいて、この日移植した。

白菜と人参

近づくとカメラでは余計に見えない

もっと近づくと画面からネットが消えてポットにまいた白菜と、その間の人参がうつった。

黒豆は何者かに食われている。
たかって居るのは形がテントウ虫に似た黒い虫と、バッタ。

雨が続いたせいか、腐っている鞘あり。あるいは病気か。

ラッキョウは食べきれず(酢漬けは面倒)大量にとっておいたら発芽してきた。
カイワレ大根のように育てれば、ちょっとした薬味に使える。

今年初めて棉を育ててみた。栃木県真岡でもらった種をまいた。
花の真上、写真中央に花が散った後の実がみえる。

生ごみから出た山芋にむかごがついている。
もう少し大きくしたかったが、下を見たらボロボロ落ちていたので、全部取った。

子供のころは、どんぶりいっぱい茹でたものをおやつに食べたが、この量ではコメの上に置いて一緒に炊き、むかごご飯とするのがせいぜい。


千駄木菜園 総目次