2023年12月31日日曜日

谷中銀座:のなかストア、富じ家が閉店、40年で8割以上消えた。


谷中銀座は多数の観光客が来る場所になった。
最初は昭和の下町を懐かしむ日本人たちが来たが、大して見るものはないから二度は来ない。それゆえ良いことしか書かないガイドブックを信用した外国人が来る場所となり、いまや外国人のほうが圧倒的に多い。彼らは朝8時ころから来て、店が開いておらず人もいない通りで呆然としていることがある。

当たり前だが、昔は観光地ではなく地元の商店街だった。

1975年高校卒業後上京、大学構内の寮に2年いて、本郷に来てからは自転車で通える本駒込の二葉荘に8か月、向ヶ丘の寮に1か月、そして1978年1月から81年3月まで3年3か月、谷中真島町の谷アパートに住んだ。

谷中のアパートから日暮里駅へは、谷中小学校の前から六阿弥陀道にはいり七面坂を上がる。だから、谷中銀座も夕焼けだんだんも、かするだけで普段の道ではなかった。それでもたまには気まぐれでそちらを通った。

50代になって懐かしい土地に住みたいと、2011年に千駄木に家を買って、30年ぶりに谷中銀座にきた。
2012₋10₋15
夕焼けだんだん
引っ越しは2013年4月だから、埼玉から新居を見に来たついでだった。
右側の階段下のパン屋はなくなっていた。

2014年6月、日暮里駅東口にダンス練習場、ファーストプレイスがオープンしてから日暮里駅と自宅の間を歩く機会が増え、その多くは谷中銀座を通った。

このあたりは変化が激しくどんどん変わる。
階段上の古本屋「信天翁(あほうどり)」はブックオフにないような渋い本を扱っていて「谷根千」のバックナンバーを買ったが、2019年2月3日に閉店。
階段下の寿司・魚て津も、いつか入ろうと思っているうちに、このころ消えてしまった。
2019₋05₋03
階段左下には落語・演芸・にっぽり館ができた。
しかしそれもいつの間にか閉館。

2021年7月に日暮里のダンス練習場が閉鎖されてから、谷中銀座、夕焼けだんだんから足が遠のいた。
2022年3月定年退職後、京成高砂の畑バイトの帰りに日暮里駅から歩くこともあり、たまに夕焼けだんだんを通ることがあった。外国人がぐっと増えていた。

今年、2023年秋、久しぶりに夕焼けだんだんへ来ると、かつて魚て津、にっぽり館などがあった一角、つまり七面坂との間の建物群がすっかり壊されていた。今までは建物がそのままで店が入れ替わっていたのだが、景色が大きく変わった。
2023₋10₋17
七面坂を越えて長明寺の墓地まで見える。
また、谷中銀座入り口、六阿弥陀道の角も更地になっている。
何になるか知らないが、マンションはやだな。

谷中銀座もどんどん変わる。

谷中に住んでいた学生時代、通学途中の根津交差点付近に赤札堂や惣菜店があったから、反対方向の谷中銀座では買い物しなかった。しかし、ここの野中ストアは入った記憶がある。
2021‐11‐15
のなかストア
数十年ぶりに千駄木に来てからも、前を通ったついでに食パンや牛乳などを買うことがあった。
また、前を通るときは野菜の値段をちらりと見るのが癖になっていた。

その、のなかストアが閉店した。
畑バイトの帰り、久しぶりに日暮里から歩いて帰る途中、谷中銀座を通ってびっくり。
2023₋12₋08 16:32
閉店のお知らせは11月から貼ってあったようだ。
12/1~6 全品2割引き
12/7 3割引き
12/8 半額
と書いてある。
16:33
店内をのぞくとイチゴのパックが数個あるだけ、きれいに空っぽだった。
それが売れたら(たぶんあと数十分か)閉店だろう。
偶然閉店間際を見たわけだ。
歩いてきた通りを振り返った。
16:34
左、キャンドゥの跡地
右、お茶の金吉園

谷中銀座の真ん中ほどにあった100円ショップ、キャンドゥは、もちろん学生時代はなかった。しかし古株の店舗に先立ち今年閉店、今更地から工事中になっている。

45年前の谷中銀座で覚えているのは野中ストアのほかはこの金吉園だけ。谷中銀座の西の入口、よみせ通りあたりまでほうじ茶を炒る匂いが漂っていた気がする。今は近づいてもほうじ茶の匂いはない。店前には緋毛氈の縁台はなく、観光客相手の茶碗、陶磁器が並んでいる。お茶はもう扱っていないような雰囲気。
2023₋12₋08 16:34
写真左、野中ストアの西隣は観光地されてからシナ麺の「はしご」、ネコ型たい焼きを売る「招き屋」と変わった。今写真を見ると保護ネコカフェとある。昔は考えられなかった店である。
その隣は肉のすずき。昔は通りの北側にあった。肉のサトーとともにメンチカツ食べ歩きでテレビに出る。すずきもサトーも住民相手から観光客相手に切り替え、時代を生きておられる。

森まゆみらの地域雑誌「谷中・根津・千駄木」(谷根千)第2号(1984年12月)に40年前の谷中銀座の商店街のイラストがある。まだ観光地化される前である。

p22
古い商店街に見えるが、戦後にできた。昔はもっと北の谷中幼稚園付近にあり、戦時中に建物疎開して道路が広くなったところに商店が移って来たらしい。
いま、40年前の店名を見ると大分なくなっている。

12月31日、どのくらい残っているか確認したくて再び谷中銀座へ行ってみた。
2023₋12₋31 14:08
前回気づかなかったが、観光客は誰も買わない魚屋さん、富じ屋が「感謝のお知らせ」という貼り紙をしていた。「約一世紀の間、谷中富じ家をご利用いただきありがというございました・・・・」
焼き魚、煮魚、生魚を昔のように皿にのせて何もかぶせず売っておられたが、きれいにラップされたスーパーの商品に慣れた人は手を出しにくい。値段も意外と高く(と言っても利益はないだろうが)、買っている客を見たことがなかった。しかし、また景色が変わる。

夕焼けだんだんのほうまで歩いて各店舗を見てくる。
かつて(つい数年前まで)全店舗がおしゃれに統一された板の看板を掲げていたが、入れ替え、改装が相次ぎ、看板のある店はわずか。
14:12
武藤書店は赤澤不動産などに貸して間口が3分の1になっている。

少し西の洋品店すずむらのご主人が品物を出していたので、少しお話を聞く。かつては3店舗あったらしいが今はここだけとか。
西隣で観光客を集めている「蜜芋研究所」さんは、以前かばん屋、その前はヤマシタヤという靴店だったそうだ。他にもいろいろ教えてくださったが、店名多すぎてメモしきれず。

西のほうに戻ってくる。
14:22
今や唯一の八百屋となった尽誠食品は閉まっていた。
廃業ではなく年末年始休業と思いたい。
この八百屋では、千駄木に来てから庭に植える泥ネギと見切り品のグレープフルーツを買ったことがある。よみせ通りのマルエツプチ、道灌山下交差点のまいばすけっと、サミットなどスーパーに押され不忍通りの八百屋さんなどが閉店する中、昔通りの商いをされているのは立派。
そういえば戦前、谷中銀座商店街がもっと北にあったときは安八百屋通りと言ったそうだ。

尽誠食品が入っている雑居店舗の看板には肉のサトー、中華・紅華、石橋鮮魚、清水かまぼこ店、ファミリー鮨・宝家と5軒の名があるが、営業しているのはサトーと尽誠食品のみにみえる。
14:38
菅井生花(左)と小野陶苑
隣り合う2軒は40年前のイラストにもある。
菅井さんのおばあさんが立っていらして目が合い挨拶したので少し話をきく。
和栗やは魚屋さん(魚亀)、飲み屋は杉田さんという豆腐屋さんだった。野中ストアの手前はタケダさんという洋品店だったの。向かいの鶏肉うなぎの小林さんと福島さんは残っているけどね。こうなっちゃうと住んでる年寄りが買い物がてら立ち話できるところがないって寂しがるのよ。
14:38
左 鮮魚と貝・福島商店 右 焼き鳥、魚など・小林商店
昔から現存する2軒。

結局、1984年「谷根千」にのっている64店舗のうち、縮小移転しても残っているのはわずか11店舗だった。すなわち飴の後藤、武藤書店、洋品すずむら、肉のサトー、肉の鈴木、立ち飲み・越後屋、鳥魚・小林、鮮魚・福島、小野陶苑、菅井生花、雑貨やまと、である。

商店街というのは様々な店が並んでいないとスーパーに太刀打ちできない。谷中銀座のように、櫛の歯が抜けるように普通の店が観光客相手の店に代わっていくと、地域住民は離れていく。

「谷根千」を読んでいたら68号(2001年12月)に鈴木肉店の店主が出ておられる。
狂牛病騒ぎで売り上げが減っていて嘆いていらした。まだ観光地化されず、商店が元気に住民と触れ合っていた時代である。

シャッターを下ろした野中ストアの前を通ったら建築計画が貼ってあった。
5階建ての店舗・共同住宅とあった。建築主は野中圭助氏だったからスーパーになってほしいな。

しかし猫のぬいぐるみや、箸、キーホルダーを売る店、占いや、はては「勇気」「日本」「愛」「美」などをふつうに書いた色紙を詐欺のように(しかし堂々と)1枚2800円で売るような店が増えては地元民は近づきたくもない。

2023年12月30日土曜日

ミカンと豆は鳥害、夏ミカンは人害

千駄木は、あるいは東京は思ったより鳥が多い。
ゴミをあさっているカラスや浅草のハトは幸い庭に来ないが、スズメは多い。桜があったときは山鳩やメジロも見た。
スズメは数匹がまとまってきて、整地して種を蒔いたばかりの畑で土遊びをする。羽で土を周りに吹き飛ばしながら蟻地獄のようなすり鉢状の穴を掘る。野菜の種も飛び散り台無しとなる。だから種まきしたら防虫ネットをかける。

芽が出た時も危ない。
特に豆類。枝豆の苗を作るときは大きくなるまでカゴをかぶせておく。
今は秋に種蒔きして苗で冬越しするエンドウとそら豆。
2023₋12₋27
スナップエンドウ。
種すなわち豆は地表から見えなかったのに鳥は芽をつまんで掘り出した。
いくつも食われ、やられるたびに追加で種を蒔いたから年末というのにまだ小さい。

2023₋12₋27
こちらはそら豆。
そら豆は半分地表に出して埋める。豆のときは毒々しい色にコーティングされているせいか食われなかったが、子葉が開いたら齧られた。こちらはエンドウと違って根を張っていたから嘴でつままれても抜かれなかった。しかし栄養分のある子葉がなくなったことで成長に影響するかもしれない。

鳥はもちろん実も食べる。
柿の被害はすでに書いた。柿はことし大豊作で363個もなったが、10ないし20個は食べられた。食べているところは見ていないがツグミだろうか。1匹だけ地面を歩いているのを見たことがある。

ミカンは昨年食われたが今年は食われないな、と思っていたら、柿がなくなってから食われ始めた。
2023₋12₋28
鳥に食われた温州ミカン
ミカンは一昨年、昨年と64個、77個なった。今年は豊作で(摘果しないせい?)現在すでに60個収穫した。最終的に200個くらい行くのではないか?
しかし柿もなくなり他に食べ物がないと鳥が殺到するかもしれない。
2023₋12₋29
そこで防虫ネットをぐるぐるまいた。
てっぺんと、横、下は隙間があるから賢い鳥だと入って食べられる。
どのくらい鳥が賢いか、どのくらい食べられるか見てみよう。

温州ミカンが色づいたのは柿より早かったが襲われなかったのは、柿のほうが皮が薄くて一、ニ回のくちばしで味が分かったからだろうか。
しかし温州ミカンも何回か突けば果汁に到達することがばれてしまった。

これで学習した鳥は夏ミカンに向かうかもしれないが、さすがに皮が厚いから大丈夫だろう。今まで一度も襲われたことがないし。

しかし夏ミカンは一昨年、初めてなったとき、通行人に盗まれた。
ヒトは鳥と違って、木になっているまま齧ることはしない。丸ごと取っていく。だから取られても気づかない。1昨年は道路側に2つだけ出ていたからとられてすぐ分かった。
昨年は31個収穫したが、取られたかどうか分からない。
今年は写真を撮っておいた。
2023₋12₋16
夏ミカン。鑑賞用としても美しい。
10日後の12月26日、一番手が届くところの様子がおかしいので、この写真と比較したら1つ足りない。よく見ると枝がちぎれていて、跡も生々しい。
悔しい。
私だってまだ食べていないのに。
こんな住宅地の夏ミカンなんて甘いかどうか分からないのに。
一昨年と同じ人間だろうか。
古本無人販売でも大分盗まれたし、世の中はいろんな人がいる。
これで終わればいいが、また取られたら悔しい。
世の人間を信用して喜んだり怒ったりするより、取られないように防護したほうがいいか。
2023₋12₋28
夏ミカンにもネットを張った。
鳥が相手ではないから上と家側はがら空き。

ヒトを獣以下の鳥のように見なすとは大多数の通行人には失礼な話だが、仕方がない。
保護樹木だった桜の大木を切ってから、夏ミカンが我が家のシンボルとなった。
この景色をいつも眺めて通り過ぎる人は多い。
きれいですね。見事ですね。と言われていたのに、人を信用せずネットで隠すのは気が引ける。
彼らは盗られていることなど知らないから、意地悪で強欲な家に思われるかもしれない。
ほんとは立ち話をした通行人には差し上げることもあるのだが。
(実際、柿は知らない人にもその場で取って差し上げた)

2023年12月28日木曜日

パプリカ収穫、玉ねぎ植付け、人参はセンチュウ

パプリカは毎年作っているが、定植してから収穫まで8か月くらいかかる。

期間が長いと関心がなくなり、世話もしなくなる。
支柱と紐での補強も真面目にしていない。
その結果、風雨のたびに枝が折れて実が落ちた。
2023‐11₋27
落ちたパプリカと落ちたミカン

パプリカは実が重いうえに枝が驚くほどもろい。
朝、枝ごと落ちているのに気付くのは何個目だろう?
この日はミカンも蜂に刺されたのか一部分が腐って何個か落ちていた。

パプリカは実が重くなってきた10月、11月で何個も落ちたが、12月になって残っているものが色づいてきた。
2023₋12₋20
パプリカは2018年以来毎年種をまいている。
その種は妻がスーパーで買ってきて調理した後の生ごみから取ったもの。
ちゃんと赤と黄色の2つのパプリカ(2017年産)の種を冷蔵庫に保管していて、それを毎年まいている。最初のころは発芽して育っても実がなかなかならず途中で引き抜いたりしていたが、2021年からは毎年我慢強く見守って収穫している。


こちらは玉ねぎ
ダイソーの2袋110円の種。3年目だけど今年はうまくいくか?
2023₋11₋29
プランターに種まき育苗した玉ねぎを定植。
ネットには直径5~6mm(鉛筆くらいの太さ)の苗が良いとされる。
これより太いと春にトウ立ちしやすく、細いと寒さにやられてしまう。
今年も私の苗は、過去2回と同様、かなり細い。
鉛筆どころか箸にも程遠く、爪楊枝程度しかない。

昨年のか弱い苗は、今年の6月に収穫したが、小さい玉が多かった。
妻は小さいと面倒だといって使うのを後回しにしていたら青い芽が出てきた。
これも植えてみる。
2023₋11₋29
苗でなく玉ねぎを埋めたもの。
2023₋12₋26
定植して1か月近く。
保温ビニールで覆っているが、相変わらず爪楊枝のまま。

2023₋12₋26
こちらはホウレンソウと春菊。
保温ビニールで正月には少し食べられるかな?

次はニンジン。
抜いてみてびっくり。
2023₋12₋15
割れているのは珍しくないが、こぶだらけだった。
ネコブセンチュウだろう。
いままでオクラやトマト、ナスなどやられたが、ニンジンは初めて。
そういえばバイト先の農園でもニンジンがセンチュウにやられた。今年の猛暑が影響したのだろうか。
2023₋12₋15
ニンジン本体だけでなく、細いひげ根にも数珠上にこぶがついていた。
しかしよく見ると肥大化したこぶは色からしてニンジン組織のようだ。
オクラがセンチュウにやられると根が肥大化して腐るが、この場合、がん化したように成長している。

土壌中のセンチュウはネコブセンチュウ類、ネグサレセンチュウ類、シストセンチュウ類の3つに分かれるが、我が家のオクラはネグサレセンチュウ、ニンジンはネコブセンチュウということか。

2023年12月26日火曜日

関宿5 城下町の絵図と久世氏

天気の良い師走の水曜日、関宿にやってきた。

ここは江戸川と利根川の分岐点であり、スーパー堤防の上に千葉県立関宿城博物館がある。
建物はお城の形だが、水運と洪水関連の展示が主である。

洪水の歴史や利根川東遷、利根運河開削などの展示を見た後、エレベーターで模擬天守閣の4階に上がり、遠く筑波山や利根川を見た後、階段を下りてきた。
天守閣部分の2階、3階は展示面積が少ないが関宿の歴史にも触れている。
2023₋12₋13
中世・戦国時代の関宿
関宿は関東平野の中心に位置し、江戸時代に商業的水運が盛んになる前から内陸水上交通の要衝として重要な地点だった。
1455年、簗田持助が下総国関宿に配されて以来、簗田氏が古河公方足利氏の筆頭家臣として築城、河川水上交通も掌握し、代々この地を治めた。しかし戦国時代、小田原北条氏が力をつけ北関東まで手を伸ばそうとすると関宿が邪魔になる(欲しくなる)。北条(氏康・氏政・氏照)は重ねて簗田晴助(上杉謙信・佐竹義重が支援)を攻め(関宿合戦)、最終的に関宿は北条氏のものとなった。

1590年北条滅亡、家康が関東に入ってからここには家康の異父弟、松平(久松)康元が入城、関宿藩を興す。
その後は、松平(能見)、小笠原、北条氏重、牧野、板倉と譜代大名が入り、1669年、久世広之が5万石で入る。広之は徳川家綱の下で側衆、若年寄、老中を歴任した。
久世氏は広之の子である重之の代にいったん備中庭瀬藩に移るが、22年後に牧野氏(前出の牧野氏とは別家)に代わって戻り、以後5万8千石の関宿藩主として明治維新を迎えた。関宿の久世氏は前期、後期あわせて9代。
 12:18
江戸時代の関宿 城下町と河川、堀
12:23
久世氏家紋入りの膳と鎧
久世氏は広長が家康の祖父・父である松平清康・広忠に仕え、その孫・広宣が家康に仕えた。広宣の三男広之が秀忠・家光に小姓として近侍し出世、1648年には1万石に達して譜代大名となった。その後も順調に加増され、1669年に下総国関宿藩5万石の藩主となり、若年寄、老中をつとめた。

久世氏は9代藩主・広業の時代に明治維新を迎え、明治2年版籍奉還で藩知事となった。
明治4年の廃藩置県で免官、明治17年の華族令で子爵に列した。
その名は文京区鷺坂の上、小日向の高台に久世山として残る。ここは関宿藩の下屋敷であった。代々の墓は巣鴨の本妙寺にある。この寺は行ったことがあるが気づかなかった。

現当主は12代・久世康生氏(1941~)。ネットを見たら2019年度の関宿城博物館友の会の総会で顧問として挨拶されている。
先月、文京区での全国藩校・藩主サミット2023にも当主として名前があったので出席されたと思われる。

そういえば鈴木貫太郎も学んだ久世小学校。関宿久世尋常高等小学校が関宿町立関宿国民学校と改称し久世が校名から消えたのは、現当主が生まれた昭和16年である。

郷土の偉人・鈴木貫太郎は記念館だけでなく、この博物館でも顕彰していた。
12:20
鈴木内閣は文字通り終戦内閣で、終戦と同時に(玉音放送の後)総辞職した。
祖先の故郷関宿に移ったのは1946年6月二度目の枢密院議長をおえたあとである。
(枢密院は1888年(明治21)から1947年まで存在した天皇の諮問機関)
関宿をとりまく広い河川敷を乳牛の牧草地とするよう提案した。

私は偉人の遺品より古地図を見るのが好きだ。
12:20
「せきやど」絵図
利根川は「ひたち川」と書いてある。「ひ」は「飛」の江戸かなである。
江戸川は「ゑと川」。
二か所の「わたし」には船頭と客が二人乗った渡し船が描かれ、「御城」には三層の天守がみえる。「たいまち」「ゑとまち」は、それぞれ朝降りて、帰りに乗ったバス停の名前として今も残る。
「志ようふくじ」は昌福寺?「そふゑいし」は宗英寺だろうか?「せい連んし」、「やくし」は分からない。見ていて飽きないが、江戸かなを勉強しておくべきだった。

江戸川は江戸に行く川として上流の人が名付けたのだろうが、「ゑと町」はこの川の名から付けたのだろうか。
12:22
家臣たちの屋敷も書かれた城下の図
黒い部分は細いので堀ではなく、土塁(堤防)か斜面を表したものだろう。
逆川が利根川と書いてある。対岸は山王村と読める。
12:27
もっとも正確な関宿城の図
天神曲輪、発端曲輪がよくわかる。
今の川筋も描かれていて、本丸、二の丸の4分の3が川(堤防)になってしまった。

12:28
芸州浅野家に伝わった関宿城下図
これも逆川(今の江戸川)を利根川としている。
当時は今の利根川を常陸川といっていたのだろう。

博物館から外に出ると、誰もいなかった正面の広場にバイクのグループが来たところだった。今日は平日だが、在宅勤務なのかな。このあたり電車では不便だが、バイクだと堤防道路を走ったりして面白いかもしれない。
12:39
正面広場の東に売店があった。
江戸の絵図など他の城址公園にあるようなお土産のほかに、地元の人が持ち込んだ野菜も売っていた。なかに正月に食べるヤツガシラがあった。来年埋める種芋として買おうかなと思ったがやめた。

帰りは堤防の草深い斜面でなく正しい道路を下りた。
博物館のしたに食堂があった。
12:40
けやき茶屋
博物館周辺ではもちろん、人家もまばらな今の関宿城下では唯一の飲食店かもしれない。
店名の二本の欅はまだ若い。堤防と博物館ができたころ植えたものだろう。
かつての多くの食堂のようにラーメン、カレーなどのメニューが外から分かった。
昼食時ではあったが、まだ腹は減っていない。

けやき茶屋から本丸跡に向かって歩く。
12:41
ここは堀(沼?)のあとだろうか。
古城どころか物寂びた古い町並みもない。栄華のあとを詠んだ「国破れて山河在り」、「夏草や兵どもが夢のあと」などという言葉よりも、むしろ、きれいさっぱり農地と堤防になったぶん、現代的な、明るい感じがした。
12:51
八千代牛乳高木牧場の近くの看板をまた写す。
12:57
大手門跡の看板
これも来るとき見ているが、古地図が好きなので拡大してまた写す。
今や影も形もないが、大手門の土塁の幅は8メートルあったらしい。
大手門は外堀を挟んで日光東往還に向かっていて、関宿城の表玄関だった。
13:17
江戸町バス停
かつて関宿一番の繁華街も今は誰もいない。
向かいの商店もやっているのかいないのか分からない。

東武動物公園行きは1時間に2本。
最寄りの鉄道の駅に行く唯一のバスの本数としては少ないが、乗る人もいないのだろう。これが今の関宿である。
しかしバス停にベンチがあり、その前の民家がバス待ち客に深い軒先を貸しているところなど、かつて栄えた首邑の品格と考えられなくもない。


2023年12月24日日曜日

関宿4 博物館と治水、利根川の移動

天気の良い師走の水曜日、関宿にやってきた。

鈴木貫太郎記念館から関所跡、関宿城の大手門跡、武家屋敷跡。何もない○○跡地ばかりを歩いて堤防の上の千葉県立関宿城博物館にやってきた。

1995年にオープン。
ここは千葉の中心からはるか離れ、埼玉と茨城のほうが近い。なんでこんな辺鄙なところに県立博物館ができたかと考える。
理由は関宿という土地に関係しているはずだ。あまり知られておらず影も形もない関宿城ではなく、水運と洪水関連だろう。治水事業の資金が少し回ったとか、河川改修で農地をつぶした償いとか、そういったことがあるのかどうか。
2023₋12₋13 11:48
フェンスにある正門から入って建物への入り口へ向かう。
玄関は両側から長屋に挟まれたような通路の奥。
天守閣部分は古記録をもとに再現したというが、この風変わりな入り口周辺も関宿城にあった構造だろうか?
入場料は200円だが65歳以上は無料。
平日とあって見学者はほとんどいない。

外見は城だが、中は関宿城や藩政時代の歴史ではない。順路に沿って入ると洪水関連の展示で始まり、水との闘い、治水をテーマにしている。
11:55
水塚(みづか)の分布
地図は関宿町が野田市と合併(2003)する前に作られたようで、細長い町域、すなわち二つの大河に押しつぶされるように挟まれた地形がよく分かる。
11:57
水塚の再現模型
水塚というのは、各農家が洪水に備え、屋敷の一角に高く盛り土して小屋を建て、そこに籾米、食料などを保管したものである。まだ現存する農家もあるらしい。

11:58
洪水絵葉書(明治43年、大正6年)
絵葉書と言えば風光明媚な観光地のものが普通だと思うが、こういうハガキはいつ出すのだろう? それとも記憶のための保存用だろうか?

関宿では洪水を防ぐため様々な努力がなされてきた。
11:59
浚渫船の模型
北関東から土砂が集まった関宿沖。
放っておくと巨大な天井川になってしまう。

川は洪水という災害をもたらす一方で船での運送を可能とする。
そのためには水量を調節する水門と、船を上下させる閘門が必要となる。
12:00
関宿の水閘門
水運がなくなって閘門は不要となったが、水門としてはまだ生きているようだ。
水閘門を挟んで関宿の対岸は埼玉だと思ったら茨城の五霞町だった。このあたり、茨城と埼玉の県境は利根川ではなく、その西の権現堂川と中川である。こういう事実も川筋の変遷、河川改修の歴史を表しているのかもしれない。

水運と言えば、関宿からは離れているが、利根運河の地図があった。
11:57
利根運河
博物館開館時は町だった埼玉・吉川、茨城・守谷も「市」という紙が貼ってある。

北関東と江戸を結ぶのは関宿経由で良いが、東北地方太平洋岸から江戸に来るとき房総半島まわりは船の難所だったため、銚子から利根川をさかのぼった。しかし関宿まで来るのはかなり遠回りである。また明治になって船が大型化すると浅瀬のあるこのルートは使いづらかった。そこでオランダ人技師を呼んでわが国最初の洋式運河としてできたのが利根運河である。
野田の町の南、北総台地の切れ込みを利用して1888(明治21)年着工、1890年6月に竣工した。運河の両側には通航料を徴収する収入所が置かれ、付近一帯は船頭や船客相手の料理屋、食料品店、雑貨屋、回船問屋などが立ち並んだ。さらには運河大師の勧請や桜並木の植樹を行い、運河の観光地化を図り、大きな賑わいをみせた。

1892年には汽船も就航し、1895年東京―銚子間の直行運転も始まる。東京-小名木川-江戸川-利根運河-利根川-銚子の144kmを18時間で結んだ。

しかし、翌1896年(明治29年)常磐線が、1897年には銚子-東京間に総武本線が開通すると乗客としての利用者は激減し、また東北からの大型船が直接東京湾に入るようになった。
さらに国が河川政策を変えた。それまでは水運を優先、水深を深して川幅を狭くしていたが、水害対策を優先し、川幅を広げて堤防を高くした。その結果、水深が浅くなって汽船の運行が困難になり、また、汽船乗り場が町から離れ、貨物の積み替えも不便だったこともあり、水運は徐々に衰退。
1941年には台風で利根川から入った水が堤防などを壊し、運営会社は破綻、運河としての役目を終えた。国有化されて堤防の改修で6000本の桜は切られ、運河沿いの商店なども立ち退いた。

この運河はよく覚えている。
1990年代から2007年ころまで、家族で埼玉から妻の実家の取手に行くときは叔父の車を借りた。国道16号で野田の手前まで来て、混雑を避けるため途中から16号の東を並行して走る県道7号(我孫子-野田線)を通った。農村部を走るこの旧道を南下すると運河にぶつかる。ここから左折して運河の細い堤防の上を少し東にいき、見渡す限りの水田の中を走る農道に降りた。この農道はほとんど車がおらず、国道6号が取手にわたる大利根橋まで続くから近道だった。
しかし、この運河の堤防が怖かった。わずか200メートルほどだが、すれ違い出来ないどころか、車1台がやっと。路面も傾いていて車高が高いワゴン車は倒れるのではないかと心配だった。倒れるはずはないが、運河は普通の川と違って川原がないから川幅は狭く、斜面が崖のように急である。ガードレールもなくハンドルさばきを間違えたら転げ落ちる。ちらりと見えた、はるか下の静かな水面が今でも忘れられない。
県道を走ってきて運河が近づくと緊張した。堤防上で対向車が来ても私の腕ではバックできない。だから運河の上を向こうから車が来るのが見えたら、むしろほっとして左折せず県道をそのまま南下したものだった。

その利根運河の掘削のときの工事設計書があった。
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利根運河工事設計書(1890 明治23年)
吉川町・利根俊作 蔵
いくら明治時代とはいえ洋式運河である。設計書と言えば、細かい数字の入った表や定規で書いた図面が中心かと思ったが、江戸時代の古文書のような達筆の文章と素人っぽい絵だった。2年間で220万人を要した掘削工事はこの「古文書」にふさわしく、ほとんどクワとモッコを使った人力によるものだった。
所蔵者の利根氏の苗字が気になりネット検索したら電話帳にあっただけだった(吉川在住)。

第二展示室にはいると江戸時代以前の水系の地図があった。
今回関宿に来たのは鈴木貫太郎記念館でもなく、関宿城址でもなく、水閘門をみるためでもなかった。たぶんこの県立博物館に絶対あると予想した、利根川東遷に関する歴史地図を見たかったのである。
12:03
家康が江戸に来るまで、利根川、荒川など北関東に降った雨を集めた大河はすべて東京湾に入っていた。洪水のたびに川筋を自由気ままに変えていたから、下流の人は大変である。江戸からさらに東国に行くには何本も川を渡らねばならず、千葉県北部すなわち律令時代の下総国は、日本武尊や源頼朝が三浦半島から海を渡ったように、上総国の奥という場所だった。

1590年家康は関東に国替えとなり、太田道灌時代の江戸城の拡張、城下町の建設に着手した。そのためには江戸城の東の低地を水害から守る必要がある。そのための大きな事業が坂東太郎、暴れ利根川の東遷であった。

素人的には利根川をここ関宿あたりで曲げ鬼怒川などを通して銚子のほうに持っていき、旧流路が江戸川になったのなら話は簡単である。しかし古利根川という川が江戸川よりずっと西の、杉戸、春日部を流れている。古利根川は松伏町で中川と合流、さらに越谷で元荒川に合流しているから、利根川の流路変更はもっと複雑そうだ。その地図を見たかった。
12:04
それによれば、
1.1594 加須の上流、利根川が二股に分かれて南に向かうほうの会の川を閉じる。これで東武蔵の洪水は緩和された。
2.1621 東に向かった利根川をさらに東へ移すため、8キロにわたり開削、新川を作って渡良瀬川と合流。
3.1621~1635 しかし渡良瀬川も東京湾に流れていたため、これを常陸川に移すため、栗橋付近で赤堀川を開削。しかし水は流れなかった。このころ各地で瀬替えが行われ、鬼怒川(1629)、小貝川(1630)、荒川(1629)が付け替えられている。
4.1640 渡良瀬川・利根川の水を集めた庄内古川(太日 (ふとひ) 川)は常に氾濫したため、さらに東に移そうと関宿付近から開削をはじめ、うまく谷を利用して3年で完成。これが今の江戸川である。関宿の西の逆川もこのとき掘られた。
5.赤堀川開削を再開。1654年、ようやく利根川本流は常陸川の流路を使い太平洋に出た。

まとめれば
利根川上流河川事務所公式サイトから

こうして葛飾郡など下流部の洪水は大きく減り、新田開発も進むと同時に、太平洋と東京湾が内陸の水でつながった。

そして第三展示室は洪水でなく水運である。
12:11
行き来した高瀬船の模型。
人形が乗っているから実際の大きさが分かる。
周りの展示コーナーの蔵は、各地の河岸にあった蔵を再現したものか。

エレベーターで天守閣部分の4階に上がった。
12:14
4階は展望台
12:14
東に遠く筑波山と近く利根川。
北を向けば遠い男体山の日光連山と分流点がみえた。
12:14
左:江戸川、右:利根川

別の窓から富士も見えたが写真にすると小さいのが分かっているので写さない。

4階の展望台から階段を下りていく。
犬山、松本、姫路、彦根など国宝天守と比べ、再現模擬天守は階段が現代仕様。広くて歩きやすい。

しかし名古屋城天守閣にエレベーターを作ったのは反対である。外付けは景観を台無しにした。天守に上がるより外から見上げるほうが好きな私にとって、名古屋城は全く魅力がなくなった。バリアフリーは万能ではないと思う。

階下は関宿の歴史に触れた展示である。
ここに、明治以降の治水工事がされる前、江戸時代の関宿の絵図があった。
12:18
関宿の城下町
利根川が常陸川に入り、逆(さかさ)川、江戸川が開削された江戸時代の関宿。
絵図の西の逆川は権現堂川と常陸川をつなげる水路で、利根川東遷以前からあったらしい。
(松浦茂樹)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/suirikagaku/46/2/46_23/_pdf

権現堂川は、いま幸手あたりの堤防で桜と菜の花が有名だが、中川となって南下し、ここには来ない。関宿の付近は埋め立てられ、江戸川とは分離されたが埼玉幸手と茨城五霞との県境として痕跡を残す。
この絵を見れば、水関所の棒出しは逆川でなく、南西の江戸川の入口にあり、まるで食道と気管の分かれ目にある弁のように見える。

幕末のこの城と水路と町がいま残っていたら、水郷として花菖蒲の中にお城がそびえ、独特の風景から姫路城や日光など比較にならないほどの観光資源となっただろう。ゴンドラの行き交うベネチアのように世界遺産になっていたか。

(続く)