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2026年10月11日日曜日

沼津2 レンタサイクルで千本松原、文学の道、沼津漁港へ

  8月末からの長雨が終わり、10月4日、御殿場線に乗って沼津にきた。

2026-10-04 10:12
沼津駅南口
沼津市は人口  17万9千人 (2025)。
最盛期は1990-95年の21万6千人か。

江戸時代は沼津藩の藩庁所在地であり、東海道の宿場町でもあった。品川を1つ目とすれば、8番目の大磯、小田原、箱根、三島ときて12番目である。
1876年(明治9年)の静岡県成立以降は、静岡、浜松と並ぶ拠点都市として発展してきた。市政施行も両市に次いで1923年。しかし近年は人口減少が続き、富士市(24万人)に抜かれた。5位は磐田市(16万)。
拠点性は薄れつつあるが、それでも施行時特例市であり、静岡県東部総合庁舎が置かれ、スルガ銀行と静岡中央銀行の2行が本店を置いている。

沼津は伊豆と駿河との境目の駿河側に位置するが、伊豆側の三島市(10万3千人)と市街地が連続している。また、裾野市、駿東郡の清水町、長泉町とも市街地が連続し、都市圏を形成している。もちろん伊豆半島の付け根だからそちらとの関係も深い。
10:13
沼津駅

行きたいところは千本松原と旧沼津御用邸公園。
駅から離れているので歩きは無理だ。

レンタサイクルを借りることにした。
沼津は全国展開するハローサイクリングのステーションがある。
2026年7月時点で29都道府県260の自治体で14,660カ所以上にステーションがあり、どこで借りてどこで返してもよい。沼津は三島とともに展開する加盟店のハレノヒサイクルが何か所かあり、15分120円だから1時間で480円。
前日にアプリをダウンロードしユーザー登録しておいた。

駅のすぐそばのステーションに行く。
普通の駅前自転車置き場の一角にハローサイクリングがあった。
スマホで空き自転車の番号が出るが、置いてある自転車の番号と違う。
ステーションが違うのではないか、とグーグル地図で現在地を見たり、隣の商業施設「イーラde」の住所を調べたりした。今までは有人の貸し出し所で借りてきたが、無人は初めてなので勝手が分からない。
10:25
結局スマホに表示される番号の自転車も何台かあり、ステーションの住所も正しそうなので1台を借りる。スマホで操作すると鍵が開いた。しかし自転車には鍵がないから閉め方、開け方が分からない。
しかし、ともかく借りてしまったので乗ってみた。

電動自転車は初めて。走り始めてから電動でないことに気が付き、見ればハンドルに小さな液晶パネルがあった。よく文字が見えないが、スイッチを押すと電動になったか、ぐんと加速された。

サドルなど調整しないまま走り始めてしまったため、乗り心地も悪いし、液晶パネルもよく見えない。しかしとりあえず走るのでどんどんペダルをこいでしまう。
10:31
沼津仲見世商店街というアーケードがある。
時間は早いが、シャッターの降りている店が多い。

駅前から真っすぐ南下する大通り(さんさん通り)と東西に走る旧国一通りとの、一番繁華な交差点の角に公園があった。
スマホの地図を見れば中央公園、沼津城址である。
予定では、お城は駅の近くだから自転車を返してから帰りの電車待ちの間に見ようと思っていたが、はからずも出くわしてしまった。
しかし城跡らしき遺物は何もない。
10:37
中央公園と私のレンタサイクル

中央公園は東のほうが狩野川に向かって下り坂になっていて、何か城の遺構があるかもしれないと思ったが、これから海のほうに行かねばならない。帰って来てから見ればよいと思い、この公園の探索はしなかった。

駅前から南に延びる大通り(さんさん通り)に戻って南下していくと、御成橋通りにぶつかる。御成橋とは皇族が沼津駅から御用邸に行くとき渡った橋だろう。

この交差点を右折して西に向かう。
10:44
御成橋通り。
沼津は道が広い。
1945年7月17日未明の沼津大空襲と関係があるか?
沼津は海軍工廠と大小軍需工場があったから130機のB29に襲われ、市街の89%が破壊された。

電動自転車で南下する。
海が近くなって下り坂になった。
10:46
右、乗運寺
バス停の名前になっている。若山牧水の墓があるらしいが通過。
松林が増えてくる。
10:47
道の分かれ目に沼津公園とかいた石柱がある。
左:千本浜道、右:千本松原通り。
似たような名前でどっち行ったらいいか分からずスマホ地図を見る。
松原はここから西に広がっている。
千本松原通りは松原の北(陸)側を西に向かう。
海に向かう千本浜道にいった。
(ちなみに沼津公園は千本浜公園の旧称)
10:49
駿河の松原と言えば西の清水港の入り江の外側にある三保の松原が有名である。羽衣伝説をもち、日本新三景(1915年、大沼、三保松原、耶馬溪)、日本三大松原(三保松原、唐津・虹の松原、気比の松原)のひとつとされ、1922年(大正11年)、天橋立とともに日本初の名勝に指定された。
近年でも世界遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産にもなっている。総延長 7 kmで、5万4000本。

いっぽう、こちら千本松原は沼津市の狩野川河口から富士市の田子の浦港まで、駿河湾に沿って約15km続き、千本どころか、30万本あるという。
10:50
沼津の浜の地図があった。
左へ行くと沼津港、沼津御用邸などがあるが、千本松原はここから西のほうらしい。

10:51
千本浜道は行き止まり。
堤防に若いカップルが座る背中が見えた。
午前中から仲良し。
上がって海を見ようと思ったが、遠慮して西のほうに自転車を走らせた。
10:51
車がいっぱい止まっている。
山梨、春日部ナンバーの車もある。

堤防に上がって海を見たくて自転車を止めたがカギの掛け方が分からない。
というか、手でレバーを動かせば掛けられそうだが、開け方が分からない。
開けられなかったら困るので掛けられない。
(今考えたら公式サイトを見ればいいのだが、頭が回らなかった)
目の付くところに自転車を置いて急いで堤防にあがった。

10:53
松原の向こうに富士が見えた。
静岡県の富士山は対称な円錐でないが、愛鷹山で下が隠れてちょうどよい。
目を海に転ずる。
10:53
浜辺で散歩する人々。
駿河湾は沼津の南で東に大きく食い込んでいるため(内浦湾、江浦湾)、南の正面に伊豆の山々が見える。
近所の人がショッピングモールとかテーマパークでなく、こういうところに来て日曜の朝を過ごせるというのは贅沢だと思った。
沼津はお城を失ったが、いい財産を持っている。
10:53
ところで千本松原は30万本あるのになぜ千本か。
1580年武田勝頼と北条氏政が沼津で対陣した。勝頼は1575年の長篠敗戦後、信長が西方の本願寺、毛利などに向かっていたこともあり、上杉、北条と同盟、敵対を繰り返しながら武田軍再建を目指していた。(武田滅亡は1982年)。
沼津の戦いでは武田水軍と北条水軍も参加した。
このとき武田側は北条水軍がよりどころにするであろう沼津の松原を伐採した。
その後、松がなくなり、田畑は海からの風害、塩害を受けるようになった。農民は不作に苦しみ、それを見かねて何とかという僧が松を一本一本お経を読みながら植え始めた。最初は枯れてしまったが、しかし5年の歳月をかけて1000本の松を植え、ようやく根付いたという。それが千本松原の名前の由来らしい。

自転車を押したまま松林に入ってみた。
10:55
松は海から陸のほうに傾いている。なぜか。
昼は地面が暖められるから海風となるが、夜は逆に陸風となる。
しかし、海風は時に台風などで強まるし、また塩害で海側の枝が枯れ、陸側の枝が増えバランスが傾くのだろう。

最初に植えられて450年くらいたつが、そのころの松はない。樹齢100~300年の老木がわずかにあり、多くは戦後植えられた30~80年のものらしい。松くい虫などで年々枯れるため、毎年植林され10年以内の若木も多く育っているという。
10:56
井上靖文学碑
「千個の海のかけらが千本の松の間に挟まっていた。
少年の日、私は毎日それを一つずつ食べて育った」

井上靖(1907-1991)は北海道旭川生まれだが父は軍医で転勤が多かった。そのため、曾祖父の妾・かの(戸籍上は祖母)とともに両親の出身地である伊豆湯ヶ島で育った。沼津中学から四高理科、九州帝大法科に進むも中退、京都帝大哲学科を卒業後毎日新聞大阪に入社した。部下に後の山崎豊子がいた。彼は天平の甍や風林火山などが有名だが、10代から死ぬまで詩を書き続けた詩人でもあった。

この森の中には多くの記念碑がありそうだが、散策路を自転車で走ることをはばかれ、かといって歩き回るには広大で、あきらめて外に出た。

再び自転車にまたがった。
千本浜道は東へ曲がったところから「文学の道」と名を変えている。
東に向かって走った。左側はまだ松林が残る。
11:03
恋人と語らいながら歩けば楽しいだろう。
沼津市民は良いものを持っている。

11:04
このあたり豪邸、別荘が並んでいる。
大磯を出た列車が国府津から御殿場を回って海の近くに出てきたところが沼津である。
しかも国府津と違って、商業地でありながら風光明媚な松林がある。
政財界、文化人が多く別邸を構えた。

11:06
沼津市立若山牧水記念館
牧水(1885-1928)は今の日向市出身、延岡中学をでて上京、早稲田に入った。
牧水の妻は信州塩尻出身の太田水穂(松本出身の窪田空穂と混同してしまう)の親族、歌人の太田喜志子である。
牧水は歌人であるが、子供向けの童謡や詩もつくり、子供向け雑誌「金の星」の中心執筆陣の一人だった。「金の星」は千駄木の我が家のすぐそばにあった。


牧水は1920年(大正9年)千本松原の景観に魅せられて、一家をあげて沼津に移住した。静岡県が千本松原の伐採を計画したとき、反対運動の先頭に立ち計画を断念させた。しかし長年の大量飲酒による急性胃腸炎と肝硬変を併発して死去した。享年43。

写真だけ取って自転車をしばらく走らせると、バス停から歩いてきた老夫婦に牧水記念館はどこでしょうか、と聞かれた。

夫婦で詩や歌が趣味というのは上品な人生を送ってこられたのだろう。私と10年と違わないはずだが、たしかに団塊の世代のほうが詩や短歌になじんでいたような気がする。

よく考えたら私は若山牧水の名は知っていても、歌は知らない。
白鳥は悲しからずや空の青、海の青にも染まらず漂ふ
が国語の教科書にあった気がするが、鑑賞する力がない。

ただひたすら自転車をこぐ。
サドルの高さがあわず、角度も前に傾いて尻が前に滑りそうで、電動自転車と言っても結構疲れる。

松林が切れ、広い道に出ると沼津漁港だった。
11:13
沼津漁港
ここにハローサイクリング(ハレノヒ)のステーションがあった。
ここならカギをかけて開かなくなってもステーションまで持ち上げて歩く必要はないため、後ろ車輪のカギをかけてみた。
スマホの画面をみると「開錠」のボタンがあり、押すと開いた。
安心して少し走ってからまたカギをかけてみた。
また開いた。
11:19
沼津漁港は漁船が並ぶ港というより築地のようなグルメ観光地だった。
大型バスが何台も並ぶ広い駐車場があり、県内、全国から客が来るようだ。
11:19
沼津みなと新鮮館
海鮮専門のレストランや土産物屋が入るショッピングモールで観光案内所もある。
中は撮影禁止だった。
テレビでも放映されるスポットなのだろう。
11:21
築地の場外市場のように、沼津も港の市場の周辺に海鮮を食べさす食堂が林立する。

自転車のカギをスマホで開けてまた走り出す。
今になってレンタサイクルに慣れ、橋があって上り坂でもらくちんの電動自転車を使いこなす。
狩野川にかかる港大橋をわたる。
11:25
港大橋から上流方向
沼津駅方面の向こうに愛宕山と富士山が見えた。
これから沼津御用邸公園にいく。
(続く)

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2026年10月8日木曜日

沼津へ小田急、松田から御殿場線でいく

 沼津にいく。

上野東京ライン、湘南新宿ラインの終点の一つとして駅の表示でよく見ていたが、初めていく。
三島の次の隣駅とは知らなかった。
御殿場線の終点というのも知らなかった。

御殿場線は北の下土狩から降りてきて、東海道線と並行になって沼津に向かっている。
鉄道が近くに二本あるというこの不自然さは、当初の東海道線が国府津から大きく迂回する御殿場経由であり、1934年丹那トンネルの開通によりより直線的な小田原、熱海、三島経由の新線ができて沼津にこれら2本が入ったことによる。
その後、真っすぐな新線が東海道本線になり、御殿場線三島駅は下土狩駅と改称し、三島駅の名を三島大社の近く(=町の中心)にできた新線の駅に譲った。

御殿場線に乗ってみよう。

千駄木または西日暮里から沼津まで運賃と時間をネット検索すると
地下鉄・小田急・御殿場線 1855円 3時間30分
地下鉄・小田急・東海道線 1890円 3時間
横浜/熱海経由・東海道線 2420円 2時間30分

小田急・御殿場線経由は一番時間がかかるが、一番安かった。
朝、5:09、6:04に乗れば、8:37、9:29につく。

10月4日、目が覚めたら5:50だった。
目覚まし時計をかけなかったが(ここ数十年かけたことがない)早く起きようとは一応思っていた。しかしそれほど体は都合よくできていない。いつも目覚める時間だった。

急いで家を出たが、千駄木駅が6:10。
6:15の千代田線に乗った。
小田急・代々木上原で来た最初の急行は藤沢行き。とりあえず乗ったが、新百合ヶ丘でおり、急行小田原行きを待った。10分遅れただけで、ずいぶん乗り継ぎが悪い。

乗客に登山姿のシニアが多かった。
高尾へ行く中央線、京王線ほどではないが、かなり目立つ。
2026-10-04 8:03
本厚木から各駅停車になり、鶴巻温泉、東海大学前、秦野、渋沢のつぎが新松田。
これらの駅で登山姿の人々は降りていくが、近くに山はない。バスに乗るのか、車の友人と待ち合わせなのか。

新松田で降りた。
改札を出ると駅前広場の向こうに戦前のような雰囲気の小さな駅が見えた。
8:18
御殿場線の松田駅である。驚くほど近い。
オレンジ色のJRのマークが見えた。
そう、御殿場線は沼津から国府津までJR東海なのだ。
(東海道本線は丹那トンネルの手前、熱海までJR東日本だから、JR東海としては関東地方に入る唯一の路線である)

振り返って小田急の新松田駅を見ると、こちらのほうはそこそこ立派である。
8:18 小田急線・新松田駅
同じ電車で降りた人はバスを待っている人が多い。

いままで小田急に乗ると路線図で新松田という駅に気づいていたが、改めて「新」の意味が強く感じられた。

JR松田駅は御殿場線(当初は東海道本線)が開通した1889年(明治22年)に開業した。いっぽう小田急小田原線は1927年(昭和2年)に開業、新駅を新松田とした。(小田急はこの年、新宿―小田原を一気に開業した)

松田は矢倉沢往還(赤坂御門から沼津に至る大山街道)の宿場町として栄えたが、明治に入って衰退、しかし駅の開業で町は再び活気づいた。
ところが駅自体は新松田駅ができると、東海道本線より速く東京へ行けるために利用者は新駅に流れた。さらに丹那トンネルが開削され、1934年(昭和9年)に沼津 - 熱海 - 国府津間が全通すると東海道本線は新線経由に変更され、松田駅から東京へ向かう直通列車がほとんどなくなった。いっぽう、神奈川県西部の中心・東海道線小田原駅と新宿に直通する小田急の新松田駅はさらに利用者が増えた。
新松田駅、松田駅、乗り入れ用の連絡線

太平洋大戦中、東海道本線は根府川駅近くなど艦砲射撃を受けて不通になる恐れがあった。そのため、小田原線と御殿場線によってその代替ルートを作ろうという案が陸軍から出され、この松田に連絡線を設けることにした。それに伴って用地の確保と連絡線の橋脚が完成したが、まもなく終戦となり工事は中止された。

戦後の1955年、小田急が連絡線を完成させ小田急と国鉄の直通運転が開始。1968年には御殿場線の電化により直通列車も電車化されロマンスカー「あさぎり」が走った。2018年からは直通列車の愛称が「ふじさん」になった。

ここまで書いて、41年前に御殿場線に乗っていることを思い出した。
1985年9月7日、新宿からロマンスカー「あさぎり」に乗った。ロマンスカーも御殿場線もこの一度きり。結婚した翌年、まだ子供はおらず、妻と並んで車内販売のアイスクリームを食べた。終点御殿場で義姉一家と合流した1泊旅行、そのアイスクリームと富士サファリパークしか覚えていない。

上の航空写真を見ると新松田駅と松田駅の間の道はロマンス通りという。田舎っぽい寂れた道だった。ロマンスカーに乗る人はこの通りを歩くはずはないが、それ以外にこの名前の由来は分からない。
8:26
駅付近をぶらぶらしたが何もなく松田駅に戻ってきた。
千代田線に6分遅れただけで非常に接続が悪い。
ここにいても仕方がないので改札に入った。
8:32
松田駅ホーム
人がいない割にはホームは異常に長い。
西のほうに歩いて行くとホームは3本ある。よく見ればかつてはホームが4本あったようだ。
さきの航空写真を見れば西のほうにも改札があり、今入った改札は小田急との連絡口のようだ。
ベンチがあったので座ってコンビニパンを食べた。

松田駅の駅番号はCB04
関東のJRはJY、JKなどすべてJと路線名の頭文字だが、CBとは何だろう? JR、Tokai、Gotemba、いずれも入っていない。
JR東海の英名はCentral Japan Railway Companyで、そのC。 路線コードは東のほうから割り当てていて、A:東海道、B:御殿場、C:身延、D:飯田、などである。
(全国各社のエリアコードは北海道:H、東日本:J、東海:C、西日本:地域によってK,O,H,S、四国:なし(路線記号はある)、九州:Jである。)
御殿場線の駅番号は国府津をCB00とする。

電車が来て乗った。
やがて酒匂川の谷を山深く入っていく。
箱根八里は馬でも越すが汽車は越えられず、なだらかな御殿場回りとなったわけだが、こちらもなかなか険しい。
8:59
普通名詞のような駅名、山北を過ぎる。箱根の北という意味だろうか。しかし四方が山だ。
ここからは蛇行する谷川の右に行ったり左に行ったりして走る。

写真がなぜか緑色になってしまった。
夕焼けと同じく緑の光が強いと画面全体にハレーションを起こすのだろうか。
9:03
谷峨(やが)
テレビに出てくる秘境駅のよう。
たった今書くまで、すっかり谷「蛾」だと思っていた。
峨という文字は京都の嵯峨野にあるが、意味を知らなかった。山が険しいさま。
緑のハレーションは続く。

08:47 松田 出発
08:51 東山北
08:56 山北
09:05 谷峨
09:10 駿河小山
09:16 足柄

とてもかつて日本一の路線だったとは思えない。
ここで鉄道唱歌(東海道編)をかいておく。
大和田建樹作詞。1900年だから御殿場線が東海道線だったころである。
汽笛一声新橋を早わが汽車は離れたり、で始まり、12番から今の御殿場線に入っていく。

12.國府津おるれば電車あり 酒匂小田原とほからず 箱根八里の山道も あれ見よ雲の間より。13.いでゝはくゞるトンネルの 前後は山北小山駅 今もわすれぬ鉄橋の 下ゆく水のおもしろさ。
14.はるかにみえし富士の嶺は はや我がそばに來たりたり 雪の冠雲の帯 いつもけだかき姿にて。
15.こゝぞ御殿場ば夏ならば われも登山をこゝろみん 高さは一萬數千尺 十三州もたゞ一目。16.三島は近年ひらけたる 豆相線路のわかれみち 驛には此の地の名をえたる 官幣大社の宮居あり。

この歌から谷峨駅は当初なかったことがわかる。
山北と駿河小山の間は確かに鉄橋とトンネルがいくつもある。
明治の初め、人力でトンネルを掘るのは相当困難だったはずで、今では短いトンネルも当時は歌になった。

ちなみに駿河小山(おやま)は当初歌の通り小山駅であった。
1906年日本鉄道を国有化すると栃木に小山駅があった(1885年奥州線の駅として開業)。鉄道院では御殿場線のほうを変えようとしたが地元(六合村と菅沼村)が反対、改名は延期された。その後、静岡県知事が両村の合併と新町名を駿河町にすることを諮問、それを受けて鉄道院は1912年駿河駅とした。ところが地元は駿河町という町名も反対、小山町となった。そして戦後、1952年、今の駿河小山に改称されたという。
9:16 足柄駅
新しい駅舎の前にクマと金太郎の像があった。
全国でクマ出没の騒ぎは、童謡やこういうのどかな像と全く正反対である。
昔の熊が今より優しかったことはないだろう。
むかしは人里にいなかったから相撲や、またがってお馬の稽古というあり得ない話も成立したのである。

ちなみに足柄は相模・神奈川県の古くからの郡名だが、足柄駅、東名足柄SAとも静岡県にある。この足柄は巡洋艦の名前にもなった足柄山地による。最高峰の金時山は神奈川県南足柄市、箱根町と静岡県駿東郡小山町の境にある。

足柄駅は小田急線にもある(1927年開業)。こちら御殿場線の足柄駅は戦後1947年だが、1903年に開設された足柄信号所を前身とする。

足柄の次は終点、御殿場駅 09:23着
ここで列車を乗り換えた。もう山は遠い。
9:24 御殿場駅
駅番号はCB10。

御殿場市は人口 8.5万
標高が高く冷涼多雨から霧がでる。これが以前のロマンスカーの名前「あさぎり」になったのだろう。ちなみに今のロマンスカーの名前は行き先によって、ふじさん、はこね、さがみ(小田原止まり)、えのしま、である。
御殿場は1912年に陸軍が演習場を開設、いまも陸上自衛隊の3つの駐屯地と東富士演習場があり、市域の3分の1が防衛関連で占めている。

09:28 御殿場 発
09:32 南御殿場
09:35 富士岡
09:41 岩波
09:47 裾野
09:51 長泉なめり
09:55 下土狩
09:58 大岡
10:02 沼津 
御殿場線の運賃は860円
9:36 富士岡駅
雲に隠れた右のすそ野は富士山だろうか。

9:54 下土狩駅
昔の三島駅である。鉄道唱歌にある豆相線路も宮居もみえない。
1898年ここから伊豆長岡まで豆相鉄道が開通したが、1934年丹奈トンネル開通で新駅ができ、その現三島駅が発着駅となり、線路は撤去された。会社は豆相鉄道から駿豆電鉄、駿豆鉄道となり、1957年、今の伊豆箱根鉄道(西武鉄道の子会社)になった。この会社は1923年から堤康次郎の箱根土地の傘下にあった。

車窓から見ると豆相線路も宮居もない代わりに、駅前には「ながいずみ美術展開催中」という文化会館があった。
下土狩駅は三島市でも沼津市でもなく、静岡県駿東郡長泉町下土狩である。

三島でないのになぜ三島となったか?
東海道の宿場町、三島大社のお膝元として三島の知名度は抜群だが、鉄道が来なかったことに彼らは大きな危機感を持った。鉄道側としても「行政上の正確な所在地」でなく「広域の利便性や付近のもっとも著名な地名」を駅名にする方針であった(東京の目白や目黒もそう)。このことから、三島の政財界が豆相鉄道を作るなどして強力に運動、ついに駅名にして三島の玄関口にした。
長泉村としては、それらの動きを拒むほど力がなかったということだ。

1934年「三島」が東海道線に去った後、駅は村名の長泉とはならず、その大字、下土狩を駅名とした。
となりの「長泉なめり」は2002年、静岡がんセンターの最寄り駅として開業した。なめりは大字の納米里である。

沼津到着。
10:11 沼津駅前(南口)
レオのマークの伊豆箱根鉄道のバスが出て行った。

ちなみにロマンスカー「ふじさん1号」にのれば新宿 6:40発、御殿場 8:13着。
乗り換えて沼津に9:03につく。特急料金は1560円。西日暮里からの運賃総額は3523円。
しかしロマンスカーなど考えてもみなかった。
まあ、西日暮里を 6:13発だから寝坊してどっちみち間に合わなかったし、各駅停車でも悪くはなかった。

(続く)

2026年8月3日月曜日

柏の葉のラグビースクール、千葉大園芸学部と高等農学校

7月14日、千葉県立柏の葉高校に行った。

ちょうど1年ぶり2回目。
前回は柏の葉キャンパス駅から広い公道を歩いたのだが、高校生たちが千葉大の敷地を通り抜けて登校するのを見たので、今回は彼らについていった。
つくばエクスプレス「柏の葉キャンパス駅」周辺

かつてこのあたりは陸軍の飛行場があり、戦後アメリカ軍に接収され、返還されてから大学や公園になったことは1年前のブログに書いた。
8:16
「千葉大学柏の葉キャンパス」という表札のある入り口から入る。
守衛所などはない。入っていくのは大学関係者ではなく全員通り抜けの高校生である。

すぐ左にラグビースクールジャパン というインターナショナル・スクールがあるがフェンスがないので境界がわからない。

地図には千葉大の「環境健康フィールドセンター」と「バイオヘルスオープンイノベーションハブ」が書いてあるが、見たところ大部分は畑(果樹園)である。

歩いていくと左に芝生のグラウンドがあった。
8:16
2本の高いポール。これはひょっとしてラグビー場ではないか?
千葉大キャンパスの西に隣接するRugby School Japanというのは近年できたイギリスの名門校の日本支校だ。
えっ? スポーツのラグビーは、このラグビー校と関係あるのか?
あとで調べよう。

右側は千葉大の畑である。
松戸キャンパスにある園芸学部の付属農場らしい。
8:17
梨だろうか。
(実家でも)作ったことがないので姿からは分からない。

千葉大は農学部でなく園芸学部である。
両者の違いは前者が林学から畜産、水産まで含むのに対し、後者は野菜、果物など作物栽培に限ること。私立の場合は畜産、水産などが独立することはあるが、明治以来の伝統の用語としてはそういう区別である。

では戦後、千葉大園芸学部となる前、戦前の名前を見てみよう。
1909年 千葉県立園芸専門学校として出発。
1929年、県から文部省に移管され、官立の千葉高等園芸学校となった。
最初から園芸に限ったのである。

戦前、官立高等農学校として設立されたは7つあった。
もともと農業に関する高等教育は、明治前期に札幌農学校(のち北海道帝大)、駒場農学校(のち東京帝大)、私立の東京農学校(のち東京農大)があったが、これでは不足である。

明治後期になって、
1902年盛岡高等農林
1908年鹿児島高等農林
1910ー1914、上田、東京(西ヶ原)、京都の3高等蚕糸学校ができ、これらは1903年制定の専門学校令の適用を受けた。すなわち旧制中学を出て入学する学校となった。これらは戦後それぞれ信州大、東京農工大、京都工繊大の設立母体(大学内の最古の学部)となった。

第一次世界大戦後、高等教育機関拡充の動きの中で各地の誘致もあり、さらに鳥取・三重・宇都宮・岐阜・宮崎の官立5農高が1920年-1924年に設立され7つとなり、1929年には千葉県立園芸学校が文部省に移管され官立高等園芸学校となった。
またその上位校となる帝国大学においては、これ以前から農学部が設置されていた東京帝大に加えて1920年-1923年には九州・京都でも農学部が新設された。

しかし戦前における専門学校の単科大学昇格という点で言えば、官立2校・公立1校が昇格した高等商業学校(一橋の東京商科大、神戸、市立大阪)、また官立2校が昇格した高等工業学校(蔵前の東京工大、大阪工大)と異なり、高等農学校の場合は私立の1校が東京農業大学として大学昇格を果たすにとどまった。

残りの官立農学校7,官立蚕糸3,県立から官立となった千葉の11校は、戦前には大学にならなかったが戦後各地の国立大学の一学部となった。

国立大学農学部のほうから見れば、名門といえる官立11校のほかに、県立農林専門学校(新潟、信州、静岡、愛媛、香川、など)、帯広畜産学校、農業学校の教員養成をしていた東京農業教育専門学校(のち東京教育大から筑波大)なども戦後大学になった農業関連学校である。
8:17
柿の実が生っている。

千葉大園芸学部に話を戻すと、園芸という単語が野菜、果樹、庭木、花卉などの栽培またはそのための技術であると分かっていても、NHK「趣味の園芸」の影響からか、ガーデニングとか草花の栽培のイメージが強い。

しかし通路から目に入る範囲には、ほとんど果樹であった。
品種改良など日本の農業技術の発展に果たした役割は、各県の農業試験場ほど目立たない。
8:18
ブドウ畑か。
8:18
左はラグビー校を過ぎ、目的地の県立柏の葉高校の敷地になった。

回廊といえる通路をとおって、県立柏の葉公園の前の通りに出た。
8:21
動植物、土の採取、畑、建物への立ち入りを禁じているだけで、通行はOKである。
千葉大の敷地は途中からこの通路部分だけになっていて、裏の通りへ出るためだけの校地である。

千葉大の東は東大。
8:24
東京大学インターナショナルロッジ
留学生のための宿泊施設は雑司ヶ谷や巣鴨にもあるのではなかったか?
生活支援金などは中国などからの留学生でなく、日本人の大学院進学者に援助してもらいたい。
8:25
東大の他に、産総研、国立情報学研究所もあるようだ。
はいってみた。
8:25
人がいない。
柏Ⅱキャンパスとあるのは、ずっと広いIキャンパスが東のほうにあるからだ。
そちらは前のブログに書いた。
8:27
広すぎて空地があって草ぼうぼう。
8:28
自転車置き場。
こんなに広いんだから、開放型にすれば建設費も安いのに。

柏の葉高校での待ち合わせは8:40
10分あったので道路を渡って県立公園に入ってみた。
8:30
千葉県立柏の葉公園
戦前の飛行場が米軍に接収され、返還後に国と県で分け合ったことは前のブログで書いた。
国は大学の国立研究所を建て、県は高校と公園を作った。
8:31
広い。
人工の池がある。サッカー場は一時柏レイソルがホームとした。野球場は前年、高校野球の千葉県予選をやっていたが、今年はどうか。
体育館も立派なんだろう。
公園センターや茶室では市民に講習会などもやっている。
茶室の上生和菓子つき抹茶は800円。

8:33
入口からの通路の両側は密林

8:34
キャラボク
香木の沈香(ジンコウ)の中でも最高級として知られる伽羅(キャラ)とは別物。
伽羅と似ていることからキャラボクと名付けられたが、キャラを知らないので香りが似ているのか姿が似ているのか分からない。
目の前のキャラボクの葉っぱはイチイに似た常緑針葉で、実際イチイ科である。
ちなみに子供のころ実家にあったツガ(トガ)は似ているがマツ科である。

時間が迫っていたので、公園案内図の左下のごく一部を覗いただけで戻った。

講演は体育館に空調がないということで生徒は各教室で聞くというリモート講演となった。
各教室すべてにつながっているかどうか確認に時間がとられた。面倒だなと思う教員もいることだろう。マスメディアの熱中症連呼は一般人にもうつり、こういうものは少数意見でも通るから世の声になってしまった。夏は暑いのが当たり前であり、変な声によって地球温暖化はますます進んでしまう。

ま、とにかく話は終わり、駅まで送りますという声を辞退して来た道をもう一度歩いた。
10:02
千葉大圃場の棚はやはりブドウだった。
袋がかかっている。どんな品種かはわからず。

学生たちの姿は見えない。
彼らは1年の時は西千葉キャンパスで、2年以降松戸にくるらしいが、他大学の農場と同じく、実習はしても日ごろの作業は専門職員がするはず。

千葉大の圃場の南のほうまで歩いてくると通路西側にラグビースクールがある。
千葉大の敷地(道路)との間は大した境界もないので近づいてみた。
10:05
Rugby School Japan
全く知らなかったのだが、イギリスの「ザ・ナイン」と呼ばれる最も歴史ある9つの最難関校のパブリックスクール(イートン校やハーロー校など)の1つに数えられる。イングランドのラグビーにある。ここは9世紀ころから集落があり、1567年、学校ができた。校名は創立者の名前でなく地名ということだ。ラグビーは現在人口7万人。

1823年、ラグビースクールの生徒であったウィリアム・ウェッブ・エリスが、フットボール(サッカー)の試合中に手でボールを持って走り出した というのがラグビー発祥とされる。これには諸説あるが、ラグビーワールドカップの優勝トロフィー「ウェッブ・エリス・カップ」の由来になっている。

目の前の案内図のラグビー場にはWebb Ellisと書いてあった。


この通り抜け道の南門から出る直前に、千葉大側に一本の木があった。
10:08
気になったので近づくとカシワの木だった。
もちろん千葉大柏の葉キャンパスを表す。

カシワというのは枯れた葉は褐色に変わり、その多くは春まで枝についたまま新芽が出るまで落葉せずに残っている。この姿が親が子を見守る、家系が絶えないとして縁起の良い木とされた。

このような樹木は落葉樹でも常緑樹でもなく枯凋性(英:marcescence)という。
本来、枯れて落葉するのは冬季に葉から水分の蒸発を防ぐためとか栄養素の回収とか風雪防止とか、生存に有利なものとして進化したといわれる。
ところが葉が落ちないものが残ったのは、動物による春の新芽の食害を防ぐことなどが理由だろうか。

カシワは信州の実家にあって、埼玉で伊奈町から指扇プラザに引っ越した時、親から苗をもらった気がしたが、その後忘れ、少なくとも千駄木には持ってこなかった。

通り抜け道南門の道路を渡れば、駅前のショッピングセンターである。
10:14
ららぽーと柏の葉
おしゃれな店が多い。
ここは暮らしやすそうだ。
10:17
駅前ロータリー

大学、研究所に公園、運動場などの公共施設が駅から遠からぬところにあり、駅には大きな商業施設がある。何もないところに作ったから広々している。
歴史とか猥雑さがないが、そういうものに興味がない人には最高に住みやすい街に思えた。

駅名か開発地区名かどちらが先か知らないが、西柏とか新柏にせず、柏の葉にしたのは良い。柏の木だと意味がない。

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