2022年3月31日木曜日

京都8 鴨川飛び石、京大薬学部、芝蘭会館

3月19日、京都に来た。肌寒い中、同志社、御苑、御所を見た。
昼食後、丸太町通りから、鴨川に降り、遊歩道を北に歩いた。
13:18
寺社よりも京都はこういうところを歩くのが好きだ。

荒神橋をくぐると、ぜひ渡りたかった飛び石橋がある。
初めて渡ったのは京大の帰りだが、2004年ころか2009年か不明。
2022‐03‐19 13:26
左は荒神橋
石の大きさとその間隔は、スリルと安全性の両方を満たす絶妙な塩梅だと思う。

この荒神飛び石のほかに、上流の鴨川デルタには出町の飛び石、下流には二条飛び石がある。都会の中のなんと素晴らしい散歩道だろう。京都は寺社がなくても十分魅力ある。

飛び石から鴨川の土手に上がり、川端通りを渡ると、もう京都大学。
近衛通りとの角は京大稲盛財団記念館。
京都を歩いていて「稲盛」「KYOCERA」などを冠した文化施設がいくつもあった。
京都というのは島津、オムロン、日本新薬、ワコール、宝ホールディングスなど、地元と密着した企業が多い。成功すると東京に本社を移す会社が多い中、京都はそれだけ魅力的だということか。

近衛通りを東へ、京大課外体育施設、薬用植物園と過ぎると、薬学部本館。
東大薬学部よりずっと広い。

13:33
京大薬学部
最初に中に入ったのは2009年、日本薬学会最終日の3月28日。
すでに2003‐2005年のシミレーションプロジェクトで何度も京都に来ていて京都大学は吉田キャンパス、桂キャンパスとも歩いていた。しかし吉田キャンパスでも東大路通りの西の薬学部はそのときが初めてだった。

私は1995年から創薬ターゲットをチャネル、トランスポーターなど膜輸送体に絞っていた。

理由の一つは受容体や酵素はセルフリー(無細胞系)でランダムスクリーニングが可能なため、早くからロボットによるHTSが進み、海外大手に太刀打ちできないと思ったから。
おそらくすでにメガファーマ各社とも選択的阻害薬を持っているのではなかろうか、と考えた。
2つ目の理由は、留学したとき、Caチャネルのクローンを世界で一番持っていた森泰生氏に会い、以後全面的な支援が得られ、世界中の製薬会社で一番を狙えたから。
3つ目は、1987年にHodgkin-Huxleyの論文を読んで以来、電気生理と、チャネルたんぱく質の魅力にはまっていたから。

具体的には、グルタミン酸トランスポーターやCaチャネルを発現させたカエル卵母細胞での電流測定から始まり、対象をKチャネル、Clチャネルに広げ、HEK安定発現細胞と分光学的手法によるHTSをおこなった。40代は一番体が動いた時期。

 neuronal Ca channels(N,  P/Q,  R型)、
 glutamate transporters (EAAC1, GLT-1)
 aquaporine (水チャネル活性を分光学的に見る)
 Ca release activated Ca channel
 Ca activated Chloride channel,
 CFTR(forskolin-activated Cl channel)
 T-type Ca channel(世界初の選択的阻害薬に到達!)
 SK channel(停滞していたテーマの分光学的アッセイ系構築)
 TRPP8 for prostate cancer (=TRPM8)

しかし8年で12個ほど走らせたプロジェクトはことごとく不発に終わり、会社の自分に対する処遇に不満もあって社交ダンスにはまっていった。

2003年、hergチャネル試験のためにオートパッチクランプ装置が導入されたことから、オペレーターとして再びチャネルに戻る。Discoveryはやはり魅力で、イオンワークスによるKv1.5,Nav1.2 の阻害薬探索、Q-patch導入でTRPA1, Kv1.3、Barracuda導入で酸感受性チャネルASICを測った。
国内製薬企業では間違いなくトップクラスを走っていた。

しかし薬理学会の2009年というと、53歳。
初志の1995年から14年も経っている。

研究へのエネルギーは消えてしまっても、やはり学会ではチャネル、ポンプ、トランスポーターなど膜輸送体の話に興味がいく。

この年はトランスポータやポンプなどの電流を測るSurfe2Rのランチョンセミナーがあった。これらはチャネルと比べて電流量が小さいし、膜電位による活性化不活性化がないため測定困難なうえにあまり面白くない。しかしジギタリス(Na/Kポンプ)、胃酸分泌抑制薬(H/Kポンプ)など創薬ターゲットとしては重要である。
学会最終日、Surfe2R発売元イオンゲート社による京大薬学部金子研での実演ワークショップがあったので、初めて京大薬学部に来たのだ。

13:54
2009年以来13年ぶりに廊下を歩いたが、金子周司教授は不在だった。

彼とは、私が1996年にジルチアゼム誘導体T-477の脳型Caチャネルに対する作用を長崎でポスター発表したとき、初めて話した。

金子氏はそれ以前に、論文作成などで便利なLife Science Dictionaryというのを無料ネット公開して、薬理研究以外でも活躍されていた。これはただのライフサイエンス用語の辞書ではない。例えば電流固定という語を入れれば、voltage clamp が出てくるが、この言葉を含む例文を300例ほどライフサイエンスの文献から抽出してある。英作文に極めて便利な辞書なのである。

その後、彼は長野高校の1年後輩であることを知る。
長野県つながりで京大工学部の森さんとも共同研究され、イオンチャネル創薬という共通テーマにより学会でお会いすると話すようになった。

2013年私が日本薬科大学に来てから毎年薬剤師国家試験検討委員会にいくと、彼がいて、懇親会では同じテーマで研究の話ができる唯一の人だった。

さて、留守の金子教授室と同じフロアに竹島浩教授室があった。
彼は森さん、田辺さんとともに京大沼研の主力研究者で、1989年筋小胞体のリヤノジン受容体をクローニングした。400K ダルトン以上の巨大たんぱく質が4量体でチャネルを構成していることを明らかにし、世界を驚かせた人物である。
13:42
幸いいらっしゃった。

名前だけは早くから存じ上げていたが、お会いしたのは2001年田辺製薬がスポンサーになった若手奨励研究会TMFCだったか。
いや、彼が京大薬学に来る前、東北大教授、久留米大教授のまえに東大飯野正光教授の助教授(1995-2001)でいらしたときに会っている。

ひとり学会発表の準備をされていたが、近年の学生気質などについて雑談した。
「土曜日だというのに実験室に誰もいないでしょう? 大学院生が週休2日なんて信じられないですよ。へたに言うとパワハラになっちゃいますからね」
ご自身が沼研で世界のトップを走っていらしたときは、日曜の夕方だけ気を緩められたという一週間だったはずである(森さん談)。天下の京大でさえこれでは、日本の科学は新興国に負けるだろう。

薬学部を後にして近衛通りを渡って医学部地区に入る。
むかし、入り口の生協食堂で食べたことを思い出した。
14:02
医学部は広い
整然として、どれも建物が新しいのがつまらない

芝蘭会館
医学部地区の北東の隅にある。
2004年11月と2006年12月、野間先生のシミレーションプロジェクト公開シンポジウムは、ここで2回ほど開かれた。

芝蘭会は、明治39年(1906年)京都帝国大学医科大学長の荒木寅三郎が京大医学部の結束と医学の発展を願い結成された。
この会館は1999年に医学部創立百周年を迎えたことを記念して、卒業生、同門会、教職員、関係機関から寄付を募り、2004年3月に竣工した。
中に稲盛ホール、山内ホールがある。
2004年はDenis Nobleが招待されていた。彼は若いときすごくハンサムである(倉智嘉久「心筋細胞イオンチャネル」)。1980年代に細胞膜で囲まれたvolumeを定義したことにより、ホジキン・ハクスレーの細胞膜モデルを発展させたバーチャル細胞を作った。それをさらに発展させたのが野間先生らの京都モデルである。

Nobleもその後モデルを発展させ、そのOxford modelは、京都モデルと違い、心室筋でIKrを阻害するとEADが起きる。しかしCaチャネルを20%抑制するだけでEADが起きないとか、いろいろな患者の条件で、おなじIKr阻害でも不整脈を起こす程度が異なることを示した。また、実際の抗ヒスタミン薬で,IK1,IKr,Iktoの阻害スペクトルから、不整脈を予測できた例を示した。
彼は実用例に興味があったせいか、もっとも簡単な発表であった私のポスター(NCXノックアウトマウスの救命シミレーション)に興味を示し、「オモシロイデース」と連発してくれた。

その2年後、2006年12月にもここに来た。
我々が稲盛ホールでシミレーションモデルのシンポジウムをしている時、同じフロア、ガラス張りの山内ホールで産学連携の国際フォーラムが開かれていた。京都大学主催・アステラス製薬後援。外から見えたスライドにひかれ、こっそり忍び込むとアステラス竹中会長が、これからは患者の少ない希少疾患を狙ったほうが薬価が高いから良いという話をされていた。

当時はまだ高血圧や糖尿病、アルツハイマーなど市場規模の大きい疾患を狙う会社が多く、新しいテーマを提案すると「市場規模はいくらくらいか?」と必ず質問された時代である。

竹中さんは企業は患者数ではなく、売上高が大事で、それは患者数と薬価の掛け算。患者が少なくても公的支援制度で薬価がいくら高くても使ってもらえるのだから、(研究は大変でも)開発が容易な希少疾患を狙うべきだとおっしゃった。
いまや世界中、ほとんどの会社が希少疾患を狙っている。

(続く)

2022年3月26日土曜日

京都7 公家跡地の御苑、紫宸殿、池、猿が辻

 

2022-03-19
同志社大学今出川キャンパスをみたあと、通りを渡って今出川御門から御苑に入った。
前回来たのは22年前の2000年4月9日。

10:12
今出川御門をなぜか近衛御門と思っていたのは、入ってすぐ右(西)が近衛家の屋敷だったから。


右が近衛家屋敷跡。
今出川通りから丸太町通りまで、長方形から御所、仙洞御所などを除いた部分は65万平米という。
ここに200軒ほどの宮家、公家が住んでいた。(二条、冷泉などは今出川通りの北側)
単純計算すれば1軒当たり3000平米か。
和宮様御留(有吉佐和子)の表紙裏

しかし、宮家以外の公家では近衛(2862石)、一条(2044)、九条(2043)、二条(1708)、鷹司(1500)の5摂家が圧倒的に大きい。
その下が三条、西園寺など清華家の9家。1500石(今出川家)から数百石まで。
その下は大臣家(3家)で300石以下。
その下は羽林家、名家と分類されるが、下のほうは30石三人扶持と言う下級武士並で、仕事もなく質素な暮らしだったらしい。
上図のように屋敷地も石高に応じて差があった。

明治維新で東京に屋敷地をもらいみな移動してここは荒廃したが、のち公園として整備された。御所、仙洞御所が宮内庁管轄、迎賓館は内閣府なのに対し、御苑の65ヘクタールは環境省が管理する。

御所北西の隅、皇后門
蛤御門はまっすぐ南にいった西側、御所ではなく公家地への門。

10:21 
清所門から御所に入る
従来の荷物検査に加え、コロナチェック
2000年4月9日いらい2回目。
かつては春、秋の年2回しか公開されていなかったが、いまは年中入れるようだ。

平安京の内裏が船岡山の南から、2km東の現在地に移ってきたのは1331年という。

10:31
諸大夫(しょだいぶ)の間
大名が天皇に会うときは、すぐそばの立派な御車寄せからは入れず、こちらに回って靴脱石から上がり、この部屋で待たされた。
高位の貴族などは御車寄せから入ったから、朝廷、公家の武家蔑視はかなりのものである。

10:35
承明門から紫宸殿の右近の橘、左近の桜をみる。
右大臣、左大臣なども、左右は天皇から見た位置。

この南、すなわち写真の背中側に建礼門がある。御所の正門で天皇と国賓のみが使う。
安徳天皇を産んだ清盛の娘は建礼門院といったが、「門院」は天皇の生母その他の後宮、内親王に与えられた称号で、建礼門と建礼門院とは関係ないだろう。

紫宸殿の前庭
御所で最も格式高い正殿。五か条のご誓文の舞台となった。
即位の礼の際はこの庭に旗などが並び、殿上には皇族、諸大臣が並んだ。
なかには東京でも使った高御座があるはず。

10:43
小御所の東の池
2000年に初めて見た時、丸石を並べた池は新鮮で、御所で一番印象に残った。
それまで多く見てきた寺社の庭は、小堀遠州で代表されるように、鎌倉時代以降の禅宗の影響を受けたものだろうか、枯山水のように大きな石を池の周りに配置したものだった。
しかし、飛鳥などで発掘される宮殿の庭はやはり、このように丸石で砂浜を表していた。これが日本古来の形なのだろう。

この池の北は細流があり、曲水の宴に使われた。

蹴鞠の庭
2000年のときはもっと広いところ(多分紫宸殿の東)で蹴鞠が実演されていた。公家装束をまとっていても眼鏡をかけた人などいかにも職員らしい人々で、技量も普通だった。平安貴族を再現するなら技術はサッカー選手のようにある必要はない。
年に2回の公開だったから、そういうサービスもあったのだろうが、年中オープンではやるきっかけがない。

この奥(紫宸殿の西北)に清涼殿があり、天皇の日中過ごす場所だった。
2000年の公開のときはそこまで行けて、前の漢竹、呉竹をみた。
漢竹(かわたけ)は知らなかったが、高校の古典で出てきたのか呉竹の存在は知っていた。
便所の臭いがした気がするが、記憶違いか?

11:06
御所の北側
溝が掘られている。アジア人の子供のグループが川を飛び越えて壁側にわたったら、スピーカーで注意された。監視カメラでもあるのだろうか。

御所の北東、猿が辻
ここは角がない(写真右)。 これは「ツノ(角)を取って鬼を封じる」という考えからくる鬼門除け。 軒下には魔除けの力を持つと言われる猿の木彫りが金網に入っている。
昔、山王日枝神社の使いという猿が住みつき悪さをしていたため、閉じ込めたという。

この辻の北東の森の中に、明治天皇(幼名祐宮)にちなむ井戸、祐井(さちのい)があるらしい。孝明天皇の側室、生母中山慶子の実家、権大納言中山忠能の邸宅があったからだが、先を急ぎ、行かなかった。

11:19
京都迎賓館
2002年着工、2005年竣工
2000年に来たときは何の記憶もないから、林か空き地だったのだろう。

公開されていたがガイドツアーは大人2000円もした。
とくに興味がなかったので500円でも入らない。
一か所で物を見るより、歩いていろんな場所を見たい。

11:32
仙洞御所の南側はグラウンドになっている。
京大の森さんたちはここでソフトボールをしたらしい。

2000年に初めてきたあと、2004年ころ京大から烏丸丸太町まで歩いた時、ここを突っ切った。
南に行けば賀陽宮、閑院宮など皇族邸跡、九条、鷹司邸跡、厳島神社などあるが、行かずに寺町通の新島譲旧宅を見に御苑を後にした。

京都御所がそのままなのは当然として、京都御苑も変なものをあまり作らず(それだけ広い)、市民も観光客も楽しめるいい空間になっていた。

(続く)

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2022年3月22日火曜日

京都6 同志社大学と仮想細胞、鴨沂高校、新島旧宅

退職まであと10日あまり。3連休で京都に来た。
埼玉、東京、長野以外でいちばん土地勘のある場所。

1973 高校修学旅行
1978 武田、藤沢薬品見学旅行の帰り
  (薬学部の行事だったが、現地集合・解散、希望者のみの自由参加、大覚寺京大など)
1981 大阪で新入社員研修のとき、北川、佐々木と八坂神社いずうなど
1981 長野の親と京都見物、清水金閣など
1984 結婚した年、ゾウさん夫妻と旅行、大原嵯峨野
1990-1210,12 神経科学学術集会 京都国際会館
1995-0709-12 IBRO国際神経科学会 京都国際会館
1998-0324-26 薬理学会年会 京都国際会館
2000-0409-13 国際精神神経学会(第5回日本精神神経学会)京都国際会館
2001-0329-31 生理学会年会 京都・同志社大
2006-1204,5 細胞・生体機能シミレーション国際シンポ 京大・芝蘭会館
2009-0326-28 薬学会年会 京都国際会館 金子研
2009-0802-4 国際生理学会シンポジウム ロテル・ド比叡、白川通今出川
2017-05-17 薬剤師国家試験問題検討会、めるぱるく

これだけではない。
とくに京都に詳しくなったのは、2003年から2年間、丹波口、京都リサーチパークの野間プロジェクトに参加したから。
月に2回ほど、2泊3日くらいで45回ほど来たから、その2年間は半分住んでいたようなもの。

全部で120泊くらいしているだろう。
市内はほぼ歩き回ったから記憶もいっぱいある。
2022-03‐19 9:36
京都タワーは上がったことないし思い出もないが。

まず地下鉄で北上、同志社大学に行った。
9:59
烏丸通の西門から入る。
良心館というらしい。経済学部、文学部が入る。


10:01
どの建物もきれい
土曜、春休み、コロナ、でほとんど人はいない。

1920年(大正9年)に日本の私立大学では最も古い段階で大学令に基づく大学となった。
すなわち、2月の早慶につぎ4月に明治、日本、中央、法政、国学院とともに同志社(それまで名前は大学でも法的には専門学校)も大学となった。現在は14学部・16研究科(大学院)、学生およそ3万人を擁する。
ハリス理化学館
1890年、J. N.ハリスの理科教育寄付金10万ドルにより理化学館が竣工、
同志社波理須理化学校が開校した。

ハリス理化学校はのちの同志社大学理工学部の前身である。
しかし1894年(明治27)の広告を見ると波里須理化学校ではなく、波里須理科学校とある。
1892年に薬学科を新設した。
このことは以前薬学昔々に書いた。

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10:06
今出川キャンパスでもっとも有名なクラーク記念館(旧神学館)

1890年新島襄死去。翌1891年、ニューヨーク、ブルックリンのB.W.クラーク夫妻から、神学館の建築費として10,000ドルの寄付が同志社になされた。23歳で早逝した息子を記念して贈られたもの。1894年献堂されたという。

今出川キャンパスは初めて入ったが、西のほうの新町キャンパスは昔行ったことがある。
21年前の2001年3月、日本生理学会の会場となった。
近年大きな学会はほとんど大都市の国際会議場で行われるが、今では懐かしいほど生理学会らしい地味な学会だった。普通の小さな教室で口演があり、階段や廊下にポスターが貼られた記憶がある。

2001年の年会で最も印象深かったのは慶応理工学部の富田勝教授の特別講演だった。
有名なE-Cellである。酵素反応にフィードバックがあると、代謝産物濃度に振動が起こる場合があるらしく、それは実際に複雑な計算してみないと分からない。どうせ計算するなら、とコンピューター内で動く仮想細胞を作ってしまったのである。
すなわち、125の遺伝子の発現、酵素反応を数式で表し、それぞれが相関しながら時々刻々と変わる速度定数、基質、産物の濃度をコンピュータで計算させる。あたかも生きているかのような仮想細胞は遺伝子KOもクリック1つですむ。細胞外のグルコースを瞬間的に0にしたあと1秒後の細胞内ATPなど、実験では求められないことも計算で予測できる。

富田教授は、シンセサイザー冨田勲のご子息で、その少し前にアサヒスーパードライのコマーシャルに出演されていたから違う方面でも有名人だった。話も面白かったので彼の自伝的エッセイ本を後日読んだ。

この講演の座長をされたのが京大の野間昭典教授だった。
ふつう座長は演者の紹介をするだけなのだが、野間先生はご自身でスライドを用意して来られ、E-Cellの前座のようにして心筋バーチャル細胞を披露された。
それは一晩中拍動していて、朝起きてちゃんと動いていると自分の心臓のようでホッとすると話された。

その2年半後、野間先生を中心にシミレーションプロジェクトが始まり田辺も参加、私に話が来たとき、すぐ、この同志社大学での学会が思い出された。もう若くなかったので数学やプログラミングに躊躇したのだが、あの仮想細胞がとても興味深く印象に残っていたので、引き受けることにした。
それまで京都は学会で何回も訪れていたが、ここから本格的な京都歩きが始まったから、同志社での生理学会は私の京都の原点ともいえる。

10:08 同志社今出川キャンパス正門から出る

このあと正門の向かい、今出川御門から京都御苑に入り、御所など見物した後、寺町通に出て同志社創立者新島襄の旧宅を見に行った。

確か新島旧宅の近くに冷泉という表札の小さな門構えの家があったと思うが、見つからず。
記憶違いだろうか?
(有名な公家屋敷の冷泉家は今出川通りに面し同志社大学に囲まれている)

11:34 
幻の冷泉邸の代わりに目についたのが府立鴨沂(おうき)高校。
1872年に日本最古の官公立の女学校(後の高等女学校)として創立された。
戦後は共学、現校名となり、洛北とともに京大進学者数の多い高校であった。しかし進歩的革新府知事だった蜷川虎三の全国に先駆けた総合選抜制の導入とともに進学実績は落ちていった。

明治天皇行幸所京都府尋常中学校と碑がある。
尋常中学というのは5校置かれた国立の高等中学と別に、都道府県に一校ずつ置かれた名門校。
京都の尋常中学は1870年、日本最古の旧制中学校として、二条城北の旧所司代屋敷(のち旧待賢小学校の校地)で京都府中学校として開校。その後、1885年から1888年までこの地(現鴨沂高校)にあり、その間に京都尋常中学に改名した。だから碑の後ろは見なかったが天皇行幸の時期は限られる。

京都尋常中学はその後、府の財政難から東本願寺に経営が移ったり、移転したり府立一中と校名変更したり、さらに移転したりした。
戦後、1948年府立洛北高校と校名変更、再びこの地で鴨沂高校となり、さらに高校再編で廃校、1950年に現校地で洛北高校として再出発した。

京都は先進的と言われる。
1918年には一中、二中、三中で総合選抜、翌年は府内全校に拡大、1923年に単独選抜に戻るが、その後入試が面接のみになったり、1937年には学科試験がなくなったりした。戦後の1950年には本格的な総合選抜が始まる。
しかし、これは先進的というより、理想だけを求めた猪突猛進、現実無視の変更ではなかったかと思ってしまう。
寺町通。左は京都御苑
あの小さな(といっても普通の家よりでかい)冷泉家はどこで見たのだろう?

この通りにある京都歴史資料館は入場無料。
だから以前にも目的なく入った。
展示よりも資料管理、行政事務などがメインなのか、展示室は小さい。
京都市歴史資料館蔵
これを見ると、道路があって家を建てるというのでなく、家(屋敷地)が整然と並んで、その間が道路になったように見える。そのくらい道幅が広い。

11:50
新島襄旧宅
新島は上州安中、板倉家の江戸藩邸で生まれた。いまの神田学士会館のあたりだったことは以前のブログで書いた。

となりは同志社校友会 新島会館

12:32 鴨川たかし
だいぶ食べてしまってから。

食べ終わるとさらに空気は冷え込んでいた。
午後は京都大学の見物。
大学は、お寺より物理的にはるかに広い分だけ、また現在動いている人がはるかに多い分だけ、見るものが多い観光資源だと思う。

2022年3月15日火曜日

大根、白菜を飽きるまで食べ続けたが


3月14日、東京は24度を超え、夏日の一歩手前。
5月並みの陽気で、冬野菜の花芽、トウが一気に伸びた気がする。
今日15日も25度に迫るらしい。

2022‐03‐14
バラのように開いた白菜の余り。
トウ立ちを始めた。

秋に種から育てたとき、苗の余りも可愛らしくて捨てるのが忍びなかった。
かといって植えるところはない。そこで敷石の間とか、通路やほんの狭い隙間スペースに植えておいた。もともと生育の悪い苗だったから、当然球はまかず、開いたまま春になってしまった。小さいのを入れれば10株ほど残っている。これらはどうしよう?

白菜は正規の場所に18株植えた。
遅かったから球を巻いたのは3株だけ、しかし18株ともなんとか処分した。
最後は食べる気がせず、冷蔵庫に2つ押し込んだ。

毎週7日のうち、2日は鍋だった。
さらに、妻は食生活を変えないから、食事が別の朝と昼に私が自分で料理してせっせと食べている。
もう食べたくない。

ご近所にあげたいが、妻はこんなに開いたものは差し上げるべきではないという。
確かに葉が開くと、間に土が入り1まい1枚洗うのは面倒だ。第一見た目が悪い。

彼女の忠告を無視して職場であげた人がいるけど、内心迷惑したかもしれない。

お互い遠慮のない身内にあげたいが、
長女は土が大嫌い、料理もほとんどしないようだ。
息子は奥さんが虫を見るとパニックになると言って持っていってくれない。
唯一次女に先日2つもたせたら、「花が咲いた~」と花瓶に刺した写真を送ってきた。

かといって潰して土に混ぜるのも忍びない。
誰かほしい人がいたらうれしいのだが・・・

野沢菜もトウがたってきた。
食卓へは白菜、小松菜と競合するので、こちらも捨てるしかないか・・・・
2022-03-15
大根2次(種まき9月19日)もトウが立ち始めた
この日も24度に迫るというので、すべて抜いてしまった。
2022-03-15
葉っぱを切り落とした状態で左から、710, 700, 680, 570, 610, 380, 340, 440, 220グラム。1キログラム以上あった第1次(種まき8月21‐25日)と比べて小さいが、最近のスーパーの品もこんなもの。
大根も第1次の17本で(一部あげたが)飽きてしまい、いまや食べる気がしない。
3本冷蔵庫に入れ、6本を地中に埋めた。
大根3次
(種まき11月2日)
サツマイモの収穫後に種まきしたから遅すぎた。
小さいままトウが立ち始め、200グラム以下だろう。食べる気がしない。
経過を見届けるため月末まで置いておく。

冬野菜まとめ

ホウレンソウとサニーレタス
青物はもう食べる気がしない。

もし野菜が本当に健康にいいなら、私はとてつもなく健康になっているはず。
草食動物のように食べている。
いっぱい食べられるように軟らかく煮たり炒めたりして体積を減らすが、胃袋の容量には限りがある。ご飯の量は変えていないので、野菜が多いとたんぱく質などの摂取が減るだろう。
(最近、間食でチーズやチョコレートを体が欲している。)

しかし、たんぱく質は多分世間で言われるほど必要ない気がする。
たんぱく質はアミノ酸に分解されリサイクルされるから、代謝、排出される分だけアミノ酸を摂ればよい。

毎週、鍋の残りにさらに野菜を追加してスープにすれば、出汁など入れなくても濃い味になる。これは野菜からアミノ酸が出ているからだ。だから昔の人は米と野菜しか食べなくても平気だったのである。

美容に糖質制限食など、根拠がないのではなかろうか。
糖質というエネルギー源が不足すればたんぱく質、アミノ酸を分解せねばならない。脱アミノ反応は腎など体に負担をかけるとまでは言わないが、無駄である。
アミノ酸をエネルギー源としたときの補正を入れて、摂取総カロリーを同じにしたらどうか? それで普段の生活をしていたら痩せないだろう。

ボディビルのような筋肉を作るには普通の人よりアミノ酸が必要だろうが、過剰な気がする。筋肉が付くのは食事よりトレーニングが大きいだろう。トレーニングすれば当然腹が減り、食べたいものが肉なら肉を食べればいいだけの話だと思う。

2022-03-15
たった一つ生っていた夏ミカンが落ちた。
今年初めて2つ生ったが、心無い人に一つもぎ取られたあと、靴下をかぶせておいた。
へたが抜けたようになっていたので自然落下か。

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2022年3月13日日曜日

65歳からの職探し5 菜園アドバイザー

 3月4日、簡易書留で大きな封筒が届いた。

待ちに待った「航空自衛隊入間基地 中部航空警戒管制団司令」から。
しかし不吉なほど薄い。
「~貴殿の今後益々のご活躍をお祈り申し上げます」ではなかったが、
「誠に残念ながら不採用になりましたので、ここに通知いたします。」

けっこう自信あったんだけどな・・・・

2022-03-05
次女に持たせた野菜

入間基地の後に応募したもので採用されたものがある。
シェア畑の菜園アドバイザーである。

民間の採用試験は動きが速い。
1月12日
オンライン面談
1月27日
現地試験。野菜つくりの知識をテストされた。

問1.鍬を持ち、畝を作れ。
埼玉、千駄木ともスコップ1つですべて土つくりをしてきたので、鍬は子供の時以来。

問2. ブロッコリーが何者かに食われている。何か?
葉を見ても虫はいない。地中に隠れるヨトウムシはこの季節いないし・・・と首をかしげていたら、鳥だという。他の区画にネットをかけてあるブロッコリーがあり、そちらは食われていない。そちらを見れば推測できるのだから、注意不足の私の負け。

問3.  冬の寒さで葉が赤くなり元気のないイチゴを指さされ、利用者から質問されたらどう答えるか?
これは家でも作っているので「心配いりませんと答えます」というと
「正解です。でもほかの区画も同じ状況であることを見せれば、もっと安心するでしょう。葉が赤いのは寒さでアントシアニンが貯まったといってもいいです」
と、なかなか良い3問であった。

別にオンラインの試験があり、ナス科野菜の仕立て方や、水やり、アブラナ科のことについてテストされた。

その後、内定通知のメールが届く。

2月20日
集合研修。今月採用されたアドバイザーは4人。
他の方は練馬、千葉、浦和の農園。

2月27日
勤務地となる農園で初の現地研修
その後、土日のどちらかで週1回3時間の研修が続いている。
2022-03-13
ここは都会の遊休地を使って、手ぶらで行ける農園というのが売りになっている。
入会金 11,000円
利用料は1か月 11,900円だが、車1台分の広さしかない。 
(千駄木の駐車場、月30,000円より安いが・・・)
年間契約だから、初回払う金額は1年分で153,800円もする。
この狭さでこれは高い。
埼玉あたりの市民農園を借りている人からすれば、法外な値段に思う。
しかし、都心にはそもそも市民農園がない。

高いだけにサービスは至れり尽くせりである。
苗、種は農園が準備。有機肥料、有機農薬、防虫ネット、マルチ、保温ビニル、不織布、支柱、鍬、スコップ、じょうろ、ハサミ、麻ひも、その他もろもろも常備。水道、トイレがあるのがうれしい。
費用については他の趣味と比べればよい。
月1万円ちょっとで追加費用一切なしというのは、ダンスやほかの趣味と比べたら、格段に安いだろう。しかも親子そろっての値段。

2022-03-13
そして利用者はほとんど初心者。
そのためのアドバイザーが今回の私の仕事である。
なお、ここでの指導は、くれぐれも自己流でなく、標準化された方法に従うようくぎを刺された。

この日、3月13日は、2月27日に契約された親子がいらした。
初回講習として、施設の使い方や道具の説明をして、夏野菜のための土つくり、畝つくりを実際にやってもらった。こちらである程度引っ張ってあげないと、彼らは自分では何もできない。ここで基本を覚え、さらに欲が出たら市民農園で広いところを借りるのが良いだろう。

借りている人は、穏やかな人が多そうな気がした。

私の職探しでは、居酒屋(キッチン、ホール)とかも候補の一つだった。しかし飲食業はいろんな客がいてこちらが不快になることもあるだろう。ここ農園では太陽の下、のんびり時間が流れていてそんなこともなさそうな気がした。
製薬企業、大学についで3番目の職業人生は、週に半日2,3回というものを2つか3つやってみたい。その一つは菜園アドバイザーで良いと思った。


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