2025年1月30日木曜日

広島5 平和公園と丹下健三、原爆資料館

1月15日、広島を見物している。

広島城のあと原爆ドームをみて元安川を渡った。

12:26
元安橋から原爆ドームをのぞむ。
橋を渡ると平和記念公園。南に平和の灯と原爆資料館が見えた。
12:27
平和の灯が燃えている。

実は、原爆関連の旧跡、施設は、広島観光での優先順位が高くなかった。
これらは28年前に一度見たので、今回は被服支廠跡、兵器補給廠跡、比治山、広島城を目的地とした。
しかし比治山に行かなかったこともあって時間に余裕ができ、また広島城のすぐそばだったので平和記念公園にも立ち寄った。
12:29
アーチ型の記念碑(原爆死没者慰霊碑)を通して、北の平和の灯、原爆ドームが一直線に並ぶ。反対側には原爆資料館が正対する。
この見事なデザインと広さは日本のほかの都市にはなく、ワシントンの国会議事堂とワシントンモニュメント、リンカーンメモリアルを1直線に結ぶナショナルモールを思わせる。

原爆資料館を含め、公園の全体設計は丹下健三らによる。
1946年、爆心地に近い中島(なかじま)町内10.72ヘクタールが都市計画公園に指定され、1949年には国会で広島平和記念都市建設法が制定された。
同年、コンペティション「広島市平和記念公園及び記念館競技設計」が実施され、約140件の応募案のなかから1等に岸田日出刀審査員(東大建築学科教授)が推す丹下健三らの案が選ばれた。
(丹下は旧制広島高校出身、コンペ当時は独立していたが建築学科助教授で、のち1963年工学部都市工学科教授に就任した。広島平和公園は丹下の出世作といえる)。
12:29
広島平和記念資料館
東西2つの建物を真ん中の細長い建物で結んでいる。
12:30
丹下らは当時計画されていた東西に走る大通り、すなわち相生通り(1952年拡張)、平和大通り(1951年計画、1965年完成、別名100メートル道路)と直交する形で、南北に記念館、広場、慰霊碑、原爆ドームを一本の軸線で配置した。彼は日本の社寺に見られる、個々の建築よりも、その配置がつくりだす環境の秩序を重視したという。他の案は計画道路や川向こうの景色などは考えていなかった。

12:30
「祝・日本被団協 ノーベル平和賞」とある西の建物に行ったら、広島国際会議場とあり、原爆資料館ではなかった。

原爆資料館は同じ形をした東の建物だった。

1955年の開館当初は記念碑に正面で正対する高床式の細長い建物だけが資料館で(広島平和会館原爆記念陳列館といった)、西側に広島市公会堂、東側には広島平和会館本館が配されていた。
西側は1989年に建て替えられて広島国際会議場と改称され、東側は1994年に建て替えられ、中央の高床式建物を平和記念資料館西館、東側を東館とし、空中回路で結ばれた。
2006年には中央の高床式の西館が本館と改称され、これが戦後の建築物としては初めて国の重要文化財となった。
12:32
「広島平和記念資料館」 入り口(東館)
「原爆資料館」では中身がわかりすぎて生々しいのだろう。
入場料200円だが、65歳以上は100円。

まずエスカレーターで3階に上がる。
28年前とは当然入り口、順路などは違っている。
展示室が地下にあったような気がしたのだが記憶違いか。
12:41
最初は原爆投下前の平和な広島の生活が描かれている。

12:42
それが8時14分、たった1発が投下された。

最初の展示室の真ん中に水槽のような円形展示物がある。
12:42
広島の航空写真に、原爆が投下され、爆心地からキノコ雲が建ち、廃墟となるようすが動画として映し出される。効果音も入っていて良くできていた。
12:42
東館から本館に入っていく。
「お急ぎの方は追い越して奥にお進みください」
私は神社仏閣でもお参りもせずあっという間に立ち去るので、たぶんそっと追い越して出てくるだろう。

続く部屋からは、「投下の結果」の展示である。
12:46
全ての人が無言で見入っている。
圧倒的に外国人、とくに白人が多い。
アジア人は買い物とか神社仏閣に行き、こういうものに興味がないのだろう。
12:47
融けた金属塊
ここに生身の肉があったら一瞬にして蒸発しただろう。
痛みに苦しみながら息絶えるのと、このように消えるのと、どちらが悲惨だろう?

被災の様子、人物の絵や人形が展示されている。特に人形は展示することに賛否があったという。反対する理由は、怖すぎるという意見がある一方、逆に、実際はあんなものではなく「想像力を遮断して、誤った固定観念を作りあげる危険」があるという意見もあった。
館内の見学には本来3時間はかかるとされるが、2004年に資料館が行った調査によると、実際の平均時間は45分だった。しかも見学者の多くは前半の東館の見学に時間を取られ、本館の見学は平均19分にも満たないことが判明。特に、修学旅行などの団体客は時間が限られているために、膨大な数の遺品や被爆資料を展示している肝心の本館の見学がおろそかになると指摘され、順路、展示などが工夫された。今回まわった感じはわりと早く本館に行けたと思う。
12:49
本館の展示を見終わると、東館に戻る回廊に出て、北に窓があるギャラリーとなる。
明るいとホッとする。
12:50
写真パネル「平和記念公園の建設」
12:52
原爆投下前の広島。
中島町は広島城のすぐ南に当たり、また水運にも便利であり、江戸時代から栄えていた。
明治以後も市役所、県庁がおかれ、市の中心だった。
原爆投下前 1930年ころ
12:51
その中心街がこれだけの広大な見事な公園に生まれ変わったのは、ある意味、すべてを消し去る原爆のすごさを示している。

この回廊はベンチがあったので、広島上陸以来初めて座り、撮った写真を無料wifiでアップした。

回廊から再び東館に入る。
13:04
原爆ドームと本来の姿(広島県物産陳列館)

本館が被災者の悲惨さを訴えたのに対し、東館3階の北半分は核兵器の恐ろしさを展示している。
13:04
被爆した瓦
「実際に触ってください」とあり、釉薬の融け具合を感じさせる展示である。
しかし触ったら有難い仏像がつるつるになるように摩耗してしまうのではないか?
13:06
ほんとに多くの外国人(白人)が熱心に見ている。
アジア人と違って、自国が核を持っていたり、また核の使用に対し、意識が高かったりするのであろう。

13:07
3階東館から2階(広島市の歩み)、1階(無料展示コーナー)を見下ろす。

2階は原爆に関係なく広島市の歴史が展示されている。
(申し訳ないが)私はこちらのほうをよく見た。
13:09
2階、戦前の広島城(第五師団司令部)
江戸時代以来の国宝天守閣が見える。広い堀にはびっしり何かが育っている。戦時中ならサツマイモだろうが、葉の大きさから戦争前のハスだろうか?
13:09 広島の陸軍施設
明治以来軍都であったことがよく分かる。

見学には3時間かかるというに、私は30分あまりで出てしまった。
28年前もその前年の1996年に長崎の原爆資料館をじっくり見たこともあって、広島では長崎ほどの衝撃は受けなかった。当然、今回も冷静に見られた。(その分、短時間で雑に見た)。
ワシントンのホロコーストミュージアム、震災空襲被害を展示する東京都復興記念館(両国)を見学したり、昔から書物や写真集で悲惨な様子をいっぱい見てきたことなどが、ここの優先順位が出汐倉庫より低かった理由である。

死ぬ人や家族にとっては通常爆弾で死ぬのも原爆で死ぬのも、苦しさ、悔しさ、悲しさは同じだろうという考えがある。確かにそうだろう。
しかし核兵器は「大した労力をかけなくとも」1発で都市を壊滅させる。世界中に何千発もあることを考えると、一瞬で地球にいる生物を破滅させるという点で、やはり特別であり、この資料館は世界中の人々に対して意味がある。

外に出ると、午前中寒かった広島も昼から日が差し、穏やかな陽気だった。
平和記念公園には、遺影や手記などを収集、展示する国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(2002年開館)や様々な記念碑、追悼碑があるが、立ち寄らなかった。一度に見られる量には限りがある。(時間だけではなく、脳の受容量)

すぐ南の平和大通りを渡った。100メートル道路といっても広すぎると困るようで、ほとんどは札幌のように公園となっている。この広さも原爆の遺産といえる。
13:23
広島電鉄路線図
路面電車の「中電前」という停留所でのり、飛鳥のいる宇品港に向かった。

がれきの山や血だらけの人々より(これらは他の空襲でも自然災害でもある)、むしろ、あの100メートル道路や、自由自在に設計できた平和公園の「すっきりさ」こそ、原爆の恐ろしさを示していると思った。

(続く)


千駄木菜園・お出かけ 目次へ  (ご近所から遠くまで

2025年1月28日火曜日

広島4 無料wifiと原爆ドーム、動員学徒慰霊塔

今回のクルーズ船の旅で写真をいっぱい撮った。

写真はそのままだと後で見ようと思っても探せなくなる。
そこでふだんからスマホで写真をとったらブログの下書きにアップし、日時と簡単なメモだけ入れている。時間があるときに自分宛てのメールを書く感覚で文章を加えてアップを繰り返し、最後に公開する。こうすれば、自分用の備忘録でありながらネット上で検索できて便利だし、なくなることもない。

ところが飛鳥IIの衛星通信による船内wifiは上り下りとも制限があって、重いページは読めないし、またファイルや写真をアップすることもできない。
写真がたまる一方だったので、横浜で下船したときに横浜市役所ロビーの無料wifiで写真をアップした。

広島でも、公共施設や広島城、原爆資料館などで無料wifiが使えるらしい。
そこで1月15日、広島に観光上陸したとき、広島城本丸で試みたのだが、つながらなかった。天守閣に入らねばダメなのかもしれない。

広島城から南に歩く途中、広島県立総合体育館小アリーナがあり、試したらつながった。外のベンチで作業しようとしたが、明るくて画面が見えない。屋内に入るのも憚れたので、近くの道路下の自転車置き場の日影に入り、リックサックを台にしてパソコンを開いた。
2025₋01₋15 12:08
スマホでできればいいのだが、慣れていないのでPC。
自転車を押した人が通り過ぎたが、顔を上げずに続けた。

作業を無事終えて、自転車用のスロープを上がるとひろしまゲートパーク。ここには1957年完成、2010年閉鎖、2012年解体された広島市民球場があった。高校時代、草野球レベルの大会でライトを守った合田幸広氏が後逸し、球を追いかけるのが大変だったと聞いたことがある。もちろん彼はカープファンだった。

そのすぐ南は路面電車の通る広い相生通り。
ここは広島城の外堀に当たる。
西に歩くとすぐ冬の木々の間に原爆ドームが見えた。

12:17
12:18 東側から
荻原さんに連れて来てもらった28年前はもっと近くで見た。
こんな柵があっただろうか?
南から
原爆ドームを略してドームというと、後楽園ドーム、札幌ドームなどを連想するが、えらく違う。

12:20 西からだと近く見える。
すでに外国人(白人)が多い。
西側から見た景色だけが、近いだけあって強く頭に残り、柵がなかったのではないかという誤った記憶になったのだろうか?

12:21
ドームの西側を東から3本目の元安川が流れる。
(太田川デルタを構成する6河川のうち、残る西の3本は、順に旧太田川(本川)、天満川、太田川放水路である。

遊覧船がのぼってきた。
原爆ドームと宮島厳島神社という2つの世界遺産を結ぶことを売り物にしたコースもあるようだ。世界遺産は保存よりも観光業者のためにある。それは片道45分、2200円だから高くはない。

原爆ドームの南の木陰に28年前は気づかなかった慰霊碑がひっそりとあった。
12:23
動員学徒慰霊塔
終戦30周年記念
広島で亡くなった学徒は1万人以上でそのうち約7200人が原爆で死んだという。
12:25
五重の塔のような五層構造は、空に向かって末広がりとなっている。そして塔の中心柱の先端が折れていて、これは学業半ばで犠牲となり未来に羽ばたけなかったことを表すという。さらによく見れば平和を見守る8羽の鳩も配されている。

長崎の平和祈念像の「右手は原爆を示し左手は平和を 顔は戦争犠牲者の冥福を祈る」(北村西望)もそうだが、抽象的なものより、いろんな意味がデザインに込められているのが良い。
12:26
元安橋から原爆ドームをのぞむ。
橋を渡ると、平和記念公園で、南に有名な平和の灯と原爆資料館が見えた。
(続く)

2025年1月27日月曜日

完全二期作の秋植えジャガイモは失敗

10月、春に掘ったジャガイモのうち、小さいものを妻が使わないため室内で放置していたら芽を出していた。

ジャガイモは春植えと秋植えがある。
秋植えは8月下旬~9月中旬の暑さが残るころが植え付け時期という。
しかし秋は白菜、大根などで畑がいっぱいで、また8月、9月は夏野菜がまだあって、ジャガイモを秋に植えたことがなかった。
発芽芋を目にして、遅すぎるとも思ったがダメもとで初めて挑戦する。
2024₋10₋13
板の幅は18センチだから、芋は直径3センチほどだろうか。
手のひらで何個もつかめる小ささである。

10月13日、不作となったゴボウ、ニンジンの合間に芋を植えた。
2024₋11₋18
植えて1か月、そこそこ育ってきた。
植付けが1か月以上遅れたので、冬になって生育は相当遅くなるだろう。
そこで11月29日、保温ビニールをかけた。

2025₋01₋22
年が明けて、ふと見ると半分ほどの株が萎れている。
数えれば3か月経っているが、萎れは寒さで枯れたのかもしれない。
株元の土も盛り上がってひび割れていて、いかにも芋ができていそう。
全部掘ってみた。

2025₋01₋22
芋は白くてきれいだが小さかった。
写真左の褐色芋は種芋に見える。

種芋はふつう腐っていく。しかし古い芋が固いまま残る株もあった(とくに遅く埋めて小さい株)。
今回、収穫した秋ジャガイモは、種芋とあまり大きさが変わらない。
種芋は3センチほどで、小さくて妻が使ってくれなかったが、今回の芋はどうだろう?

秋に植えたジャガイモは、春に収穫したもので、それが芋になるということは、成長サイクルが1年間に2回あるということだ。完全二期作である。

ナスやトマトなど見慣れていると、ふつうの植物は1年のサイクルで回っていると思いがちだ。それらは秋に枯れ、冬眠して春に発芽、夏に育ち、また秋に枯れる。種が秋に発芽してしまうと冬の寒さにやられるから、種が冬を越さないと発芽しないように進化したのだろう。

しかし、ジャガイモは違う。ライフサイクルが短いこともあり、1年で二回通過する適温期に発芽、芋形成を完結する。発芽に冬越し(低温処理)も必要ない。
食糧危機のときの土地の有効利用という点で、有望かもしれない。

よく考えると、雑草などにも年2回以上のサイクルのものがあるような気がする。
イネも人口的に雨期乾季をつくれば、年2回の収穫が可能である。
多くの植物の四季折々の姿と、春夏秋冬で1サイクルという固定観念とにとらわれ過ぎていた。

ところで、動物の場合、野菜の害虫などは年に数回ライフサイクルを回す。カブトムシは植物のように年1回のサイクルである。ヨトウムシは夏にいなくて春と秋に発生するからジャガイモのような年2回のライフサイクルかもしれない。(あるいは春に数回、秋に数回かもしれない)

生まれてから出産年齢まで数年かかる高等動物の場合、四季(気候、天体など)の影響を受けるのはライフサイクルではなく発情期である。年1回発情もあれば、月1回発情もある。
ヒトは自然の影響を受けないが、まだ女性の体内時計に月のサイクルはある。(個体ではなく生殖細胞のライフサイクルともいえる)。ヒトをみていると生物には進化という変化があると同時に、逆にDNAは変わらないという保守性もわかる。
2025₋01₋23
大きさは種芋と同じく3センチほど。

初めての秋ジャガの収量は 890グラムであった。
春は少なかったと思っても 5.4キロ収穫したから、この秋は不作といえる。
いっぽう、種芋だったと思われる色芋は 230グラムだったが、腐った種芋は捨てたので、収量/種芋量はわずか1倍程度かもしれない。これでは育てた意味がない。

今年の春は3月に芋を埋め、6月に取った芋を8月終わりには埋めたい。
実際、その時が初めての秋ジャガ栽培になるだろう。

春じゃがのブログ

2025年1月24日金曜日

広島3 比治山、駅、広島城

1月15日、クルーズ船飛鳥IIが広島に入港し、私も市内を観光した。
ひとりで陸軍広島被服支廠、広島大学霞キャンパス(旧陸軍兵器補給廠)を見物した。
さすが軍都広島、陸軍三廠の残る一つ、陸軍糧秣支廠も宇品西海岸沿いにあるが、そちらは行かず、JR広島駅のほうに行ってみようと思った。

広島大学霞キャンパスから広島駅に行くに、路面電車の停留所は比治山の西、だいぶ距離があった。そこで、知らない街ということもあり駅まで歩くことにした。途中、28年前に来たときのことを思い出すかもしれない。
10:47
比治山公園南口交差点
広島大学を出て西に行くとすぐ広い通りに出た。
この広さは軍用鉄道だった宇品線の跡ということもあるか。

正面に比治山が見えた。
中学生のころ広島の比婆山で謎の類人猿?が目撃され「ヒバゴン」として話題になったが、そのヒバヤマと混同しやすい。28年前もこの山を見たし、活字でも一、二度は見ていると思うが、名前を憶えていなかった。今度はしっかり「ひじやま」と覚えた。

この独立丘陵は島だったのが、太田川が運ぶ土砂で周辺が埋まり、戦国時代、1500年代後半には本土と完全に陸続きになったという。
毛利元就が太田川河口を本拠地に考えたとき、この山(島)が候補の一つだったという。確かに濠を掘る手間が省ける。(実際に毛利氏が山中の安芸吉田から瀬戸内に面した広島に出てきたのは、元就の孫の毛利輝元の時代である。)

いま広大霞キャンパスとなった陸軍兵器補給廠は原爆爆心から3キロメートル以内にあったが、比治山の陰で被害が軽微だったという。
しかし比治山の標高は71メートルである。8時15分、高度9,640mから投下されたリトルボーイは43秒後、地上600メートルの上空で炸裂した。これで比治山が防護壁になったのだろうか? 作図して考えてはいないが。

比治山には1872年(明治5年)、旧日本陸軍第五師団の前身、広島鎮台(1973)ができるのに合わせ、陸軍墓地の整備が決定、1877年西南の役の戦没者から埋葬された。
さらに、船舶砲兵団司令部(陸軍船舶兵)や電信第2連隊の駐屯地が置かれた。
また戦後のABCC(アメリカ軍による広島長崎の原爆傷害調査委員会)を前身とする放射線影響研究所もある。

今回麓に立ち、陸軍墓地など戦前の旧蹟、記念碑、広島市現代美術館など名所が盛りだくさんの山上を見たいと思ったが、登る元気がなかった。
飛鳥でのダンスは揺れる船内と堅い床とで足が痛くなり、いたわる気持ちもあった。

山には行かず北に歩いていくと、道路の反対側にリトルマーメイドの店があった。
10:56
リトルマーメイド段原店
アンデルセングループのリトルマーメイドは1974年東京に進出した。学生時代、ちょうど谷中に引っ越した1978年、毎月15日のリトルマーメイドの日が始まり、根津交差点近くの店舗で食器をいくつかもらった。また、2022年定年退職して駒込駅のパン屋で6日間だけアルバイトしたのもリトルマーメイドだった。このように私と縁のあるベーカリーチェーンの1号店は、まだ焼き立てパン屋が珍しかったころ、1972年、広島で誕生した。
ふと、28年前に荻原さんがアルバイトしていたパン屋ってリトルマーメイドだったりして。ひょっとしたら(改築しているだろうが)この店かもしれない。なんて思い、広い道路の向こう側にあっても目にとまった。

さらに歩いていくと川に出た。
11:01 大正橋
太田川から分かれた猿猴川にかかる。なんて読むのかと思ったら単純にエンコウガワだった。猿猴とは、広島を中心に中国・四国地方に古くから伝わる伝説上の生き物。河童の一種とされるが、姿が毛むくじゃらで猿に似ているらしい。
猿猴川は、太田川が形成する広島デルタの6河川のうち最も東側を流れる。
11:04 くわうじんばし
大正橋の一つ上流の橋の上を路面電車が新旧4台も通った。都バスよりも多い気がする。

11:05
市街地中心部にこういう空間があるのは素晴らしい。
水も大都市にしてはきれいである。

11:05
くわうじんばしを渡りきると「荒神橋」と書いてあった。

11:08
JR広島駅到着
前回私が来た2年後の1999年に、こちらの南口が全面改装され、その後も2012年、2014年に駅舎の改良工事があったようで、現実にも私の記憶にも当時の姿は残っていない。

広島駅の開業は1894年(明治27年)6月。山陽鉄道の終点だった。翌7月には日清戦争が始まり、大本営が広島城に置かれ、前年に完成した宇品港とを結ぶ宇品線が突貫工事で翌8月に開通した。
広島駅南東の一角
1997年に泊ったビジネスホテルはあのあたりにあったと思うが、ホテル名も分からないし、探すこともせずに先を急いだ。
11:11
駅前大橋から手前の猿猴橋(旧西国街道)とその一つ下流の荒神橋をみる。

城南通りを西に歩き、京橋川を上柳橋でわたる。
11:17 上柳橋
京橋川と猿猴橋の分岐点がみえる。
その向こうは駅前のエールエールA館とビッグフロント広島(計画中はエールエールB館と呼ばれた)のタワービル。いずれも1997年にはなかった。

広島城を目指し、城南通りを西へ歩き続ける。
11:21
藤棚が歩道の上に張り出していた。地図を見れば、フェンスの向こうは広島女学院中学・高校。1886年創立の伝統あるミッションスクールで、岸田文雄元総理の夫人の出身校でもある。
フジの根っこは学校敷地内なのか公道の一部(植え込み)なのか分からないが、少なくとも広島女学院の生徒さんたちが歩道を清掃してくれているらしい。
11:23
左上の出汐倉庫(陸軍被服支廠)、広大医学部から大分歩いてきた。
このところクルーズ船が帰港するたびに歩く横浜と比べ、同じ観光都市として路上地図が少ない気がした。

11:28
内堀に出て広島城到着、二の丸太鼓櫓を望む。
11:32
内堀の向こうに二の丸表御門を望む。
水色は実際の濠であるが、画面いっぱいに広がった形とその広さによって、どうしても余白の類に見えてしまう。濠の外にも何か描いたほうが良い。
11:34
二の丸から本丸へ入る途中、西にエディオンピースウィングが見える。
2024年完成したばかりのサンフレッチェ広島の本拠地サッカー場である。

11:36
広島護国神社
本丸で一番人が集まっているのがここだった。
市民としては、天守閣などより一年の無病息災と発展を願う初詣のほうが大事だ。

11:37
「明治二十七八年戦役廣島大本営」

日清戦争は7月25日に開戦、8月1日に宣戦布告した後、9月に大本営が移ってきた。
城内にあった第五師団司令部の建物が明治天皇の行在所となり、天皇は9月15日から翌年4月27日まで7か月も滞在した。天皇が神となった昭和の戦争では考えられない。
行在所建物は日清戦争後も保存されたが、原爆で消滅、礎石のみが残った。

11:39
広島城天守閣
広島城は毛利輝元が1589年築城を開始し、城の構造は大坂城を参考として、本丸と小さな二の丸を内堀が囲むという縄張は秀吉が京都に作った聚楽第に範を取ったといわれる。
1590年末、堀と城塁が竣工、1591年1月輝元が入城。1599年に全工事が完了した。しかし翌年関ヶ原が起き、西軍大将に担がれた毛利氏は広島を去ることになる。

完成当初は、堀は三重に巡らされ馬出を多数備える実戦的な城構えで、当時の大坂城に匹敵する規模だったといわれるが、1600年代わって城主となった福島正則による改築があり、築城当時の姿は不明である。
福島正則は雨漏り修繕程度の軽微な工事まで咎められ、1619年安芸50万石から信州高井郡4万石に改易され、5年後高山村で死去した。
代わって浅野長晟が38万石の和歌山から42万石で加増入封し、この家は明治まで続く。
11:40
壁板など一見古そうに見えるが、原爆が落ちたのだから古い木造建築が残るはずはない。
戦後復元した鉄筋コンクリート製である。
例によって中には入らなかった。
原爆以前は1592年に建てられた大天守が残っており、国宝に指定されていた。
別名、鯉城。一帯は昔、己斐浦(こいのうら)と呼ばれていたことに由来するという。
虎とかライオンと比べると鯉・カープは小さくて弱そうだ。
11:43
本丸の東側に多数の車が駐車していた。
白線も引いてないし、管理人もいないし、ちゃんとした駐車場でもない。見ていれば全く自由に止めて、出ていく。
ちょうど入ってきた車の人に聞くと、デパートのように護国神社から参拝したというハンコをもらえば無料だという。
こんな一等地の、しかも名城の本丸が駐車自由というのは、さすが広島だと思った。
平城で、かつ城内が広大で、まわりの三の丸などにも公用地、駐車場がふんだんにあるという条件が重なったこともあろう。

二の丸を経て表御門から内堀を出て、城南通りに出た。
11:48 城南通り
この通りは二の丸の南、内堀のすぐ外側を東西に走る。
28年前、荻原さんの車はこの道を東から西に通った。右側に二の丸の櫓だったか、本丸天守閣だったか、運転席越しに見たことを思い出す。

広島は道路が広い。
城南通りは広すぎるからか横断歩道はなく地下道だった。
11:49 北が左
城南通りの下をくぐって南の平和公園に向かうも両側は依然として公園のよう。
この広さはどういう訳だろう?

広島城付近 1930年ころ

戦前の地図を見れば、本丸に第五師団司令部があり、内堀の外、三の丸は西側に野砲兵第5連隊、東側に歩兵11連隊、南外郭に西練兵場、憲兵隊、西外郭に輜重兵第5大隊、北外郭に衛戍病院、火薬庫や衛戍監獄。
外郭を含めた広大な広島城がそっくり陸軍施設になっていた。

現在濠として残っているのは本丸、二の丸を囲む内堀だけである。
三の丸を囲む中堀は、戦前までだいぶ残っていたようだが、戦後の都市化によって埋められた。その外側、外郭を囲む外堀はもっと早く、日露戦争後の人口急増による水質悪化、道路建設などにより明治のころから埋められ始めた。原爆ドームの北を東西に通る現在の相生通り(国道183号)が南の外堀にあたる。

民有地とならず軍用地であったことが、この広大な官庁街、都市公園、運動・文化施設の、ほかでは見られないほどの集積を可能にした。

(続く)