2020年12月30日水曜日

南長崎でトキワ荘跡地を探す

練馬総合病院に来たついでに初めてトキワ荘跡に行ってみることにした。
最寄り駅は西武池袋線の南長崎
2020-12-28 15:04
改札出るとレオとライヤがお出迎え。
「マンガの聖地としま」とある。

南口に降りる。
駅前広場もなく小さな商店街のすぐ後ろが住宅街というのは、椎名町同様、池袋に近い西武線の駅にふさわしい。東上線もこんな感じ。震災後に開かれ、昭和のイメージが強い。
線路と並行に江古田方面への道。

15:05
直角に南に伸びる商店街はまあ活気がある。

バス通りに出た。
15:11
岩崎賢吉、岩崎恵一という表札の立派な家
明治になって肥料問屋もされたという豪農

向かいの家も古い。
古い名前の街道だろうかと、もらった地図を見たら「トキワ荘通り」と書いてあってずっこけた。
あとで調べたら清戸道だった。文京区の清戸坂のブログで書いたが、江戸時代、目白台から清瀬のほうまで伸びていた幹線道路である。

15:13
長崎屋という酒店。
スーパーの長崎屋とは関係ないだろう。
住所は南長崎、西方の駅は東長崎

15:14
豊島区立トキワ荘マンガミュージアム到着
2020年7月開館、古いはずのものがまだ新しい。

もとからあった小さな公園を拡大したようだ。


15:17
復元されたトキワ荘。場所はここではない。

最初は手塚治虫が学童社の人に勧められ1953年初頭、四谷から新築のトキワ荘に引っ越してきた。その後学童社が他の漫画家にも勧め、また1953年大みそかに来た寺田ヒロオが兄貴分として「新人漫画家同志で励まし合って切磋琢磨できる環境をつくりたい」と考えてから有能な才能が集まり、昭和の有名漫画家たちがここから巣立った。

「すみません、締め切り待ってくれませんか?」など
彼らが出版社への連絡に使ったという近くの公衆電話ボックスも再現されている。
東京へ出てきた1975年もこんな感じだった。

コロナのため見学は予約のみとなっていることは知っていたが、行ってその場でスマホ予約すればいいかと思っていたら、まさかの月曜休館かつ年末休館

15:18
老朽化で1982年に壊されたというが、1952年(昭和27年)築だから、そんなに古くはなかったと思う。すでに70年代には漫画の聖地として知られていたが、82年に新築されバストイレ付きのアパートになった後、土地バブルに巻き込まれ更地になってしまった。

賃貸された部屋のうち二階部分は10室で、全て四畳半(押入れと入り口部分のスペースを除く)。その他、共同の調理場、トイレなどが存在したようだ。
15:21
裏側
漫画の聖地というだけでなく、我々にとっては自分や友人のアパートを思い出させて懐かしい。

当時の東長崎、椎名町の様子と寄付者名簿が何枚かのパネルになっている。

15:25
トキワ荘二階の間取図と住人の滞在期間

なんせ4畳半だから長くいるところではなかった。
最初に入った手塚治虫は1954年10月に退去しており、重なっているのは寺田ヒロオくらい。藤子不二雄が入れ違いの10月30日に入り、石ノ森章太郎、赤塚不二夫などは重なっていない。みな2,3年で退去している。
しかし、つのだじろう、園山俊二、つげ義春などが頻繁に出入りし、まさに聖地というにふさわしい。


15:31
実際のトキワ荘はどこにあるのだろう。
ミュージアム入り口にあった地図を片手に行ってみた。
すぐわかると思ったら見つからない。
15:31

今でも当時の建物はあるが、建て替えも進んでいる。

15:35
地図が間違っていたとしても狭い範囲なら見つかるだろう。
同じところをぐるぐる回り、違うところもぐるぐる回っているうちに、彼らの通っていた銭湯の跡地に出くわした。

15:37 鶴の湯跡地

ここではっと気が付いた。
地図の16,17の丸数字の場所を目指していたのだが、よく見ると下線部が細い線となり、その先の離れた場所に小さい点がある。そちらが目的地のようで、この地図を作った人はセンスがない。

その小さい点のところは行き止まりに日本加除出版
加減でもなく乗除でもない変わった名前

15:43
ようやく見つけたトキワ荘のモニュメント

すぐそばに彼らがよく利用し、藤子不二雄オバQに出てくる小池さんと関係する中華料理屋、松葉が現存したはずだが見損ねた。

目的を達成したので椎名町駅にむかう。
15:46
ごみ収集所のパネルが錆びていた。わざと残しているならセンスある。

15:48 紫雲荘
赤塚不二夫が制作場所として借りていたアパート
今の住人も漫画関係者だろうか。

南長崎2-8

15:50
豊島区というのは池袋を中心にいろんな顔がある。
高松など練馬に近い西北部と、中山道で開けた巣鴨駒込、上品そうな目白など、同じ区とは思えない。
それぞれ独立していて(線路などで分断され?)さまざまな雰囲気の町がある。

15:52 磯部家

15:55
お寺かと思ったら個人宅のよう。足立家?

15:57
歩き始めて1時間近く。疲れてきた。

15:58
ペンキが余ったからカラフルにしてみようかな、と少し塗り始めたらちょっとマズイと思った・・・しかし途中でやめるともっと恰好悪い・・・仕方なく最後まで塗らざるを得なかった・・・とか。

16:09 池袋駅到着
1968年、私は小学校の6年生。この年、西鉄は打力最低ながら池永、与田、益田ら強力投手陣でパリーグ2位、東尾(左)乗替がドラフト指名される。
1969年、黒い霧事件が起き主力6人が退団、一気に戦力ダウンする。
それ以来のライオンズファンだった。
今思えばトキワ荘出身者の黄金時代でもある。

秋山(上写真右)、石毛(下の写真左)らが入団した1981年、私も就職した。新人紹介社内報で「趣味は漫画」とかいた。その年のクリスマス、南長崎駅(北口)の古内さんのお宅のクリスマスに呼ばれ、翌年トキワ荘は解体された。




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2020年12月27日日曜日

文京、豊島、北区の境。散髪ちょっとカット

 12月23日、テレワーク。

今日こそ散髪、と再び坂を下りる。
2020-12-23 11:01
不忍通りをこえてすぐ、田端駅前通りに面したチョットカット。
年配の男性お二人がやっている。
最近はいつもここ。

駅のQBカットは便利だけれども、コンパクトにデザインされた無機質な部屋の端で男が無言で列を作って待ち、機械的に毛を切ってもらうのは人間らしくない。
昔の肩もみまでしてくれて3500円もした床屋に行く気はしないけれども、もう少しゆるいところに行きたい。
西日暮里駅のガード下、ドンジャンという散髪屋は1200円、店主に覇気がなく、古くて汚い店だが、美味しんぼ、島耕作などの漫画を読んで待つのもよい。しかし休みの時が多く、このところ、こちらのチョットカットばかり。

この日は珍しく先客がいたので漫画を読む。
11:05
QBカットが1050円、1200円と値上げしているのに、チョットカットは自動券売機を更新する費用がないのか1000円のまま。
ユニークなのは、刈った髪の毛をバキュームで吸い取るのに家庭用掃除機の先端を外して使っていること。当初は道具台の棚の上に木箱を据え、そこに掃除機本体を入れ穴からホースだけ出していたようだが、髪を捨てるたびに頭上の箱から出すのが面倒になったのか、いまや本体を箱の上におき白い紙をかぶせて隠している。(写真)
しかし腕は確かで丁寧。
お二人とも老齢だがいつまでも元気でいて欲しい。

月曜定休。火曜も休みの週がある。
10時開店。休日は9時から。

11:43 
散髪が終わって、どこを回って帰るか。
左が文京区本駒込4-44、右が北区田端2-1
先日に続き、すこし北(西)のほうへ区界(くざかい)を歩いてみる。

11:46 
左文京区、右北区。
谷田川はここと平行にもっと右のほう、いまの谷田川通りを流れていた。
すぐそばに谷田橋という交差点がある。
この道が境となったのは谷田川の西にもう一本川があったのか、あるいは田端の農民の土地が谷田川の西まで伸びていたのか、不明。
11:47
左の本駒込4丁目はもと本郷区動坂町、ちなみに先へいって5丁目は本郷区神明町

11:49
区界の道はここで不忍通りと接触するほど近くなる。

1977年に本駒込図書館の裏あたりに住んでいた時、通学は山のほうに上がっていったから不忍通りはほとんど通らなかった。しかしこの新旧の道路が接するという変わった光景はうっすら覚えていた。43年前の根津あたりで飲んで大通りを自転車で帰り気まぐれで裏道に入った夜ではなかったか。

上の写真で右のホンダショウルームのあたり(現田端3丁目2番)に佐多稲子(1904-1998)がかつて住んでいたらしい。大正15年一家で移り住んだ。 
彼女は写真左の本駒込図書館(もと都電車庫)の並びにあったカフェー紅緑で女給をしていて、近くに住んでいた驢馬の同人、堀辰雄ら多くの田端文化人と出会い、作家となった。
田端文士村 田端図書館・内藤淳一郎氏作成

1995

不忍通りは団子坂下まで来たのが明治32年、新道といった。

動坂下まで伸びたのが明治43年夏。
大正3年 市電を通すため幅を6間から12間に拡張、
市電は上野から動坂まで大正6年7月27日に開通。
同じ年の6月に本郷通りを駒込富士前まで市電が来ているが、不忍通りが神明坂を上がって本郷通とつながったのは大正11年(1922)という。

2020-12-23 11:52
区界の道は不忍通りから離れしばらくいくと田端銀座商店街。
といっても多くの店は廃業した感じ。

2013年に千駄木に越してきてからも懐かしくて、通りの左(南西)にあった「肉の彦坂」でとんかつなど買ったことがある。この日は時間が早かったのか閉まっていた。

11:57
田端銀座はここで東を通っていた谷田川通り(谷田橋通り)と交差する。
この角にいい八百屋さんがあり、2017年、霜降り銀座からの散歩帰りに白菜を買った。
しかし残念なことに廃業されたようだ。
古い店というイメージがあったがビルがま新しい。
まさか廃業されてから建て替えたのではないだろうな、と裏に回ったら、
「定礎 平成十年四月十四日 澤田孝治 八十八才」とパネルがあった。
そうか、この新しい建物だったのか。

田端銀座は谷田川通を越えてさらに伸びている。
かつてはここに橋があっただろう。
角の栄屋食品はかつての賑わいを保っている。

1977年、本駒込のアパートから電車に乗るときはアザレア通りを歩き駒込駅東口だった。ある時なにか気配を感じてその方向に歩いたら田端銀座だった。商店街からはずれた住宅街の路上でキャベツが売っていたほど人出があった。
ここから先は両側とも北区田端。

文京区との境は横切っている谷田川通まで。
12:00
谷田川通は新しく、左の旧道が文京区、北区の境。
すなわち中央の細長い駐車場や、正面、茶色の建物はは北区になる。
新しい通りをつくるとき、曲がっている谷田川(下の1929年地図)から少しずれ北区側を通ったせいかもしれない。

1929(昭和4)
このときすでに田端銀座はあるが、まだ谷田川通はできていない。
伝中裏は北豊島郡巣鴨町の小字。
いま豊島区の範囲は地図の伝中裏よりもう少し東に入っているようだ。

左、文京区本駒込、右、北区田端

12:02
左、文京区本駒込5-54-5
右手前の赤い家、北区田端
そのとなり、阪神のような板塀の家は豊島区駒込1-18-5
ここは道路の3つ角の手前が3区の境になっている。


12:04
中央肌色の家まで豊島区駒込1-18-5
この家と手前の白い家(角の黄色と黒の板塀)は仲良く外に寒暖計をかけていた。
その向こうは北区田端3-6-9

写真左上に看板だけ見える、豊島区最東端の望月不動産の手前を左に二軒いくと、アザレア通りに出た。
1977年はもちろん、最近も気まぐれで駒込駅で降りたときに歩く道。

12:15 
アザレア通りと八幡坂通りの交差点
左にいくと道は左に曲がりながら不忍通り神明坂の途中に出、その手前で右折すれば木戸孝允別邸跡。
写真をまっすぐアザレア通りを行くと駒込駅東口改札をとおり駒込銀座につながる。
そして再び谷田川通にでて暗渠道となり妙義坂下から霜降り銀座商店街になる。

2020-12-23
3区境界点に近い望月不動産。

この日もそうだが、散髪に行って手鏡を後ろにあてられ、出来栄えの確認を求められるたび、毛の少なさと老いを実感する。
今の家はもと2世帯住宅をリフォームしたから老夫婦二人には広すぎるくらい。
もし私のほうが長生きしたら家は子どもにあげて一人アパートに移ろうかな。
このあたり懐かしいし、千駄木より安くて暮らしやすそうだ。