2024年5月15日水曜日

大磯2 明治記念邸園と島崎藤村旧居

5月12日、熱海にダンスのバイトに行く途中、用はないが大磯で下車してみた。

この駅には商店街がない。
駅前の旧木下邸の西の坂を降りて国道1号線(旧東海道)を西に歩いていくと、さざれ石の交差点の先から少しずつ上り坂になる。

このあたりから南側(海側)に役場や料亭、中学校などが並ぶが、元は政府高官や華族の別邸だった。
敷地が広いから「軒を連ねる」という表現はできないが、門塀を連ねて並んだ。
砂丘のため東海道より一段と高く、家から相模湾が臨め、庭を下りて行けば波打ち際である。
11:16
旧徳川邸・山県邸だった大磯中学校の隣から長い石塀が続く。右は旧国道1号線。

石塀が途切れたところに門があった。
11:18
「古河電工 大磯荘」という表札。

長い石塀の中は古河電工の保養所だったが、元は陸奥宗光邸、大隈重信邸である。
いまは国が所有し明治記念大磯邸園を整備中。

国道からこの門へのアプローチの左に石段がある。
個人宅の表札が2つ
はて、古河電工保養所の中に民家があるのだろうか?

西の正門のほうにまわる。
11:19 
明治記念大磯邸園 正門
入場無料がうれしい。
東海道(国道1号線)と浜辺(厳密には西湘バイパス)の間をそっくり公園にする計画。

庭園ではなく邸園である。
現在整備中であり、西側の西園寺地区(公望別邸のち池田成彬邸)、滄浪閣地区(伊藤博文邸のち李王家別邸)は非公開、一番東の大隅・陸奥地区のみ公開されている。
11:22
管理事務所でパンフレット地図をもらって歩き始める。
11:23
旧大隈別邸
大隈重信が明治30年(1897)に購入し、1901年、古河財閥創業者の古河市兵衛に売却された。
公開はされたが家屋は整備中であり公園内のみ散策できる。
こういう状態では入場無料が妥当だろう。
完成したら国営ひたちなか公園、立川昭和公園の例からして入場料は450円くらいだろうか。
大隈邸は2018年、古河電工から国に寄付された。
陸奥邸を合わせて敷地25,352平米。大隈邸家屋は388平米。
11:25
きれいに手入れされた庭に、こういうところで植木職人のアルバイトをしてみたいというより、いったいいくら維持費がかかるだろう、と心配する。

もちろん大磯町では手に負えず、国土交通省が管理運営するようだ。
パンフレットの裏を見たら、
「発行:国土交通省 関東地方整備局 国営昭和記念公園事務所」とあった。

東隣りは陸奥宗光邸。
11:26
陸奥邸は372平米
1896年、陸奥宗光が病気療養のために建築した。
本邸は北区西ヶ原の現古河庭園の場所にあった。陸奥は古河市兵衛と親交があり、陸奥の次男・潤吉が14歳で子のない市兵衛の養子となった。
この関係から、陸奥の死後、東京西ヶ原の本邸、大磯の別邸ともに古河家のものとなる。
潤吉は体が弱かったため結婚せず、市兵衛の晩年の子であった虎之助を養子として古河財閥3代目とした。
陸奥宗光邸は関東大震災で一部倒壊し、栃木県足尾町に移築した。
ここに現存するのは虎之助が1930年に建てたものである。
11:26
バラ園の前だけ見物客がいた。
庭園が広大過ぎてバラ園が貧弱にみえる。
11:29
南の端に四阿があり、海が見下ろせた。
西湘バイパスもなかった戦前は、波打ち際まで自分の庭だったのだろう。
11:31
落ち葉を掃いて集めた袋。
穴を掘って埋めればいいのに。袋がもったいない。
それよりも、広大な庭園でこの程度集めても無駄だし、どうせ全部掃除しきれないのだから、通路部分だけ両側に落ち葉を掃き寄せるだけでいいと思う。
アルバイトというのは費用対効果など関係なく言われたことだけ何も考えずにやる。やらせるほうも予算があるから使わなくてはいけないし、何か指示しなくてはならない。

落ち葉の袋の向こうからテニスボールを打つ音が聞こえた。
隣は大磯中学のグラウンド、かつては山県有朋の別邸であった。
11:32
庭園内を流れる川の跡。
古河財閥がこういう広大な邸宅を取得できるのは分かるが、政治家がなぜ買えるのだろうか?
11:35
公開されているとはいえ、庭園の大部分は草が繁っている。
もっとも、きれいに刈り込む必要はなく、このままでもいいと思う。

帰り際、事務所を通ると中にシニアの方が4人くらいいらした。
アンケートを頼まれて書いたら絵葉書とボールペンをもらった。

敷地の東の端で見た民家の表札について聞いたら、まだ住んでいらっしゃいます、とだけ教えてくれた。園内見取り図には緑地のように描いてあり不自然なので、昔の古河邸と関係があった家なのか聞いても「いえ、まだ住んでいらっしゃいます」という返事を繰り返すだけだった。
11:42
絵葉書とボールペン

明治記念大磯邸園の大隈・陸奥地区の西隣は立派なマンション。
11:44
大磯プレイス。
ここは民有地で元佐賀藩主の鍋島直大(なおしまなおひろ)の邸宅跡。

そのまた西隣は再び明治記念大磯邸園の滄浪閣地区。
11:45
現在工事中で入れない。

滄浪閣は1896年に伊藤博文が別邸として建て、翌年本籍を移して本邸とした邸宅の名前。
伊藤の死後は李王家に譲渡され、別邸として使われたが関東大震災で倒壊、建て直された。
戦後は米軍に接収されたが、返還後、1951年に西武が取得、54年には大磯プリンスホテルの別館となった。
11:47
古い歴史的家屋を修復するだけでなく、何やら新しい建物も立てているようだ。

明治記念大磯邸園の設置が閣議で決まったのが2017年11月。
古河地区の庭園工事が2019年10月、2020年11月には庭園の一部を公開した。
2021年からは滄浪閣地区の庭園工事、さらには3地区の建物改修工事も始まっている。

ここからさらに西へ歩いていけば吉田茂邸に行く前に、徳川篤守(清水家)伯爵別邸跡、梨本宮守正王別邸跡などもあるみたいだが、きりがないので引き返す。
(梨本宮の娘の方子は、大韓帝国最後の皇太子で日本の王族となった李王・垠(ぎん)に嫁いでいる。親子は滄浪閣で会っていただろうか)

大磯には150戸の別荘があったと言われるが、総理大臣経験者だけでも8人が居を構えた。(今回ブログで触れなかったのは寺内正毅と加藤高明。彼らは東海道沿いの浜辺ではなかった)

この日、私は東京から東海道線の各駅停車で1時間5分で来た。当時もそれほど変わらないだろう。軽井沢、日光などと比べて時間的にも近く、さらに駅から歩ける。温暖でもある。海があって富士が見える。人気があるわけだ。

駅への帰り道は、国道の北側、低いところにおりてみた。
11:52
鎌倉を思わせる住宅街である。
この道は統監道という。
統監といえば、朝鮮統治のときの言葉しか知らない。総督との違いは何か。
1905年、日露戦争の勝利によって設置されたのが韓国統監府で、初代統監はもちろん伊藤。伊藤は1909年に満州で暗殺され、翌1910年、日本は朝鮮を併合、そして設置されたのが朝鮮総督府である。
11:55
統監道は伊藤博文が開いた道路というが、彼が土を運んだわけでもないし私財を出したわけでもなかろう。
さらには韓国の人が不快に思う道路名だが、道路は名前がついていると便利だし、当時はこの名前に全く違和感がなかったのだろう。
11:55
この町は思ったより歩いて楽しい。
駅のすぐそばに海も山もあり歴史もある。
それでいて鎌倉と違って観光客がいない。
11:56
駅に向かう途中、住宅街の中にいかにも散策している人が見えた。
11:57
行ってみると島崎藤村の旧宅だった。
11:59
誰もおらず、恐る恐る入る。
すぐ、庭に面した書斎だった部屋に案内のご婦人が座っていらした。
入場無料。
昭和16年1月、藤村は湯河原に来る途中、左義長見物で大磯に寄った。ここで大磯を気に入り、翌月から、敷地145坪、建坪24坪の平屋(貸別荘)を月27円で借り、翌17年8月にはサラリーマンの30年分に相当するという1万円で買い取った。
しかし昭和18年8月、静かに永眠した。大磯生活は2年半だった。
11:59
こちらは居間
12:00
向こうの家は一帯に立ち並んでいた別荘の管理事務所であったが、藤村が書庫にしようと買い取った。戦後静子夫人が建て替え、母屋を大磯町に寄付したあとは、こちらに昭和48年に亡くなるまで姪と住んだという。

受付の上品な女性と話をすると、彼女は藤村のことを「先生」といい、海岸で見つけた大きな石を人にこの庭まで運ばせたとか、いろんな話をしてくださった。そのたびに「先生」というので、よほど藤村のことが好きなんだな、文学少女だったのかな、ちょっと話を振ってみようかなと思った。
ところがそこに女性観光客が二人きて、色々話し始めた。やっと彼女らが庭の奥のほうに行ったので、さあ信州木曽の馬篭の話からしようかと思ったら、また老夫婦の観光客が入ってきた。
もうここで諦め、礼を言って藤村邸をあとにした。
よく考えたら私は藤村の作品を一つも読んだことがなかった。
12:12
大磯駅に戻ってきた。
10:45に駅を出発したから1時間半の観光散歩だった。

駅に入ると熱海行きは12:32発。
改札口前のベンチに座りながら、かつてはこの駅に貴賓室があり、政府高官たちはそこで汽車を待ったらしいことを思い出した。

(続く)


(追記)
陸奥宗光の東京本邸は西ヶ原にあったが、鶯谷駅近くの根岸に別邸があった。
千駄木から自転車で見に行ったことがある。


2015₋09₋22
本邸、大磯別邸と違い、住宅街の中にあり敷地も狭い。
陸奥宗光が死去した後は長谷川武次郎氏が所有し、その後西宮邸、西宮版画店となったらしいが2015年は人の気配がなかった気がする。

2024年5月14日火曜日

大磯の東海道沿いを歩く。有名人の邸宅跡

大磯は大磯ロングビーチと吉田茂など有名人が別邸を構えた地として有名だが、城下町のような江戸時代の歴史がなく、軽井沢のようでわざわざ行こうと思わなかった。

しかし、この日、熱海にダンスのバイトに行く途中、途中下車してみた。

家を9時少し前に出て、千駄木から千代田線で二重橋前で降り、地下道を東京駅まで行き9:37発の東海道線に乗る。
横浜から西は、戸塚、大船、藤沢、辻堂、茅ケ崎、平塚、大磯と続くがどこも馴染みがない。大磯には10:42に着いた。

2024₋05₋12 10:43 大磯駅
その前の茅ケ崎、平塚などの大駅と違って山がホームまで迫っている。
駅舎は地方の駅のように小さい。しかし天井が高い。
初代駅舎が関東大震災で倒壊し、現駅舎は大正13年に建てれらてた二代目。
駅のお知らせはあるが広告がない。元勲たちが利用する駅に広告は相応しくないという伝統が生まれ、戦後広告看板を出そうとしたら獅子文六ら在住文化人が反対したとか。
昔は貴賓室があって当時の高官が列車を待つのにに利用した。
10:45
こんな田舎に駅ができるのは、それこそ究極の「政治駅」かと思いきや違った。

東海道線は新橋・横浜間が1872年(明治5年)日本で最初の鉄道として開業、1887年(明治20年)には国府津駅まで延び、このとき大磯にも仮駅舎ができた。
これは元勲たちが別邸を構える前であり、このブログでもしばしば出てきた松本順が療養を目的とした海水浴の効用を広め、ここに日本初の海水浴場ができ、急速に別荘地として発展したからである。伊藤博文が別邸を設けるのは明治29年。
仮駅舎が本格的な初代駅舎となるのは明治43年で、このときは元勲たちの利用が十分考慮された。

さてどこに行こうかと駅前の地図を見る。
海岸に松本順謝恩碑という文字が見える。
津波目安の数字「現在地・海抜20m」。降りたら坂を上がってくるのが疲れそうだから行くのをやめる。ちなみに松本順は以前このブログでも触れたが、佐藤泰然の子で松本良甫の養子となり、松本良順と称し、明治4年に改名して松本順とした。
10:50
駅前広場の向かいにおしゃれな建物あり。
国登録有形文化財・旧木下家別邸。日本最初のツーバイフォー住宅で関東大震災にも倒壊しなかった。住民は敷地形状から三角屋敷と呼び、今はイタリアンレストラン「大磯迎賓館」として、この日、結婚披露宴が開かれていた。

三角の右辺の坂を下りていく。
大磯は駅周辺ですでに緑に包まれている。

道路や家並みは鎌倉を思い出させる。
10:53
左は地福寺。
島崎藤村の墓があるらしいが行かない。
10:54
坂を下りると国道1号線に出た。
家の間から海が見え、結局近くまで来てしまったが、行かない。
10:55
ところどころ黒松もあり、かつての東海道の雰囲気が残る。
10:57
「新杵」新井菓子舗
大磯名物「西行まんぢゅう」は分かるが「虎子まんぢゅう」は何だろう?

ここで道の反対側に石柱を見つけ信号を渡った。
11:00
「大磯照ケ崎海水浴場」の石柱。うしろには大正四年五月建と彫ってある。
この道を海まで行けば松本順の記念碑があるが行かない。

大磯はロングビーチという名に引きずられずっと砂浜のイメージがあったが、「磯」であり、また帰宅後に調べたら、照ケ崎は「崎」とあるように突出した岩場があるようだ。磯遊びができて富士、箱根がみえるという。曇っていたが行くべきだった。海岸手前の左手に原敬の別荘もあったらしい。

石碑のところで道は二股に分かれてている。
左が旧道だろうか?
11:01
この三角州のような場所が新島襄終焉の地という。
新道のほうに徳富蘇峰揮毫の碑と説明看板がある。
新島は明治22年(1889年)11月、同志社大学設立のため資金調達の活動中に心臓疾患を悪化させて群馬県前橋で倒れ、ここ大磯の旅館・百足屋で静養した。しかし、回復せず年が明けた1月23日、蘇峰らに10か条の遺言を託して死去した。享年48。
11:04
すぐそばの旧道のほうにプロテスタントの大磯教会がある。
国の登録有形文化財、1900年建築で新島とは関係ないようだ。

国道を西に歩くと鴫立庵(しぎたつあん)の森の前に石碑があった。
11:05
「湘南発祥之地 大磯」とある。

湘南という言葉は、上京したころ、湘南高校という校名で知ったのだろうか。同時に、相模国の南で、海があるから「相」にサンズイをつけて「湘」南としたのかと思ったりした。
その後、いつだったか、中国の地名からとったようなことを知ったが、何だったか忘れてしまった。

この説明板に寄れば、1664年に宗雪という人が、西行を慕ってここに鴫立庵をたて、「鴫立沢」という標石をおいた。この石の裏に「著盡湘南清絶地」と刻み、東海道を行き来する人々にこの地の景勝を紹介したことが「湘南」という語の始まりという。中国湖南省・洞庭湖のほとり、湘江の南側とこの地が似ているとのことらしい。

これではよく分からない。
調べたら、江戸時代、小田原の外郎(ういろう)家(中国浙江省から14世紀に亡命し、北条早雲の時代に京から小田原に移り、代々医薬を売っていた)の者が、家を継がず宗雪という僧となった。彼は詩歌に秀で、宗教心も篤く、尊敬する西行が歌に詠んだ大磯に移り、ここに庵を結び(鴫立庵)、俳句を詠んだり句会を開いたりして生涯を終えたという。

「湘南発祥之地」の石の脇に細い道があり、西湘バイパスと海が見えた。
坂を少しだけ降りてみた。
11:06
海のすぐそばなのに、深山幽谷のような小さな川がある。
川底に岩が露出している。
これが鴫立沢だろうか。
国道1号も西湘バイパスもなかったころ、確かに景勝であったと想像できる。
11:06
沢の先、海の手前に大磯町保健センターがあった。
たいていの自治体では名称からして埃っぽいコンクリートの施設も、この町では風光明媚なところにある。

帰宅後分かったのだが、この左、川の反対側は樺山資紀の別邸だったようだ。海軍大将、初代台湾総督。染井霊園の墓所は以前ブログに書いた。今はライオンズマンション大磯になっているらしい。

ここでも波打ち際まで降りずに国道まで戻った。
「湘南~」の石碑のすぐ横、国道から下に降りる形で鴫立庵がある。
11:08
鴫立庵入口
この庵の名は、この地を訪れた西行(1118- 1190)の、
こころなき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮
(新古今和歌集)による。

俳諧師・大淀三千風が第一世庵主として入庵して以来、京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並び日本三大俳諧道場となり、代々俳人が庵主となる。現在は第23世・本井英氏である。
11:08
西行はこの川(沢)から鴫が海のほうに飛び立つのを見たのだろうか。

なおも国道を西に行くと大磯町役場。
11:09
さっき見た保健センターは役場の東に当たる。向こうは海のはず。
役場を見ても大磯町というのは他と違う感じがした。
しかし、役場は最初からここにはなかっただろうと調べたら、やはり山内豊景侯爵の別邸跡だった。最後の土佐藩主・山内豊範の長男である。

横目で見ながら西に歩き続ける。
11:10 翠渓荘
今は料亭だが、もとは林董(はやし ただす)邸。このブログでも以前触れたが、順天堂の佐藤泰然の五男で、林洞海の養子となった。大磯海水浴場の生みの親でもある松本順の実弟である。幕府の留学生であり戊辰戦争では榎本艦隊に身を投じたが、維新後は兄松本良順や陸奥宗光に助けられ、岩倉使節団にも随行し、のち外務大臣となった。
11:11
国道の北側にいい感じの商家があり、相模園という看板。
こういう名前は相模から他所に出たあと付ける名前だと思うが、お茶屋さんかな、と思ったら「肉と野菜の店」とある。しかしただの小売り食品店ではないだろう。よく見たら古民家を利用したレストランだった。
11:12 
統監道というバス停
この道については後で触れる。
左側(海側)は分譲したような新しい民家が並んでいる。
かつては誰かの別邸だったのだろうか。
11:14
このあたり両側に黒松の並木が残る。
左側は大磯中学校。たぶんこれも邸宅跡だろう。
調べたら徳川義禮(よしあきら)侯爵の別邸。「義」の字から推察されるように尾張徳川家第18代当主である。

西隣はいま大磯中学のグラウンドだが、山県有朋の別邸だった。
11:15
国道は西への下り線が並木の間で、上り方面は並木の北側を通っている。かつては草加の日光街道のように並木の間を二車線通っていたのだろうか。
一車線を外に出し、さらに東名高速と西湘バイパスで通過する車両は激減した。
ようやく並木も一息ついたか。
しかし黒松の代わりに一部、丈夫なケヤキが代わりに植わっていた。
11:15
この黒松は樹齢何年だろう? よく車の排ガスに耐えたものだ。
あまり立派なので大きさの比較にリックを置いた。

大磯中学を過ぎると長い石塀が続く。
11:16
このあたりの地形は国道の南側(写真左側)すなわち海側が、風浪で砂が寄せられたか、土地が高くなっている。北(右)側は一段と低くなり、民家が並び、東海道線が通り、その北に山が迫る。

すなわち、樺山邸からずっと、ひっきりなしに元勲、政府高官、華族らの別邸が隣同士で海を見下ろしながら旧東海道、国道1号線に門を並べていたのである。

写真の長い石塀は古河電工の保養所だったが、元は陸奥宗光邸、大隈重信邸。いまは国が所有し明治記念大磯邸園を整備中である。
いったい、明治の豪邸はどこまで続くのだろう?

(続く)

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