2025年4月2日水曜日

京都24 嵯峨野と松尾大社の秦氏

たぶんこれが最後の京都となる3月7日、新しくできた梅小路京都西駅から嵯峨野線にのった。車中はインバウンド客でごったがえしていた。

高架線で景色はつまらぬが、各駅に記憶がある。
1.2年間通ったKRPのある丹波口、
2.そのころ常宿のあった二条、
3.たまに降りた円町、
4.2004年仁和寺、2017年の双ヶ岡や2022年妙心寺・仁和寺に泊ったときの花園、
5.(たぶん)降りたことのない太秦
の5つの駅を過ぎて嵯峨嵐山駅でおりた。

嵯峨嵐山の駅は少なくとも一度2004年3月17日に降りたことがある。
当時はダンス競技は始めていないが踊るのが楽しく、KRPに滞在中、何度か京都のダンスパーティや練習場を訪ねた。あるときダンス雑誌で嵐山の公共施設でパーティがあることを知り、訪ねたのだが踊れる人がほとんどいなくて帰って来た記憶がある。
しかし2008年に橋上駅となり今や昔の面影は全くない。

さて、どこに行くか。
じっさい嵯峨野を歩いたのは
1973年10月高校の修学旅行、
1978年3月関西製薬会社研究所見学の帰り
1981年5月大阪での研修中、長野の両親が京大阪を見物に来たとき、
1984年10月山田夫妻との京都旅行、
と4回は確実にある。

大覚寺、あだし野念仏寺や落柿舎など記憶にあるが、何度も歩いて今や特に行きたいとも思わないので真っすぐ桂川の渡月橋を目指した。
10:17
線路の北側にテレビでよく見る竹林があった。
道の両側が竹林というのは昔からあったが、竹林の公園の中に遊歩道が作られているのは記憶にない。もちろんインバウンド客でいっぱい。
この日は雨が降ったりして非常に寒く、マフラーで耳を覆った。

踏切を渡るとすぐ、人が集まっている。
10:21
野宮神社
かつて、天皇の代理として伊勢神宮に仕える斎王(未婚の皇女)が伊勢に赴く前に身を清める場所であったが、今はどうなのだろう?
10:22
主祭神は野宮大神(天照皇大神)だが、境内に摂社が多く、それぞれに学問・恋愛成就・子宝安産等を願う人が参拝する。我々は中に入らず通り過ぎた。
10:24
再び両側が竹林となる。

10:26
嵯峨野のメインストリート、渡月橋から続く府道、長辻通にちかづくと両側が竹林から商店となる。まるで原宿のような様相を呈し観光客が一気に増える。

10:29
長辻通。右は天龍寺。
10:30
天龍寺
臨済宗天龍寺派の大本山。開基(創立者)は足利尊氏、開山(初代住職)は夢窓疎石である。尊氏が征夷大将軍となった翌年、対立していた後醍醐天皇が吉野で崩御した。このとき
武家からも尊敬されていた禅僧・夢窓疎石が、その菩提を弔う寺院の建立を尊氏に強く勧め、尊氏が離宮であった亀山殿を寺に改めたのが天龍寺である。
建立の費用を捻出するのに元との交易を期待し貿易船を出した(天竜寺船)。

足利義満の時代に臨済宗は寺の格を決めた。
南禅寺が別格で、京都の天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺、鎌倉の建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺をそれぞれ五山に決定した。
天龍寺は京都五山の第一位とされ、いまよりずっと広大な敷地に子院150を数えたという。しかし度重なる火災で古い建物はほとんど焼失したらしい。
10:32

10:33
観光バスが何台も来ている。
連れてこられた乗客は京都に行ってみようとは思っていただろうが、ぜひ天龍寺を見たいと思う人はどれだけいるのだろう?

10:36
大方丈(左)と庫裡(右)
両方とも明治32年(1899)の再建。
ここまでで、中には入らなかった。
天龍寺は1973年の修学旅行、1981年就職して大阪での研修時代に長野の両親を案内したときの2回は来ている。ほかに嵯峨野に2回来ているが、天龍寺に来たかどうかは不明。
庭と池の記憶はあるから1,2回は入っている。
10:37
しかし中は入らず、引き返して喧騒の通りに戻った。

10:43
昔はなかったモールのような複合施設。
各店が囲む中庭にテーブルが出ている。
歩き疲れた妻が餡バターのたい焼きを食べたのは嵯峨野らしい。
私は朝食を食べ過ぎたので見ていた。
嵯峨嵐山マップ
40年以上前、大覚寺、二尊院なども行ったな、としばし眺める。
変わらない寺社の場所を見て懐かしみ、そして大いに変わった観光客と飲食店を確認できたので嵯峨に来た目的を達した。
10:57
嵐山グルメ横丁
観光客が喜びそう。
10:58
昔はソフトクリームなどがメインで唐揚げやメンチカツなどは記憶にない。

10:58
10:58
和牛ひつまぶし豆富食べ比べ御膳3300円、和牛炙り焼き御膳5000円などは明らかにインバウンド客を意識したメニューだろう。

桂川に出た。
11:00
渡月橋北詰
修学旅行生が信号のため橋の上で渋滞している。
文字通りのオーバーツーリズムである。
そもそも高校生などは京都奈良でなくてもよい。私は古臭い寺社など全く興味がなかった。班別自由行動の日は、班員の誰かが決めた、似たようなお寺に入るたびに入場料200円、300円払うのが馬鹿らしかった。古都は大人になって興味と知識をためてから個人で来るべきである。
それまではスキーとか海水浴の合宿みたいなものが良いと思う。
11:00
平日でもこの混雑。
11:01
橋には大堰川と書いてある。
渡月橋から下流は桂川でよいが、渡月橋から上流を大堰川という。この大堰川のうち、保津峡から亀岡の間を保津川と呼び、さらに遡ると園部辺りで再び桂川となるらしい。
11:01
対岸が嵐山。しかしJRの駅や地域名の嵐山は桂川左岸(北)にある。
左岸は小倉山である。

11:05
中の島まで来ると人は減る。

11:11
右岸を大悲閣千光寺あたりまで歩くのも良いが行かない。

渡月橋を渡るとあれほどいた観光客がまったくいなくなった。
11:13
渡月橋からわずか2分。桂川の南岸は北岸と違ってほとんど人がいない。
嵐山のいちばん山裾の道を辿る。
11:16
尾根伝いに苔寺への抜け道がハイキングコースになっているらしい。
11:24
このあたり川と山に挟まれた民家が一列に並び、各家は専用の橋をもっている。
11:25

渡月橋から20分かからずに松尾大社に到着。
名前だけはよく聞くが来たのは初めて。
実はここが今回の嵯峨野行きの目的地だった。
喜多門と書かれた北門から入る。
11:31
松尾大社 左:授与所、正面:拝殿

この神社は平安京より古く、背後の松尾山にある磐座を神体としている。
平安遷都以前にこの盆地を優れた農業土木技術で開拓した帰化人の秦氏が祀って氏神とした。
秦氏は雄略天皇の時代、絹を「うず高く積んだ」ことから「禹豆満佐=うずまさ」の号を与えられ、これに「太秦」の漢字表記を当てた地名ができた。太秦にある広隆寺は秦氏の氏寺である。

京都盆地の歴史を知るうえで秦氏は極めて重要であり、いつかは来てみたいと思っていた神社である。
11:32
神輿倉
前面に積み上げられた菰樽
11:32
中門と拝殿(右)
松尾大社は戦前に65あった官幣大社のうちの一つ。
もちろん延喜式にもあり、平安時代に定めた「二十二社」のうちの一つでもある。

11:33
中門の前が参拝所になっている。
社寺で手を合わせなくなって久しい。
神仏に願う習慣がない。目をつぶるより建物の配置や地形を見る。

松尾大社は東を向いているが、ちょうど四条通の西の延長にあり、東の延長には八坂神社が西をむいている。平安京造営のときの目印(東西軸)になったかどうか。
一般には北の船岡山を基準に、西の双ヶ岡と東の吉田山が東西軸になったとされるが。
11:35
(参拝は逆順になったが)楼門
インバウンド客でごった返す京都にあるとは思えないほど閑散としている。

同じ渡来系の漢氏が陶部・鞍作部・工人等の技術者集団から成ったのに対して、秦氏は倭人も含む農民集団で構成されていた。古くは大和国葛城に定住、5世紀末頃になると山背(のちの山城国)に本拠を移した。山背地方のうち特に宇治川に近い紀伊郡深草と桂川の葛野郡嵯峨野を開き、紀伊郡(昭和6年消滅)のほうでは現在も氏社として伏見稲荷大社がある。
伏見の稲荷はイネが生るということでいかにも農業集団の秦氏らしいが、松尾大社のほうは酒がある。
11:36
お酒の資料館
11:36
11:37
渡来系で稲作に優れた秦氏が酒造の技術にも長じていたことは想像に難くない。日本書紀などに秦酒公(はたのさけのきみ)という豪族も出てくるらしい。松尾の神が酒神とする確実な史料は中世後期の狂言「福の神」あたりからで、江戸時代には社殿背後にある霊泉「亀の井」の水を酒に混ぜると腐敗しないといい、醸造家がこれを持ち帰る風習が始まった。

11:38
11:41
通常の参拝路とは反対から入って赤鳥居を出た。

出るとすぐ阪急嵐山線の松尾大社駅があり、そこから京大桂キャンパスに向かった。

(続く)

2025年3月31日月曜日

京都23 青蓮院と東寺、洛南、梅小路の市電

3月6日、翌日の京大・森泰生教授の退官記念講演と晩さん会に出席するため、妻と安土、近江八幡など見物したあと、京都に来た。

山科で地下鉄東西線に乗り換え、東山で降りた。
地上に出ると白川が流れている。
2025-03-06  17:49
日中歩いた近江と違い、ここは土地勘がある。
京都は65回以上来ている。一泊2日だったり4泊5日だったりしたが、2泊3日とすれば、130泊して195日くらい歩いている。195日というのは1年の半分以上で、とくに2003年から2005年にかけては京都リサーチパーク(KRP)のオフィスに自分の机とPCがあり半分住んでいるような感覚だった。

見慣れた都会というか京都の景色に安ど感があった。
しかしそれも今回が最後と思うといとおしくなり、何の変哲もない風景を写真に撮った。
17:51
三条通
17:55 青蓮院
ここは八坂神社と平安神宮・南禅寺などの間にあるから、懐かしい道だ。最後に来た
コロナ下の2022年3月も南禅寺のほうから歩いてきた。何度も通ったのに青蓮院には入ったことがない。知識もないし、入る理由もなかった。拝観料は600円。

青蓮院は、三千院、妙法院と共に、天台宗の三門跡寺院として格式を誇ってきた。
門跡寺院とは皇族や摂関家の子弟が入寺する寺院のことであり、青蓮院は多くの法親王・入道親王(親王という皇族出身の僧侶)が門主(住職)を務めた。後に室町幕府第6代将軍足利義教となる義円も門主を務めた。
現在の門主も、東伏見家(旧伯爵家)出身の東伏見慈晃。東伏見家は一代で絶家した東伏見宮を祭祀を継続すため久邇宮邦彦王の第3王子邦英王が昭和6年に臣籍降下して作った家。

その門前に豆腐料理の店がある。
M夫妻が予約してくれた。
17:56
豆腐料理 蓮月茶や
インバウンド客でごった返す京都にありながら客は誰もいない。
18時待ち合わせのM夫妻も来ていなかった。
17:57
通されたのは二部屋続きの離れ。ほかに客がいないから料理は隣の部屋からふすまを開けて出された。客がいたら庭から直接入れるのだろうか? それも野趣があるが様になるのかな?雨のときは離れを使わないのかもしれない。

豆腐料理というとやはり門跡寺院の上野輪王寺(寛永寺の一部)の宮・公
弁法親王ゆかりの鶯谷「笹の雪」が有名だが、そちらよりおいしい気がした。
湯豆腐などはどこも同じだが(私は違いが分からない)、カニ味噌風味のごま豆腐とか湯葉料理など前菜に工夫が見られた。

M夫妻は4月に京都を引き払って故郷に帰るらしい。
そうなると私は、仕事もない、知人もいない京都は二度と来ることはないだろう。

この日は朝一番の新幹線(東京6:00発ののぞみ)に乗り、近江を見物したので疲れが出て早めに寝た。
8:43
京都第一ホテル
翌3月7日。午前は時間がある。
が、あまり遠くは行く気がない。
九条通のホテルの西のほうに東寺があるので行ってみた。
8:55
今京都の中心軸は駅前からのびる烏丸通だが、平安京の朱雀通りは東寺の向こう(西)だからだいぶずれている。

8:57
東寺は2004年9月2日早朝に来ている。
8月31日に宇治川に面した鮎宗、1日に東寺の近くの安宿クリスタルホテルに泊まった翌朝であった。
8:58
五重塔のほうは柵があって行けない。

東寺は西寺とともに平安京正門の朱雀大路南端、羅城門の両側に建立された。
対となる二つの寺は都城、国家の鎮護として、また鴻臚館(外国使節の接遇場所)として建てられた。
しかし完成後間もなく、嵯峨天皇の時の823年、東寺は空海、西寺は守敏に下賜されたとされる。その後、東寺が真言密教の道場として発展したのに対し、西寺は鎮護国家の官寺となり、その後の度重なる火災で完全に地上から姿を消した。さらに西部の水はけの悪さから都が西から東に移動し、東寺が単独で西にあるという状態になっている。
8:59
昔は柵などあっただろうか?
2004年は朝の通り道に使っただけだから、本堂など見なかっただろう。
9:02
御所を思わせる広い砂利の広場
9:06
金堂、講堂、五重塔を含む区域は入場料800円。
昔は素通りしたから気づかなかったが、有料だったのだろうか。

東寺の境内の北西は洛南学園の校地になっている。
9:10
左は洛南学園の体育館

2004年朝はちょうど登校時の生徒と遭遇した。中、高の制服が違うだけでなく、学年でネクタイの色が違っていた記憶がある。いま調べたらその前年、2003年から皮膚の弱い生徒に配慮し詰襟学生服が廃止され、ネクタイが学年で違うブレザーの制服となったらしい。その後、2006年に男女共学となり(女子は学年で制服のリボンの色が違う)、2014年に小学校が開校した。
9:11
この学校の源流は、828年空海が創立した綜芸種智院に端を発するとされているが、実際は明治14年(1881)、真言宗の教育機関として設立された総黌である。これが大正時代に真言宗京都大学(伏見にある種智院大学の前身)と真言宗京都中学に分離、中学のほうが東寺中学と改称、戦後東寺高校となり、昭和37年(1962)に洛南高校と改称した。
1980年代前半に京大合格者を出し、新興進学校としての評価されるようになり、付属中学、付属小学校を新設し、小中高一貫となって現在に至る。
2025年は400名中、東大23人、京大69人と、見事な進学実績である。

ちなみに、名前の似た洛北高校は1870年に日本最古の旧制中学校として創立された府立京都一中である。戦前は京都のトップ校だったが、戦後の総合選抜制などで衰退した。近年は付属中学なども併設して徐々に盛り返し、2024年度は東大3人、京大12人。

洛星は中高一貫、男子カトリック系ミッションスクールで2024年は東大6、京大48人である。
9:13
洛南学園グラウンド
若い坊主頭の男性が入って行かれた。野球部でなければ僧侶の教師だろうか。

私が通り過ぎたのは卒業生の冨田洋之、中野大輔が2004年アテネオリンピックで日本代表として金メダルを取った直後で、校舎から縦の応援幕が下がっていた。
入学者の枠が違うとはいえ、進学とスポーツの両方で有望な生徒を集め、学園の名を売っていた。

智辯和歌山、東大寺学園もそうだが、宗教法人が運営する高校はスポーツ、大学進学ともになぜ優れているのだろう?と思いながら後にした。

2004年は東寺を出たあと、たぶんオフィスのあった丹波口のKRPまで歩いたと思う。どこを通ったか記憶にないが、地図を見ると広い操車場があり、大宮通しかない。
9:18
大宮通
車道は東海道線の上を通り、歩行者は線路の下を通る。

大宮通りで線路を越えると西側が梅小路公園になっている
地図を見れば、ここを斜めに突っ切ればKRPにいく。
しかしこんな立派な公園は記憶にない。

調べると公園は移転した貨物駅の跡地に1995年に作られたという。しかし2010年にJR西日本と京都市が再整備に着手、2012年に水族館、2016年に京都鉄道博物館、2014年にオープンカフェや大型遊具を設置した「すざくゆめ広場」と、「市電ひろば」が開設された。私が通ったころの景色と一変したようだ。
9:23
市電。
4両が並ぶ市電広場はここではなく右奥にある。
水族館も右にある。

京都の市電は1895年に日本で初めて開業した。しかし1960年代から乗客の減少で順次路線を縮小し、昭和53年(1978)に全面廃止された。その5年前、1973年10月、高校の修学旅行で初めて京都に来たときはまだ市電があり、実際に乗った。

しかし路線が減っていたのか、グループ行動で京都駅から苔寺・西芳寺にいくときはバスだった。それが幸いした。走り始めてすぐ、そばに立っていた女子高生が私に吊皮を譲ってくれた。彼女とはそのあと、西芳寺でも笑顔を交わし、次の天竜寺ではその制服を見ると彼女を探すようになっていた。嵯峨野でその制服を見失ってから連絡先を聞かなかったことを大いに後悔した。
ところが夜、奇跡が起きた。新京極の商店街に出た帰りの寺町通りでばったり会った。少し言葉を交わし、山梨高校(女子高)ということだったが、まだうぶな高校生で連絡先などもちろん、名前すら聞かなかった。
ホテルに帰ってから、さらに落ち込んだ。翌日長野に帰るバスの窓から見た、もの悲しく鈍い灰色の琵琶湖をまだ覚えている。
もちろん長野に帰っても彼女が忘れられず、勉強も手につかなくなった。

ところが奇跡がまた起きた。縁があると感じたのか彼女も私に会いたがっていたようで、すでに私の同級生の寺瀬徹氏(軟派だった)と文通を始めていた友人に頼み、ピンクのシャツに黒のブレザーという服装から私を探り当てたのである。お互い喜び、文通が始まり、彼女はクラブ活動の謡曲仕舞で踊っている写真を送ってくれたりした。
その冬、彼女は友人、私は玉木一徳をつれ、2対2で中間地・上諏訪で会った。ところが玉木と彼女(三科よしみさん)が仲良くなってしまった。彼女は一緒に来た友人が私を気に入っているから付き合えと言い、三科さんと私の文通は終わった。
大学に入った1975年の年末、たまたま信越線でなく中央線で帰省するので久しぶりに電話して朝の塩山駅で出勤前の彼女に会った。お互い京都で会った時の印象からだいぶずれてしまったのか(上諏訪のときもずれはあった)、その後、二度と連絡を取り合うことはなかった。

私の1973年初めての京都はこういうことがあり、この市電が走っていた。再び市電を見た2025年のこの日が私の京都最後の日となる。52年間の京都ではいろんなことがあった。そのうちこういう記憶もなくなっていくのだろう。

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