2022年11月30日水曜日

65歳からの職探し 9 スーパーの品出し

このところ青森旅行のブログばかり書いていたが、その間、大きな出来事があった。
スーパーのアルバイトを始めたのである。

居酒屋は週1回の夜2~3時間なので、時間が余っていることに変わりなかった。
家から三番目に近いスーパーにいくとレジのそばにアルバイト募集のポスターがあった。

いくつか職種がある。
レジはトラブルがあるとドタバタして嫌だな。
ベーカリーは大変なことが分かっているのでパス。
農産部門がいい。
買い物でも一番関心のあるのは野菜だし、千駄木菜園、シェア畑アルバイトの続きで業界、消費者の動向も見たい。

パートとアルバイトの違いも書いてあった。
パートは昇給、定期健康診断があるが、週12時間以上働かなくてはならない。
アルバイトにしよう。
時給は都内最低賃金が10月1日から1072円に改定されたことから1075円。
それまでは1041円を踏まえ、1050円だった。
退職老人や主婦はいいだろうが、これしか収入がない人は大変だろう。

10月面接、採用の電話をもらう。
週2回、朝8時から11時まで。
青森旅行などあったので初出勤は11月11日。
朝ユニフォームに着替えて、定時勤務ならタイムカードは8時の3分前にピッとやるよう指示される。
初対面の農産主任・Nさんとあいさつもそこそこに、慌ただしくみんなと売り場に出ていく。

レジの横や通路に所狭しと積まれている業者からの納入野菜を片付けなくてはならない。
大きなカートにびっしり積まれた段ボール箱やコンテナを、玉ねぎ、芋類なら根菜コーナー、みかんなら果物コーナー、加工するもの、多すぎる品物などはバックヤードに運んでいく。
台車はドーリ、折りたたみコンテナはオリコン、イフコと呼ばれている。

初日なのに、全体の説明を聞いていないのに、ばたばた指示を受けて動く。
高齢女性が多いので、力仕事では役立つと思う。
張り切って段ボールを持ち上げるが、ニンジンが意外と重い。バナナは箱が大きいからもっと重い。しかも何箱もある。そういえばバナナは安いし手軽だし、家でもよく買うものなあ。バナナの一人当たり年間消費の重量、値段あたりの重量などを考えたりする、なんて時間はない。

居酒屋の皿洗いでも背中、腰が痛くなるから、重いものを持つのは怖い。段ボールと台車だらけで身の置き場、足の踏み場もないようなところで変な姿勢で段ボールを持つ。重いコンテナに指も挟まりそう。もう少し慎重に動きたいが、そんな余裕はないほどこの時間は忙しい。

館内放送は最初はラジオ体操などで始まり(やる余裕なんてないのに)、天気や前日の売上高などの話が続くが、そのうち「開店1時間前です」「開店30分前です」と言い始める。客が来る前に通路を空けなくてはならない。

段ボール箱を売り場などに散らばせたら、急いで開封、棚に並べる。
大根、キャベツは残っているものはカット用に回すためすべて回収、新しいものに入れ替える。他のものは古いものを手前または右に寄せ、新しいものを奥に入れていく。

キャベツは外側の葉っぱを取り除いて並べるが、葉脈をたてに並べるときれいだとアドバイスされる。
品物は上手に、なるべく多く並べる。途中で補給しなくて済むように、また、狭いバックヤードに置かなくて済むように、高く積み上げるが、しばしば雪崩を起こす。
9時半開店だから忙しい。

サツマイモはバラ、袋入れがあり、我が家の芋と比較してしまう。
2022‐11‐13
千駄木菜園2回目の芋ほり、11.3キロ。
今年は22キログラムとれた。

一通り並べ終わるとバックヤードに入り、野菜の加工をする。
ベテランの女性がキャベツやブロッコリーの2分の1カットなどを作りサランラップで包んでいる。私はラベルを貼る方法を教わった。
バーラベ装置に品番、産地を入れ、枚数を指定するとバーコードラベルが出てくる。
大根の葉っぱも30円の値札をつけると売れる。

子どものころ野菜のパック詰め、袋詰めを手伝ったことを思い出す。
しかしそれは農作業が終わり暗くなってからテレビを見ながらのんびりしたものだった。
子どもだったから多くは求められなかったし忙しくもなかった。
2022‐11‐14
千駄木菜園、大根初どり。1.3キログラム。

また、レンコンなど大きさがばらばらなものは、秤付きのラベル出力装置に必要事項を入力して一つ一つ乗せれば、値段付きのラベルが出てくる。レンコンはそんなに好きではないが、100グラム98円、けっこう高い。こんなの妻はよく買ってくるな。でもよく売れるようだ。

ラベルを貼った品物を棚に並べてくるよう指示される。が、置き場が探せず、聞きに戻ることがしばしば。でもみんな優しい。

あっという間に2時間過ぎ、落ち着いた農産主任のNさんが、労務関連などいろんな説明をしてくださった。出勤したら冷蔵室の前に貼ってある健康チェック表に〇を記入(具合が悪ければ電話して、出勤しないように!)、毎月1回検便用サンプルを出すこと、など。
最後に、「今まで経験あるんですか?ずいぶん動きがてきぱきしているんで」と褒められた。居酒屋で鍛えられたおかげかな? 嬉しい。

9時半を過ぎて売り場に品物を出しに行くときはお客さんがいっぱいいる。お年寄りが多い。たいていカートを押して品物をじっくり見ていたりする。
せっかくきれいに並べたのに、奥の新しいほうから取っていかれ、棚が乱れていく。

3種類あるバナナの前でどれが美味しいかしら?ときかれ、今まで安くて本数の多いものが選ぶ基準だった私としては答えられない。
先日は新しい産地のミカンが入り、スタッフで味見した。お客さんに聞かれたときのためであるが、どれも美味しい。昔は美味しくないミカンもあったのだが。

福神漬けはどこですか? 餃子の皮はどこですか?など農産以外のことも尋ねられ、一緒に探すのが楽しい。食パン5枚切りが欲しいんだけど、と言われると困るけど。 

まだ野菜の値段を見て高い、安いと思う余裕はない。
でも大根やキャベツを触るのが楽しい。
もう少し経ったら、きょうのリンゴは美味しいですよ、などと言ってみたい。


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20220713 65歳からの職探し7 選挙投票所のアルバイト

2022年11月28日月曜日

旅の終わりは盛岡高等農林と岩手大学

弘前青森八戸から盛岡に来て、護国神社、盛岡八幡、盛岡城址を歩き、石川啄木宮沢賢治の記念館を見て、賢治の出た盛岡高等農林学校にいってみたくなった。(別ブログ)
そしてお城の近くから本町通りをてくてく歩いてきた。
2022‐11‐03 15:48
岩手大学ミュージアム本館
何とか16時までに着きたいと思ってきたが、15時閉館だった。
まあ、そうだろう。

今の正門かと思われる農学部東門から入る。
休日、夕方ということもあり、誰もいない。
15:52
樹木がいっぱい。一帯は農学部付属の植物園のようだ。
竹林がある。竹は南方の植物で、同じイネ科の稲は品種改良でどんどん北進したが、竹は岩手県あたりが北限らしい。(将来は温暖化で北海道でも育つだろう)

池のほとりに期待通りの古い建物。
15:52
旧盛岡高等農林学校同窓会事務所(岩手大学農学部附属百年記念館)。

と書いてあったが、「旧」は農林学校にかかるのか、同窓会にかかるのか、事務所にかかるのか、少し考えさせる。もし卒業生がすべて物故され同窓会がなくなっていたら旧は事務所にかかっていてもよい。しかし、戦後の岩手大学農学部卒業生が同窓会を引き継いだ。だから旧は農林学校にかかる。
その同窓会は北水会というらしい。北水は北上川を表す。

百年記念館の隣にはもっと大きな歴史的建造物があった。
15:54
農業教育資料館
旧盛岡高等農林学校本館。大正元年(1912)竣工。校長室や事務室、会議室、講堂などがあった。
戦後岩手大学ができたときは、大学本部になった。

明治政府は、富国強兵、食糧増産をめざしたが、明治半ばまで農業分野の高等教育機関は札幌農学校と帝大農科大学しかなかった。そこで農業技術者、農業教員と中堅技術官吏の育成を目的として全国に官立の農業専門学校を計画する。

1902年 (明治35年)創立の盛岡高等農林は、東北の振興という国内政策もあって最初に設置された。農学科、林学科、獣医学科の 3科ではじまり、後に農芸化学科、農業土木科が増設された。獣医学科は陸軍獣医の養成が大きな目的だった。

その後、鹿児島高等農林(1908)、上田蚕糸(1910、現信州大繊維学部)、東京高等蚕糸(1914、現東京農工大工学部)、京都高等蚕業学校(1914、現京都工芸繊維大)、鳥取、三重、宇都宮、岐阜、宮崎、千葉、と続く。
15:54
この旧本館は、1974年に現在地に移転し、1977年同窓生らの寄金により改修され、農業教育資料館として使われている。

宮沢賢治(1896-1933年9月21日)は、1915年トップ成績で入学、1918年卒業、引き続き1920年まで研究生として在籍していたからこの本館でも学んでいる。

その後、賢治は1921年、7か月ほど東京で暮らした後、故郷花巻の稗貫農学校(後の花巻農学校)教師となり、1926年まで務めた。
15:54
その宮沢賢治の記念像が本館前の池(北水池)のほとりにあった。畑で帽子をかぶりうつむいている有名な写真をモチーフにしたもの。
15:56
像の素材は安山岩だそうだ。
賢治は鉱物にも強い興味を示していた。
(化学同人の雑誌「化学」に、「『銀河鉄道の夜』の元素と鉱物の世界」(桜井弘)という連載記事があり、退職前に毎月読んでいた。)
とくに柱状節理や岩頸にもなる安山岩は賢治の作品にも出てくるため、この彫刻素材として選ばれたという。

15:56
人は全くおらず大学とは思えないが、温室が見えた。
ポランハウスというらしい。
賢治の作品に「ポランの広場」という童話があるようだが知らない。

15:58
何が育てられているのかな、と覗くとからっぽ。
「閉鎖中 新型コロナウィルス感染拡大防止のため当面の間利用できません」と書いてあった。教室はもう使っているのだから、ここは大して必要ない施設なのかな?

後で調べたら中にピアノがあるらしい。それにしても、高温多湿の温室にピアノって?
16:00
温室前の案内地図を見れば、梅太郎・賢治の碑があるようだ。
盛岡高等農林は最初の農業専門学校だったから、駒場(農学校→農林学校→帝大農学部)の卒業生が続々と盛岡に赴任してきた。農芸化学の鈴木梅太郎もその一人で、1906年2月、留学から帰国して盛岡に赴任、9月からは東大助教授と兼務した。賢治は彼の講義を聞いたようだ。

他にも自啓寮跡の碑がある。賢治も住んだ。
色々見るべきものはあるようだが、疲れていたし、暗くなってきたこともあり割愛。

地図のすぐ横にまた説明版があった。

もりおか啄木・賢治青春館で賢治の盛岡高等農林を見ようと思い、歩いて来たのだが、ここは思いがけず、啄木ともゆかりのある地だった。
16:00
啄木の妻、堀合節子の生家と古井戸。
1902年設立の高等農林の敷地は、もとは民有地で、節子の家もあった。節子(1886~1913)は士族の家に生まれ、ミッション系の盛岡女学校に進み、盛岡中学の啄木と相思相愛となり、結婚。しかし啄木死去の翌年、函館で亡くなった。27歳。
16:01
彼女の家は上田新小路11番地というところで、今の地図と合わせると温室の西あたり。2008年、写真をもとに井戸を復元したという。

森の中を西にいくと門に出て、よこに小さな古い小屋があった。
16:03
門番所。1903年築。重要文化財。
暗くなってきて写真の文字もピンボケ。
16:04
賢治も見上げただろう大木
16:04
岩手大学旧正門
ここで分からないのは、現在、農学部の南がわに「旧盛岡高等農林学校正門」という表札がかかっていること。調べるとここも当時正門だったような記事がある。

いずれにしろ、新制岩手大学になったときはここが正門だったのだろう。その後、北部に拡大するにつれ、キャンパスが開放的になり、正門どころか、門がなくなってしまったような感じだ。

16:05
高等農林の敷地は西側が崖になっていたようで(北上川の河岸段丘?)、岩手大学旧正門に至る道は、両側の民家を見下ろす堤になっている。高等農林時代、馬や荷車が歩きやすいようなスロープにしたのかもしれない。

再び岩手大学農学部のキャンパスに戻る。
16:08
農学部の生協食堂
この日は祝日だが、やはり大学見物はウィークデーが面白い。

16:08
食堂から南は資料館、博物館、植物園などがある保存地区、ここから北に講義棟などがあるようだ。
16:10
岩手大学農学部と言えば、工藤幸司さんを思い出す。
1991年、心循環部門の上司とうまくいかず、ちょうど大阪から中枢神経部門が移ってきたとき異動願いを出し、1992年から合流、工藤さんが上司となった。
彼は豪快な人で、趣味も広く、かわいがってもらった。独身であられたから、よく飲みに誘われ、休日に高尾山へ登ったこともあった。
ただ(細かいことは気にしないため)サイエンスが甘く、理屈っぽい薬理研の主流派からよく攻撃された。彼の美点の一番は、常に新薬を夢見て、思いついたアイデアを若者に語り、まわりの研究員のやる気を起こさせたところだろう。しかし、結局左遷のように、時限的に作った半官半民の研究機関(大阪)に出向させられた。

彼のすごいところは当時は誰も考えなかったアルツハイマー病の診断薬を目指し、アミロイドβに結合する化合物に到達したことだ。それが評価されたか、東北大加齢医学研究所の教授に招聘された。
今は70代後半、どうされているか。
16:11
農学部の学内掲示板に時間割が出ていた。
退職して薬学、生理学から離れて、シェア畑の栽培アドバイザーのアルバイトをし、スーパーの野菜売り場でも働き始めた。いま、私の興味は農業にある。現在の農学部はどんなことを学ぶのだろう、と思って見入ったが、趣味の農業とは程遠く、難しそうで研究生になる気は失せた。

16:12
みれば、掲示板のガラスの内側は昆虫の死骸でいっぱい。

16:13
掲示板の端はガラス戸が開いていた。虫が入るはずだ。
イーハトーブ基金とか、岩大100円朝食とかのお知らせが目に入った。

16:14
学内の木々のそばには「この樹木の名前は?」という問題を書いた板が立っている。ヒントとして特徴も併記されていて、いい教育だと思った。農学部を出たからには樹木、草花の名前を知っていたい。わざわざ勉強することでもないから、こうやって歩いているときに覚えれば一番良い。

農学部の中を北に歩いていると外に出た。
しかしよく見たら、広い道の向こうにまだ大学が続いている。
農学部は岩手大学の南のほんの一部だった。
16:19
岩手大学は1949年、盛岡師範学校(1876年設置)、盛岡高等農林学校(1902)、盛岡高等工業学校(1939)を統合してできた。旧一期校である。一期校というのは戦前の旧大学令で大学であった学校を前身としている大学と思っていたが、ここは例外のようだ。
(1919年に盛岡農科大学への昇格運動があったが)

暗くなってきて岩手大学を後にした。
16:34
夕顔瀬橋と北上川
雨は上がっていたが、岩手山の裾野が少しみえただけだった。

盛岡駅で18時に駒野宏人氏と待ち合わせ。
彼は岩手医大を退職したが盛岡を気に入ってまだ住んでいる。

会うやいなや、いきなり「老けたな~、やせたな~、大丈夫か? どこか悪いんじゃないか?」と正直に感想を言ってくれた。続けて「おれは若いだろう?」と自慢した。相変わらず明るい。

彼の車で雫石川をわたり、盛岡西バイパス、アメリカのように大きいイオンモールの向かい、焼肉ヤマトに入った。学生時代の思い出話もしながら、肉を焼き、最近の政府、マスコミのコロナ対策に対する怒りを語った。(私も彼もワクチン反対)
老けた老けたというので、ラテンダンスの動画をみせてやったら、予想外の動きだったらしく、ひどく感心された。

21:30 夜行バス盛岡駅発
2022‐11‐04 6:54
東京駅鍜治橋駐車場着
道路で降ろされるのではなく、ちゃんと待合室もあるような高速バス発着所ができていた。

7:00
線路の高架をくぐり丸の内側に出る。

KITTEビルの南の樹木のある広場のベンチに座り、リックの中から余っているパンとお菓子を出し、食べながら通勤している人々を眺めた。私は退職老人。

一泊四日(車中2泊)という、家族・友人、みんなに馬鹿にされた旅行が終わった。
2日間歩き続けた足の痛みは、窮屈な座席でも一晩座って癒えていた。
変な自信がついてしまった。
次はどこにしよう。

(完)

今回の旅行ブログ
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2022年11月27日日曜日

盛岡の原敬、賢治、啄木、石割桜

高速夜行バスで弘前に朝、到着。

弘前、青森、八戸を経て盛岡にやってきた。
(別ブログ)

盛岡城を見物し、本丸下の帯曲輪から内堀(鶴ヶ池)を渡って外曲輪に来た。
外曲輪は町と同じ高さで石垣はないが、ここも城址公園(岩手公園)の一部である。

木々の間に碑があった。
2022‐11‐03 14:50
宮沢賢治碑
賢治は37歳で死ぬ1か月前にここを詠んだ散文詩「岩手公園」を病床で清書し終えたという。彼は生前ほとんど無名に近く、死後草野心平らの紹介で世に出た。

「岩手公園」は読んだことがないが、国語の教科書にあった「永訣の朝」を思い出す。
妹トシが結核で死ぬ朝、彼女の願いでみぞれ雪をお椀に取ってきた賢治が、雪に混じっていた松の葉を、熱のあるトシの柔らかいほっぺたにツンと差したように思ったのだが、今読んだらそんな場面はなかった。

鶴が池の東の縁を通って大通りに出ると、その角(桜山神社の並びになる)にもりおか歴史文化館があった。この一帯は外曲輪でも内堀と中津川に挟まれて城に近く、喜庵氏、桜庭氏、毛馬内など、一門、重臣たちの屋敷が並んでいた。

歴史文化館の前に原敬の遺徳顕彰碑があった。
14:59
原は南部家の家老の家に生まれ、明治以後の南部家の家政にも助言を行った。分家の遠野南部家が破産の危機を迎えた際にも、その解決のために奔走した。盛岡にお城を含め、南部家の遺産が多く残されているのは、彼の貢献もあるかもしれない。

この顕彰碑は故人の功績を述べたものでなく、変わっていた。
大正6年の戊辰戦役50年祭での心境(日記を基に再現)を刻んである。 

盛岡にて戊辰殉
 難者の五十年祭を
 営みける時 祭文
 を求められ余は戊辰
 戦争は 政見の異
 同のみ 誰か朝廷
 に弓をひく者あらん
 やと言って その冤
 を雪けり

 焚く香の
  煙のみたれや
   秋の風
        敬

ここ、もりおか歴史文化館は、2006年に旧岩手県立図書館が駅西口に移転した後、増改築したものである。その県立図書館設立時に原敬は一万円(いまの1億円)を寄付したという。彼は完成(1922)の前年に東京駅で暗殺された。

もりおか歴史文化館は入らず、大通りの中の橋で中津川をわたると「プラザおでって」がある。意味は「おいでください」。ここの6階にある盛岡てがみ館は、啄木、賢治、野村胡堂らの手紙を展示している。この日は無料だったが、ここも入らなかった。疲れて面倒になっている。

盛岡城で石川啄木と宮沢賢治の記念碑を見たこともあり、プラザおでっての角を曲がり、啄木・賢治青春館に行ってみた。
15:08
もりおか啄木・賢治青春館
1910年竣工の第九十銀行を保存活用したもの。
入場無料であるが、充実していた。

15:15
啄木のほうが10歳年長。二人とも盛岡中学を出て、啄木は上京後、故郷渋民村、函館、釧路、東京小石川など転々と暮らし27歳で没。賢治は盛岡高等農林に進み、主にふるさと花巻で暮らし37歳で没した。二人とも結核だった。資料館の名前が「青春館」というのが悲しい。
宮沢賢治は雨にも負けずの詩人、童話作家というイメージがあるが、大先輩啄木の影響を受けたか、中学時代から短歌を作っている。

啄木が東京で暮らした下宿は文京区が多くブログにも書いた。

しかし、賢治も文京区と関係ある。1918年暮れ、東京に進学した妹のトシが雑司が谷の東大病院小石川分院(永楽病院)に入院したたとき看病で3か月ほど近くの旅館・雲台館に泊まった。1921年には家出、本郷菊坂町に下宿し、東大赤門前の謄写版印刷所・文信社に勤め、7か月ほど暮らしている。

雨の中歩き続け、疲れていた。
展示を見ずに記念館の椅子で座ってしまうほどだったが、雨でぐしゃぐしゃになった地図を見ていて、賢治の出た盛岡高等農林(岩手大学農学部)に行ってみようと思った。途中で石割桜もあるし。二度と盛岡に来ることはないから、老体に鞭打って立つ。

そうと決めたら啄木・賢治記念館では展示資料を見ずに(見るのは歩くのと同じ体力を使うから)、外に出て歩き始めた。

もりおか歴史文化館の前まで戻り、大通りを渡って鶴ヶ池の東をいく。
池(濠)の向こうに時鐘があったが、近くまで行く元気はない。

広い中央通りに出ると並木もある官庁街。
15:24
岩手県公会堂
1927年竣工、日比谷公会堂と同じ佐藤功一が設計した。
当初は岩手県議会議事堂としても使われた。

15:25
岩手県公会堂の前庭に原敬の胸像があった。

原は平民宰相とよく言われ、自称もした。
平民とは、美智子様の皇室入りのときに使われた言葉でもあり、皇族、華族の対の意味だと思っていた。明治以後、大名、公家だけではなく、薩長を中心とする政治家、軍人、実業家まで爵位を与えられ華族となった。戊辰戦争で賊軍とされ、あらゆる分野で薩長出身者に差をつけられた東北出身者として、原は藩閥政治家がお手盛りで侯爵とか伯爵とかになるのを軽蔑、苦々しく見ながら、自分はそんなものは必要としないと誓ったのだろう。
それまでの首相は、長州の伊藤、山県、桂、寺内、薩摩の黒田、松方、山本、それから佐賀の大隈、公家の西園寺、と9人とも華族であった。

今回、原について少し調べたら、盛岡藩家老の家に生まれながら、当時兵役から免除された戸主となるためか、結婚もしていない20歳のときに分籍して「平民」に編入されていた。昔はいろんな書類に士族、平民の区別を書いた。彼は後年、宿帳にも「岩手県平民」と大書して悦に入っていたという。二重の意味で平民だったのである。

岩手県公会堂の並びは県庁、県議会議事堂、つぎは盛岡地方裁判所。
この裁判所の前庭に石割桜があった。
15:29
樹高11.0メートル、 樹齢が350~400年といわれるエドヒガンザクラ
国の天然記念物
もちろん、根っこが巨石を割るわけはなく、最初からあった石の割れ目に種が落ちたのであろう。ではその割れ目はなぜできたか? ここは南部藩主の分家にあたる北監物の庭園であったといわれ、その庭にあった巨石が落雷をうけてできたという。本当かな?
14:52
ここに来る少し前、内堀(鶴ヶ池)の東岸、もりおか歴史文化館のうらを歩いているとき、向こう側の盛岡城(御台所)の岸に大きな石が転がっていて、きれいに割れていた。
もともとここらの石はきれいに割れやすいのかもしれない。

裁判所から北日本銀行本店をすぎ、日影門緑地の角で北に曲がった。
15:34
佐藤写真館(左)とライト写真館
いずれも「寫眞館」という文字が歴史的建物の壁に浮かんでいた。今は誰でも写真を撮れるが、カメラが珍しく一家で盛装して写真館に行った時代があったのである。裁判所から5分も離れていない一等地にこうしたものが残っているのが盛岡か。
15:42
岩手医大本町キャンパス
1897年(明治30年)開設された私立岩手病院の医学講習所を源流とする私立岩手医学校は1912年閉鎖。1928年創立の岩手医専が前身校といえる。2007年矢巾キャンパスができてから、順次移転、2019年に医学部、病院も移転を完了した。(裁判所の裏の附属病院は内丸メディカルセンターとして残した)
本町キャンパスは教養部だけ残っていたのだが、その移転も終わったようで、敷地内は空き地のようだった。(しかし一部の窓に明かりはあった)。

ずっと岩手大学農学部に向かって歩いてきた。
啄木賢治青春館から農学部まで 2.6km、33分。大した距離ではなかったが、それ以前に何時間もずっと歩いている。
タクシーはぜいたくとしても、「でんでんむし」とかいう市内循環バスや路線バスを使う距離であった。しかし調べるのが面倒になっていた。
歩けば公会堂、石割桜など見ながら盛岡の町をよく知ることができる、という理由で歩き始めたのだが、古い写真館のあとは、予想外の見どころに出くわすこともなく、ただまっすぐ広い道に、足、脚が痛くなってきた。

(続く)

ここまでのブログ

2022年11月25日金曜日

盛岡城の縄張り、明治以降の南部家当主

高速夜行バスで弘前に朝、到着。

弘前、青森、八戸を経て盛岡にやってきた。
(別ブログ)
一番の楽しみは盛岡城をみること。
しかし先に盛岡駅から東にまっすぐ、お城を横目で見ながら2.8km離れた岩手護国神社まで歩いて、お城まで戻ってきた。

まず地形も含めた新旧城下町の全体が見たい。
ちょうど大通りに面して立つお城の案内板に地図が載っていた。
2022‐11‐03 13:51
北上川は昔大きく蛇行し、盛岡城は中津川との中洲のような逆デルタの台地に作られた。
要害である。
唯一北側が開いていて、3重の濠を掘った。
一番内側がお城、その外が外曲輪(重臣が居住、今は県庁や裁判所がある)、遠曲輪(諸士や町人街、大泉寺あたりまで)とした。
「盛岡城址保存管理計画」(盛岡市平成24年)から
三重の濠の西が開いているのは、古北上川が流れていたからである。

現在の岩手公園の全体図があった。(南北は逆)
13:51
駅前から護国神社まで行く大通りは桜山神社の前を通ってお城の北部分を横断している。
本体から分離された部分は下曲輪。勘定所があった。

14:00
お城に背を向けて、鶴ヶ池(内堀)にかかる橋の上から下曲輪方向(北)をみる。
時鐘(ときがね)と岩手公会堂のてっぺんが見える。

下曲輪には時鐘のほかに商業地、飲食店などもある。
そちらは後で行くとして、南側のお城のほうに行く。
14:01
桜山神社と鶴ヶ池の間を行くと多目的広場にでる。
古絵図では御台所と書いてある。
石垣の上は三の丸
「盛岡城址保存管理計画」(盛岡市平成24年)から

14:05
台所から三の丸へ上る斜面で西をふりかえる。
見事な石垣の上は二の丸

14:07
三の丸から北側(桜山神社方面、瓦門、鳩門址)をみる。
14:08
西側
見事な石垣。昔はすぐ先を北上川が蛇行していた。

ここは信州川中島のような単なる二つ川の合流点ではなく、西から北上川、東から中津川が全山巨石のような花崗岩の塊にぶつかって跳ね返され、その南でようやく合わさったような地点だ。
八戸から出発し、広大な奥州を手に入れた南部氏が、領内でもっとも要害かつ城下町を作りやすい地として選んだのだろう。
14:15
三の丸から二の丸へ入る車門
江戸城のような見事な石垣
石材が豊富だと形もよい。

14:19
二の丸(左)と本丸を結ぶ渡雲橋(御廊下橋)

14:20 本丸跡
何もない。
木々の間に台形の墓か記念碑のようなものが見えた。
近づくと南部中尉の銅像跡。
戦時中に像を玉垣の鎖ともども供出し、台座だけ残ったらしい。
14:25
盛岡藩の最後の藩主南部利恭の嫡男、南部家42代当主(盛岡藩主家として16代目)南部利祥(1882‐1905、23歳没)は、日露戦争に従軍。翌年の井口嶺攻略戦に参加。ともに従軍していた皇族軍人竹田宮桓久王を守り、その盾となって戦死したと伝えらる。

父親が1903年に亡くなり、まさに当主だった。銅像は東条英教が建築委員長、原敬、田中舘愛橘、鹿島精一らが委員となり、五千人余の賛同を得て進めらた。

ちなみに、東条英教は盛岡藩お抱え能楽師の家系、東条英機の父である。
鹿島精一は旧盛岡藩士葛西晴寧の長男に生まれ、東京帝大土木学科を卒業、鹿島岩蔵の婿養子となり、37歳にして3代目鹿島組組長となった。
 現存する花崗岩の台座は、伊東忠太の意匠に基づいて、鹿島組が施工した。

雨の中、この説明版を一人見入っている白人がいた。日本語が読めるのだろうか。
私も海外の名所旧跡でちゃんと英語説明版を読んでいたのだが、久しぶりに海外出張した2012年のバルセロナで突然、読むのがしんどくなった。56歳だった。いまやスマホのネットで日本語の説明サイトが見られる時代、英語はまったく読まなくなってしまった。

さて、42代が戦死したため、弟の南部利淳(1884-1930)が南部家43代当主となったが、長男利貞が18歳で死去したため、一條實英を婿養子として迎え(利英と通字をいれて改名)44代、その三男南部利昭(1935-2009)が45代、44代の長男の息子南部利文(1970‐)が46代となっている。
鎌倉時代から同じ土地でずっと700年近く続く領主というのは島津、相良(肥後人吉)、相馬(陸奥浜通り)などとともに世界的にも珍しい。

江戸時代初めから10万石と言われたが、内高はそれ以上だった。江戸末期1808年には蝦夷地警備の功により、20万石への高直しが行われた。これは格式が高くなり経費がかさむばかりで領地加増を伴わないため、以後、盛岡藩の財政は新渡戸傳(新渡戸稲造の曽祖父)によって立ち直されるまで慢性的な赤字体質となった。

そもそも伊達家仙台藩62万石、改易前の最上家山形藩57万石と比べ、はるかに広大な領土を持ちながら10万石というのは、260年のうち80回も飢饉があったという、米の取れない冷涼な気候による。それを考えると、この壮大な城も領民から見れば残酷なものだったかもしれない。
14:29
本丸、南西の端。
見晴らしは良い。城下町から登りやすく、戦時には川に囲まれ遠くまで見渡せる。花崗岩の石材にも事欠かない。よくこんな理想的な地があったものだ。

14:31
本丸の発掘調査、天守のあったあたりである。
この旅行前に墨田区での発掘調査のアルバイトを見つけたけど、週5日だったので諦めたことを思い出す。

本丸から淡路丸に降りてみる。
14:33
淡路丸(腰曲輪の一部)
かつて桃山神社はここにあった。
淡路丸は桜が繁り桜山と呼ばれていたことから神社名となった。
いま全国ほとんどの城はソメイヨシノをいっぱいに植えているが、ここは年季が違う。

もちろんここも多数植えられている。
花の季節はどうなるのだろう? ベンチもゴミ箱もないが。
一列に並んだ本丸、二の丸、三の丸が一段と高く、そのまわりを腰曲輪、さらにその外を帯曲輪がまわっていて、これらが内堀に囲まれたお城を形成している。
内堀の外に外曲輪、遠曲輪とひろがり城下町を形成する。

14:36
淡路丸から南の中津川方面。
毘沙門橋ではなく下ノ橋のようだ。
ここはサケが遡上するというが、海はだいぶ遠い。
魚は全身筋肉とはいえ、もっと下流の宮城県あたりで産卵すれば楽なのに。

14:39
淡路丸から出て本丸と二の丸の間の渡雲橋を見上げる。

突然大音量で音楽が始まった。
右の多目的広場を見ると、三の丸に上がるときテントを張って準備していた若者たちだった。ロックフェスティバルでもあるのかな。

14:40
淡路丸を右に見上げながら帯曲輪へおりる。
石と石垣ばかり写してきたがほとんどの人は紅葉を撮っていた。私も初めて見上げると、紅葉は一様に起きるのではなく、枝の先端から始まることを発見した(写真)。

14:44
腰曲輪の外側、帯曲輪。
奥のほうに彦御蔵がある。
石垣の上は腰曲輪の淡路丸

改めて、関東以北では珍しい総石垣の城、東日本大地震でも無事だった石垣、よく残された縄張りの遺構。名城だと思った。

近年、観光客を呼ぼうと金沢、名古屋など当時の建造物を復元する城跡が多い。
ここは城跡にほとんど建造物がない。これほど石垣が立派だと下手なものは作れないし、また作らないほうが良い。
14:47
内堀(鶴が池)をわたり、重臣たちの屋敷があった外曲輪に出る。

内堀を駐車場や道路にせず、鶴ヶ池として保存している。さらに外曲輪も中津川のほとりまでお城と一体化した岩手公園にした。
岩手県は平均所得が低いというイメージがあるが、岩手県民、盛岡市民はお金で買えない大きな財産を持っている。そして手をかけ金をかけ、美しく保存、維持してきたということは、関東の諸県、諸都市より民度も高いと見た。
(続く)