2018年6月30日土曜日

千鳥ヶ淵2 道灌と江戸氏

朝晩ひとりゆっくり座れる通勤時間は、一日で最も好きなひととき。
しかし、最近は疲れてじっと目をつぶっていることが多かった。
久しぶりに読んだ本は家康以前の江戸について。

と言っても図を見ていたくらいだったが。

前回書いたように(→)、千鳥ヶ淵のもととなった局沢川は、本丸西を通っていた。
その川筋を利用して造ったのが、蓮池濠(下)。

1993-01-02一般参賀のあと、乾門まで歩いた時の写真。
2015年12月の一般参賀では、宮内庁前から本丸、東御苑の方に誘導され、ここには入れなくなっていた。
道灌濠 1993-01-02
西側の道灌濠も、この沢筋を利用したもの。

前回、千鳥ヶ淵と牛が淵について、飲料水確保のために堰き止めたものと書いたが、それを信じない人もいるだろう。
なぜなら、皇居の中で最も広い幅、高い土手、石垣を持ち、もっとも防御用の堀に見えるからだ。
しかし下の図を見れば、確かに淵だったと納得する。
「江戸はこうして造られた」鈴木理生(2000)

天正18年(1590)8月1日、家康入府。
甲州から入った先発隊8000人だけでも寒村、江戸の収容能力をはるかに超え、日を追って東海5か国から家臣団と家族が流入した。彼らの飲み水確保が最優先だった。
上図を見ると、たしかに2つの淵は小さく、防御用の「濠」ではなく飲み水用の池である。

天正の工事のうち(上図)、本丸の東は道灌時代の濠を修復したものとすれば、徳川による江戸の建設は、濠や内郭(西の丸、北の丸)といった城郭部分よりも、二つの淵と、平川の付け替え、道三掘の掘削といった都市整備が優先された。
(平川付け替えは将来の日比谷入江の埋め立てのため)
戦国時代が終わり、戦闘のための城よりも城下町建設の方が大事だったのだろう。

千代田区史(1960)を図書館から借りてきた。
昭和31年から編集をはじめ、3冊合わせると3000頁を超える大著。
家康以前の江戸(イコール千代田区)について、区史の概念を変えるほど詳しい。

区史にあった中世の江戸図。
これも鈴木理生氏の作った図らしいが、平川が日比谷入江に入らず江戸前島を横断している。彼は、これは間違いと後で訂正しているが、紅葉山の周りの沢が描いてあって、築城前の地形がよくわかる。

江戸城と言えば太田道灌が有名だが、それ以前この地にいたのは江戸氏である。

整理すれば、
桓武平氏で関東の武士団になったのが、三浦氏・土肥氏・秩父氏・千葉氏など。
平安時代、前九年、後三年の役のころ。

秩父氏から別れたのが
畠山、河越、高山、江戸、豊島氏。(平安末期)
すなわち、秩父氏の当主・秩父重綱(出羽権守)の四男、重継が江戸郷を相続、江戸四郎を称して江戸氏を興し、桜田の高台に居館を構えた。

桜田の高台とは、桜田郷(平川の南)の大地のどれかであろうが、水陸の交通の要地、田安台地の先端、のちの江戸城本丸、二の丸あたりであろう。

1180、頼朝が石橋山で破れ、上総から巻き返し、旧利根川(江戸川、入間川など)を渡るとき、江戸氏(重継の子、重長。江戸太郎八か国の大福長者と称された)の存在は大きな障害となった。同族葛西氏などの調停で江戸重長は頼朝に従うが、1192、鎌倉幕府成立後、江戸氏は急速に衰えた。それでもその支族(木多見、丸子、六郷、渋谷、中野、阿佐ヶ谷、金杉、小日向、蒲田氏など)は、小豪族として15世紀戦国時代の初めまで江戸周辺で存続した。

1336年室町幕府成立。
幕府は鎌倉に関東管領を置いた。足利尊氏の四男、基氏が初代である。管領の補佐役(執事)が上杉氏。
(のちに関東管領は鎌倉公方と称し、上杉氏が関東管領と呼ばれる)。

上杉氏はもともと丹波の豪族であったが、1252年、鎌倉将軍6代目として宗尊親王が下向、この将軍の介錯人として上杉重房が同道した。
丹波で重房と主従関係にあった太田資国も関東に移住。
そのご、上杉氏の娘が足利貞氏と結婚、尊氏を生んだため、上杉は関東武士の中で一躍重きをなすようになる。足利時代に管領職を世襲した理由である。
土着の開墾地主である関東武士に比べ、上方出身という貴族的出自も影響しただろう。

太田氏は上杉氏の家臣であるから、関東が古河公方陣営の東側と関東管領陣営の西側に分断されたとき(→ブログ政氏館跡)、鎌倉側(幕府側)として、古河公方側と戦った。
1457年、道灌が前線基地として江戸に城を築く。江戸氏の時は館であったから、初めての城である。江戸氏が頼朝の抵抗勢力として吾妻鏡に現れてから277年後になる。

築城から30年、1486、道灌は主の上杉定正に謀殺される。
いっぽう、道灌と同い年と言われる北条早雲が力を伸ばし、上杉家は関東から駆逐された。
1524、江戸城は早雲の子、氏綱に占領され、本丸には富永氏、二の丸に遠山氏、城内の香月亭には道灌の孫、太田資高が住んだ。富永、遠山の子孫は家康入府まで城主を務めた。

・・・・・

天皇がいて本当に良かった。
皇居でなければ、ほかの城と同じように、(いや東京だから、それら以上に)堀を埋め石垣を撤去して、駐車場、道路や省庁のビルを造っただろう。森や濠より、体育館や区民センター、美術館がいい、と選挙民は言い、政治家と業者は喜ぶ。
皇居の存在が地下鉄や高速道路の建設の邪魔になっている、と昔、誰かが書いていた。

2018-06-30
豊作ナス、初物モロッコ


2018年6月27日水曜日

ナス、キャベツ収穫

昨夜は大宮22:06発、帰宅、夕食が23時すぎ。
やっと朝6:30におきる。作業なし、収穫だけ。
2018-06-27
ナスが同時にこれだけ取れることなど、めったにない。
今年の2,3,4つ目である。
例年3本ほど植えるのだが、日当たりが悪いのか肥料不足なのか、木が大きくならず、最盛期でも、3本分合わせて3日に1つずつ程度(→)。妻は「キウリ1本なら使えるけど、ナス1つだけあっても使いようがない」とよくいう。
キャベツはナメクジに食われて穴だらけ。
 同時に赤いトマトも収穫できたらブログ映えしたのだが。

初めて作ったモロッコがなってきた。
葉っぱが非常に少ない。
農家のものを見たことがないから、これが普通なのかよくわからない。
これならもっと密に植えればよかった。

問題は手の届かないところまで蔓が伸びてしまったこと。
よりによって脚立が使えない場所。

鈴なりというが、こういう鈴は、ふつうない。

枝豆(大豆)はほとんど発芽せず、黒豆だけ育っている。
昨年は収穫寸前にヒョウで全滅した(→)

落花生。猫に掘られないように板とかご。

トウモロコシ、強風で傾く。

今年は長野からもらってきた化学肥料を少し入れた。
気のせいか、葉が大きい。

キャベツはヨトウムシとの戦いだった。
大食漢だから一匹でも穴だらけにする。
5月から6月上旬まで、毎晩懐中電灯もって見回った。
いたらネットの下から手を突っ込んで捕まえる。
パジャマの袖に土が付く。雨の日は泥がついた。
6~8匹くらい捕まえたかな。
今はいない。
その代わりナメクジが這って食べている。
この日も収穫したらぬるっとした。

2018年6月23日土曜日

新しい東京駅広場

2018年6月22日 17:40 東京駅に来た。
普段はなかなか来ない。
一般参賀、東御苑、パレスホテルくらいかな。
最後に来たのはいつだったか、2016年3月に三菱ケミカルHDパレスビルに来ているけど、そのあとは?
(八重洲口のほうならダンスの練習場があるので、たまに来た)

上野東京ラインで来たせいか、いつもと違う丸の内中央口から出た。
中央口という名前とは反対に、非常に小さい。

外に出てびっくり。
広場になっている!!

外国人がいっぱい。

梅雨の中休み。夕陽が逆光。

奥は普段よく出る丸の内北口。

下の写真は丸の内中央口でなく、正式な東京駅中央口。
車寄せのある皇室、国賓専用。

左右のドームはフレームに入らず。

巨大な駅ビルではなく、建築当時に復元した。
高層にしてテナントをいっぱい入れれば、建設費が賄えるだけでなく、将来にわたってJRも儲かったのに、素晴らしい。
こうでなくっちゃ。
だって、日本の中心、東京の中心の駅、皇居と向き合う駅だもの。

そのかわり駅上空の空中権を周辺に売った。周りのビルは規制より容積率が高くなったというが、圧迫感はない。

開業は1914年(大正3年)12月20日。
北のターミナル上野駅開業が1884年(明治17年)6月だからだいぶ遅い。
南からは新橋どまり、
西からの列車は飯田橋まで、
東からは鉄橋建設がネックになり両国どまりだった。
それぞれ中央まで行ければ便利だけど、ターミナルは折り返し番線がいるから、場所をとる。全部が建て込んでいる中央に進出するのは不可能。それで新橋と上野を高架線路で結び、その間に1,2駅作ろうとした。
その一つを永楽町に造って(→)、計画を変更、
新橋までの東海道線を延伸、皇居の正面、首都の玄関にしたのが東京駅。

計画、建設段階では中央停車場という駅名だった。
そうだろう、上野、新橋、飯田橋もみんな東京なのだから。
外国もそうだ。グランドセントラル駅とか、ユニオン駅とか。決してニューヨークとかワシントンDC駅とは言わない。
しかし中央集権、東海道重視の発想。

ちなみに東京 - 上野間が開通、それまで「の」の字運転だった山手線の環状運転が始まったのが11年後の1925年(大正14年)。

さて、広場を横切って丸ビル側にわたる。
どうせなら、この車道も地下に入れて、駅を出たら行幸通り遊歩道、皇居まで全部つなげてしまえばいいのに。ワシントンDCのモールのようになったのではなかろうか。

地下はすでに地下鉄などいろんなものができていて、車道を埋めることは不可能だったのかもしれない。
いっそのこと車道など廃止にしてもよかったのでは? 駅前で南北の通行など不要、タクシー乗り場を2つ作ればいい話だ。

いま、Googleをみたら、駅前広場ができる前の写真だった。

そうそう、前回来たときは丸の内口を出ると工事中のフェンスがあった。この写真を見てもフェンスの中に工事用の資材が置かれている。
Google mapには撮影日も入れてくれればいいのに。
今調べたら広場の完成は2017年12月。
7日の完成式典には両陛下も臨席され、首相が祝辞を述べたとのこと。

修復前の駅舎はネットにいろいろある。
『千代田区史』(1960)を見たら東京駅があった。
戦災で大破、ドーム部分を台形に、3階建てを2階にしている。資材のない時代の応急処置だったというが、やはり建設時より安っぽくなっている。

・・・

この日は、ファルマシア編集委員の人たちと、F先生名大特任教授退官記念の食事会。
丸ビル35Fのイタリアレストラン。
エレベーターを降りたところに展望台があり、
眼下に、馬場先濠、日比谷濠。奥に桜田濠と警視庁が見えた。
ドラマの警視庁は下から見上げて大きいが、いまや、他のビルと比べて小さいほうだ。

2018年6月18日月曜日

千鳥ヶ淵と牛が淵

6月10日、競技ダンスの日本インター大会を見に武道館へ来た。
南北線飯田橋から歩いて、靖国神社前の歩道橋を上がる。
2018-06-10

田安門の前から西側の千鳥ヶ淵を見る。
ボートはいない。雨だから少ないというより一隻もいないから雨天休業であろう。

こちらは反対側の牛が淵。
千鳥ヶ淵より水位は低い。

左の昭和館のとなり、中央に九段会館が見える(→)
昭和9(1934)竣工。かつては一番高かったのにずいぶん小さく見える。
東日本大震災以来閉鎖されたていたが、昨年2017年9月、東急不動産が落札、購入した。地上17階建て(高さ約75m)の複合ビルに建て替え、2022年に開業するという。
何でもかんでも壊して高層化して良いのだろうか。これが日本人の標準的な考えだとすると、残念である。

維持、すなわち耐震補強に金がかかる、とか理由はあるかもしれないが、そのくらいの金はあるだろう。あれが倒れるほどの地震なら、首都のビル、家々は軒並み倒れる。
昭和館の中身を九段会館にうつして、変なデザインの昭和館を売却すれば良かったのではないか?

北の丸公園の南、旧近衛師団司令部の前を通って代官町通り沿いの土手を歩く。
戦時中の高射砲の台座がある。

その堤から見た千鳥ヶ淵。
なんでこんなところに高速道路を作ったのか。
この貴重な景観遺産はこれ以上悪化させてはならない。
それにしても広い。まるでダムだ。
よく考えれば千鳥ヶ淵は、桜田濠、日比谷濠などの堀や濠ではなく、淵である。
淵というのは掘ったのではなく、川をせき止めたもの。

では、どういう川だったか?
江戸城築城前の地形はどうだったか?


(国土地理院HPから)
神田山(駿河台)から続く、銀座の陸地と西部丘陵(皇居)の間に平川(日本橋川)と日比谷入江の跡が見える。

千鳥ヶ淵に流れ込んでいた川は、上の地形からは千鳥ヶ淵戦没者墓苑の南に2筋、北(靖国神社の南)に一筋あったことが分かる。これらの川はどこに流れていたか。

西の丸は吹上御所と同じく、四谷から麹町に来る大地(甲州街道から半蔵門に来る尾根)とつながっていた。一方、北の丸は靖国神社の大地とつながり、本丸に伸びていたことが分かっている。すなわち、千鳥ヶ淵を作った川(局沢川)は、北の丸の南を通って本丸の西、乾濠、蓮池濠、宮内庁の前を通って日比谷入江に流れ込んでいたらしい。
代官町通りの高速道路を掘るときに、地下16メートルの深さに谷川の跡(竹やぶや木立が生えていた)が発見されたという(千鳥ヶ淵を巡る歴史と特性について - 環境省)。

一方、牛が淵は難しい。
前述、環境省の解説文には、日本橋川(平川)の河岸段丘と武蔵野台地東麓部の湧水線との間の低地に水をためたという。
これは千鳥ヶ淵のような川ではないだろう。
そもそも、日本橋川と近接、並行して、清水門のあたりで堰き止められるような川は、地形的にありえない。この地域で川は1本で十分であろう。
しかし等高線の地図を見れば確かに、日本橋川の西岸は少し高くなっているようにも見え、この河岸段丘の西に、北の丸など西の台地から湧き出る湧水を貯めることはできる。

家康入府当初、神田山(現駿河台)あたりの家臣団のために、飲料水確保のための小さなダムをつくった(このとき北東防御の堀は日本橋川1本だった?)。そしてのちに防御を二重とするため深く広く掘ったのかもしれない。つまり「淵」の名前が付いた後に掘った? 
そして濠にしては少なすぎる水は、水量抱負な千鳥ヶ淵から田安門の下を通して回せばよい。一橋家の屋敷などがあった地帯が日本橋川と牛が淵に挟まれ、異常に狭い説明はこれでつく。

今も田安門に入る橋の下には水門があって千鳥ヶ淵の水を牛が淵に落とせるようになっている。そうでなければ、大水のときに高速道路が浸水する。

たしかに等高線を見れば、近接した二地点、つまり内陸の谷であった千鳥ヶ淵と、海(日比谷入江)に面した牛が淵の標高はかなり違う。

このことは、田端から上野に続く尾根の、両側の低地の関係に似ている。
つまり、西日暮里駅の切通し(ガード下)からみると、西の不忍通りの谷(根津)より、京浜東北線の東がうんと低いことが分かるのである。

話しがそれたが、局沢川の存在は、江戸築城以前が分かって面白い。
太田道灌は今の江戸城本丸、二の丸あたりに築城したという。これは西の局沢川と東の平川に挟まれ、靖国神社の方から伸びる台地の先端である。南は日比谷入江である。
本丸、二の丸の北を掘削し、濠とすれば四方が水の、防御に適した城になる。

しかし、これではいかにも徳川将軍家の城として狭い。


(Goo辞書「江戸城門」から拝借)

幕府は西側、今の西の丸、吹上の台地に巨大な城を造った。
こちらは四谷から伸びてくる別の台地である。そして吹上の西に千鳥ヶ淵と半蔵濠をつくって内堀とした。つまり新旧二つの城を結合したことになる。

局沢川の跡は本丸の西側の堀となり、西の丸と吹上の間の堀(道灌濠。なぜこの名前?)、新たな半蔵濠などの内堀、外堀、と4重の堀で、西からの攻撃を防ごうとしている。

東の海側に町人、西(麹町、番町)に家臣団を配置したのも、西からの攻撃を最も警戒したのだろう。


千駄木菜園 総目次

2018年6月10日日曜日

北の丸・武道館と近衛師団

6月10日、第39回日本インターナショナルダンス選手権大会を見に、武道館に行った。
田安門はいつ来ても大きくて立派。
北の丸公園は、最近ダンスの大会を見によく来るが、散歩、花見、単なる通り抜けも含め、何回も来ている。清水門(→クリック)ではなく、ほとんどこの門から入る。

当たり前だが、田安家の屋敷があったから田安門になったわけではなく、田安門にあったから田安家と呼ばれたのである。

この巨大な門を最初にくぐったのは、1975年4月。
大学の入学式。誰も知り合いがおらず、長野高校の同級生、T倉氏と待ち合わせた。
親と一緒の新入生が多い中、我々は二人で巨大な城跡をうろうろし、彼は立派な石垣に興味を持ち、ブレザー、革靴でよじ登ろうとした。

2018年6月、ダンスのほうは、海外招待選手を含め、プロ、アマ国内最高選手が出る。
自由席のチケットをいただいたので見物に来た。
しかしずっと座っているのも疲れるので、ひとり抜け出して雨中の北の丸公園を歩いた。

北白川宮能久親王像
陸軍軍人として台湾遠征中に死去。

国立近代美術館工芸館は、旧近衛師団司令部。
ちょっと窮屈な場所にある。
北の丸公園の南の端で前庭が全然ない。

もともとこの場所にあったとは思えない。
移設したのだろうか。
しかしレンガ建築の移設は難しい。
建設 明治43年、
文化財指定 昭和47年。

ひょっとして、首都高を作るのに南の庭をつぶしてしまったのではないか?
そう考えて、昔の近衛師団の建物配置図を探したが、見つからない。

そうだ、便利なGoo地図があるではないか。
その昭和22年の航空写真をみたら、近衛歩兵連隊の兵舎まで全部写っている。空襲で焼けていないのは意外だった。連隊本体は外地に派遣されても皇居守護を任された精鋭の留守部隊なら、焼夷弾を落とされても、必死に鎮火しただろう。
下の方、千鳥ヶ淵の近く、今の近代美術館工芸館の場所に確かに司令部らしき建物が立っている。そして今の地図を重ねると、首都高が前の庭を削り取っている。

ひどい話である。
高度成長時代、高速道路の建設が第一で、日本橋をはじめ、江戸、東京で一番大事な景色をつぶしてしまった。
goo地図、昭和38年(1963)の航空写真には建設中の首都高がある。

まだ連隊兵舎は残っている。
いったい何に使っていたのだろう。

注目すべきは右側、清水門の近く。星形の外観が目立つ、科学技術館が見えることだ。
1961(昭36)年、皇宮警察職員宿舎跡地に建設が決定。1964年4月9日、竣工、4月12日に一般公開とあるから、まだ建設中だ。

1964年9月竣工の武道館はまだない。63年10月着工、昼夜問わずの突貫工事だったという。

この日、師団司令部の建物を見た後、千鳥ヶ淵南堤の遊歩道を歩く。
皇居を守るため設置されたB29迎撃用の高射砲台座は、化粧石を張り付けて、ベンチ代わりになっていた。
全部で7基。
撤去しなかったというのは、残そうという意思があったのだから、原型のまま保存して案内板もつけ、休憩用のベンチは別に作るべきであった。
この変わりようはあんまりだ。
これでは廃物利用で、記念にならない。
2018-06-10

武道館に戻ると、競技会は休憩時間。
一般観客にフロアを開放し、老若男女のダンスタイムになっていた。
戦争と平和。



総持寺、鶴見大学、鶴見事故

住んだのは東京から埼玉方面ばかりで、南のほうは用事がないと行かない。
梅雨に入ったというのに、都心で初の真夏日、
鶴見駅に初めて降りた。
2018-06-09
駅からすぐ。
ずいぶん立派な参道。

参道入り口の看板を見れば、三門、仏殿、太祖堂などより、体育館、2号館・歯学部、4号館、図書館などのほうが目立つ。
境内案内図というより、大学キャンパス案内図である。

鶴見大学歯学部を持つ学校法人は鶴見学園だと思っていたら、総持学園であった。
曹洞宗大本山である。

最初の門、三松関
総持寺は能登において永平寺と並ぶ曹洞宗の大本山であったが、1898(明治31年)火災で焼失。1911(明治44年)現在地に移転した。
門の名は、能登時代、龍の形をした三本の松があったことに由来。
横を見れば体育館

下校の高校生が上から歩いてくる。

こちらは学園部分を除いた境内図

明治時代に建てられたのだから、もともと古いものはないのだが、この山門(三門)は1969年落成の鉄筋コンクリート製。

平成救世観音。東日本大震災後に建てられた。

仏殿正面にまっすぐ続く参道だが、門(向唐門)は閉まっている。
菊の御紋があるのはなぜか?

総持寺は後醍醐天皇のとき勅願寺となったことから、勅使を迎える門をもっていたらしい。その名残か?

また仏殿の裏に御霊殿というものがあり、そこに後醍醐天皇の尊像、尊儀をはじめ、後村上天皇、後奈良天皇、後陽成天皇、明治天皇、大正天皇、昭和天皇の各ご尊儀が奉安されている。

この門が開くのは、どういう時か?
仁和寺とか、智積院は、朝のお勤めに僧たちが下から上がってくるとき、管長、貫主など偉い人は真ん中を歩き、一般僧は端を歩くようだが、ここは僧たちは横の侍局に寝泊まりし、太祖堂を通って仏殿に入るようだから、この門を通らない。

脇から回って向唐門をみる。
向かい唐門というのは、唐破風が正面と裏に見えるものをいうのであって、普通名詞のはずなのに、ここでは固有名詞のようになっている。

中雀門(向唐門の突き当り)の西、玉兎門から入る。

百間廊下
鶴見事故の時、ここに死者を仮安置した。
今でも土間部分に水で二本の線を引き、犠牲者を供養するという。

鶴見事故というのは、1963年(昭和38年)11月9日21時40分頃に鶴見駅付近で発生した列車脱線多重衝突事故。
貨物列車が貨物線で脱線、架線柱に衝突し、となりの東海道線上り線に入った。そこに上り列車が衝突、その車両がはじき出されて下り線にはいり、下り列車も突っ込んだ。死者161人の大惨事。

総持寺には、鶴見事故のほかに桜木町事故(1951年、焼死者106人・重軽傷者92人の列車火災事故)の慰霊碑もある。
仏殿前で上半身裸で日光浴をしている人がいる。
ずいぶん開かれたお寺だ。

仏殿。
木造なら鎌倉時代も明治時代も同じような古さに見える。


裏の墓は大きなものが多い。

石原裕次郎の墓。
表札が裕次郎というのはサービスしすぎだ。

良い子供の遊び場になっている。
約50万m2あり、横浜市鶴見区の広域避難場所の1つ。

6月9日、なんで総持寺に来たか?
叔父の意識不明が長引き、その状態に慣れてしまった我々が、叔父の子供のころ暮らした大森に行ってみようと思い立った。
大森というのは、彼の叔父、すなわち私の祖父の弟・友次郎が、シナノ薬品という会社を興した場所。
彼は子供がいなかったので、昭和7年生まれの叔父を養子として取った。
小学校途中で長野から上京した叔父は、戦時中、将来医者になるべく大森から雑司ケ谷の獨協中学に入ったが、既に戦争末期、勉強せず毎日墜落飛行機からボルトとナットを外して集めていたという。
大森の会社は大学病院に卸すほど大きかったが倒産。
叔父は上級学校に行かず時計、宝石の卸売り商になった。
大森は私の父が戦前、長野からきて小学生一人で毎日東京見物したとき拠点としたし、叔母たちもしばしば訪ねた場所である。

この日、長野の歴史散歩好きの私の弟と、横浜の叔母と3人で来たのだが、予想通り、当時のものは何もなく、番地通りの現地についた途端、(これも予想通りに)さてこれからどうしようかという状態になった。
大森は見るものが何もない。
79歳の叔母をつれて都心に行くのも大変。
行ったことのない名所をいろいろ考え、その中で彼女の帰る途中の鶴見・総持寺に来たのである。

田舎者の弟、一度も仕事をしたことのない叔母。
無計画で、まったく時間を気にしない二人と一緒に、久しぶりに仕事も叔父もダンスも家族も、すべてを忘れた一日であった。


千駄木菜園 総目次