2024年10月26日土曜日

山形12 酒田の北前船、米1石の意味

9月19日、山形県に来た。早朝から米沢、山形、新庄、鶴岡を見て、今回の最終地、酒田にきた。

本間家本邸を外から見たあと、だんだん暗くなってきたが、行くべきところが見つからない。
地図に日和山公園があった。
(日和見山のほうが正確だが日本語はこういうものだ。)
本間邸から1.1キロ。普段なら大したことがない距離だが疲れてきた。
しかし、ここに行けば、江戸時代に海を見て出航日を決めたように、酒田港が上から見えるはず。
酒田市役所の北を通り、西にひたすら歩く。
17:46
丘に向かう上り坂が見えた。
17:47
空き地の向こうに古い大きな家が残る。
あとで地図をみたら明治28年建築の料亭を利用した観光施設「山王くらぶ」の裏側だったようだ。
17:47
左の枝道。下り坂なので酒田港に行くのだろう。
17:48
日和山の坂下
かつては商店街だったのかどうか。
道路ものっぺらな舗装でない。
17:50
日枝神社
17:51
日和山は西が公園、東が日枝神社になっている。
日枝神社境内には光丘神社、光丘文庫がある。
本間家三代目の当主光丘(みつおか)は、学問を修めるため文庫を兼ねた寺院を建てようとした。宝暦8年(1758年)から40年近くにわたりお上に願い出たが、新寺建立の禁止政策により、果たせなかった。
はるか後世の大正時代になって八代目当主、光弥(みつや)は、光丘の遺志を継ぎ、先祖伝来の蔵書2万冊と建設費、及び維持基金として10万円を寄贈し、大正14年(1925年)に1925年光丘(ひかりがおか)文庫が開館した。

しかし、もう暗くなっていたので神社のほうには行かず、港が見える公園のほうに急いだ。

酒田は自然地形としての入り江はないため、港は最上川と並行する新井田川の河口にできた。信濃川河口の新潟港と同じである。
17:52
手前が酒田港、向こうが最上川
間にある石油タンクのようなものは、全国漁業協同組合連合会・酒田油槽所とあるから、漁船の燃料タンクだろうか。
17:53
日本海側に落日の明るさが残る酒田港
9月19日の酒田市の日の入りは17:43。
ちなみに日の出、日の入りというのは、太陽の上辺が水平線に一致した時刻である。(太陽が少しでも出始めたとき、完全に沈んだとき)
17:53
日本最古級といわれる木造の六角灯台(明治28年築)がみえる
17:53
こちらの方向、39キロ先に飛島(酒田市、2017年の住人210人)があるはずだがよく分からず。
17:56
公園は広い芝生の斜面もあり、いい感じ。
園内には酒田を訪れた文人墨客を紹介した29基もの文学碑があるらしいが、暗くて、疲れていたこともあり、一つも見なかった。
斜面の下には日本列島の岸と日本海をかたどった池が掘られ、北前船が浮かんでいた。
17:57
「河村瑞賢と湊町酒田の繁栄」
「千石船と西廻り航路」
この案内板を見るといろんなことを書きたくなる。

まず「港」と「湊」の違い。
港は水の部分をさし、湊は陸の部分をさす。つまり入港、港湾工事、不凍港に対し、湊町、三国湊である。森進一の歌は「湊町ブルース」のほうがよい。しかし湊は人名用漢字であり、常用漢字(1981年までは当用漢字といった)ではないことから、すべて港になってしまった。

それから千石船。
ここまで北前船と書いてきたが、北前は大阪など上方で北陸方面を指した言葉で、北陸では弁才船、千石船と呼ばれた。
千石とはどのくらいか?
1石=10斗=100升=1000合
いっぽう、1 俵=4 斗=400 合
だから一石は2.5俵。千石は2500俵になる。

だいたい1合(=180mL)は150gだから、一俵は60kg、一石は150kg(180リットル)と
なる。千石船は150トン載せられるということだ。

ちなみに日本人は老人、女子供も平均すれば、1日3合x365日、1年で1石食べる。(副食物がないともっと食べるが、足りない分は麦、粟、稗、芋などで補った。農作業に必要なカロリーは2石くらい必要らしい。日本陸軍の兵站は兵士一人、1日6合として計算した)
すなわち前田家100万石というのは加賀・能登・越中の大半を領して100万人養えたということだ。江戸時代、全国の米の取れ高は3000万石であり、人口も3000万人だった。もっとも、五公五民、藩によっては六公四民、農民は6割も年貢として取られたわけだから、不作のとき飢饉になるのは当然である。

江戸時代、武士の俸禄(給料)は米だった。
槍もちを従えたり馬に乗れたりする100石、200石取りというのはいいとして(五公五民なら半分が収入)、微禄なものは5人扶持というのがあった。一家5人が1年暮らせる米ということである。これは一人一日5合で計算した。一人当たり5合x354(旧暦)=1770合=1石7斗7升である。これはほぼ5俵に相当した。5人扶持なら25俵(約9石)で、これを12で割って毎月支給された。

また戦国時代、大名の動員兵力は1万石に対して250人と言われた。
関ヶ原でも石田三成・5,820人/19.4万石、小西行長・6,000/20.0、大谷吉継・1,500/5.0、井伊直政・3,600/12.0、福島正則・6,000/24.0、藤堂高虎・2,490/8.0 である。これは1万石の領民が1万人、うち男が5000人、15歳から25歳までが1000人、そのうち4分の1が足軽として戦場に出たとすれば辻褄が合う。

さて、西回り航路。
それまで例えば加賀から大阪に米を送るには(加賀藩は毎年7万石ほどを大阪で換金していた)、敦賀まで船、そこから馬で陸送して琵琶湖、淀川の水運を使ったが、運賃が高く米も傷んだ。そこで藩では寛永16年(1639)、下関を回り、大阪まで蔵米を運んだ。これが西回り航路の始まりである。

出羽の最上氏が改易された後、村山地方には北日本最大の天領があった。幕府はここの米を江戸まで運ぶよう河村瑞賢に命じた。彼は1671年、酒田から津軽海峡を周って仙台から南下し、(それまで危険な房総沖を避け、銚子で川船に荷を積み替えていたのを)一気に伊豆まで南下させ、風待ちして江戸に入るという東回り航路を開拓した。
翌1672年、彼は酒田から太平洋より穏やかな日本海を周って大阪に入り、さらに紀伊半島を周って江戸へいく西回り航路を確立した。距離は東回りの倍になったが、より安全であり、出羽の米は西回りが主流となった。

瑞賢は伊勢の貧農の子に生まれた。13歳で江戸に出て奉公しながら、お盆で川に流される野菜馬を拾って売ったりして金を貯めたり、明暦の大火では木曽福島の材木を買い占め、莫大な利益を得た。その後、幕府の公共事業を請け負うようになる。ほかにも全国各地で治水・灌漑・鉱山採掘・築港・開墾などの事業を実施。その功により晩年には旗本に加えられた。ここ日和山公園には瑞賢の銅像がある。

幕府米の輸送として開かれた西回り航路は、その後、国内の輸送に大きな役割を果たす。
北前船は1年に1航海で、3月下旬大阪をたち様々な商品(下り荷)を寄港地で売りながら5月下旬に蝦夷に到達した。上りは7月下旬に蝦夷を出発、イワシ(肥料)や各藩の米、もちろん最上の紅花なども積み、11月上旬、大阪に戻った。冬は海が荒れる。
17:57
縮尺1/2の復元模型「日和丸」
思ったより小さくてびっくりした。縦横高さが2分の1だから実物はこの8倍だが、それでも1000石すなわち2500俵も載るのだろうか?
1984年、高田屋嘉兵衛が所有していた北前船・辰悦丸が復元建造された。これは全長29m、幅9m、深さ3mで載貨重量が約225 t(1,500石)という。また、2005年に建造された「みちのく丸」は全長32m、幅8.5m、深さ3m、帆柱までの高さ28m、千石積み(150t)であった。ここ日和山公園の1/2模型は長さ10.6m、幅3.2mというから、まあ1000石載るのかな。
ちなみに京都伏見と淀川を結んでいた船は十石船、三十石船である。

・・・・
すっかり暗くなり、脚も疲れた。
もう見物はやめ、ゆったり座って夕食をとりたかった。
駅に戻る途中で何かあるだろう。
大きな病院があった。
18:11
道の両側が本間病院
あの本間家と関係あるのかどうか不明。

柳小路をこえ、アーケードの中町モールにも飲食店がない。
駅のほうに戻るため国道112号を北に行っても、灯りが少なくほとんど商店がない。
酒田の中心はどこなのだろう? 駅に向かって歩いているうちに何かあるだろう、と楽観していたが、驚くことに住宅ばかりでほとんど何もなかった。

駅のそばに定食屋があったが満席。
周りを探すが、小さな飲み屋が何軒か集合した長屋、スナックみたいなドアで中が見えない焼肉屋、駅前ロータリー角の居酒屋・大庄水産くらいしかない。
建物は二階建てですらなく平屋が多い。空き地も目立つ。これが人口9万の駅前だろうか。南の酒田南高校のほうは住宅地のように灯りすらない。
酒田は北前船の時代のように、JRの駅より港が中心なのだろうか。

ミライニにはいると二階にフレンチレストランがあったが、おしゃれなグループが食事するところのようで、ちょっと入りずらい。
疲れたので図書館でぶらぶらして、もう一度定食屋に行ったらガラガラに空いていた。

せっかく酒田に来たのだから新鮮な海産物を食べるべきだった。
山居倉庫の川沿い、湊のほうに飲食店があったのだろうか?

メニューに最上どりムネ肉チキンカツというのがあった。
19:47
チキンカツ定食 1000円

最上どりというのは、新庄を中心とする最上地方で餌の30%を米にして育てたブランドチキンらしい。他の鶏肉との味の違いは分からなかったが、とにかく大きかった。ご飯はお替り自由というが、それどころでなく、カツを平らげるだけで難儀した。

しかし、長い一日、置賜、村山のあと、最上を歩いたことなどすっかり遠い日のように忘れていたが、この最上どりで新庄城址や最上峡を思い出した。
食べながら朝からもらった山形各地の地図やパンフレットをリックから取り出した。
米沢、山形、新庄、鶴岡。よく歩いた。
そして酒田の地図をみたが繁華街はどこだか最後まで分からなかった。

・・・
おおた食堂の真ん前、ミライニ前の高速バス乗り場を20:40に出発、翌朝5:45、新宿についた。
人との会話はほとんどなかったが、山形の地形、市町村の場所、距離感に関してはなんとなくわかった。

(終わり)

2024年10月24日木曜日

山形11 酒田の山居倉庫と米券、大地主・本間家

9月19日、山形県に来た。早朝から米沢、山形、新庄、最上峡、鶴岡を見て、今回の最終地、酒田に向かう。

羽越線・酒田ゆきの列車は16:23に鶴岡を発車。
32分、510円。帰宅時の高校生たちと一緒になった。

16:30藤島
16:35西袋
16:39余目
16:43北余目
16:47砂越
16:50東酒田
16:55酒田、終点

列車は庄内平野を北に向かい、酒田市域に入って砂越(さごし)駅を過ぎると西に曲がる。
すると右(北)のかなたに独立峰が見えた。
16:48
秋田・山形にまたがる鳥海山。

1992年4月、夜行列車で目覚めたとき、冠雪に朝日が当たる大きな山をみた。神々しいほどに輝いていた。実際、古代からこの山は信仰の対象となっていて、頂上には大物忌神社という古社がある。
江戸時代、南北ふもとの信者、修験者などの頂上をめぐる争いが庄内藩(14万石)、矢島藩(1万石)を巻き込んだ。その結果、幕府の裁定で山頂は、藩の力関係からか庄内藩領となり、今も山形県である。
山頂が富士山本宮浅間大社(静岡)の所有でも、県境をあえて決めない富士山とは違う。

やがて列車は終点の酒田についた。
16:56
酒田駅ホームに北前船の模型があった。

庄内は豊かである。
広い水田地帯に加え、北前船により酒田には上方の文化が入り、また鶴岡藩の酒井公は徳川譜代の筆頭だったから江戸文化も入っただろう。

また、海に面していることもあり、庄内は米沢、山形、天童などの最上川流域の内陸盆地とは同じ県とは思えない。
さて、旅の最後、酒田では何をみるか。
駅前で考えるがどこに何があるか分からない。
17:00
JR酒田駅
周りに何もなく地方空港のようにすっきりしている。
駅舎は1960年建築らしく、1階に黒川屋という和菓子(土産)店があるだけで、飲食店などはない。二階は駅の事務室だろうか?

あまり利用者はいないように見える。2023年度の1日平均乗車人員は867人。実質、430人である。山形、鶴岡に次ぐ県内3位の9万5千人を擁するのに、みな車に乗っているのだろうか。

駅の利用者がいないことを反映しているか、駅前通りにほとんど店がない。しかし、帰宅後
グーグルストリートビューでこのあたりを2012年11月まで遡ると、なんと駅前通りは、歩道に屋根がついた立派な商店街だった。この10年、20年で寂れたことになる。実際、2000年の駅利用者は今の2.5倍の1日2213人だった。

駅前の角にはジャスコ酒田駅前店があったが、1997年売り上げ不振で撤退した。跡地の再開発は、事業会社の倒産や、いくたびもの計画見直しなど難航し、その間、土地は長らく駐車場などであったが、ようやく2022年7月、酒田駅前交流拠点施設ミライニがオープンした。
観光情報案内所が入っているようなので行ってみた。
17:01
酒田駅前交流拠点施設「ミライニ」

入って驚いたことに、市立中央図書館があり、低い仕切りで区切られた隣には高校生らがおしゃべりするテーブルや椅子もあった。
17:04
左:図書館、中・奥:フリースペース、右:観光案内所
フリースペースの向こうの外は、芝生のイベント広場になっている。
左奥はホテルのようだ。

ここの観光案内所でもらった地図で、近くの本間美術館という広い敷地が目に入った。
もう夕方、美術館は開いていないだろうが、本間家の屋敷が見られるかもしれないと行ってみた。
17:15 本間美術館
門は閉ざされ、何も見えなかった。あとで調べたら、ここは本間家の別荘で、1813年築の清遠閣は、庄内藩主や幕府要人を、明治以後は皇族や政府高官、文人墨客を接待する酒田の迎賓館の役割を果たし、1925年には摂政時代の昭和天皇の宿にもなったとか。庭園の鶴舞園は国の名勝に指定されている。

しかし何も見えないので、また行き先を考えねばならない。
時間はたっぷりあるが、疲れてもきた。
バスを使うのは面倒だし、準備不足で目的地もはっきりしない。タクシーを使うにも急いでいくべき場所もない。

酒田というと北前船と本間家しか知らない。
本間家旧本邸が南のほう、1.2キロにあるので歩いていく。途中何か面白いものがあるかもしれない。
17:22
このツタは東京の蔦と同じだろうか。
街はあまり活気がない。

歩いていた広い通りは県道42号で、そのまま真っすぐ行って酒田町奉行所跡の先に新井田川を新内橋でわたると、写真で見たことがある山居倉庫がある。しかし疲れていたこともあり、思い出さず、薄暮のなかで片手で地図をちらちら見るだけでは気づかなかった。
というか、あの倉庫が山居倉庫という名前であることを知らず、また、酒田を歩けば、ああいう景色に自然と当たるのではないかと楽観していた。

山居(さんきょ)倉庫は、明治26年(1893)、旧藩主・酒井家が全額出資して経営に当たった株式会社「酒田米穀取引所」の付属倉庫として建てられた。1939年に取引所は米穀配給統制法によって廃止されたが、倉庫は引き続き財団法人北斗会、庄内経済連(現JA全農山形)と所轄を移しながら使用されてきた。

現在ケヤキ並木の前に12棟が残り、1棟は1985年に庄内米歴史資料館、2棟が2004年に酒田市観光物産館「酒田夢の倶楽(くら)」として改装されたが、残りの9棟は現役の米蔵として使用されているらしい。
行ってみるべきだった。

酒田は北前船の寄港地として有名だが、もっというと庄内米の積出港として有名であった。経済が米を中心に動いていた江戸時代、最上川河口からすぐの新井田川沿いには庄内藩をはじめ最上川流域の諸藩の年貢米を納めた蔵が並んだ。

酒井家・庄内藩では、農政に力を注いだ。米の流通を円滑に行うため、酒井家の鶴岡入部から間もない寛永元年(1624)に、郡代・柴谷武右衛門が、「米券制度」を創始した。
すなわち、家臣の禄米(給与の米)を米券、米札(べいけん・べいさつ)で支給し、年貢米は酒田や鶴岡などの蔵に収納、いつでも米札を米に交換できるというものだった。
さらに米札は米の売買にも利用され、すなわち貨幣同様に扱われ、庄内藩の米札は大阪堂島など全国の市場に流通した。庄内藩は入庫米の検査や品質管理、俵詰めを徹底し、いまの南魚沼産コシヒカリなどのように、庄内米は高い評価を得た。

米券は明治以降、戦前まで使われ、山居倉庫では保管方法の改善にも努め(屋根は二重に、床はニガリを混ぜた塩で固めた)、その倉荷証券は日本一有名な米券になった。銀行の担保物件としても流通していたという。

・・・・
ようやく本間家旧本邸に到着。
庄内の本間家といえば、殿様の酒井公より有名であろう。
「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と謳われた。
17:34
本間家旧本邸

本間家は鎌倉時代の佐渡の守護代、佐渡本間家の分家である。
1672年、川村瑞賢が西廻り航路を開いた後、1689年、本間久右衛門が酒田で「新潟屋」の暖簾を掲げ商売を始め、その息子あるいは番頭といわれる本間原光を初代とする。以後、当主は代々「光」の字を名に入れ、財を成す。得た利益を元に土地を購入。田地を拡大していった。北前船交易の隆盛もあり三井家・住友家に劣らぬ大商家となり、東北の多くの大名家から借入の申し込みを受けその要請に応えた。
3代当主・本間光丘(みつおか)は、庄内藩の財政再建に取り組んだほか、防砂林の植林を進めた。今でも防砂林は酒田の航空写真で目立つ。

本間家の所有する田畑は最盛期には3000ヘクタールにもなり、山林をのぞいた平地では日本一の大地主となった。戦後GHQによる農地解放で1750ヘクタールあった農地はただ同然で売られ、本間家には4ヘクタールのみが残った。

3000ヘクタールというのは、100mx100m(=1ha)のグラウンドを3000個であるが、30平方キロ、つまり5キロx6キロメートルの方形に等しい。
山手線の内側の面積が63平方キロ、文京区の面積が11平方キロであることを思えばよい。本間家の土地は後楽園ドーム638個分と言われるが、文京区3つ分のほうが分かりやすい。
 
17:35
ここの本間家本邸は、もともと1768年、本間家3代当主・光丘が藩主酒井家のため、幕府巡見使(将軍の代替わりのときに諸国の大名の情勢調査のために派遣した役人のこと)のための宿舎として建てた。長屋門に平屋書院造り、二千石クラスの旗本の武家屋敷の格式を備えている。

その後拝領し、本間家代々の本邸として使用されたのち、戦後は1949年から1976年まで酒田市中央公民館、1982年からは観光施設として公開している。

酒田というと大火事があったことを思い出した。
新聞の写真を覚えている。子供のころの話かと思ったら、意外と新しく1976年だからもう東京に出てきていた。1960年以降としては最大で、一般人に犠牲者は出なかったが(消防長が一人殉職)、22.5ヘクタールが焼けた。
いま焼失地域を調べたら、火はこの本間家本邸のすぐ北まで迫っていた。公民館としての使用をやめたのも1976年である。

(まだ続く)

2024年10月19日土曜日

山形10 鶴岡の慶応生命科学研究所と致道館

9月19日、山形県に来た。早朝から米沢、山形、新庄の城跡、最上峡、そして庄内平野の鶴岡まで来て、この県の広さを実感した。

鶴岡では駅から鶴ケ岡城まで2キロほど歩いてきたが、鶴岡らしさ(あるのかどうか不明だが)というのを感じることができなかった。

しかしお城はいい。

15:30
本丸堀
15:32
本丸から二の丸に渡って大宝館を振り返る。

二の丸には県道47号が通っていて、西へ行くと大山街道に入る。尾浦城のあった羽前大山に至る。
15:37
その県道の南は芝生の斜面と低地。
沼のような百閒堀の名残であろう。百閒堀は二の丸堀の一部で、その南が三の丸だった。
(輪郭式平城だから三の丸はぐるりと二の丸を囲んでいる)

このあたりは明治の廃城後から堀と斜面だったのかと思ったら、1970年代の航空写真(国土地理院)をみれば、斜面に民家が並び、低地には野球場と屋外プールがあった(市民プールは室内に建て替えた)。つまり鶴岡市はそれらを片付けてこの芝生の景色を作ったことになる。

ふかふかの芝生を踏んで坂を下っていくと野球場跡に、百閒堀を一部復活させるような池と新しいビルがある。ビルの表札を見ると
15:35
慶応大学先端生命科学研究所(キャンパスセンター)
そうだ、鶴岡だった。

Institute for Advanced Biosciences, Keio Universityといって、略してIABという。
1999年、山形県、庄内地域市町村、慶應義塾の3者による協定締結式があり、
2001年、IABが竣工した。初代所長は慶応湘南藤沢キャンパスの環境情報学部・富田勝教授(1957年生まれ)。父親はあのシンセサイザーの冨田勲で、カーネギーメロン大学准教授時代はアサヒスーパードライのテレビCMに出演していた。

彼はもともと工学部数理工学科の出身で、言語処理や人工知能を専門とし、日本でもアメリカでも天才的な優れた業績をあげたが、1990年に帰国後、生命科学に関心を持つ。

彼は生命体(細胞)をコンピュータ上で仮想し、生きていること、つまり「自発的な状態の変化」、もっというと、たんぱく質の形の変換、酵素量、基質、生成物など各成分の量の変化、また環境に応じた速度定数の変化、すべてを微分方程式で書いた。もちろんこれらの量は相互に関連するから連立微分方程式となり、代数的には(紙と鉛筆では)解けない。しかしコンピュータでオイラー法を使って近似的には解ける。(解くというのは、任意の時点での各成分の量を求める、すなわち細胞の状態を求めること)

その結果得られた仮想細胞こそ、125の遺伝子を持ち、その遺伝子産物が生きているように機能するE-cellである(1997)。当初、私はそれほど関心なかった(内容もあまり知らなかった)。しかし、2001年、日本生理学会年会(京都、同志社大学)の特別講演を聴いて、初めて彼を生で見て、その斬新さ、可能性の大きさに衝撃を受けた。

そもそも生物学というのは形態、行動の比較、観察などから始まり、臓器、組織、細胞の形態、機能の研究、すなわち細かい方向に進んできた。分子生物学など細胞の中の成分研究は生物学の花形だった。しかしこれらは、丸ごとの生命体から、ミクロへミクロへと進み、各成分の精製分離を必要とした。ところが各分子はもはや化学の領域で生物ではない。そして細胞成分をすべてくまなく研究し、それを混ぜても生命はできない。20世紀の研究はミクロへ、純粋成分へと進んだ結果、生命から離れてしまったのである。

各成分は、適切な空間的、時間的分布をもって相互関連することで生命が生まれる。彼は各成分を集め、生きた細胞を再構築したのである。つまり各分子がシステムとして動き生命となるシステムバイオロジーを始めたのであった。

カーネギーメロン大学?のホワイトボードに数式を書きなぐり、英語で議論したあとビールを飲むテレビCMは好きではなかったが、この講演にはしびれた。
細胞外のグルコースを瞬間的に0にしたあと1秒後の細胞内ATP濃度など、実験では求められないことも計算で予測できる。

生命を理解するには、各成分を取り出して研究してもダメで、時々刻々と変わる細胞内の全成分をその時点での存在量を損なうことなく、システムとして理解するのが重要である。それがシステムバイオロジーである。彼の得意分野である情報(ドライ研究)から進めた成果がE-cellだったが、生の細胞をシステムとして実験台の上で調べるウェット研究も必要である。

折しも、多成分の生体試料が質量分析できるようになった(田中耕一、2002年ノーベル賞)。
遺伝子ゲノムは不変だが、そこからの転写物・transcripts(mRNA)、その産物であるタンパク質・troteins、タンパク質が生産、消失させる代謝物・metabolitesは時々刻々と変動し、それぞれの集合体、トランスクリプトーム、プロテオーム、メタボロームを丸ごと測定、研究するウェット研究の拠点として、彼が所長となったのが、ここ鶴岡のIABであった。

2003年には私も生理学・physiologyのシステムバイオロジー、フィジオ―ムの産学協同プロジェクト(リーダー、京大・野間昭典教授)にかかわることにもなり、仮想心筋細胞をコンピュータ上に作った。だから鶴岡IAB、富田勝、という文字はいつもネットで見ていた。

本来、富田は慶応の環境情報学部(湘南藤沢キャンパス)の教授だったし、理工学部は日吉だから、慶応のサテライトキャンパスを作って移るとしても、東海道線沿線の神奈川、静岡県あたりなら分かるが、なぜ山形県だったのか、不思議だった。
下のほうの郊外にIAB、メタボロームキャンパスがみえる。
知っている人もいないし、体力も時間もないので行かなかった。

この二の丸の外、百閒堀の後にできたビルは実験棟ではない。
実験棟(バイオラボ棟、メタボロームキャンパス)は鶴岡駅の北、徒歩20分の田んぼの真ん中にある。(IAB発のベンチャー、クモの糸の素材、スパイバーもある。)

航空写真を見ると、鶴岡市というのは羽越本線の北側、とくに青龍寺川の西には駅近にも関わらず農家と水田しかない。よほど土地の利用規制をきちんとやっていたのだろう。それがIABを誘致するにあたり、その田んぼの真ん中の土地を用意した。
誘致条件が良かったのかもしれない。
鶴岡のIABについて、よく「緑あふれる田園に囲まれた」という枕詞があったが、本当に田んぼの真ん中だった。ただし駅からは鶴ケ岡城よりずっと近い。

より広いバイオラボ棟、メタボロームキャンパスがあれば、駅から遠い、このキャンパスセンターの役割は何だろう? せいぜい、来客を城址など名所旧跡に案内したあとの休憩スペースとしか使わないのではないか?

2023年3月、富田所長は65歳の定年で退職された。

過去のブログ

東北公益文科大学(大学院)
慶応IABの建物と同じ棟に同居している。
ここもIABと同じく、1999年設置の庄内地域大学設立準備委員会が中心となり、2001年に山形県と庄内地方市町村が共同で創立した。本部(学部)は酒田。


午後の木の影が伸びた、芝生の坂を上がり県道に戻る。
15:40
数少ない石垣の遺構。
二の丸の東南にあった隅櫓の台のようだ。鶴ケ岡城は天守がなく、ここと本丸北西の二階二層の隅櫓が天守の代わりだった。

隅櫓跡の向かいが有名な藩校・致道館である。
二の丸堀の跡の道路を渡るので旧三の丸に入る。
15:42
致道館・表御門
ここは藩主が通る御成門だった。
受付に二人の職員がいるが、入場無料。
15:42
破却もされず、戦災にも会わず、当時の様子がよく残っていることから国指定史跡(全国で現在1905件)となった。
門は表御門の他に2つあり、生徒は東御門から、藩の重臣や教官は西御門から出入りした。門ではなく御門とするところに、学問、学校に対する尊敬心がみえる。

15:43
表御門を入ってすぐ左に聖廟
孔子と顔淵の聖画が掲げてある。
学ぶのは論語など儒学のテキストだったから、教育の源のようなものである。

講堂
致道館の「致」という文字が変だな、とじっと見ているうちに分からなくなった。
あまりうまくないけど藩主の筆だろうか。
致というのは致命傷、極致、一致など、到というのは到着、殺到、
どちらも至るだが、前者は概念的、後者は場所、時間などに使う。

当時のテキスト
論語、礼記、大学、孝教
儒教で最も重要な四書五経は、四書が『論語』『大学』『中庸』『孟子』、五経は『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』である。

致道館の由来は「君子学んで以て其の道を致す」から。
人々の手本となる君子は、学ぶことでその道を完成させる(道を極める)。
致道館の学制と教科内容
高校相当の年齢になっても中国の古典を読むだけというのは退屈だろう。もっとも自学自習で、古典に基づく作文の訓練にはなっただろう。

朝暘学校
明治9年竣工、同16年火災で焼失

致道館は明治6年(1873) に廃校となり、その後、鶴岡県庁舎、鶴岡警察署、朝暘学校、朝暘(ちょうよう)尋常小学校などに使われ、1951年に国の史跡に指定、1965年から保存修理がはじまり、1972年一般公開された。

こういうものを保存、公開していると、やはり市の品格が高くみえる。
水戸弘道館もよく保存されているが、鶴岡は入場無料なのが良い。私のように通りすがりの大して関心のない人も入ってみる気になる。
全国藩校一覧
数えなかったが、幕末で藩は292、藩校は250校程度とされる。

加賀金沢には6つも書いてある。一般に加賀藩は明倫堂(朱子学)、経武館(武術)の二つが有名だが、幕末には洋学の壮猶館などもできた。表にある金沢の中学東校、西校はこれら藩校が明治になって名を変えたものだから、この一覧表は注意を要する。

校名の多くは教科書だった四書五経からとったから同じ名前の藩校も多い。
藩校は天明年間(1781~)から急増し、医学、のちには算学、洋学、天文学なども教え、藩によっては総合大学の様相を呈するものも出てきた。
272校のうち、47校は明治維新の後に開校したものである。

15:48
論語の素読の声が聞こえたので誰かいるのかと思ったら、スピーカーがあった。

外に出ると、致道館敷地の隣に藩校とは対照的なデザインの建物。
15:49
荘銀タクト鶴岡(鶴岡市文化会館)
カブトガニのような、いや、鶴岡市域となった出羽三山をほうふつさせるような屋根。建築家ユニットSANAA(サナア)妹島和世氏の設計。

その向こうは鶴ケ岡城の外堀の役も果たした内川。
古地図を見れば、往時は内川の岸まで致道館だった。
武術稽古所さらには矢場や馬場まであったという。

ちなみに、これは鶴岡に本店を置く荘内銀行が寄付したわけではなく、命名権を取得しただけ。タクトは指揮者が振る棒のことだろう。

致道館は駆け足でざっと見ただけで退出した。
受付の窓口で、お礼を言いながら鶴ケ岡城の縄張りが分かるような地図はないかと尋ねた。すると女性が奥に行き、なにやら探して一枚持ってきてくださった。皆さん親切である。
三の丸は役所と侍町で、そこから外の町人地に出るには木戸があった。
町人地は三日町、十日町などの名がついている。

二の丸を通る県道に戻り、致道館の北側を東に向かった。
15:54
致道館、西御門

15:55
致道館の向かいは鶴岡市役所
古いものが残っている町なので、何か残せなかったか?

もともと鶴岡をじっくり見る時間も知識もなく、お城を見ればいいというつもりだったので、あとはただひたすら駅に向かって歩く。もちろん来るときとは違う道を。
15:57
鶴岡カトリック教会
1903年(明治36年)建築の天主堂を持つ。国の重要文化財。

15:59
鶴岡駅までの道はどこも広く、朝から見てきた米沢、山形、新庄と同様、城下町という雰囲気はない。
もっとも車社会の今、50年前の小柳ルミ子の「格子戸をくぐり抜け・・(私の城下町、1971)」のようなところは全国にないのかもしれない。

(まだ続く)

2024年10月16日水曜日

山形9 庄内藩と鶴ケ岡城、藤沢周平

9月19日、山形県に来た。早朝から米沢、山形、新庄の城跡と町をみたあと最上峡をJR代行バスで通って、余目から再び電車に乗り鶴岡に来た。

庄内は酒田と鶴岡の二つの市があり、北前船でにぎわった日本海の港町・酒田に対し、鶴岡は城下町であったから、もっと山が近い場所かと思った。しかし見渡す限り田んぼが広がる庄内平野の真ん中で、とても城を作るに適したところではない。

14:52
鶴岡駅
羽越本線の特急停車駅。
山形市に次ぐ県内第2の都市ながら駅の開業は1919年(大正8年)と内陸部(奥羽本線)と比べ割と遅い。
二階部分は、市内に多く残る明治時代の洋館をイメージして2014年にリニューアルされたもの。
14:52
駅前広場は広くない
鶴岡市は人口11万だが、面積が広い。2005年、温海町、朝日町、羽黒町などを吸収合併し、日本海側では新潟県に接し、内陸側では出羽三山も含み、東北でも一番大きい。市町村別でも全国10位である。(ベスト3はいずれも山岳地帯まで合併した高山、浜松、日光)

まず、庄内藩の鶴ケ岡城に行きたい。
駅から2キロくらい。
バスは調べるのが面倒だから、タクシーか徒歩だが、途中で何かを発見、感ずることを期待して歩くことにした。町の大きさも実感したいし。

歩く途中、商店街がない。
駅のすぐ近くに古い酒屋、工場のような建物があった。
14:57
JA全農山形・鶴岡倉庫
まだ細々と使われているようだが、移転、売却、再開発されるのでは?

15:05
突然農地があった。
大きな植木鉢にブドウの苗木が何十本も植わっていて、農事試験場のよう。
南に隣接する山形大学農学部の付属農園であろう。
15:07
その山形大学の敷地に入ってみる。
校舎に入る元気はなく素通り。

昨年行った岩手大学農学部、弘前大学などと比べると面白いものはない。
山形大学は戦前の山形高校、山形師範学校(以上山形市)、米沢工業専門学校、山形県立農林専門学校(鶴岡)が母体となったから、信州大学と同じタコ足キャンパスである。
15:11
南門(裏口?)から大学を出た。
駅を北端とする鶴岡市街
ずんずんと住宅街を南に歩く。
15:14
山形県立致道館中学校
ふつう小、中学校は市立で、高校から県立になるが、この旧藩校の名を冠した中学はふつうでない。
帰宅後調べたら、ここは中高一貫校で、2024年4月に開校したばかり。
女子高の鶴岡北高校と男子校の鶴岡南高校が合併し(少子化か?)、ここは北高の敷地。1897年(明治30年) 山形県西田川郡鶴岡高等女学校として創立、その校舎を使った中学校キャンパス。そして鶴ケ岡城のお堀に隣接する南高校が致道館高校のキャンパスとなった。

15:15
鶴岡市立荘内病院。521床。
1913年、東・西田川郡組合立荘内病院として開院。
1924年の鶴岡町の市制施行に伴い市立病院となった。
なお、庄は莊(荘)に対する俗字とされるが、江戸時代以降の文書では庄内が圧倒的に多く、荘内の使用は少ない。荘内銀行はもちろん庄内の銀行である(鶴岡に本店)。

15:17
荘内病院のはす向かい、日本キリスト教団鶴岡教会。
日本キリスト教団は、日本にある約1650教会・伝道所を傘下に置くプロテスタント系のキリスト教会の集まり。鶴岡市には荘内教会もある。
明治時代、信者に士族が多かったからか、城下町では古い教会がよくある。

徒歩28分で鶴ケ岡城の北東隅についた。
北に隣接して致道館高校があり、女子生徒がテニスの練習をしていた。
ここは先に述べたように鶴岡南高校のキャンパスで、明治21年(1888)西田川郡中学として創立した。1920年に鶴岡中学と改称、戦後に鶴岡一高、鶴岡高校、鶴岡南校と名を変えた。
卒業生に丸谷才一、藤沢周平、石原莞爾、大川周明、大井篤(海軍参謀、戦後に著作あり)などがいる。柏戸も在籍していた。テレビ中継で「山形県東田川郡櫛引町出身、伊勢ノ海部屋」という呼び出しが耳に残っている。

高校の前は道路を挟んで堀。
15:20
三の丸から見る二の丸の堀である。
東北地方の他の城と同様に、石垣はあまりなく大部分が土塁である。
15:22
輪郭式の平城である。
市名はツルオカ、本丸二の丸跡の公園も鶴岡(つるおか)公園という。
しかしお城は鶴ヶ岡城(つるがおかじょう)と言う。
15:22
橋を渡ると二の丸

ここに最初に城を築いたのは、鎌倉時代に地頭として封じられ土着した武藤大宝寺氏である。戦国時代にこの大宝寺城は焼かれ、大宝寺氏は本拠を西方の海に近い山城・尾浦城に移した。その後、上杉が庄内を掌握したときは尾浦城を支配の本拠とし、大宝寺城を支城とした。先にここは城を作るような場所ではないと書いたが、おそらく土豪の館として出発したからであろう。

関ヶ原の後、最上義光が庄内を含む57万石の大大名となると、庄内地方の尾浦城、大宝寺城、さらに酒田にあった東禅寺城を整備拡張した。1603年、整備が終わると酒田の浜に大亀が上がり、これを祝し東禅寺城を亀ヶ崎城と改称した。この時、亀ヶ崎に対応してし大宝寺城も鶴ヶ岡城と名を変え、また同時に尾浦城も大山城と改称された。

つまり鶴ケ岡城は鶴のいる岡ではなく、単に亀ケ崎の対だった。しかし平城なのになぜ岡か? たんに鶴ヶ城にすると会津若松城と一緒になるからというのはナシ。崎の対が岡だった。
15:23
本丸の堀も残っている。

1622年、最上氏がお家騒動で改易されると最上領は分割され、庄内には徳川四天王の筆頭といわれた酒井忠次の孫、酒井忠勝が信州松代10万石から14万石で移封された。佐竹、南部、伊達などの監視の役目もあっただろう。忠勝は、領内3つの城のうち鶴ケ岡城を本拠とし、大改修して城下を整備した。
15:24
本丸に入るとお城というよりどこかの城下町のよう。
左は宝物殿、右の塀は荘内神社。

15:26
荘内神社
祭神は以下の酒井家4人
初代忠次、二代家次、三代忠勝、九代忠徳、と書いてある。

しかし庄内藩の初代は忠勝である。
忠次は関ヶ原の前、慶長元年(1596年)に亡くなっており、庄内とは関係ないのになぜ初代か?
酒井氏は雅楽頭酒井氏と左衛門尉酒井氏の2系統がある。忠次は左衛門尉家の当主としても初代ではない(5代目)。初代というのは家康についたときを基準としたか。

なお、総武線浅草橋駅西口に左衛門橋がある。橋の北詰に庄内藩下屋敷があったことを、以前ブログに書いた。

また、祀られている九代藩主・酒井忠徳は、悪化した藩財政を再検するため豪商・本間光丘を登用して、9万両の借金全てを返還し、逆に1480両の蓄えを築くに至った。1783年の天明の大飢饉では餓死者を出さなかった。文化2年(1805)には藩校・致道館を創設した。

荘内神社は明治10年創建。
明治初期、廃城された跡に旧藩主家を祀る神社を作ることが流行した。
東北地方には特に多い気がする。鶴岡のほかに、八戸の三八城神社(南部分家)、盛岡の桜山神社(南部本家)、米沢の上杉神社、上ノ山の月岡神社(藤井松平家)、新庄の戸沢神社などだ。

荘内神社の前が藤沢周平記念館。
15:27
市立藤沢周平記念館
藤沢周平は2,3冊しか読んだことがない。人情を中心とした時代小説より、史実が順に次々と出てくる歴史小説のほうを好んで読んだからだ。しかし定年退職して時間があるから有名なものだけでも読んでみようかな。

彼は1927年、市街の南西、東田川郡黄金村大字高坂(1955年鶴岡市に編入)の農村部で生まれ、実家は農家だった。武士が出てくる作品が多いが士族だったわけではない。
15歳で国民学校高等科を卒業し、旧制鶴岡中学夜間部入学。昼間は印刷会社や村役場書記補として働いた。山形師範学校に進学すると校内の同人誌で小説を書き始める。1949年に卒業した後は鶴岡近辺の教員となるが、1951年肺結核となり休職。1952年に東京、東村山の篠田病院に入院した。

1957年退院するも郷里で教職の就職先が見つからず、練馬区に下宿して業界新聞に勤めた。しかし倒産が相次ぎ、数社を転々とした。その後、結婚、業界紙の記者となり、編集長になった。清瀬、東久留米と引っ越しながら小説も書き続け、1971年、ついに 『溟い海』がオール讀物新人賞を受賞。直木賞候補となり、1972年『暗殺の年輪』で第69回直木賞。1974年には日本食品経済社を退社して、本格的な作家生活に入った。
ペンネーム藤沢は、高坂の西にある地名。

1997年、肝不全のため国立国際医療センターで死去、69歳。
写真などから我々よりずいぶん上の世代だと思っていたが、いつの間にか私も彼の亡くなった年に近づいた。

藤沢記念館の前を素通りして、本丸から出ようとすると橋の手前に洋風建築物があった。
15:30
大宝館
大正天皇の即位を記念して建てられた。開館から戦前にかけては、主として物産陳列場として使われ、1951年から1985年までは市立図書館となった。現在は鶴岡ゆかりの人物資料館になっている。入場無料だったが入らなかった。

ところで鶴岡ゆかりの人物とは誰だろう。
さきほど旧制鶴岡中学(鶴岡南高校)出身者について述べた。
ほかにはYKKの加藤紘一(中学途中まで鶴岡)、高山樗牛、渡辺昇一(あの東北弁は鶴岡弁だったのか)、ウド鈴木ら。
鶴岡中学出身の丸谷、石原らを含めて、こうした人々の資料が展示されるのだろうか。

私が知っている鶴岡出身者は一人だけ。
田辺製薬の研究所時代に少しだけ重なった中西啓さん。長井出身の斎藤実氏、山形の飯野正光先生、東根の小山田英人氏に次ぐ、山形県人4人目である。
彼は学習院大学理学部出身で1992年に入社、天然物化学が専門だった。分野も建物も違ったし、そのうち組織替え、人事異動があったからほとんど話す機会がなかった。鶴岡出身と聞いても、こちらに知識がなかったし、当時は歴史にも大して興味がなかったから、庄内藩や鶴岡が話題になることはなく、わずかにだだちゃ豆という、どうでもいい話をしたことだけ思い出す。
今、彼はどうしているだろう?

(まだ続く)