2022年2月26日土曜日

私と薬学6 田辺製薬・薬理研とホパテ誘導体、GC-MS

1981年4月6日、田辺製薬入社式。
この年採用した新人は空前絶後の232人。
大学院17、大卒125、短大20、高校66、中学4。

当時は男女雇用機会均等法もなく、女子はそのまま配属され(短期の研修はあったのかな?)、大卒以上の男子は「紀北青年の家」で5日間の新入社員研修を受けた。そのあと大阪工場のとなり加島寮に滞在し、2か月近く工場実習をした。

5月末、関東に移動、大宮の独身寮に入る。
6月1日、埼玉県戸田市の東京工場に併設された薬理研究所に配属された。
1981-06-05

田辺製薬は本社が大阪、生産拠点は西日本にあったが、1937年世田谷区代田、梅ヶ丘駅近くに放射能化学研究所ができ、1941年それが東京研究所となる。
1958年埼玉県戸田橋近くに工場用地を取得、1960年に東京研究所が世田谷から移転してきた。
1964年には東京研究所を、有機化学研究所、生物研究所、発酵化学研究所に改組する。
1973年、生物研究所を廃止し、薬理研究所、RIセンター、安全性研究所(大阪)を新設した。

RIセンターは佐藤善重氏を中心に、放射性物質の生物学研究への応用としては国内最高レベルを誇った。そのため、皮肉にも、スモンキノホルム説を唱える東大白木教授らがキノホルムの脳内移行を調べたいという、敵方の実験を担当せねばならなかった。

その後、発酵化学研、RIセンター(代謝研)が廃止され、微生物研究所が新設された。
発酵研の廃止は、1975年から78年にかけてのどこかである。
廃止理由は、合成の有機研、薬効評価の薬理研が車の両輪になり、気管支拡張薬イノリン(トリメトキノール)、鎮咳薬アスベリン(チペピジン)、鎮痙薬セスデン(チメピジウム)、冠血管拡張薬ヘルベッサー(ジルチアゼム)など独創的医薬品を出したのに対し、新薬開発に貢献しなかったから、と聞いた。発酵研は奥田朝晴、鈴木真言、矢島毅彦ら、名の知られた研究者も多く、その分、基礎研究に過ぎたのだろうか。

さて、1981年私が入ったときの薬理研究所は
阿部久二前所長が専務で戸田にはいらっしゃらず、所長が清本昭夫、副所長・中島宏通氏であった。

阿部さんは昭和16年3月(この後は戦時下、繰り上げ卒業となっていく)東大薬学を出たあと海軍短期現役士官の薬剤官として戦艦日向に乗り込んだ。戦後、海軍の医官、薬剤官の親睦会である桜医会の役員としても活動された。田辺在職中は雲の上の人だったからお話しする機会もなかったが、引退されて久しい1995年、思い切って電話した。誰の紹介もなく、面識もなかったからしどろもどろに田辺の社員であること、海軍に興味を持っていることなどを受話器越しに伝えた。その結果、荻窪のご自宅にお邪魔してお話を伺うことができた。彼はのちに桜医会の会長となられたが、元医官でなく薬剤官がトップに立つとは異例のことである。

清本さんは私が入社して1年ほどで大阪の研究企画室に移られたから、ごく短期間であったが、よく若者にも声を掛けられた。堂々たる体躯で海外研究者とも渡り合い、一方で昼休みのバレーボールもどきの遊びにも加わって、カリスマ性のあるリーダーだった。月例報告会で、上司がホパテ誘導体研究の進捗が遅れているのはGC-MSの限界だと言い訳されたら、「ホパテはいま1日1億円くらい売れている。数千万円なら新しい装置を買いなさい」とその席で(予算も立てていなかったのに)ゴーサインを出されたのには驚いた。大阪では取締役となられたが応用生化研の千畑一郎氏とライバル関係だったのだろうか、苦労されたようである。力を発揮されずに途中退社されてしまった。

清本さんの後を継いだ中島さんは、阪大の助手から途中入社された学者肌の方だった。確か奥様が華岡青洲のご子孫だったとかで、青洲の使った手術道具をお持ちという話を聞いたことがある。粘菌の世界的研究者で学術雑誌の表紙を飾ったこともある。後年私が江橋・遠藤研に内地留学することになったとき挨拶に伺ったら研究計画を聞いて、「いやー、私が代わりに行きたいですねー」と羨ましがられた。

1981年の薬理研は
1部(部長 佐藤匡徳) 循環、呼吸、消化器、腎などの内臓疾患を対象
2部(竹山茂之)糖尿病、高脂血、血液、免疫・アレルギーなど生化学的疾患を対象
3部(針谷祥一)代謝など薬物の体内動態を調べる
4部(藤田哲雄?岡庭梓?)毒性、病理部門
敬称略
となっていて、私は第3部に配属された。

一般に薬理と言えば、薬効薬理だから、所内でも1部のことを薬理、2部は生化学、3部はADME、と通称で呼んでいた。
3部の主な業務は、1部2部で見つかった有望化合物の体内動態を明らかにすること。
重要な仕事であるが、受け身的な部門であることは否めない。

しかし有機研から東大江橋研、アメリカ留学を経て3部の主任研究員になられた大橋元明さんは、カルシウムとカルモジュリンに関わる新しい創薬を始めようとされていた。それはもちろんADMEの仕事ではない。部下の我々にも3部でしかできない技術(RIや分析など)を使って創薬を始めることをすすめられた。
チームリーダーの菅原さんはホパテのプロドラッグを探索されており、入社したばかりの私は彼の下で働くことになった。菅原さんも大橋さんも東北大理学部中西香爾研の出身である。

ホパテというのは商品名で、一般名はホパンテン酸hopantenic acidである。
この名前は、ビタミンの一つでもあるパントテン酸より炭素が一つ多いこと(homopantothenic acid)から来ている。スモン問題で倒産寸前までいった田辺製薬をヘルベッサーとともに救ったドル箱医薬品だった。

1978年に、軽い知恵遅れのこどもの言語障害やぼんやりを改善する薬として承認された。ところが、治療薬のなかった老人の認知症にも使われ始めると、大きな利益を生むようになった。私が入社した1981年で年商360億、1日1億円売れるという大型医薬品だった。

本来この化合物はγアミノ酪酸(GABA)の誘導体として、阪大小児科の西沢義人教授が考えた。GABAは1950年代に慶応生理学教室の林髞(はやし たかし)教授らによって哺乳類脳内で抑制性物質として働くことが示されていた。しかしGABAは神経伝達物質であるから、血中に入っても脳まではいかない。
そこで西沢は1957年、ビタミンであるパントテン酸がGABAより炭素が一つ小さいβアラニンとパント酸がアミド結合したものであることに着目し、GABAをパント酸に結合させた。すなわちGABAをパントテン酸に似た誘導体、すなわちホモパントテン酸にして、パントテン酸輸送体に乗せて脳に運ぼうとしたのである。

パントテン酸

ホパンテン酸

1964年から田辺製薬は西沢教授と共同研究を開始した。その結果、予想と異なりホパンテン酸は脳に入ってもGABAを遊離せず(プロテアーゼでアミド結合は切れず)、その脳神経系に対する作用メカニズムは全く謎となった。

とはいえ、ホパテの売り上げは伸びている。
(1983年2月には小児だけでなく成人脳卒中後遺症への適応も追加承認された)
そんな中、会社はさらに誘導体を作ろうとした。
すなわち、経口投与で血中、脳内のホパンテン酸濃度を高めようとした。

ホパンテン酸もパントテン酸も水溶性であるから、腸内の輸送体によって血中に入る。そこでプロドラッグを作りたい。すなわちホパンテン酸の2つのOHをアシル化、COOHをエステル化し、脂溶性を高め受動輸送で血中に入れることを計画した。血管内で加水分解されホパンテン酸に戻れば血中濃度が上がるだろう。ただしあまり脂溶性を高めてしまうと消化管で溶けなくなり吸収されない。

そこで様々な誘導体を合成してもらい、ラットに投与して脳内と血中のホパンテン酸濃度を定量した。測定はガスクロマトグラフィー(GC)で分離したあと質量分析計(MS)に導くGC-MSを使った。

内部標準物質としてパントテン酸を使ったが、もともとパントテン酸は血中にもあるし、GCにおける保持時間がホパンテン酸と異なり、検量線を書くと低濃度のホパンテン酸がうまく測れない。そこで重水素ラベルのホパンテン酸を合成し内部標準とした。これなら生体サンプルからMSに入るまで、全く同じ挙動を示す。
この時点で私が入社、プロジェクトに参加した。




d2ラベル体を標準物質に使う場合、マススペクトルのm/zでMとM+2のピークの高さを比較する。しかし検量線を書くと、やはり低濃度でずれてしまった。
低濃度では吸着の影響で低く出るのだと一般には考えられていた。
しかし日々の業務は単純だったから、頭が考えることを欲していて、なぜずれるか、考えてみた。






計算してみると、このずれは、ホパンテン酸の炭素に同位体、C-13が含まれ、これが2つ入ったものが内部標品のd2と重なるためであると予想した。直線だと思っているものは双曲線ではないか?
今ならパソコンで理論式をフィッティングさせることもできるだろうが、当時のGC-MSは直線に最小二乗法でフィッティングさせることしかできなかった。

そこで私は検量線を完全な直線とするため、完全に重ならないように重水素を6つ入れたホパンテン酸を内部標準物質とするべく、ラベル体の合成を試みた


その結果、d6-ホパンテン酸を標品に使うと、理論通りきれいな直線ができた。
今見ても見事である。

・誰も気が付かないところに問題点(テーマ)を探す
・仮説を立てる
・実験で証明する

私は研究者として最低限の資質はあったようだ。

・・・しかし何かが足りなかった。
まだ若かったせいもあるが、大局観というか、野心がなく、のちには指導者としての資質もなかった。

そもそも、検量線が直線にならなかったら、低濃度用と高濃度用の2本の検量線を作ればいい。高価な重水素ラベル体など必要ない。
もっと、ホパンテン酸の脳内結合たんぱく質を探索するとか、大きなテーマに向かうべきなのに、目の前の重箱をつついていた。

(続く)
次回は薬物代謝研究について


2022年2月25日金曜日

サツマイモは畑で冬越しできない~最終講演の翌朝


2021‐12‐19
霜柱という言葉が分かるような細長い氷が伸びている。
キャベツの苗が浮き上がってしまった。

この年の12月は寒かった。
この寒波でパプリカが葉の青いまま立ち枯れた。
アジサイも霜焼けだろうか、茶色になった。
2021‐12‐28 10:20
年末に来てさらに強い寒波。
北陸、北日本は記録的な大雪で交通が混乱。
東京も28日まで冬日(最低気温が氷点下)が3日続き、12月としては45年ぶりという。

ところがサツマイモが年末でも枯れなかった。
2021‐12‐28
サツマイモは南方の植物で、根(芋)でさえ屋外での越冬は無理と言われるほどだから、まだ生きているのは意外だった。
2021‐12‐28  10:17
朝氷点下になっても、日中の日差しで傷害が回復するのかもしれない。
ひょっとしたら常識は間違っていて春までもつのでは?と期待する。

しかし1月6日の積雪など、寒波は何度も襲来する。
2022‐01‐07

2022‐01‐15
さすがに葉っぱに緑の部分が少なくなってきて元気がない。
ビニールやガラス容器をかぶせて保護してみた。
2022‐01‐15
それでも結局枯れてしまった。
種芋は家の中で保管している。昨年発芽したので、今年も行けるだろう。

2022-02-16 
2月16日、モミジの切り株を掘る。
放置してシロアリが来たらいやだから。

朝9時過ぎから始めるも難航。
すこし掘ってはのこぎりで根を切り、さらに掘る。
途中であきらめかけた。
しかし鉄筋のビルを壊すとか、泳いで東京湾を渡るとか、絶対不可能というものでもなく、少しずつ掘ればいつかは掘り出せるという作業である。
何日かかってもいいと言い聞かせ続けた。

お隣さんから子供と父親の食事の声が聞こえた。
ずいぶん遅い朝食だな、と思った。
狭いところで変な格好で作業しているから腰が痛くなり、休憩、家に入ったら午後二時になっていた。作業がきついと空腹にもならない。

モミジは3年前の2019年2月15日に伐採した。
3年も経つと下のほうが腐っていて、のこぎりがなくても切れる根もある。
一時、人力では不可能と思われた株掘りも、意外とはかどる。

2022‐02‐16 15:03
日が陰り寒くなってきたころ、真下の最後の太い根が切れた。
しかし重くて取り出せない。
のこぎりで切るにも太すぎる。
暗くなってきて結局土に埋めてさらに腐るのを待つことにした。

2022‐02‐17
前日の穴掘りによる筋肉痛を感じながら庭を歩く。
ミカンは結局64個なった。味もまあまあ。
11月14日に最初の1つを食べて以来、部屋で何日保存できるか、木に生らして何日持つか、いつまでおいしく食べられるか観察していた。
ところがこの日、ふと見たら鳥が食べていた。
経日観察はあきらめて、最後の3つを収穫した。
相変わらず皮は厚かったが、うまかった。


2022‐02‐17
手前は大根3次。11月2日にまいたもの。やはり成長遅い。
大なる根になる前にトウがたってしまうかもしれない。
スナップエンドウは順調。

今年は白菜がよくない。
球を巻いたのは18個中3個だけ。
まあ、食べられることは食べられるが、開いてしまうと土が間に入るから人にあげられない。

2022‐02‐17
左はホウレンソウとレタス
右は玉ねぎを植えたが失敗

昨日、2月24日、退職に先だち学内で最終講義(特別講演)を行った。
オンラインであったから自室から配信するのだが、1時間ほど前に茅野先生が花束をもってきてくれた。田辺時代、循環から中枢に移るときは、希望して花束でなく鉢植えの花をもらった。スクリーニングセンターから退職するときは、これも希望して「城の作り方事典」など城郭の本2冊をもらった。今回は何も言わなかったら初めての花束となった。
職業人生の終わりらしくなった。
2022‐02‐25
今日は暖かい。
元気になってきたホウレンソウ(手前)を見ながら昨日の講演を反省する。
相変わらず雑談のようで、言い忘れた大事なことがいっぱいあって終わってから後悔した。原稿を作ればこういう失敗はないだろうが、面倒くさい。若い時から常に、発表したあと悔やんでいる。しかしそういう後悔もこれが最後となった。

退職まであと1か月あるのだが、最終講演が終わるとすっかり終わった気分になった。
庭も急に春になった気がする。
65歳からの出発。来月くらいには仕事を決めたいものだ。


別ブログ

2022年2月18日金曜日

伊奈町2、しろがね幼稚園、氷川神社から図書館、町役場

この3月で9年勤めた伊奈町の大学を定年退職する。

大宮から近いわりに埼玉県でも知らない人がいるほど小さな町だが、職業人生の最後を過ごした。そして、奇遇にも、33年前の1989年から7年間住んだところでもある。

4月からは千駄木で過ごす。(今もテレワークでそうだけど)
今度こそ、もう伊奈町に来ることもないだろう。
私にとって特別な町だから、2月8日、ニューシャトル志久駅でレンタサイクル「忠次号」を借りて懐かしい場所を回ってみた。

忠次号は初代関東郡代(当時は代官頭)、伊奈忠次にちなむ。
彼が伊奈町に陣屋をおき、長男忠政がつぐも34歳で死去、忠次の次男忠治が27歳で代官頭を継いだが、赤芝山(現川口市赤山)に陣屋を構えていたので、伊奈町の伊奈氏はほぼ忠次のみである。
2022‐02‐08 11:06
最初に行った中山住宅には、26年前まで住んでいた家、近所の家がそのまま残っていた。
(前のブログ)

11:15
住んでいた家から2分。佐藤さんちの前を過ぎるとすぐ小室小学校の裏門。
昔はフェンスもなく、校舎裏の空き地だったが、今は舗装されて教職員の駐車場になっていた。
家に遊びに来た人が野球好きなら、ここから入って校庭にいきキャッチボールをした。息子は0さいから7歳だったから、野球にはまだ早かった。
坂をあがって県道・蓮田鴻巣線に出る。鉄道のなかった伊奈町はこの街道に沿って発展した町で、学校や商店はすべてこの街道沿いにある。

11:16
小室小学校正門側からグラウンドを見る。
長女は3年、息子は2か月通った。

この県道を南に走る。
東北新幹線をくぐり、志久交差点をすぎる。
しばらく行くと左にのぞみ病院がみえた。
家族が予防接種など何回か行ったはず。ずいぶん大きくなっていた。

病院の先にしろがね小室幼稚園。
長女は2年間通ったが、息子は1年しか通わなかった。私の留学から帰ったとき、彼は小学校入学まで1年8か月あったのだが、保育料がもったいなかった。どうせ妻も次女も家にいるのだから、息子も家で遊ばせていた。しかし同年代の子供との接触も大事ということで、1年は通わせた。

しろがね幼稚園の先生はかわいい人ばかりだった。
これは明らかに面接で選んでいるなと思った。そのことを会社の先輩、臼木里志さんに話すと「そうなんだよ、みんな胸が大きいんだよ」とさらに発展して返ってきた。彼はものすごくまじめ、純粋な方で、おだやか、いつもにこにこしていらした。大宮栗橋線沿い、蓮田駅のほうのサンライズ伊奈マンションにいらしたが、私が伊奈町に来たときは浦和のご実家の近くに転居されていた。お子さんを通わせていたときの記憶がよほど鮮明だったらしい。

11:22 しろがね小室幼稚園
園庭の東側にかまぼこ型の建物ができていて、外からグラウンドは見えなくなった。
♪ しーろがねこむろようちえん、という園歌?を思い出した。

今回の散策はしろがね幼稚園を南端として、来た道を北に戻った。
途中、志久の交差点で東に曲がった。そのまま行けば左の田んぼの手前にスーパー(CGC?全日食?)があり、綾瀬川を渡って栗橋線手前にホームセンターがあった。

懐かしくなって向かう途中、ホームセンターのコメリができていた。
外にガーデニングコーナーがあったから見る。
不知火(デコポン)、イチジクの苗があった。いま千駄木菜園に植える場所はない。しかし東京に果樹の苗など売っていないし、もう伊奈町に来ることもないだろうと、記念に買った。
鉢植えでもいいや。

東へ行くのはやめて再び中央通りに戻って北上。
村中の細い道にポツンとある伊奈小室郵便局を見てくればよかった。

小室小学校をすぎると、志久駅からまっすぐ東に来る道が左からぶつかり、三つ角になっている。
11:54
忠次号の前かごから買った果樹の苗が見える。
この三つ角の交番は昔からあった。KOBANと大きく書かれてはいなかったが。
その南のミニストップもあった。
しかし右のラーメン屋一代元のところは山田うどんだった。

交番の北側から東に入ると氷川神社。
周りに家は増えたけれど、境内は全く変わっていなかった。
11:57
ここは子供たちのお宮参り、七五三など、何回も来た。
図書館の帰り道でもあったし。
(1993-05-13)
(12月生まれの次女のお食い初め、お宮参り。
100日目でなく、実際に歯が生えた時にやったのかな?)
鳥居の反対側から写した?

11:57
境内横の藤棚は30年前のまま
11:58
氷川神社裏に町立図書館がある。
このさきの蕎麦屋・松輝庵からは天丼、かつ丼の出前を何回か頼んだ。

12:01
休日、子どもたちを自転車に乗せて行けるところはここしかなかった。

12:07 ギガパール
かつてはCGCグループの「ショッピングひまわり」というスーパーだった。
2003年に撤退、大黒流通チェーンのスーパーになったらしい。
入ってみたが、普通の品ぞろえ、価格だった。

12:12
普段使っていたのはひまわりだったが、大通りの西側、マンションの裏にもコンビニのような小さなスーパーがあった。台湾料理店になっていたが、建て替えたようだ。

12:15
伊奈町唯一の商店街。
伊奈書店は閉店、看板を塗りつぶしてもうっすら見える。
鰻八は一度も入ったことがない。

12:17 伊奈町中心部。
左は伊奈中学。子供が行くことはなかったが、30年後、伊奈町いじめ問題調査委員会の委員長を委嘱され、伊奈中学の1件について何回か調査、話し合った。昔なら何の問題もないふざけたやりとりでも子どもの不登校と重なってしまった。
右は我が家のメインバンクだった埼玉りそな銀行。
その向こうの安楽亭は何回か入った。鷲宮にいた叔父、アメリカから一時帰国した森泰生夫妻とも焼き肉を食べた。

12:19
伊奈町役場。ここから留学したから転入、転出手続きが2回ずつあった。
むしろ役場に来たのは住んでいた時よりも30年後のいじめ問題の会議。
子ども大学で一緒になった職員の方と廊下でばったり会って楽しかった。

12:21
伊奈病院も、のぞみ病院同様大きくなっていた。
一度、夜熱を出した子供を自転車に乗せて連れてきた。
しかし普段は「昔は病院なんて行かなかったんだから、少し様子を見よう」という私。
妻もしぶしぶ従い、車がなかったこともあり、3人の子供はほとんど病院に行かず育ってくれた。

12:22
伊奈病院の前にある薬局。
医薬分業が進み、処方箋受付薬局になっていたが、昔は普通のドラッグストアで、粉ミルクや紙おむつを買いに来た。

12:22
伊奈病院と役場の間にある商店。
デイリーヤマザキになっていたが、昔は個人経営の小さなスーパーだった。

12:23
何という店だったか思い出せない。

伊奈病院からさらに東に行くと綾瀬川沿いの低地、田んぼが広がっている。
1995年6月、伊奈町が企画してくれた田植え体験プログラムに長女を連れて行った。
裸足の指の間から冷たい泥がにゅるりと出る感触は、中学以来、24年ぶりの経験だった。あれから27年経っても足指が覚えている。

その田んぼは見渡す限り北の水平線まで延々と広がっていて、ずっと行けば伊奈学園(1984年開校)、町制施行記念公園(1973)があった。
住んで3年目の1991年には伊奈学園の向こうに埼玉県民総合活動センター(けんかつ)が全面オープンした。宿泊研修もでき、1993年には天皇陛下が視察に来られるという伊奈町自慢の施設である。しかし町民個人としては併設図書館くらいしか利用価値がなかった。

伊奈学、けんかつの周りは県の住宅公社が宅地造成中だったが、低湿地だったため盛り土して何年も寝かせていた。道路だけはできていたから、妻はここで車の運転を練習した。アメリカで取った免許を国内免許に切り替えるためだった。

当時は大宮と浦和が合併しようとしていて、大宮は何とか新市の主導権を握ろうと、上尾と伊奈を抱き込み、地理的中心を北に持ってこようとしていた。
上尾との境にあった埼玉がんセンターと県かつ、名前が田舎っぽいニューシャトル以外何もなかった伊奈だが、ごみ処理施設など新市の施設を建てるだけの広い田んぼはあり、一気に存在感をみせた。そして与野を入れた5市町の頭文字をとったYOU And I プランのメンバーとなった(おそらく北部3市町が盛り上げたのだろう)
しかし、2001年の合併は浦和の抵抗でYOUだけとなり、伊奈町、上尾はさいたま市に入れなかった。

伊奈町から引っ越してから26年、最も変わったのは、田んぼの真ん中に住宅街ができた県かつ、伊奈学の周辺だろうが、この日は肌寒く、遠かったので行かなかった。

1990年に27,100人だった人口は、44,900人(2022年1月)と増えた。
しかし、この日、自転車で回ったところはほとんど昔と変わっておらず、眠ったような町だった。


2022年2月14日月曜日

伊奈町、中山住宅7年間と洪水

2022‐02‐08 
この3月で9年勤めた伊奈町の大学を定年退職。
コロナで自宅勤務が多く、この時期は講義もない。
だから11階から毎日見ていた景色も見納めに近い。

ただの景色ではない。
33年前、1989年から7年間住んだところでもある。
二重のお別れとすれば、ぜひもう一度、懐かしいところを見ておきたいと思った。

ニューシャトル志久駅にレンタサイクルがある。
ほこりにまみれて何台もあるが、聞けば前金500円、返却時に200円戻るという。
早速借りた。
2022‐02‐08 11:06
志久駅の周りはニューシャトルの他の駅と同じように、開業(1983年12月)から38年間、店が一つもない。利用客がいないからだ。それでも私が住んでいたころは1時間に2本だったが、今は6本に増えた。

1983年、東大宮の公団、尾山台団地の抽選が当たってしまい、大宮市北袋の独身寮を出た。
1984年、結婚、
1986年に長女が生まれた。
子どもが成長すれば小さな2DK(41平米)の団地は狭い。
時代はバブルの大波が東京から埼玉まで押し寄せていた。
家を探した。職場は戸田公園だが、大宮より南の京浜東北、埼京線は高くて手が出なかった。

当時の埼玉は、公団が分譲マンションを、東浦和、北鴻巣、東鷲宮、三郷早稲田で開発していた。
第一次、第二次、と半年に一度くらいずつ募集していたが、同じような間取りで1988年春に3300万円だったのが秋には3800万円になるような時代だった。
東鷲宮、三郷早稲田は申し込んだが抽選で外れ、町の不動産屋で中古住宅を探し始めた。川越線、高崎線、野田線など見に行った。

1989年1月、大宮駅から東へバス15分、大宮市南中野猿花で中古住宅を契約寸前までいった。しかし思いとどまり、2月、伊奈町小室字志久で築12年の中古、3300万円を契約、リフォームして7月2日、入居した。妻のおなかには3か月後に生まれる息子が入っていた。

11:09
毎日の通勤、休日に大宮に出るとき、KDDの森へのピクニック、
一人で、家族で、この道を行き来した。

伊奈町は蓮田と上尾の間にあって、1984年ニューシャトルができるまで鉄道がなかった。ニューシャトルも知名度が低く、そもそも人口が少なかったこともあり、埼玉の職場の人もこの町の存在を知らなかった。だからそのぶん土地も少し安かった。
駅から歩いて7分、走って4分。
いくら中古でも高崎線、宇都宮線沿線ではとても買えなかった。
11:10
左は古山さんのお宅。川が流れていたのだが、暗渠となり道が広がっている。
右は大日本インキの工場。工場は住民に気を使い、年に一回、夏祭りを開き住民を入れていた。そこで金魚すくいがあった。娘がしばらく飼っていたが、このままでは死んでしまうのでこの川で放した。「金魚さん、さようなら~」という娘の言葉を覚えている。
(1991-06-30)
2022年の写真の場所より少し先、古山さん宅の前あたり

11:11 中山住宅(南側)入り口
全く変わっていない。
左は沢田さんのお宅。娘さんが伊奈町役場に勤めていらした。
2019年、子ども大学で伊奈町の担当者と打ち合わせの時、再会した。
彼女は姓も変わっていたが、中山住宅の話から判明した。教育委員会生涯学習課の課長になられていた。
右は斎藤さんのお宅だった。1階は常にシャッターが下りており二階に住まわれていたが、今も全く様子が変わらない。
(1995年11月 次女の七五三)
左沢田さん宅、右斎藤さん宅

11:11
土地125平米、建物88平米(築12年)で3300万円
初めての家だからうれしくて、小さな庭を耕し、少し野菜を育てたりした。

(1991‐06‐30)

11:12
遊水池に高床式でたつ中山住宅自治会館

ここは1975年(昭和50)に中山材木店が分譲した住宅地で、全部で101軒とアパート7世帯があった。
引っ越してきて2年半たった1992年2月、自治会長の選挙があった。
25軒くらいずつ4班に分かれていて、この年は私のいる第4班から会長を出すことになっていた。
2月22日、夕食後の7時、各家から一人ずつ自治会館に集まった。
とにかく誰か決めなくてはいけないのだが、立候補者がいない。
司会はいたはずだが、おかしなことに誰もしゃべらないのである。

ほぼ全員が16年くらい住んでいる中で、私は何もわからない新参者であるから黙っていた。
しかし、さすがにしびれを切らし、「立候補がいないなら、くじ引きなり、推薦なり、しましょうよ」と口火を切った。
お隣の中村さんはご主人をなくされ、おとなしい奥さんと娘さん一人だったので、彼女に当たったら困るだろう。「どうしてもできない人は除外しましょう」と付け加え、各人できない理由を言ってもらうことにした。
そしたら「健康に自信がない」「日曜も忙しい」だの、みっともない言い訳ばかり。はては「娘が高校受験するので」と1年後の話をする人もいて呆れた。

結局全員を対象に、推薦することになった。
開票すると私にも1票か2票入っていた。私のことなど誰も知らないはずなのに、少ししゃべったから目立ってしまったのだろうか。会が始まってからみな黙っていた理由が分かった。
休憩をはさみ、上位5人だったか、1票でも入った5人だったか、長田、中津、小林、柳本、相田の5人で話し合いで決めることになり、別室に移動した。
しかしここでもみな黙っている。絶対やらないぞ、という執念みたいなものを感じた。
壁の時計を見ていて長針の動くのが分かるくらい、沈黙が長時間続き、12時近くになった。
とうとう根負けして、というか呆れ果て、「じゃ、私がやります」と言ってしまった。

深夜まで皆が待っている部屋に戻った後、一つ言わせてもらった。
すなわち、4年後の第4班からの会長選出は、一度やった人は除いてくじ引きとすることを提案し、21名中19名の賛成を得た。(推薦、投票が良いという反対者は1名だけだった)

会長になると、この自治会は非常に仲が良いことが分かった。
16年ほど前に同じ年代の人たちが一斉に入居した。当然同年代の子供たちも多く、一角にあった公園で運動会や夏祭りも行われたらしい。町内旅行も毎年ある。
その代わり自治会費が高かった。団地では毎月300円くらいだったのが、ここは1000円位したのではなかったか?
主な支出は慶弔金だった。慶弔だけでなく、敬老のお祝い、入院した時の見舞金、子供が成長しお祭りがなくなった代わりに成人式のお祝いも上げていた。

押し付けられたような会長だったので、自分好みに変えようと思った。
入院見舞金は年寄りが増え、もらわない人もいたので、廃止したい。成人式のお祝いも関係ない人がいるからやめたい。その分、自治会費を値下げして、役員の仕事を減らそうとした。
役員の中で、やはり新しく来た庄司さん(会計)などは私の味方だったが、古くからいらっしゃる原さん(副会長)は、伝統を守ろうとしっかりブレーキをかけてくださった。

仕事はいっぱいあった。
3月には定期総会があり引継ぎ。
全戸参加のどぶさらい、公園のくさとり、廃品回収、そして11月は恒例のバス旅行。大人57人、子ども28人で榛名山に行った。さらには火の用心の夜回り。子供会と合同の餅つき大会は自治会館の前の道路上でもち米をふかし、みんなで杵を持ち、参加者はそのまま大広間で大根おろしや黄な粉、餡子で食べた。
敬老会は従来、赤飯と金一封だったものを、家族全員で食べられるように大きなケーキを1軒1つ配ろうとしたかったが、どうなったか記憶にない。
さらには伊奈町本区の役員会議(公民館での飲み会)にでたり、南側にある工場からの悪臭問題で役場に行ったりした。

会館は無料で誰でも借りられ、小さな子供たちを連れたお母さんたちが昼食会やお茶会などもできた。
今まで大学、会社と付き合ってきた人々と全く違う人たちと触れ合うのも面白かった。

(1991年9月?)
家の前が遊水池で広々していたから気に入っていたのだが、土地が低いということでもあった。
1991年9月、台風が襲った。
会社で午後、実験を始めると家から電話があり、家に水が迫っているという。
慌てて帰ると途中(最初のほうの写真)古山さんちの手前から道路が水没している。
我が家にたどり着くと、水は床上までは来ていなかったが、畳が上がっていた。

妻は水が迫っているのを知らずパウンドケーキを焼いていたらしい。
消防の人たちが畳を上げに来てくれて初めて知ったという。
もう少し水が増えたら小室小学校に避難することになっていて、長女は小さなリックサックにケーキを入れてもらい楽しそうだった。

(1991年9月)
テレビを見ると、武蔵野線が不通、各地で浸水している。
私は、現地の人々を見ないかぎり(困っている人を想像しなければ)、異常気象のような非日常にわくわくしてしまうところがある。不謹慎なのだが、我が家がこうなっているなら少しわくわくしてもいいだろうと言い訳した。

やがて水は引き、小学校に行くことはなかった。
翌日はいい天気。不思議と気分は青空のようにさわやかだった。
中山住宅100軒のうち、床下浸水は6軒。
家を建ててから盛り土したのか、床下より庭のほうが高く、入った水は出ていかない。
このままだと家が傷んでしまうが、住宅内で工務店を営む猪狩さんが1万円で床をはがし、水を抜いてくれた。

田辺製薬戸田事業所500世帯はほとんど埼玉県だったが、床下浸水は我が家を入れて2軒。
労働組合がお見舞いとして小さなタオルをくれた。

11:13 住宅中心部から北側入口方面を見る

我が家の1軒おいて隣の清水さんの家は、二軒分の敷地で、蔵のような離れがあった。ある日、中に入れてもらうと書斎になっていて、万葉集の研究書を見せてくれ、「神田なら1万、2万するけど、5千円で買ったんだよ」と自慢された。
30年後の今回、前を通ると新しい家が3件建っていた。
11:14
住宅内を自転車で回り、わずか3分間後に南入り口に戻ってきた。
右側に沢田宅、斎藤宅がある。
左の手前はグラウンドになっていて、かつては夏祭り、子どもたちの野球、サッカーなどに使われていたのだろう。道路をはさんで奥は滑り台、ブランコ、鉄棒がある。
普通日のせいか誰もいなかった。

1996年6月、大宮の西、指扇のプラザに引っ越した。

2022年、最後の日々から26年も経ったのに建て替えも少なく、信じられないほど、ほとんど変わっていない。
このあと小室小学校、氷川神社、図書館、町役場、伊奈病院など回り、志久駅をへて大学に向かう道路に戻ってきた。
ゆるやかな坂を下りると左に、北から中山住宅に入っていく道がある。
12:30
最後にもう一度、中山住宅をみようと、北側入り口までいってみた。

右前方にあった中央保育所という町営保育園が更地となり、道の反対側にきむら伊奈保育園ができていた。
左はかつてブドウ畑だった。
植えてあった巨峰を見た父が、ここは夜の温度が高いから色がしっかりつかないだろう、といった。1989年、彼は59歳、私は33歳だった。
伊奈町の中山住宅は家族が3人から5人に増えた場所である。

レンタサイクル忠次号は300円で夜8時まで借りられる。
自転車のまま大学に戻った。

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