2017年7月24日月曜日

大豆の二期作(取った種をすぐにまく)

7月18日のヒョウで野菜は壊滅的な打撃を受けた。
大豆(枝豆)は全滅かと思ったが、1本1本起こして支柱を建てたら4日後の22日、残った葉っぱが成長し始めた。
このまま花が咲いて豆がなるだろうか?
全部抜いて片づけるべきだろうか?
春に早く蒔いたものは熟していて、あの嵐で地面に豆が散らばっていた。
それを拾ってまいてみる。

枝豆はもともと成長が速く、何回も楽しめるように、時期をずらしてまく。
だから今まいてもいいのだ。
問題は、採種したばかりの、冬を越さない豆が発芽するかどうかだ。
なぜなら熟して自然落下した豆が秋に発芽したら、種を残す前に冬になって全滅、大豆は子孫を残せなくなる。暖かい春まで待つ方が賢明だから、冬を越さないと発芽しないようにプログラムされている可能性がある。

だから発芽には低温処理が必要かもしれない。
そこで半分を低温処理のために冷蔵庫に入れ、半分をまいてみた。
20170724
すると4日後、見事に発芽した。発芽率は、9芽/11粒。
春より良い。もっとまいてみようかな。
しかし立ち直った豆の枝の付け根に薄紫の花が付いていた。
(大豆は白だからこれは黒豆だろうか)
これらをすべて抜いて、新しい苗を植えるのもちょっと気が引ける。
もう少し観察だな。


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東大4 本郷はビル建設をやめて歴史保存地区に

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東大は本郷も駒場も行くたびに建物が増えている。
7月20日、工事中の総合図書館に行った。

広場の東、写真左に見える建物は1987年ころ突然出来た。
昔、ここには藤棚があって、その下で付属看護学校の学生さんと話したことがある。
このビル以来、各所で建設ラッシュが始まった。

三四郎池の森と図書館の間を歩いて、弓道場の南から医学部本館前の広場を見る。
つい最近まで左の高層ビル(医学部、教育研究棟)も右の経済学部・研究科棟もなかった。つまり左の木立に半分隠れた医学部本館と、小さな医学部1号館(正面の低い建物)しかなかったのである。いかに景色が変わってしまったか分かるだろう。

なぜこんなに建物を建てるのだろう?
自治体・建設業者の癒着のようなものはないと思うのだが、ではなぜか?

ひとつは、学部間競争心ではなかろうか?
大学用地は学部によって所有権が決まっているわけではない。しかしすでにある建物は既得権で、その周辺は経済的排他水域のようになっており、他学部はあまり口を出しにくい。あいている場所があったら、隣の学部に建てられる前に建ててしまおう、という気持ちもあったのではないか?
(競争のない農学部も建物が増えたのは分からないが)

あるいは、お金がありすぎるのだろうか?

ビルの新築は好き勝手にして良いものではない。
建てるかどうかは学内の会議に諮るだろうから、根回しをする。
その例と思われるのは、ほぼ同時期におきた医学部と薬学部の新築である。
医学部の教育研究棟の敷地は薬学部と医学部一号館の間にあった。
医学部薬理学教室100周年記念冊子から。

熊谷先生、江橋先生の若いころ(昭和18年)だが、この場所はその後平成まで広々していた。

さて、ここに医学部が13階建てのビルを建てられたら薬学は困る。
そこで医学部は付属看護学校のテニスコートを薬学部に提供した。このコートはもともと薬学部の学生しか使っていなかったから、医学部としては何の痛みもない。コートの敷地と周辺の空き地(斜面林)を使って薬学は10階建てのビルを作った。

1か所建てるのに根回しで2か所の緑地がつぶれたのである。
このころから、どんな理由か知らないが、病院の南や、本郷通り沿い塀の内側もすっかり変わってしまった。

キャンパス計画大綱なるものもHPにある。
2017 構内図
建物を増やすたびに
キャンパスの品格がなくなっていく。

昔のキャンパスの図がでてきた。
1977

駒場から本郷に来た頃、竜岡門近くの本部棟と理学部5号館はなかった。
建物も3階建てが多かった。

1986 

山上会議所、薬学部周辺、病院南側などに注目。浅野キャンパスや農学部も余裕がある。
翌1987年、医学部薬理に出向したときは、図書館北側広場の東(前述の藤棚)に高床式のようなビルができた。しかしまだ少なかった。

1947
これを見ると、つい最近(少なくとも1986年)まで戦前とほとんど変わらなかったことが分かる。平成になって一気に破壊した罪は軽くない。

研究教育活動には建物が必要だというのはわかる。
しかし、いくらビルを建てても都心の限られた場所ではすぐに狭くなってしまう。
本郷は明治以来の日本の学問、文化の中心地として保存すべき歴史地区なのである。

純粋に研究スペースがほしいなら理系は柏に行くべきだろう。京大は桂、宇治に行った。文系は(そんなに場所が必要とは思えないが)臨海地区などを考えるべきだろう。
病院は小石川分院を手放すべきではなかった。ここを第2にして、第3病院を臨海地区につくり、本郷はそのまま、将来は教育施設にするべきだった。(小石川分院すなわち目白台地区は留学生の寮や交流拠点にすると聞いたが、豊島、向丘、白金にもあれば十分ではないか?)

そして本郷キャンパスは大々的に市民に開放し、緑に包まれた都民国民の生涯学習センターにする。
大学自体が明治以来130年の博物館となるのだ。貴重な文化財は、そのあった時代に近い景色でみるべきだ。

明治以来多数の学者が過ごした大学の建物、散策の木立ちには、国宝になっている城とか観光目的の世界遺産よりも、多くの物語が詰まっている。

大学移転など現実的でない、というなら、今ある遺産、環境をできるだけ保存する努力をするべきだ。空いているから建てよう、とは天下の東大の頭脳から出ると思えない。

医学部本館南、多くの人が通り過ぎる歩道脇。

関東大震災後に建てられた重厚な建造物も傷みが激しい。
中にいる教職員は慣れてしまって貴重な建物とは思わず、古くて不便としか感じないのだろう。補修もせずに朽ちてきたとき「老朽化で研究教育に支障をきたすため」と堂々と建て替えるとは、最高学府の人間として恥ずかしくないか?


サルファ剤、日本登場5・他国との比較

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日本で使われた初期の例は、1936年10月の福岡市宮城外科病院、高橋。
彼は翌年3月に東京医事新誌に報告、そのとき先例があると書いている。
その白木は1936年1月発表の論文にサルファ剤のことを書いていないから、日本で使われ始めたのは1936年前半だろうか?

では他の国はどうだったのだろう?

1936年7月、米ジョンズホプキンス大学のロング、ブリスがロンドン国際微生物学会でイギリスのコールブルックの講演を聞いた。サルファ剤の薬効に驚いて欧州旅行をキャンセルし、サルファ剤を準備しておくよう電報を打って急遽帰国した。
しかしアメリカでは入手が困難だった。
しかし、デュポンの研究室がスルファニルアミドを10グラム用意してくれた。めざましい薬効が権威あるJHUから発表されたことで、アメリカでも少しづつ評判が広まっていく。

『サルファ剤・忘れられた奇跡』から引用する。

アメリカでサルファ剤が採用されたのは、ヨーロッパより1、2年遅い。その大きな理由の一つは、アメリカ国内の医学雑誌に論文が出なかったことだ。FDRジュニアの事件以前、1935年、1936年を通して、プロントジルがヨーロッパで大きな成功を収め始めたころ、『アメリカ医師会雑誌(JAMA)』はプロントジル、あるいはサルファについて一言も述べていない。この雑誌のベルリン特派員の記事もない。スルファニルアミドという単語が『ニューイングランド医学雑誌』に初めて載ったのは1937年11月であった。当時の医学界の保守性をよく表している。医師たちは、あまりに多くの奇跡の薬について、あまりに多くの話を聞いてきた。夢の治療薬という触れ込みは、行商人の口上や専売薬の宣伝と同じだった。ヨーロッパからのニュースは、興味深いが信じられなかった。あまりにも良すぎて真実とは思えない。そして医学誌の編集者たちは無視することを選んだ。

NEJMの1937年11月というのは、東京医事新誌より遅い。
1936年に報告がないのというのも日本と同じである。
そして日米ともに、論文が出なくても1937年前半にはサルファ剤が作られた。
当時は動物実験も臨床試験も必要なかったから、薬を入手して治験、解析する論文よりも、合成即発売のほうが早いのは当然だった。


20170724 サルファ剤の日本登場5・英米との比較
20170722 サルファ剤の日本登場4・製薬メーカーの動き
20170721 サルファ剤の日本登場3・医師はいつ使い始めたか
20170720 サルファ剤の日本登場2・東京医事新誌
20170715 サルファ剤の日本登場・薬学雑誌

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2017年7月22日土曜日

生食用・谷中生姜を植えてみた



7月21日、葉ショウガが八百屋さんに売っていた。
きれいに洗ってあり、そのまま味噌をつけて生で食べるもの。


迷って買ったのは、植えてみようと思ったから。
若いころ谷中に住み、今また千駄木に来たからには、一度くらい谷中ショウガを育てなくてはいけない。
ホームセンターには苗がなかなかないので(季節がある)、このたまたま見つけた食卓直前のものを転用することにした。

最適地を探すため、包丁で7本に分け、日陰4か所に植えた。
きれいに洗われて細かい根や、外皮がはがされていることで、水分吸収は悪いだろう。蒸散を防ごうと葉っぱを減らしたから、根塊の成長は遅れると思う。

ミョウガと同じで日陰でも育つことがうれしいが、連作不可らしい。困った。

ネットで見ると「江戸時代、台東区谷中あたりが産地だったから」とあるが、違う。
台東区谷中は、下の切絵図でもわかる通り、東叡山寛永寺および塔頭、天王寺、三浦志摩守屋敷など、江戸時代から建て込んでいた。こんなところが産地になるわけがない。

山を東に降りたところ、荒川区日暮里あたり。
川の左に「金杉村」「下谷中ト云」「下日暮里と云」などと読める「田地」で栽培された。明治になってこの辺りは北豊島郡金杉村、谷中村、新堀村となり、山の上は下谷区の谷中○○町となった。


根岸谷中絵図尾張屋版(国会図書館)

明治11年内務省地図

本来生姜栽培は春に種芋を植え、秋に肥大した根塊を掘る。
お盆のころ、谷中の住職たちが檀家に葉ショウガを手土産でもっていったとか。

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東大3 図書館4つハシゴ



7月20日、調べもので東大に行った。
目的地は薬学図書か医図書だが、利用カードを更新しなくちゃならないので総合図書館へ。

ここは日曜も開いてるし、普通日は22:30まで居られるから便利なのだが、使ったことはない。

予想通り工事していてどこが入り口か分からない。


広場の東、写真左に見える建物は1987年ころ突然出来た。
ここには藤棚があって、その下で付属看護学校の学生さんと話したことがある。このビル以来、各所で建設ラッシュが始まった。(後述)

何年も前から地下書庫を作るのに大きく掘り返していたが、一部完成したのか、降りてみたら、ライブラリープラザなるものができていたが入り口ではなかった。

・・・・・だいぶ変わってしまった。
2013年に来たとき写真を3枚撮ったが(下)、もっと撮っておくべきだった。
2013-04-24
千駄木に引っ越して早速カードを作りに来たときである。
そのときもゲートなどできて狭苦しくなったと思ったものだが。

フェンスがあるから、2013年の時点で広場の工事が始まっているのが分かる。

2013-04-24

さて、2017年にもどる。
西側から入り、カードを更新した後、ついでに中をのぞいてみる。
工事期間中の臨時書庫や閲覧室が並び、全く昔の面影がない。

総合受付の女性は二人とも美人だった。しかし一人は感じが悪かった。
昔の図書館の間取りをきく変な老人に見えたのだろう。まあ、私も彼女の立場なら冷たくしてしまうかもしれない。
3階に上がってようやく昔の図書館の一部に出会った。
かつて、ここは開架書庫と学習室を兼ねた大部屋で、一日中ここで勉強していたこともあった。
最後は1987年、医学部薬理にいたときHodgkin-Huxley輪読会の準備をここでした。
当時の学習スペースはなくなり、すべて書架になった。
エアコンがなくて背の高い扇風機があるのだけは変わらない。

医学部1号館のあいた研究室が学習室になっているから、工事が終わればまた学習スペースに戻るのかもしれない。

3階閲覧室の東3分の2が工事中で、この黄色の壁の向こうが立ち入り禁止。
早く元に戻ってほしい。

岩波文庫は創刊90年という。


外に出て東に回る。結構傷んでいる。
でも図書館は古いほうがいい。
文化がずっと蓄積されているように見えるから。

図書館と三四郎池の間の通路の上にプレハブができている。

このあと薬学部の図書館に行った。
社史を調べて用件をすませた後、ふと昔の先生方の学位論文が見たくなった。
昔は学位論文も開架であったが、貴重なものだし、場所がなくなったこともあり、今は閉架になっている。

宇井先生

清水博先生


次に医学部図書館
ここで12時から14時過ぎまで昼食もとらずに古書のページをめくった。
この2枚だけ2017-06-23撮影
医学部は古い本をいっぱい持っている。

そういえば昔、医図書入口左側の部屋は島薗文庫と言って、千駄木の島薗家から寄贈された本が四方の壁に並んでいた。シンプルな机がいくつか並んでいて、たまに自習している人がいるくらいの静かな場所だった。
わたしはある日の午後、ここで美しいひと(学生?)が手紙を書いているのを見た。下書きもせず、便箋に、ゆったりとペンを運んでいたことを思い出す。
今ここは調査用PCが並び、PLENIUSという名前の部屋になってる。ローマの医学者ではなく、ラテン語で「より充実して」という意味らしい。


最後に経済学部図書館。
初めて入った。
塩野義の社史は薬学部ではなく、経済学部が持っていた。
昔は薬学も代々の教授の写真が飾ってあったのだけどね・・・。

サルファ剤、日本登場4・製薬会社

今まで見てきて、国産のサルファ剤としては、山之内製薬のゲリゾン、第一製薬のテラポールが早かったようだ。


山之内製薬50年史から

大阪本店のプロパー内藤豊春が、名古屋大学その他の病院から、いち早くこの情報をキャッチして東京に送った。渡辺順平、寺井靖らはただちに研究、試製を行い、一か月余りでこの合成に成功した。
 これに関し、安田徳太郎医学博士が「科学知識」第19巻第6号(昭和14年)に寄せた『化学療法の啓蒙』でこの経過を次のように説明している。

「(略)  日本では山之内がこのフランスの発表を土台に、いち早く製薬に取り掛かって”ゲリゾン”を発売した。(略)
日本におけるズルホンアミド剤の生産工程はどうであるか、化学療法に興味を持った私は、いち早く山之内の工場を見せてもらったが、私の紹介以来、いろんな団体がこの工場の参観に押し寄せている。(略)
日本で一番初めにズルホンアミド剤を作ったのが、製薬界では二流の山之内であり、おまけに作った技師が30歳そこそこの薬学士諸君であるのには感心した」

このエピソードに関連し、将棋の升田幸三九段が、「山内さんの思い出」として記事を寄せている。

「老舗の多い薬業界へ尾張の信長のように山内(健二)さんが敢然と戦いを挑んでいるような印象でした。」

昭和12 7月ゲリゾン発売 Guerisonは、フランス語で治癒という意味。
昭和13 9月アルバジル発売 albasilは、白albumのprontosilである。(ゲリゾンも白なんだけどね)。二基ズルフォン剤と言って、アミノ基にもう一つp-amino-sulphonic acid が付いたもの。


次にテラポール、
第一製薬の社史を見る。

昭和12年、日華事変がおこり、(略)
ちょうどそのころ、昭和12年7月、国産サルファ剤の第一号としてテラポールを登場させた。(略)
直後から多くのサルファ剤が発売され競合したが、国産第一号の製品だけに常に優位に立った。(略)サルファ剤メーカーとして当社の躍進はめざましかったことは言うまでもなく、昭和14年には二基テラポール、15年にはテラポール軟膏、16年にはネオ・テラポール、そしてテラジアジンを次々と登場させ、(略)

TherapolはTherapyからとったものだろう。

宮武一夫会長回顧談もあった。

入社してすぐ、柳島工場の試験室に入りましたが、工場長は森貫一元顧問、技師長が篠田元社長、最初にやらされたのはテラポールでした。当時のアンナーレン(*)という雑誌に「こんなものが載っているがすぐつくりたまえ」と篠田社長にいわれて、すぐ実験に取り掛かり、割と早く見本を作ったと思います。そして「これを売り出すから、コルベンワークでいいから沢山作れ」というわけで、20リットルのコルベンで作ったのを覚えています。そのころは動物実験も人体実験もありませんでした。(社内報70周年特別号より)
(*)ドイツの有機学雑誌(Justus Liebigs Annalen der Chemie)

両社とも国産1号といっている。昭和12年7月、同時といっていいだろう。
これ以前はドイツからの輸入品、これ以降は国産品も使えるようになった。


塩野義の社史は東大薬学部になくて、経済学部図書館にいって「シオノギ100年」を見た。
昭和12年 アクチゾール発売 (昭和15年度塩野義の売り上げ1位)
  13年 白色アクチゾール
  14年 アクチワイス(注射剤)
     ウリノーゲン(二基スルフォン剤)
     アヂプロン(スルファピリジン)

戦時中、赤十字から米軍捕虜に支給されるサルファ剤を日本人看守が欲しがったというが、戦前は十分あったようだ。

20170813 サルファ剤の日本登場6・医学中央雑誌
20170724 サルファ剤の日本登場5・英米との比較
20170722 サルファ剤の日本登場4・製薬メーカーの動き
20170721 サルファ剤の日本登場3・医師はいつ使い始めたか
20170720 サルファ剤の日本登場2・東京医事新誌
20170715 サルファ剤の日本登場・薬学雑誌


千駄木菜園 総目次
 

2017年7月21日金曜日

サルファ剤、日本登場3・医師はいつから使い始めたか

東京医事新誌の記事で最初のものは
1937年p1689、高橋の報告。
投稿日が3月11日。
1936年10月から37年2月まで福岡市宮城外科病院で入院加療したる25例の報告。
バイエル社製プロントジルを使った。

従来の文献によれば、リンぜル、ハウググ、ゲー・ドマツグ、クレー、ロエマー、シュロイス氏等の報告あるも、余の寡聞なる我が国においては、白木氏の産褥熱および鈴木、加藤氏の敗血症の1治験例あるに過ぎず。

ということは1936年以前に使われていた。
白木氏とは、白木正博・九州帝国大学教授である。東京医事新誌で白木の記事を探すと、1936年2963号p18(昭和11年1月1日号)にあった。
「産褥熱に対する局所療法について」で子宮洗浄法、手術的療法を述べているが、プロントジルの記述はない。
この記事を書いた1935年12月以前とは、パスツール研が白色プロントジル・スルファニルアミドを発表する前、イギリスでも半信半疑のころだから、仕方ないと言える。
彼が使ったのは、1936年1月の記事を投稿した以降、かつ1937年2月以前となる。

白木は1936年、母校東大産婦人科教授に就任、その後、彼のもとで近藤誠が
1937年p2373に投稿。これが東京医事新誌2番目の記事である。

また近藤の1939年の「わが教室におけるsulphanilamide治験」には

わが教室では昭和12年5月以来、主としてテラポール(一部ルジール、ゲリソン)を使用し、今日までに20例を得、(略)

とあるので、白木が1936年に報告したのが日本で初めてかもしれない。
もちろん国産のサルファ剤登場以前である。

1938年5月27日に行われた座談会「プロントジルについて」の記録がある。
(東京女医学会雑誌8巻p272)
ここで三藤教授がこんなことを言っている。

愉快なのは前薬局長の畑君が、「独逸のKlinische Wochenschrift に Prontosilという薬が出ているから研究して作ってみたい。面白そうだから出来たら使ってほしい」と云っておられた。亀の子をいろいろやっておられたが、最後の基が出ないので困っておられたとき、本国から製品が来たので止められましたが、随分早かった。

実際に使ったのと論文報告は時間のずれがあり、時期を特定するのはなかなか難しい。

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20170722 サルファ剤の日本登場4・製薬メーカーの動き
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2017年7月20日木曜日

サルファ剤、日本登場2 東京医事新誌

サルファ剤がいつ日本に入ってきたか、薬学雑誌にほとんど記事がないことは述べた。
この雑誌は、明治時代いろんな情報を載せていたが、このころは単なる学術論文の発表場所になっている。しかも薬学者は、臨床医と違って、患者の治療やサルファ剤に興味がなかったようだ。

では、東京医事新誌はどうだろう?
この雑誌は、1877、明治9年創刊。現存する雑誌では最古といわれる薬学雑誌より古い。昭和35年に廃刊になるまで我が国医学界の情報を最もよく伝える雑誌だった。
週刊で、1935年1月1日号は通算2911号である。
・原著実験及総説のほかに
・臨床講義、
・輓近診療界の話題、
・雑纂、
・会報(の告知)、
・抄録(学会などの要旨)、
・海外医事時報、
・雑報などがあり、
話題になれば何か出るはずである。

1年分は3200ページもあり、1ページずつ見るのは大変なので、索引を見た。
サ(サルファ剤)、ス、ズ(スルホン酸アミド)、プ(プロントジル)、ハ(敗血症、肺炎)などに注目して調べた。

1935年
2月にドーマクが発表したはずだが何もなし。
海外医事時報は1ページもので、衛生事情とか医療制度、交通事故などの記事ばかりであった。

1936年
なにもなし。
p1729 ブドウ球菌性敗血症患者に健常家族の血を15cc入れる方法(Lancet,227, 145(1936)の文献紹介があったが、サルファ剤に触れていなかった。外国でも1936年は注目されていなかったのか。

1937年 
ようやく出た。
p1689 外科的炎症性化膿性疾患25例におけるプロントジルの効果について
 福岡市宮城外科病院 高橋善雄 昭和12年3月11日寄稿
p2373 東大産婦人科 近藤誠
白木正博 産婦人科
この年は、テラポール(第一製薬)が出ているのに、記事がほとんどない。

1938年
p1318 ゲリソンによる治療例 東京市立深川病院 医博 岩永芳男
これだけ。

1939年
一気に出る。
p1260 吾教室におけるSulphanilamide治験  東大産婦人科 近藤誠
など9編、(特に後半年に7編)

1940年
計7編

東京医事新誌でも初期の記事はほとんどない。
テラポールなど1937年夏に発売されているのだから、もう少し出ていても良いと思うのだが。

20170724 サルファ剤の日本登場5・英米との比較
20170722 サルファ剤の日本登場4・製薬メーカーの動き
20170721 サルファ剤の日本登場3・医師はいつ使い始めたか
20170720 サルファ剤の日本登場2・東京医事新誌
20170715 サルファ剤の日本登場・薬学雑誌


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2017年7月19日水曜日

文京区でヒョウ2・一夜明けて

7月18日、帰宅が23時過ぎて被害全貌分からず、

文京区でヒョウ1

で、翌朝早起きした。

ツワブキの葉っぱがちぎれている。雹が上から直撃してちぎれるだろうか。雹よりも突風で切れたのか?

無残な姿に唖然
おびただしい葉っぱの残骸


枝豆が全滅
作付面積は一番だった。
4日前の様子が下の写真。これから花をつけるところだったのに。
2017-07-14

あれだけ我が物顔にのさばっていたカボチャもあちこち分断されている。


こんなに細い茎を直撃するには、確率的にどのくらいだろう? 大体50㎝くらいの間隔で切断されている。この数字から雹はどのくらいの密度で降ったのか計算できるか? 雹の直径、カボチャの茎の太さはどう関係するか、と考えたが朝の頭は働かない。
試験的に蒔いた野沢菜、全滅

蕗とシソの葉っぱはほとんどちぎれた。
3,4つしかなっていなかった柿も落ちている。

夏だけ鉢ごと埋めていたサボテン竜神木にも直撃したようだ。

実生(生ごみから生えたもの)のトマトは茎の途中からすべてちぎれた。

ミニトマトなどは葉っぱがかなり落ちているが被害が少ない。雹のたまり具合から西風が強かったみたいで、西側の家の陰になったのだろうか。


なすもやられた。
4日前はこんなにきれいな葉っぱだったのに。
2017-07-14

猫の足跡のように雹のあと。
ここではっとした。
カボチャの切断間隔から雹の降下密度を計算しようとしたが、よく考えたら雹は一面に降ったのである。雪が積もったような写真を昨日見ている。カボチャの弦を切断するには1つ雹が当たるだけではだめで、同じところに何発も当たって初めて切れることに気が付いた。60歳を過ぎてバカになっている。


今年植えたイチジク。
日陰になるほど桜と柿の木で上部を覆われていたが、雹は徹底的に葉っぱを落とした。枝も傷だらけ。

ブロック塀に張り付いた葉っぱは風邪も相当強かったことを示す。
ハナミズキは虫に食われたかのように葉が落ちた。

モミジの木の下の自転車置き場

二階から下を見る。

ハナミズキを二階から見る。1か月前が下の写真。
2017-06-24
 外に出た。
斜め前の家の樹脂製の屋根が壊れている。雨どいも穴だらけ。

昨日、妻が葉っぱを端に寄せていた。
それを掃除しなくてはならない。
全部我が家の葉っぱだから近所の人は誰も手伝ってくれない。
もくもくと1時間もかかった。
九州の豪雨被災地と比べたら、問題にならないけど。


作業が終わってナスをとった。
大きなのが2つぶらさがっていた。
一つに2か所も3か所も傷がある。いかに高密度で降ったかが分かる。
あんな細い茎も直撃されちぎれ、花も小さな実もすべて落ちた。

もし専業農家で生計を立てていて、今まで育てていたものが、これから収穫するものが一瞬で全滅したら、寝込みたくなるだろう。

2017-07-20
ふりかけのように粉々になった葉っぱと、
雹が激突して跡のついたコンクリートの踏み石