生薬学教室について、第2回、第3回で書いた。
4年生は5人一緒の教育を受けた後、テーマを与えられる。
飯島洋氏は私と同じ部屋で菌が産生する毒素、citrininの生合成酵素をいじり始めた。
渋谷雅明氏はプロスタグランジン生合成酵素のシクロオキシゲナーゼを扱い、「魚の生臭さはこれだ」とアラキドン酸の臭いをかがせてくれた。
平尾哲二、成田有子氏はどんなことをしていたか記憶にない。毎日おしゃべりしていたのに、仕事の話をほとんどしなかったからだ。
さて、私は博士課程3年の嶋田寿男さんにつき、ペニシリンに似た抗生物質セファロスポリンをいじり始めた。
しかし、お恥ずかしいことに、何を目的にしていたのか、どんなテーマだったのか、さっぱり思い出せないのである。いくらぼんくらでも何も考えずに2年も実験していたとは思えないのだが。
手帳もノートもメモも、何も残っていない。頭から出てくるまま書いていく。
当時の実験室で覚えているのは、一日中イオン交換樹脂を大きなビーカーで、酸、水、アルカリ、水で何回も洗い、飽きてしまったこと。その臭い。
そして、どこから来たのか使用済みサントリーレッドの空瓶を大量に洗ったこと。中には枝豆の莢やたばこの吸い殻が入っているのもあった。それを容器にして褐色のキクラゲのようなカビを静置培養した。(あれ?セファロスポリンのカビは三角フラスコの振とう培養だったかな?)
セファロスポリンの定量を阻止円測定で行うため、枯草菌Bacillus subtilisを、当時目黒の国立予防衛生研究所のどなたかにもらいに行った。今は移転し跡地に高級マンションが建ったが、当時は戦前の海軍大学校の建物をそのまま使っていた。
培地上清からのセファロスポリンCの精製は難航した。活性炭カラムで精製していたが、収量は低かった。あるとき「まさか?」と思い、ごみ箱に捨てた使用済み活性炭の塊を拾い、アセトンで溶出させたら、大量のセファロスポリンが吸着していた。
セファロスポリンの定量は結局、液クロで行った。のちの卓上小型液クロ装置と比べると当時最先端、バリアン社の液クロの図体はとてつもなく大きかった。
オフコースの「愛の唄」(1975)を聴くとこの液クロ装置の置かれていた第4研究室(測定室)を思い出す。この年1978年、共立薬科大学から横山千鶴さんと若松美栄子さんが来ていて、私の鼻歌を聴いていた横山さん?も偶然オフコースが好きでLP「ワインの匂い」をカセットテープにダビングしてくれた。
当時薬学は7割ほどが大学院を受験した。実際進学するのは5割だったが、受かったのでそのまま修士課程に進んだ。就職活動が面倒だったのか、とくになんの目的もなかった。
入試の面接のとき、確か田村善蔵先生だったか、「修士では何をやりたいですか?」と聞かれた。「今やっていることとは違うんですが・・」というと、隣で三川先生が苦笑いするのを横目に、彼はにこにこしながら「いいよ、いいよ、言いなさい、言いなさい」と言われる。
まだ実家の家業が頭にあったのか、「野菜など、農産物の微量成分を研究したいと思います」と答えた。
私の進学と同時に嶋田さんが転出され、山本芳邦さんに指導を受けるようになってからもセファロスポリンをいじっていた。
M1の1979年夏、ラジオイムノアッセイでセファロスポリンを定量しようと、BSAにセファロスポリンを結合させ、ウサギの背中や首に注射して抗体を作らせようとした。血清を取り、穴あき寒天で沈降線をみるオクタロニー法でチェックした。確かに投与タンパクに対する抗体はできたが、何回やってもセファロスポリンの目的部位を認識する抗体はできなかった。韓国からの留学生、成忠基さんは、「抗体作成は科学技術ではありません、アート(芸術)です」と慰めてくれた。
それにしても何の目的で毎日実験していたのか、情けないことに全く思い出せない。
菌類によって合成されるセファロスポリンCはペニシリンNと同じように、α‐アミノアジピン酸‐システイン‐バリンのトリペプチドが閉環し、そのあと水酸化、アセチル化される。
教授の考えを今になって推定するに、その生合成経路を研究するため、その中間体、最終産物を培地中で(精製せずに直接、一斉に)検出、定量する方法論を確立しようとしていたのではあるまいか?
さらに1年たちM1も終わろうとする冬、カナダに留学していた飯島とハガキをやりとりした。2年たっても全く修士論文のめどが立たず、薬学史上初めてのM3(修士3年目)になるかもしれないと書いた。彼もM3になるかもしれないと言ってきたが、1年留学してレイク・ルイーズでかわいい日本人留学生の女の子と並んで写真に納まっている彼の場合はM3になっても不思議なく(しかしちゃんと我々と同時に修了した)、毎日苦闘している私とはわけが違う。
さて、2年ほどやって全く進展が見られないため、三川先生もさすがに心配になったか、M2になってテーマを変えた。
そのあとは修士論文が残っているので何をやったか分かっている。
当時実験室にエアコンはない。
冬はガスストーブ、夏はパンツ一つの上に白衣を着ていた。
山本さんは酵素精製のため温度差30度近い低温室と行き来した。
新しいテーマは、三川教授が誰かの博士論文のために温めていた文字通り「とっておきの」テーマだったが、残り1年を切ってしまった修士課程の私に「背に腹は代えられず」やらせたのである。
そのテーマはC-13NMRを生合成研究に応用すること。
炭素C-12は、陽子・中性子とも6つずつで核にスピンがなく、NMRで検出されない。しかしC-13は検出され、しかもその環境によって共鳴周波数がずれる。だから有機化合物の骨格をなす炭素がすべて観測できれば大きな情報となる。しかし、化合物中にC-13はC-12の1%程度しか存在しないため、シグナルが弱い。
ちょうど私がM1になるころ、薬学にC-13対応のFT-NMRが入った。さまざまな周波数を含む矩形パルスを何回も繰り返し与え、得られる自由誘導減衰波形をコンピューターで積算、S/N比を向上させてフーリエ変換する。
生合成研究に応用する場合は、C-13の低い天然存在比を逆手に取り、C-13で標識した、例えば酢酸を培地に投与する。得られた天然物のC-13NMRにおいて、ある炭素のシグナルが増大していれば、その部分は酢酸由来とわかる。
さらに、C-13のシグナルは隣もC-13(核スピンI=1/2)、あるいは重水素(核スピンI=1)であれば、カップリングを起こしピークが2本、3本に割れる。多くの天然物は酢酸(グルコース由来のアセチルCoA)が重合したポリケタイドから生合成されるが、二重標識の酢酸を投与し、得られた天然物にこれらのカップリングが検出できれば、化学構造において酢酸のC-C単位がどのようにつながったか、あるいはC-H結合が保持されているかどうか分かる。
ここまでは先輩の嶋田さんたちの研究で行われていた。
私のテーマは、これをさらに発展させ、天然物に存在する酸素原子Oすなわちカルボニルや水酸基、エーテル酸素の由来をC-13NMRで調べられないか検討することだった。
つまり、ポリケタイド系天然物を産する培地にカルボニルC-13とO-18の二重標識酢酸を投与し、得られた化合物のC-13NMRを測る。
ここでC-13のシグナルは隣の元素が重い同位体に置換されると高磁場側にシフトすることが分かっている。これを利用して、目的の炭素のシグナルが高磁場側にシフトしていれば、そのO原子が酢酸由来とわかる。つまり化合物中の酸素が酢酸由来なのか、空気あるいは水の酸素由来なのか明らかにできる。
具体的には、シトリニン、ペニシリン酸、アベルフィン(アフラトキシン前駆体)などの生合成でこの方法を試し、C-O結合がどこから来たか示すことができた。とくにアベルフィン、ストリグマシスチンなどのビスフラン環におけるエーテル部分の酸素原子が酢酸由来であったとき、両側のどちらのC-13 とつながっていたか分かり、生合成経路がどのようなものであったか、大きな情報が得られた。
M2の冬はデータ取得のピークで、わずかなケミカルシフトのずれを検出するに薬学の100MHz装置が不十分な場合は、板橋の老人研の松尾先生(220MHz)、そして導入されたばかりの応用微生物研の瀬戸先生(400MHz)のところへサンプルを持って行った。
C-13,O-18のデータが貯まる中、もう一つおまけで、C-13とN-15の二重標識化合物の生合成研究への応用についても検討した。
天然窒素N-14は核スピンI=1であるが、核の電荷分布が均一でなく4極子モーメントを持つ。そのため電場勾配によって核スピンは非常に早くエネルギー交換し、めまぐるしくその向きを変える。その結果、スピン結合しているC-13は短時間にすべてのスピン状態と相互作用するためシグナルは1重線となる。(重水素も同じI=1であるが、4極子モーメントが小さいため、C-13シグナルは3本に分裂)
一方、窒素の安定同位体N-15はI=1/2であり、C-13シグナルはきれいにカップリングして2本に分裂する。これを利用した。
ペニシリンは先に述べたように、α-アミノアジピン酸-Lシステイン-Lバリンのトリペプチドから生合成されるが、ペニシリンのバリン部分はL体でなくD体である。このL-D変換はそれまで、α位の水素が脱離して起こると考えられていた。そこで、C-13、N-15の二重標識バリン(カップリングあり)を投与し、得られたペニシリンのNMRをとると、バリン由来C-13にカップリングが観測されなかった。このことから、変換には水素脱離の定説とは異なり脱アミノが起きていると結論した。
修論要旨
修論発表会が終わると一気に春が来たようで、昼にみんなで湯島天神に行った。
梅は終わっていただろう。
しかし修士論文をすべて書き終わった3月の、しかも下旬になってもバタバタと仕事していた。
C-13,O-17二重標識化合物(O-18と違いカップリングする)の投与実験やそれまでの各種使用菌株の保存など。こちらは就職を控え、大阪に行く前に先立ち、アパートを引き払い長野に行きたかったのだが、三川先生は何も気を使われない人で、平気で用事を言いつけられた。合田幸広氏は「この忙しさはきっと将来のための財産になりますよ」と言って慰めてくれた。
C-13NMRはシグナルが小さいため積算が必要なことは書いた。とくにわずかなケミカルシフトのずれ、カップリングを見ようと思うと、数千回の積算で6時間とか10時間とか、長時間、装置を占有する。だから私が使うのは深夜に限られた。
昼は野球と実験、夜はNMR。
寝るところ、地下の休養室は生化学系の人が使っていて、我々は南側の屋上の休養室を使った。プレハブのような小屋で冷房もなく、昼の間に熱せられ夜でも蒸し風呂のようだった。
たまに着替えと風呂に谷中のアパートへ帰ったが、深夜は弥生門が閉まっていて柵を乗り越えた。
パジャマ・運動着・実験着
M2の中盤からは本当によく仕事した。その集中力を誰かに褒められたことを覚えている。
野球をしたジャージとTシャツのまま実験して、そのままの服で眠り、翌日も起きたらそのままの格好で生協で食事、再び実験、野球、食事、測定、睡眠のサイクルを回していた。服を替えなかったのは、忙しかったからというより面倒くさかったからにすぎない。
(続く)
次回は、その5 田辺製薬に就職
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