2020年4月29日水曜日

白山神社の地形、傾城か鶏声か

明治11年の実測図を見ると白山神社が独立高地のように描かれている。
本当かどうか、4月24、25日と2日にわたって行ってみた。
といっても朝の散歩だけど。
明治11年文部省地理局
この地図では独立高地の形とともに、鶏声ではなく傾城ケ窪と書いてあることにも注目。
傾城とは城を傾けるほどの美女、転じて遊女。
そんなことも考えながら歩いてみる。

コロナで早寝早起きになったので朝はたっぷり時間がある。
二回にわたり本郷通りを北上し、本郷台地の西縁を確認しながら暗渠を南下したり、傾城台地の割れ目を北上、姫路酒井家下屋敷跡を歩き、傾城台地の西縁を確認したりしてきた。

別ブログ
 20200428 鶏声台地と酒井家、土井家、暗闇坂
 20200427 理研から鶏声ケ窪までの暗渠、龍光寺
 20200426 土物店跡から本郷通りの寺、寺

 
国土地理院

4本のブログの最後は白山神社とその周りをあるく。
4月25日朝7時、サイカチの辻から斜め道を白山坂上の交差点に出て薬師坂をおりる。

2020-04-25 薬師坂上
途中まで降りて坂上を振り返る。
ちらりと見える妙清寺は山号が醫王山。
薬師如来を本尊とし、ここから薬師坂の坂名が生まれた。
坂の途中で右(西)をみれば白山神社の鳥居。
白山神社表参道。
本殿は南向きだから、横(東)から正面に回り込むことになる。
いっぽう京華通りから石段を上るとまっすぐ本殿正面に出る。
しかし江戸切絵図にその道はない。
この薬師坂途中から入る道には両側に門前町があったことから、ここが表参道である。

参道は谷に下がって再び上がるから、鳥居がよく見える。
たまに白山駅を使うときちらりと鳥居を見るのだが、行ったことはなかった。
たいてい電車の時間があるから通り過ぎる。

今回初めて行ってみる。


鳥居のわきに小さなお稲荷さん。
奥は富士塚に見えるが。

本殿

孫文とゆかりがあるのかな?

これに乗る荷物なら手で持ったほうがいいと思うくらい小さなリヤカー

参拝以外の目的では留まってはいけないという。
ただ歩くだけはだめなのかな。

東京十社巡りというのがあるそうだ。
根津、神田、亀戸、白山、王子、
芝大神宮、日枝、品川、富岡、赤坂氷川。
芝大神宮と赤坂氷川はまだ行ったことがない。

京華通りからの参道(石段)を上がったところから本殿を見る。
境内には八幡神社(写真左)や関東松尾神社(本殿左)が境内社としてある。

これらが咲く頃コロナはどうなっているだろう?
今まで白山神社に来なかったのは、どうせ行くならアジサイ祭りの時にしようと思っていたからだ。鳥居を見るだけで7年経ってしまった。

そうだ、地形。
白山神社の裏(西北)は崖になっていて、下に京華学園(商業?)がある。
机の並ぶ教室の中が見えた。
こちらはグラウンド。

北東のほうは公園になっている。
崖はなく向うは民家。

境内裏に道がある
道の左は神社のすぐ裏、境内のようだが、区立白山公園。
明治24年開園の文京区最古の公園という。
アジサイ祭りのときは一緒に会場となる。

右は山になっている。
富士塚ならもっと火山岩が並べられごつごつしているが、ここはアジサイとツツジで覆われている。昔の古墳らしい。
アジサイ祭りのときだけ入れるというが、何回も来ている妻は行列だから入ったことがないという。

まっすぐ歩くと東洋大学にぶつかった。一番南の4号館のうら。
この道は東西方向で、左へ行くと北に曲がり暗闇坂上の尾根道となり、崖はない。
つまり、白山神社は独立台地でない。

右は下り、坂下左に連久寺がある。
底から上がると生協の北に出る。白山上から北へ降りかけた17号にぶつかる。

再び地下鉄白山駅まで戻り、薬師坂を少し下る。
薬師坂途中の白山駅の裏側に路地がある。
いかにも暗渠のような低地をたどる。
白山神社表参道の一番下
左鳥居、右薬師坂
東洋大学の学生たちが利用するのだろうか。

大雄山最乗寺東京別院
暗渠を挟んで妙清寺と接している。
東京在住の信者のために、明治16年小田原の大雄山最乗寺が道了権現を本郷追分の地に勧請、昭和53年当地に新堂宇を建立した。

少し前の地図を見ると、ここには江戸時代以来の大乗寺という日蓮宗の寺があった。今、同名の寺は八王子にあるが大学のように移転したのだろうか?

右から左へ暗渠は続く。
妙清寺の墓地の横を上がれば17号(旧中山道)、生協の北に出る。
江戸時代、川の場所に道はないが、この坂はある。
妙清寺坂とする。

反対側は蓮久寺の前を通り蓮久寺坂を上ると白山神社側の東洋大学裏側になる。
暗渠をなおも進むと

東洋大学にぶつかった。

普段から閉まっているのかコロナなのか不明。

行き止まりを戻り、蓮久寺による。
寺の背後のビルは東洋大8号館、10号館。
写っていないが左からは9号館が迫っている。
それら手前の墓地が都心回帰を狙う東洋大学の膨張を抑えている。
と言うより三方囲まれ、谷間に取り残された感じ。

別ブログ 20181105 東洋大学の都心回帰


蓮久寺前から妙清寺坂をあがり、中山道、17号に出た。
すこし上がれば生協のある白山上交差点。
2020-04-25
白山上交差点から17号の北に行く先をみる。
江戸時代ここは重要な場所だったのではないか?
本郷三丁目の交差点、かねやすから北に見送り坂がある。
江戸を去る人を見送ったという。
しかし名残惜しい人はそこから1.9キロ、23分、ここまで送ってきたのではないか?
そして白山神社門前の茶店で団子でも食べたのではなかろうか。
そこでこの坂を白山見送坂とする。
こちらの方が坂が高く見晴らしがよい。

そうだ、傾城か鶏声か、書いてなかった。

近くに白山三業地があったことから傾城とも書くという話がネットにあったが、白山三業地はもっとずっと南。
その場所は江戸時代、旗本・御家人の幕臣が住んだところで、三業地になったのは明治の末から大正のこと。関係ない。
ケイセイカクボはそれ以前からあった。

切絵図はカタカナだが広重も明治11年地理局も傾城である。
鶏声をふざけて傾城としゃれる人はいても、こういう地図は変えないだろう。
傾城が古いのではないか?

場所はどこか?
鶏声伝説は中山道の東だが、明治11年は中山道の西、東洋大から蓮久寺にかけての場所。この辺りの神社門前なら遊女はいたかもしれない。
尾張屋版切絵図では中山道の北の方、大名屋敷に挟まれた、傾城とは関係ないところ。

白山傾城か窪を新しいウィンドウで開きます。
[江戸高名会亭尽] 白山傾城か窪 広重 (国会図書館)
人馬が行き交い、白山神社門前というより中山道のように見える。
遊女のいる店もあったのだろうか。

尾張屋版絵図嘉永七年(国会図書館)
ケイセイカクホはずっと北。
白山神社の裏に富士塚がある。

結局よくわからない。
一発で漢字変換できる傾城が窪とする。

2020年4月28日火曜日

鶏声台地と酒井家、土井家、暗闇坂

中山道(国道17号)が白山上を北に過ぎると下り、はま寿司・COCOS、東洋大学の前で一番低くなる。
つまり東洋大の前は川が流れていた。
上流をたどれば本郷台地の西側を旧理研のあたりまでいく。

別ブログ
20200427 理研から鶏声ケ窪までの暗渠、龍光寺

つまり東洋大学や白山神社がある高台は、本郷台地と離れている。
もちろん白山通りで小石川植物園などがある白山台地とも離れている。


名前がないので台地の東、鶏声ケ窪(傾城が窪)にちなんで鶏声台地とする。
台地は東洋大学の東で切れ目があり、そこを17号が割るように通って東西二つに分けている。

17号を挟んで東は本駒込1丁目、2丁目の旧曙町、西は東洋大、白山神社などを含む白山5丁目があるが、17号が低いので、横へ入る道は東も西も少し上り坂である。

まず東洋大前の交差点、井上円了像がある前から東に曙町へ入っていく上り坂。
2020-04-24
駒寿司とBouquetという喫茶店がある。
まっすぐ登ると金森邸の西を通って屋敷坂を下り、養昌寺の北、吉祥寺前に出る。
明治時代、坂の左側全体に土井子爵の屋敷があったから土井坂とする。

1909(明治42)
土井邸の坂に面した部分は(地図では山林)番地が違うので分譲してしまったのかもしれない。

この傾城台地には中山道(17号)の東に土井子爵邸、西に酒井伯爵邸があった。それぞれ藩の下屋敷があったところの一部だ。
なお、地図を見れば西の植物園のある白山台地は広いので亀井、川崎、徳川、土方、荘田、阪谷のお屋敷がある。

さて、17号から曙町に入る上り坂は緩やかでほとんど坂らしい坂もないが、西側はいくつも上り坂がある。北側から東洋大に戻りながら坂をのぞくと
22番と23番の間の坂。
すぐその南の坂。土田石材店があるので石屋坂とする。

26と27の間。ここを上がると暗闇坂の近くに出る。

左は東洋大。
塀の向こうに井上円了像があるので円了坂とする。

円了坂を上がり北に進むと暗闇坂の上に出る。
2020-04-24 急な暗闇坂
これは江戸時代からある。
左が下総生実藩、森川出羽守1万石抱え地、右は旗本松平中務6000石の下屋敷だった。

この辺り西側は絶壁。
傾城台地の西の縁である。
道路の西側から橋を渡って玄関に入るとそこは2階、3階になる。
樹木があれば面白い家になるのだが。

まっすぐ行くと突き当り、いったん17号に出ないと北に進めない。

17号を少し北上して再び西に入る。

ここから北(右)、江戸時代は酒井雅楽頭、姫路15万石の下屋敷があった。
広いバイパスである白山通りと17号の合流地点の北の方まで広がっていた。
明治後はこの道の右側が伯爵酒井家の屋敷となった。
明治42年の地図を見れば、土井家より大きく坂の下には大きな池もある。
そこで、ここからまっすぐ降りる坂を酒井坂とする。

酒井家、土井家の広い絵図(尾張屋版嘉永七年、1854、国会デジタル図書館)

土井大炊守は古河8万石だが、向かいの土井大隅守は三河刈谷2万3千石。
なお土井主計は五千石の旗本


酒井坂を下りずに北へ行くと角の家に負けないくらい良い家がある。

さらに北に行くと広い坂道に突き当たる。
坂の向こうはみずほ情報総研白山事業所。
90年代の地図では勧銀宝くじセンター、70年代は第一勧銀の社宅だったので勧銀坂とする。

ハナミズキの咲く広い勧銀坂
勧銀坂下、白山通りとの角は文京区役所 福祉部文京白山の郷(特養老人ホーム)

広い白山通りでなく東の崖側の細い路地を南下し坂を探す。

さっき上を通った暗闇坂の下

東洋大にぶつかり南に行けないので白山通りに出る。
東洋大学6号館
コロナで閉鎖中、入れない。

横に細い道があったので入っていくと
階段
上がると東洋大学のメインキャンパスの裏だった。
東洋大裏坂とする

石段を下りて再び白山通りに出る。
この日は粗大ごみの日なのか、南谷寺ではいい机が出ていたし、ここではツッパリ棚などが捨てられていた。アルミのパイプがまとめて置いてあり、野菜の支柱に使えそうなのでもらってきた。

京華学園のところから暗渠のような道が白山通りから左に分かれている。
京華通りという。この辺り、明治40年の地図には池があった。
がけ下に龍雲院があるが門が閉ざされている。

この通りが五辻に出る少し前、西側に懐かしくなった古書店があった。
誠文堂というがコロナで閉店という張り紙あり。

ここを南下しながら傾城台地の西の崖を見ていく。

まず白山神社の裏階段
白山裏参道坂とする。
階段の左下は龍雲院

次の路地は入ると石段

石段を上がると白山神社境内に続いていた。


再び通りに戻り、路地があると入るを繰り返す。
この道は行き止まり。崖上は白山神社。

次の路地を東に入るといい木造住宅があった。
人が住んでいるのかどうか、よくわからない。
このあたりはもう薬師坂通りに近く、白山神社の崖はない。

京華通りの終点は白山下交差点。
背中が薬師坂通り、左が圓乗寺前にいく浄心寺坂通り、
まっすぐは今の白山通りと並行した裏通り、昔の白山三業地である。
右斜め前は白山通りを突っ切って、蓮華寺坂をのぼり植物園の南に行く。
右は今出てきた京華通りである。

滑走路のように広い白山通りはなかったけれども、
この5本の通りは江戸時代からあり、白山下で辻を作っていた。
(先に示した江戸切絵図では1点で交わっていないがヒトデの形をした辻であった)

そして、もう一度最初の地形図を見れば、ここは
本郷台地、傾城台地、白山台地がつくる「Y」の字の中心に当たる。