2017年9月30日土曜日

竹隆庵岡埜と岡埜栄泉

千駄木に引っ越して間もなく、谷中を越え、線路の向こう、根岸で陸奥宗光の家を探していたとき、御行の松(おぎょうのまつ)の碑に出くわした。
江戸時代からの大木で、大正時代に天然記念物に指定されて間もなく枯死、高さ約13.6m、周囲4.9mだったという。

その近く、柳通りに竹隆庵岡埜があった。周辺は住宅地で、なんでこんなところに店があるのだろう、と不思議だった。

それよりも不思議だったのは店名の竹隆庵岡埜である。
あの岡埜栄泉と関係があるのだろうか?
岡埜栄泉自体もあちこちに店があり、名前が同じでも独立しているようであり、相互の関係がよくわからない。分からないうちに、竹隆庵岡埜が出くわし、ますます分からなくなった。

あれから数年。
日暮里駅南口、紅葉橋の階段を下りるとすぐ、竹隆庵岡埜の日暮里店がある。
ダンスの練習場への途中なので最低週2回は通る。
今日初めて菓子を買った。
お客が誰もいなかったので、思い切って聞いてみた。

初代が谷中の岡埜栄泉で修業してのれん分けさせてもらったという。
のれん分けさせてもらった人は皆、岡埜栄泉を名乗るのだが、ここはデパートに入るのに、同じ名前ではまずいから竹隆庵を頭につけたらしい。
なぜ竹隆庵かというと初代の名前、竹田隆。
包み紙などから古い店の印象があるが、随分新しい名前である。




帰宅後調べたら、2013年の上越タイムズに記事があった。
竹田隆氏は、この時会長で80歳。
上越市の網元の家に生まれ、戦後、親戚のやっていた谷中岡野栄泉に弟子入り、修業されたという。
あの、谷中霊園から上野へ行く途中の、交番の向かいの古ぼけた小さな店である。

竹田氏は25歳で独立。
根岸、柳通りの現本店は、ご自宅だったのではないか?

根岸には、上野輪王寺の貫主に大変気に入られたという「こごめ餅」があった。
そこに餡をいれたこごめ大福が大ヒット、三越に出店するまでになった。このとき竹隆庵岡埜の名前が作られたのだろう。



店の紙袋は本店のそばにあった御行の松と、音無川の流れる根岸の里。
いずれも安藤広重である。

音無川は今の日暮里店の前を流れ、根岸は正岡子規や中村不折など、文化人が多く住んだ。
だいぶ前から、店の看板の字が落ちている。
しかも一番大事な会長の名前「隆」ではないか。
もう少し長い伝統の店ならすぐ直すのではなかろうか。
急拡大(現在9店)した割には、のんびりしている様だ。


性生活の頻度を数式で求める

たまたま癌について調べていたらyahoo知恵袋の病気、健康カテゴリーに入った。
ふと横に出た見出しをクリックしたら、性生活の頻度について、初老の人から真面目な質問があり、何人か答えていた。

その中である人が年代別の目安の計算式を教えていて、おもしろかった。
各年代の行為の頻度は、年代数を9倍した数字の10のけたと1のけたを見ればよいというのだ。つまり

 30代なら 3・9 = 27 だから 20日 に 7回、
 40代なら 4・9 = 36 だから 30日 に 6回
 60代なら 6・9 = 54 だから 50日 に 4回

というのである。

これを使って大学入試問題を作った。

問1 
上の例で、年齢大台(10のけたの数字)をx、頻度(間隔)をy日に一回とする。
 (2≦x≦9)
つまり、
   X  X・9   間隔Y      
30代 3  27   20/7 = 3(2.9)
40代 4  36   30/6 = 6
50代 5       45             40/5 = 8
60代 6    54          50/4 = 13(12.5)
70代 7    63          60/3 = 20  
30代は3日に一回、60代は13日に一回ということだ。

ここで、XとYの関係式を求めよ。

解答

 Y =(X・9の10のけたの10の倍数)/(X・9の1のけた)
ここで
 X・9 = 10X-X = 10(X-1) – X +10 だから
 Y = 10(X-1)/(10-x)となる。

問2 
XYをグラフにしたら、どのような曲線となるか?

解答

得られた式
  Y = 10(X-1)/(10-x)
をさらに変形すれば
  Y = -10 - 90/(x - 10)
つまり Y=-90/xの双曲線を(10,-10)に平行移動したものとなる。
漸近線はy = -10、x = 10 。

問3

yahoo知恵袋の文章では、50代なら50歳から59歳まで頻度は一定で、60歳になったとたんに、間隔がぽんと跳ね上がる。そして69歳までまた一定になる。
実際はそんなことはなく、連続的に変化する。
Yahooで示された年代別の値は、中央の年齢(50代なら55歳)における値として、現実的な式に変えよ。

解答

yahooの目安を中央の年齢にするには、双曲線を5歳分、右に平行移動すればよい。
5歳はXでは0.5に相当するので
   Y = -10 - 90/(X - 10.5) 
     =  (10X-15)/(10.5-x)
となる。
エクセルに入れれば

年齢  X  Y(日)
30  3.0 2.00 
35  3.5 2.86 
40  4.0 3.85 
49  4.9 6.07 
50  5.0 6.36 
51  5.1 6.67 
52  5.2 6.98 
53  5.3 7.31 
54  5.4 7.65 
55  5.5 8.00 
60  6.0 10.00 
70  7.0 15.71 

と、なんとなく正しい、現実的な公式ができた。

問4 
一般式にしたことのメリットは、年齢が連続した他に、何があるか?

解答
Yahooの式では10代が計算できないが、一般式にすれば16歳以上に適応できる。
しかし計算すると値が現実的でない。
19歳でY=0.47。つまり1日2回。

また、Yahooの90代の数字は、1年1年劇的に変わるはずなのに1種類しかないが、一般式にすれば、 90歳でY=50日、96歳でY=90日、99歳はY=140日となる。 
これでは、その一回が最後となっても仕方がない。

数学はあまり難しいものをやっても大学入試が終わったらほとんどの人は使わなくなる。この程度の初等数学を自由に使える人材のほうが(こういう高校教育をしたほうが)将来の仕事に役立つのではないか?

2017年9月24日日曜日

枝豆の二期作、結果

二期作、二期目の大豆が元気ない。

4月末に蒔いて
7月18日のヒョウの時に散らばっていた豆を拾って
7月20日蒔いたものである。

このところほとんど成長せず、
ひょろひょろして立っていない。
茎が細い。
鞘が小さく、また少ない。

テントウムシくらいの大きさの虫が固まってたかっている。

こちらはアブラムシだろうか。
でもアリはいないし、葉っぱも丸まっていない。

日当たりが悪いせいか、8月の記録的長雨のせいか、とにかくほとんど成長しないのですべて抜いた。
根粒が少ない。
根粒が少ないと、菌による窒素同化が不十分なため豆が育たないと教科書にはありそうだが、豆本体の株が日照不足などで育たないと根粒も育たないということはないだろうか。

とにかく収穫はこれだけ。
一回分である。
これでは農家だったら一家飢え死んでしまう。

今回の収穫は、春に蒔いて豆がなったら、すぐ(冬を越さず)その豆をまいても、秋にもう一度取れるということが分かったことだ。

豆を最初から二分しておいて、2回蒔けばいいだけの話だから、実用的にはあまり意味のない話だが。

アゲハの幼虫と鳥の糞

この春初めて植えた夏みかんの葉に鳥の糞、と思ったら何かの幼虫だった。
調べたらモンキアゲハ、クロアゲハ、ナミアゲハだか分からぬが、アゲハチョウの若齢幼虫は、みな鳥の糞に擬態しているらしい。
我々が知っている黄緑色の巨大なものは、もう少し成長した姿だという。
確かにあんなに大きいと鳥の糞では擬態にならないかもね。
 いかにも上から落ちてきたように、葉の表に張り付いて動かない。

こちらはもう少し大きいがまだ鳥の糞。

温州ミカンにもついている。

50年前、子どものころ、信州では(ミカンなどない)、ニンジンとセリに巨大なアゲハの幼虫がいた。セリとニンジンは似ており、子供心に、虫は食べる植物を決めているのだと、畑で学んだ(私は専業農家の長男として育った)。また、その時は鳥の糞のような幼虫は見なかった(まんまと擬態に騙されたということか)。

子どものころの経験に絶大な信頼を置いているので、60才過ぎても、柑橘類と鳥の糞からアゲハの幼虫とは思わなかった。

それにしても黒っぽい鶯色に白い模様は見事に糞そっくりである。
ちなみに哺乳類は窒素代謝ででるアンモニアを尿素の形で排出するが、鳥や爬虫類など卵で生まれるものは最終産物が尿素だと、水溶性だから浸透圧が高くなってしまったりして具合がよくない。そこでアンモニアは尿酸にする。尿酸は溶けないから白くなる。だから鳥の糞の白い部分は我々の尿の部分である。これは学校で習った。

さて、このままアゲハの幼虫らしい姿に変わるまで成長させてもいいのだが、葉っぱはどんどん食われるし、飼育する余裕もないので、殺すことにした。
割り箸でつかむと橙色の角を出す。
容器に移し、試しに青虫などに効くマラソンを噴霧してみたが、全く効かない。
結局水死させた。
スミレの葉を丸坊主にしたツマグロヒョウモンの幼虫も一緒に殺処分した。
ツマグロヒョウモンは容器の壁を這いあがてきたが、アゲハの幼虫はジタバタせず、すぐに沈んでしまった。

念のため今調べたらセリもニンジンもセリ科だった。
アゲハは芳香のする葉が好きらしい。



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2017年9月23日土曜日

開成の文化祭と校舎の変遷

今朝、西日暮里の駅に向かっていたら開成の前に人がいっぱい。
ああ、文化祭か。
ここは運動会、文化祭、入学試験、の年3回、小学生を連れた母親、夫婦で開門前の行列ができる。少子化でどこの私学も苦しんでいるとき、ここは関係ない。

駅の改札から学校まで十分な数の学生が立って案内している。
校門から歩道橋を経て駅までふん詰まりに人がつながるのを防ぐために、中学西側の日暮里渡辺町、住宅街の方へ列を誘導していた。(年によって歩道橋を直進させ、尾根側の住宅街に誘導することもある)。
ここは何でも生徒たちが自分たちで計画してやる。
先生は楽だろうな。
一般に、できる子は何でもできてしまう。
8:46
中学受験まであと4か月か。
すれ違うお母さん方が若い。そしてきれい。
自分の年を感じる。
運動会を見に行ったのは、2002年だからもう15年もたっている。

開成の東大合格者は、都立高校が没落してから一気に増えたと思われているが、実は明治初め、高橋是清校長の共立学校時代のほうがすごかった。
1879(明治12)、旧制一高の前身、大学予備門(定員466名)つまり東大予科へ実に112名の合格者を出して、全国に知れ渡った。正岡子規、秋山真之が松山中学を中退、明治16年上京しここに入ったことは坂の上の雲で有名だ。森まゆみ氏は彼らの学籍簿を開成で見せてもらったとエッセイにあった。
関東大震災後に神田淡路町からここ道灌山に移ってきた。

この辺りは好きなので、引っ越して来る前から、たまに歩いた。
人が誰もいない田端駅南口から出て、崖下の線路と電車を左に見ながら、尾根道を南に行くと開成のグランドに出る。
グランドを西に回り込むと下り坂。途中にある向陵稲荷神社は、秋田藩、佐竹右京太夫の屋敷の邸内鎮守だったそうだ。坂はグランドと中学校舎の間にあり、木々の間から中学の授業を覗くことができる。
降りると日暮里渡辺町。
ここは豪商明石屋、渡辺治右衛門が”佐竹が原”を購入、大正5年に宅地開発した所で、周辺があぜ道を残して家が乱立したようなのと対照的に、道が整然としている。野上弥生子、石井柏亭ら文化人が住み、子供を誠之小学校まで越境通学させる家も多かったとか。
しかし戦災、代替わりなどで現在は大きな家はあまりない。

古地図で開成周辺を見ようと思ったが、ここは1932年の荒川区成立まで北豊島郡日暮里町で東京市内でなかったから、明治大正の古地図には載っていないことが多い。国会図書館デジタルライブラリーの「東京市及接続郡部地籍地図」(大正元年)にも、線路の東や南の諏訪台、北の田端はあるのに、なぜか、ここだけない。
そこでgoo地図の航空写真をみた。

昭和22年
校舎の南、大通りに面したところがグランドになっている。
そして校舎の北、今のグランドのところが宅地のようになっている。
空襲のあとなのか、はっきりした建物がないが、校地には見えない。
また中学校舎がない。
開成は戦後になって土地を購入、拡張したのだろうか?


昭和38年
敷地は、ほぼ今と同じ形になっている。
中学のほうは、校舎が北、グランドが南と、今と逆になっている。
大通りに面したところに校舎はない。



20:24
帰宅途中に前を通った。
20時を過ぎていたが、中では明日の準備をしている生徒の姿があった。
この日の入場者、19,804人。

昔、卒業生吉村昭の講演会に行きそびれたのが心残りである。


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2017年9月18日月曜日

山芋にムカゴ、ラッキョウ植え付け

台風18号が去り、久しぶりの青空、休日、用事なし。
2週間前に蒔いた冬野菜が虫に食われたりして、やる気がなくなっていたが、暇なので庭に出た。
山芋にムカゴができていた。
生ごみを庭に捨てていると、あちこちから山芋が出る。
皮の小片から簡単に芽が出て、雑草と一緒にぬいていたが、庭の端に移植して棒を立てておいたら成長した。
子供のころ、大量のムカゴを茹でて(ふかして?)塩で食べた味はまだ覚えている。
単独で食べるほどはないので、ムカゴご飯にしようかな。

すっかり秋である。
雑草に交じるニラの花は実がつまっている。
今年はとうとう一回も食べなかった。
飽食の時代というか、スーパーにはきれいで美味しいニラがある。
あえて不便を味わうという余裕がなくなっている。

季節の移りを味わってばかりではいられない。
9/3にまいた大根は出るそばから虫に食われた。
追加で種まきなどしたが、成長は今一つ。
もう、なるようになれ、という感じ。
農家じゃないんだから、スーパーで買えばいいんのだから、と自分に言い聞かせる。

白菜の苗は夜のうちに何者かに食われていたが、きょうは小さな青虫を発見。
効くかどうか分からぬが、マラソンで消毒し、ネットをかぶせた。

今日、一番の作業はエシャロット(ラッキョウ?)の処分。

5月に収穫したものの、ほとんど食べず、軒下に放置してあった。
ラッキョウの酢漬けを作りたかったが、一つ一つ下ごしらえするのが面倒で秋になった。
久しぶりに見ると、乾燥で、丸々していたものも割れ目ができて複数の株に分かれているようで、いよいよ食用は無理とわかった。
しかし捨てるのは忍びない。
発芽すれば、小さなネギとして食べられるのではないか、とすべて植えてみた。
本来は株分けして1芽ずつ植え、秋に発芽、翌年春に株が増えて成長する。
しかし今回は大量にあり、畑もあまりないので、あまり株分けせずに密に植えた。



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2017年9月17日日曜日

第53 下山順一郎教授の葬式、葬列

薬学雑誌 1912年度(明治45年) 204頁

第52話で、薬界元勲、もと日本薬学会副会頭、東京帝国大学医科大学教授、下山順一郎の死去の様子を紹介した。

明治22年薬学会で副会頭職を置くことが決まって以来、毎年選挙をするのだが、常に7~9割の票を集め、長井会頭とともに薬学をリードしていた。
その大きさは葬儀の様子でしのばれる。

葬儀委員長は丹波敬三。
下山家は代々、富士派日蓮宗の熱心な帰依者で、戒名は経文中の薬品に関する語句を採ったというが、叢林院殿一雨日潤居士。

2月16日午後正1時、下根岸の同邸より出棺。
前日の降雨のため道路泥濘甚だしきに拘らず、稀有の盛典にして会葬者1700余名に達し、葬列十余町に亘る。先頭は大学助手たる4学士、同薬学科学生の一隊これに次ぎ、数120余りに及ぶ造花、生花、花輪、放鳥の列が続いた。

勲章は近藤博士ら4人が捧持、棺側には長井、丹波、丹羽、田原、山田、高橋(三)、池口の7薬博、羽田一等陸軍薬剤正、高橋順太郎、近藤継繁両医学士らが徒歩扈従。
(中略)

列の殿として東京薬学校生徒一隊、神谷学士の指揮のもと随従せり。3-4kmほど離れた本所常泉寺に行列が着いたのは午後2時40分だった。

弔詞70、弔電300数十通。
弔詞は浜尾新・帝大総長、台湾総督時代に下山と親しんだ後藤新平、薬剤師会代表の資生堂福原有信ら11人だけ朗読してもらった。

友人代表の丹波敬三に至っては、ともに東大薬学本科の第一回生にして新制東大の初代教授になるなど、40有余年、つねに進退をともにした間柄とて、朗読半ばにいたりて感極まり遂に流涕嗚咽、読む能はず。満場また1人の泣かざるものなかりき。

このあと残りの弔詞は朗読省略、仏前に捧呈するのみとなった。
しかし、時間切迫のため11人まで行ってから残り48本は、高橋(秀)博士がその連名を朗読して一括捧呈せり。
葬儀おわりて、棺は町屋の火葬場に送られ、同夜ついに一片の煙と化す。

なお下に明治40年の下谷、浅草周辺の地図を示す。
根岸は左上、日蓮宗常泉寺は隅田川の向こう、右下に小さく赤く見える。
当時は吾妻橋(右下にあるはず)しかなかったようだ。
今なら言問橋(竣工1928)を渡ればすぐだけどね。


夫人は大和の柳生但馬守(明治後子爵)の息女である。


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第52 下山順一郎・帝大教授の急死

薬学雑誌 1912年度 2月号巻頭と204頁 

下山は、東京大学製薬本科、明治11年の第1回卒業生・首席にして、同20年新生帝国大学薬学科の初代教授に就任した。
21年私立薬学校(のち東京薬学校)初代校長、22年薬学会・初代副会頭、32年には正親町伯爵に次いで薬剤師会・第2代会長となる。
明治45年2月はこれらすべてが在任中で、まさに当時の薬学をリードしていたとき、急死した。

当時は若死にが多かったから薬誌は訃報が多いのだが、彼は特別だった。
追悼関連記事は14頁に亘る。
「先生は先ごろより糖尿病の症候あり。しかし差たることもなく日夜諸種の研究に耽られ、現に薨去の前日にありても客を迎え、その研究業績を語り、なお之によりて財を獲たらんには以って薬学専門学校設立の費となさん、などと楽しげに物語られつつ在りしに、その翌日(2月12日)朝の4時、例の如く目覚められたるも、風邪の気味ありとて起床せられず、6時ごろ急に身体違和を感じ嘔吐、昏睡に陥れり。
(略) 
急報に接し駆けつけた池口夫妻、丹羽、高橋(順)、三浦、橋本3医学士らが見守る中、あらゆる手当てを講ぜしも、急性脳溢血にして予後不良なりとの診断に、一同悲嘆の涙に暮れつつも、なお万一の僥倖を祈り看護に尽くせしも、午後1時終に起つべからざるに至れり」

この急変はたちまち諸方に伝わり、薬界の巨星は全部、下谷区下根岸の同邸に集まり、京浜薬界、朝野の人士の見舞い、引きも切らず。
夕方5時には薬学会事務所で理事会が開かれ、先生を名誉会員に推薦することが決まる。

興味深いのはこの間、生きているかのように扱われたことだ。
死の翌日13日は市内各紙がこぞりて先生の危篤を報じ、肖像を掲げ略歴功績を列挙、哀れみたり。
凶報は天聴にも達し、14日特旨を以って位一級被進、叙従三位、授旭日重光章。大学は「賜本俸一級俸」という辞令を出した。
14日夜10時薨去正式発表。
15日午後、両陛下の御思召により勅使として侍従伯爵清水谷實英を差遣せられ、白絹2疋を下賜せらる。宮内省からは祭資金700円を賜れり。
このようなことは「医薬界を通じて殆ど空前のことに属す。もって先生の偉勲を証するに足るべし」とある。

嘉永6年生まれ、旧犬山藩士、東京府士族、享年60歳。

現役教授の死ということで銅像が建てられた。
長らく薬学部の北東の隅にあったが、落葉と藪に埋まった。
かつて、たまに物好きが靴滑る急斜面を枝、蔓掴んで這い上がり、拝見しようにも、草、雑木に阻まれ近づけない状態であったのが、2008年、何十年ぶりかで整備された。
2017年薬学部パンフから拝借

東大キャンパスの建築ラッシュ、緑地削減の副産物とも思えるが、拝見できるようになったのは喜ばしい。


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第51 アミノ酸はすべてine、薬はinが多い

60才を過ぎて、何十年も全く気が付かなかったことに突然気付くことがある。
この日を逃せばそのまま知らずに死んでいただろう。

アミノ酸は、glycine, alanine, isoleucine・・・・
トリプトファンを除いてすべて語尾が ine である。
40年もずっと見てきて今日気が付いた。
in と ine に関するファルマシアの原稿を書いた2009年も気が付かなかった。
なぜ、ine か?

それ以前に私の疑問は、化合物の語尾が ine と in で終わるものがあるが、この違いは何か? 全く紛らわしくて仕方がない・・というものだった。
pyridine、quinoline に対して
penicillin, streptomycin, coumarin と、同じ「イン」で終わるのに何が違うのか?

この疑問は100年以上前から日本人を悩ませていたようだ。

化合物語尾 in と ine の別如何 (筆者不明)
薬学雑誌1891年度490頁(明治24年5月号)

短い記事なので全文を書き写す。
(句読点、読み仮名を入れて読みやすくした)

予、一日某学士を訪ふて談偶々(たまたま)薬学上に渉る。
予問ふて曰く
「彼(か)の“アンチピリネ”“モルフィン”の如きは何故に語尾を変更して“アンチピリン”“モルフィネ”と唱ふるや」と。
主人笑ひて曰く
「これはまた異様の尋問を受くるもの哉(かな)。さしたる六ケ敷(むつかし)き理由はあらず。総てinの語尾は非亜爾加魯乙度に附し、ine の語尾を有するは亜爾加魯乙度(アルカロイド)の特徴なるが故なり」と。
余曰く
「其(そ)は英米等に於いては実に貴意の如く然(しか)らんかなれども、元来 in、ineの起源は希(ギリシャ)語の所謂 inos(有力、有効)にして往時の圓(規那圓(きなえん)等)と云ふ場合に適合するものなりと聞く。左れば inもineも文法上に於いては同一にして薬局方上如斯(かくのごとく)区別を付くるは間違を生ずる基ならずや。已に先頃欧州に於いて右の如く語尾にのみ委(まか)せしため、Gelsemin(グルセミウム華爾斯(ワニス))をGelsemine(亜爾加魯乙度)と過まりて死を致したる大出来事のありしにあらずや。先生以って如何となす」と。
主人答へんと欲する如く唇頭動きしが、此時下婢襖開け入り来たりて主人に名刺を示すや、主人忽ち声高く余に向ひ曰く
「甚だ失敬なれども至急の用事出来したれば今日は」と。
余、意を悟り心中冷笑して去る。

(この記事はシをレに誤記していた。圓は塩の当て字かもしれないが不明)

さらに薬学雑誌の筆者は別の日、ドイツ薬局方、オランダ薬局方をみて Syrupus がSirupusに改められているのに気づき、ブルノー・ヒルシュ氏を訪ねる。
氏は例の美髯を捻りて曰く
「その事なり。余も実に不審に思い居たり。抑(そもそ)も Syrupusなる語は亜拉比亜のsrbに起源す。故に y或は iの字なし。希臘(ギリシャ)は之より serapionなる語を造り、中古の拉丁(ラテン)に初めて syrupus なる語生まれたり。薬名を記するに拉丁語を以ってするものとせば、必然 syrupusを襲用せざるべからず」(一部省略)。

そうだ、yと iも紛らわしい。
pyridineであってpiridineじゃないんだよな。

薬はinが多い気もするが
nifedipine, atropineもあるしな~


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第78 濱尾新の大臣就任と薬学会

「薬学会会員で最初に国務大臣になったのは誰か?」
「えっ、国会議員ならいそうだけど、国務大臣なんて出たの?」
 
今、国務大臣は、能力関係なしに、たいてい国会議員の中で当選回数の多い人から選ばれる。地元に道路を作ってくれた人の子供がなりやすい。

ところが昔の大臣は歴史の有名人が多い。
維新成って国務大臣に相当する職を担ったのは、幕府を倒した西軍の有力者たち数人である。
「わしは外交を担当しよう。おぬしは内政を頼む。財務はやつに任せたらどうじゃ」
などと決まったのではなかろうか。

内閣制度ができて国が固まっても、藩閥で決まるという傾向は続き、
例えば第二次松方内閣 
1896年(明治29年)9月18日- 1898年(明治31年)1月12日まで
の閣僚は、

職名   氏名 出身藩

総理  6  松方正義  薩摩
外務  9  西園寺公望  公家
   10  大隈重信  肥前
   11  西徳二郎  薩摩
内務 14 板垣退助 土佐
 15 樺山資紀 薩摩
大蔵 8 松方正義 薩摩
陸軍 7 大山巌 薩摩
 8 高島鞆之助 薩摩
海軍 8 西郷従道 薩摩
司法 9 芳川顕正 徳島
  10 清浦奎吾 肥後
文部 11 西園寺公望 公家
  12 蜂須賀茂韶 徳島
 13 濱尾新 豊岡
農商務 13 榎本武揚 幕臣
 14 大隈重信 肥前
15 山田信道 肥後
逓信 9 白根專一 長州
 10 野村靖 長州
拓殖務 2 高島鞆之助 薩摩
班列 - 黒田清隆 薩摩

といったメンバーであった。
伊藤、山縣らはこの背後にいて、彼らも前後に大臣になっている。

徳島藩最後の藩主だった蜂須賀茂韶のあとを次いで、明治30年11月文部大臣になったのは、濱尾新(はまおあらた)。
異色である。
維新の豪傑、元勲ではなく、初めての学士会会員の国務大臣であった。
1849年生まれ、慶応義塾、大学南校に学び、文部省、東大などに出仕。
1893年第3代帝大総長。
現在東大の安田講堂と三四郎池の間、椅子に座った巨大な銅像がある。

さて、11月27日、学士会は小石川植物園で濱尾大臣就任の祝宴を開いた。
本郷、小石川だけでなく東京中から徒歩で、人力車で集まったのだろう。
薬学雑誌 1897年度 p1227
にその様子がある。

学士会は、博士学士等の帝国大学に関係ある学友より組織せられ、学者あり軍人あり官吏あり、その他国会議員、弁護士、実業家、医師、技師等、各般の高等なる職業に従事せる者を網羅する。
全会員ほとんど三千人の多きに達し、最初の卒業生はようやく齢50近くになりつつあった。

この祝賀会には、薬学の長井、丹波、田原、齋藤が出席している。
そして、なぜこういう記事が薬学雑誌にあるか? 

濱尾は会員数460人の時代からずっと薬学会会員だったのである。
学会での活動は不明だが、薬誌1897年度p207、1898年度p208(会費領収広告)には、半年分の会費1円をきちんと払っている濱尾の名がある。
名簿を全部調べたところ、
1889年10-12月、付録名簿なし
1890,11月 浜尾なし
1891、11月 浜尾なし
1892、11月 会員464人中に浜尾の名あり。
1892年に入会したのかな?

帝大の前身、大学南校や開成学校まで遡っても、ようやく最初の卒業生が50歳になったのが明治30年ということだ。
彼の墓は染井霊園にある。

2017年9月16日土曜日

第42 東沙諸島(西沢島)のリン鉱石

薬学雑誌1909年度731頁、969頁(明治42年)

日本が戦後放棄した海外領土に、南シナ海の諸群島がある。
そのうちベトナム沖の西沙、中沙、南沙諸島は、2007年中国が人口260人の「三沙市」をつくり、大陸の2割にもなる広い海域の領有を主張、ASEAN諸国ともめていた。その後、埋め立て、港湾、滑走路を作り、軍事基地化して、もはや周辺諸国が手を出せなくなったことは、周知のことである。

この話は、そこではなくて、その東、香港とフィリピンの間にある東沙諸島のことである。島は東沙島(プラタス島)だけで、あとは環礁である。
ここは、日本の敗戦とともに中国領となり、国民党が台湾に移ってから、台湾が実効支配しているが、もちろんここにも中国が食指を伸ばしている。

明治時代の薬学雑誌を読んでいたら、なんと東沙諸島が「地区通信」欄に2回出てきた。

ひとつは薬剤師・村瀬次郎の報告である。
当時、東沙島は西沢島と呼ばれていた。
西沢吉治が島に渡り1907年に事業を開始したからである。この島は、炭酸石灰からなる小さな砂州で、鳥の糞が積もって一部がリン酸石灰になっていた。
物産は燐鉱のほか、鼈甲亀と海草のみ。
炎熱と害虫のため作物はあまりとれず、水は亜硝酸、燐酸、石灰を含む。

当時の薬剤師は偉かった。
リン鉱石分析と衛生指導のために渡航した村瀬氏は、義憤を持って島の状況を薬学雑誌で告発した。

島には淡水があるといえど、硝酸を含む高濃度の無機イオンを含み、
「斯かる毒水を飲料に使用する島治者の暴、極まれりと言ふべし」。

島治法は西沢の私法専制的で、監獄以上の酷政をもって取り締る。
命令の確実遵守を保するがため、ことごとく罰金刑を付す。月給10円(男子壮年)のところ、賭博5円、喧嘩1円50銭、粗末な宿舎で明かりがないため壁板の節穴を大きくしたという咎で5円、軽便レールの車両を破損したと1円50銭。
これら罰金は貯めて、病人を帰郷さすとき、死亡者の遺族に弔慰金とするときに使うと言うが、使ったためしなし。

大人は全員働く義務を負わせ、病気、天候で休業したら月給から差し引き、家族で病気等働けぬものがいたら女子4円、子供1円50銭の食費を徴収。
その食事も、耐えられない臭いの亀肉すらないときは副食物が一家4人で沢庵6切れという粗末さ。
帰郷せん(逃げよう)とするものには制肘を加え、容易に帰郷せしめず、と描写は7頁にわたっている。
同時代の詳細な記録として、薬学に関係なく貴重なものではなかろうか。

西沢が事業を開始して2年後、清国は勝手に日本人が入植し、漁民が駆逐されたことに抗議し、西沢島事件として外交問題に発展した。
1909年と言えば、日露戦争に勝った日本はアジアに敵なし、北京の清国は滅亡寸前のころであるが、アメリカ、ロシアが日本を批判、また前年(1908)中国南部を中心に吹き荒れた日本商品ボイコット運動の再燃を恐れ、日本政府は、清国帰属を認めた。
清国は西沢が投資した島内設備を13万元で買い取るが、税金を3万元徴収することで落着した。(平岡昭利、地理空間、2011)

もうひとつの薬学雑誌の記事は、清国帰属が確認されたあと、気候、水質などの調査のため、広東の軍医学校薬学科卒業の清国人二人が東沙島に渡ったというものである。

2009年に薬学雑誌の記事としてファルマシア誌に書いたとき、西沢島事件として外交問題になったことを知らなかった。同じ号に二つの記事が同時に出ていたため、てっきり清への帰属が決まった後も西沢が操業していたと錯覚した。
今回ブログのおかげで書き直せて良かった。

なお、西沢の次男が詩人の西沢隆二(ぬやまひろし)。
司馬遼太郎が正岡子規の家族とその友人を描いた『ひとびとの跫音』に正岡忠三郎と一緒に出てくる。

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2017年9月15日金曜日

第41 薬剤師と看護師の給料比較

看護師、月給40円(15~79円)
薬剤師、月給14円(12~17円)

薬学雑誌1898年度939頁

この年、明治31年、薬学会の年会費は2円であった。
また、大阪衛生試験所・技師たりし山口再五郎氏は8月26日非職を命ぜられ、即日北浜薬品株式会社技師に採用されたが、年俸は850円(薬誌同940頁)である。これらを頭に入れて、本題に入る。

「 日本赤十字社大阪支部にては看護婦に係わる種々の規則を設け・・・雇聘料を左のごとく定めたり。(カッコ内は大阪府管外)
普通患者は1日金50銭(80)、
腸チフス、赤痢、ジフテリア、痘瘡、猩紅熱、丹毒、精神病等の類80銭(95)。
ただし発病、全治とも主治医の届け日をもって普通患者との限界とす。
発疹チフス、コレラは1円25銭(1円40銭)、
黒死病(ペスト)は2円50銭(2円65銭)。
交通遮断のため患家を出ること能はざる場合には、看護を要せずとも雇聘料の半額を受け、往復旅費も雇聘者の負担とすと定めたり。

今この規定により看護婦の日給を月給に改算すれば、最低15円、最高79円50銭にして、各病種平均すれば40円68銭なり。

一方、全国薬剤師が病院に雇聘せられつつある月給は、平均12円ないし17円にして、たとえその業務が看護婦のごとく危険ならざるにせよ、一科専門の学業を修めたる薬剤師の待遇の冷淡なるは、いかにも気の毒千万ならずや。識者の一顧を煩はしたきものなり。 」

看護師明治の頃すでに薬剤師の給料の低さを嘆く声があったとは意外であった。
さて平成の御世、「一科専門の学業」を6年にもわたりて修むる薬剤師の給料は幾円にならん。

第40 明治の先天性免疫と天然免疫

薬学雑誌1908年度329頁(明治41年)

第34話「血清について(片山氏講話)」に書ききれなかったことを書く。

100年前は「万能秘薬」ばかりでちゃんと効く低分子医薬がほとんどなく、科学的に効く医薬品としては、むしろ抗体が「特効薬」として注目されていた。
もちろん今のレミケードやリツキサンのようにリウマチや癌は対象でなく、抗毒素、抗菌素として使われている。
抗体、免疫について当時の理解は意外に正確である。

「・・・破傷風毒素を馬に注射すれば之を斃す。されども初日に馬が斃れざる程の極少量の毒素を注射し、翌日は前日の2倍量、3日目はまたその倍量、以後漸次増量せば、数ヵ月後には馬は致死量の200倍もの毒素に耐えうるやうになる。之を原働性免疫といふ。この免疫したる馬の血清を人体に注射すれば破傷風の免疫を得る。之を被働性免疫といふ」。

まさにワクチンと抗体医薬の記述である。

「被働性免疫は他動物の抗毒素を一時借りたものなれば免疫性は短期日にして消滅する。人類に最も近き動物の血清を用ゆれば免疫は多少長く継続するけれども原働性免疫の如く長時日に渉らず」。

これを当世風に言えば、組換えヒト抗体医薬の半減期は、ウマ抗体より長く約3週間にもなるけれども、ワクチンの如く長期間ではない、という意味だ。確かに1980年代のマウス抗体は診断薬程度にしかならず、キメラ抗体、ヒト化抗体になって初めて医薬となった。

ではウマ抗体の半減期はどのくらいだろうか?
ヂフテリー毒素1単位を打つ直前に抗毒素を打つなら、それは25単位で中化することができるが、30分前ならば250単位、2時間前なら100万単位の抗毒素が必要という。
事実ならずいぶん短い。

ここまでの話は後天性免疫であるが、先天性免疫についても述べている。
A、B、2種類あるという。
「A.種族性抵抗力。之はある種類の動物全体が共有するもので、例へば人類は牛疫にかからぬ、と云ふやうなものである」。
「B.各自性抵抗力。之は、動物個体各自が特有する天然免疫で、例へばコレラ病流行の際に一つ鍋の飯を食ふても甲は容易に感染し、乙はまったく感染せず、丁は伝染しても軽症・・・・」。

天然免疫とは、2011年ノーベル賞の自然免疫と似た言葉でもまったく別の話であった。

第39 東大薬学部が廃止されそうだった頃

東大薬学部は学部定員が80人(1994年、70人から増員された)、東大で最も小さい学部である。
薬剤師養成ではなく、医薬の創製と生産を念頭に置いた生命科学研究を看板に掲げている。

しかし創薬の研究現場は、理学部、農学部、工学部出身者も多く、薬学部出身者は主に旧帝大に限られ、薬学部がなくなっても製薬会社は困らない。
実際、欧米では創薬研究に特化した学部はない。
創薬における薬学部の存在意義が問われるところである。

昔は違った。
明治6年(1873)、文部省医務局長與専斎が、人命及び国家経済にかかわる粗悪薬品の輸入防止対策として、ミュルレルらに諮り、東大医学部の前身である第一大学区医学校に予科2年本科3年の製薬学科(全寮制)が新設、開校されたときは、大いに存在価値があった。

しかしその後、入学者が少なく、何回も存続が危ぶまれた。
製薬学本科は明治16年に一人の学士をだしたあと空白状態、過渡期的な別科も明治18年生徒募集を停止した。
明治19年の学制改革に際しては、製薬学科は廃止されそうになったが、丹羽藤吉郎助教授の努力で、医科大学薬学科(3年制)として存続、翌20年留学帰りの下山、丹波両教授と3講座制をしく。
しかし、その後も振るわず、第103話で紹介した慶松勝左衛門の入学した明治31年は彼一人だけで、翌年、翌翌年は入学者ゼロである。

丁度そのころの薬学雑誌、仙台地区通信を読んでいたら、徒然草みたいな記事があった。

薬学雑誌1898(明治31)年度516頁

「ある医学士たる軍医曰く。
帝国大学の各分科大学においては、一講座を一名にて受け持つことは云ふまでもなく、更に講座を分け分担して各々その精通を教授することさえあり。

例えば衛生には緒方博士、坪井博士あり。
薬物には高橋博士と未来の森島(留学中)あり。
解剖および組織には田口博士と小金井博士あり。
生理には大澤博士と大澤学士(留学中)あり。
その他内科、外科にても各講座を分担せらる。

しかるに薬学科を見れば一名にて数科を担当す。実に薬学連は諸科に精通なること弁慶の如し、と談笑せられたりと云ふ」

この医学士は、弁慶など出して、半分面白がり、半分馬鹿にしている。
さらに続いて517頁にもうひとつ。

「当地電灯会社就職のある工学士曰く。
大学の各分科大学には皆講座ありて、何学講座と勅令に明記しあり。
ひとり薬学科には三講座とのみありて、何学の講座やら明瞭ならず。
しかれども、薬学科規則をみれば十数以上の科程あり。
我輩は少しも三講座の理由は解せない。

君、説明したまい、と云ひけるに老練の薬学家も大いに閉口して、君は常に難問を発して我輩を困らせる。今後はもはや斯くのごとき問ひは「講三」で御「座」る、と語られし由し」。

いろいろ分かっている老練の薬学家、うまいこと話をまとめたものだ。

当時は入学者がいないだけではなく、医薬分業問題で医師たちと対立し、医科大学内で薬学科の独立が危ぶまれていた頃である。

帝大の薬学始祖3講座は、生薬学(下山順一郎)、衛生裁判化学(丹波敬三)、薬化学(長井長義)と思っている人もいるが、こうしてみると各教授、講座は薬学全科目を分担し、講座名も生薬、薬化などと特定するものではなかったことが分かる。

さて、2017年現在、もちろん学部学生定員80人は埋まるどころか、駒場からの進学振り分けの最低点が理系で最も高い学部、学科の一つになっている。
講座数も3つから大いに増えた。兼任、寄付講座などもあるから、単純に比較できないが、正規教授18、准教授・講師18、助教(特任含めて)41だから、6倍に増えたとみてよいだろう。

しかし小人数のわりに学問領域が広いことは層の薄さ、解体の危機をはらむ。

さらに私立薬科大を中心に6年制になった薬学部が、のきなみ研究を大幅縮小あるいは放棄、薬剤師養成の予備校化したことは、日本の薬学の方向を決めた。
徹底的に知識を教え、処方箋通りに間違えずに調剤する薬剤師の養成が薬学部である。

その流れに逆らって孤高、特徴を出そうとする東大は、明治31年以来の苦戦を強いられるだろう。


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2017年9月13日水曜日

第38 アヘン会議と阿片窟(田原良純)

国家というのは何だろう?
実体は役人と政治家である。
彼らは人間である以上、行動原理は欲望である。
利益を上げることを至上とする商人から金品をもらい、便宜を図る者も多い。もちろん彼らの利益のために戦争もする。

アヘン戦争とその後のイギリスはひどいものだ。
健康な人をわざと病人して、死にそうな病人から金をむしり取る。
利益関係の外にいる国から見たら、これは許しがたい非人道的行為である。

阿片に関する上海国際会議の報告記事があった。
薬学雑誌 1909年度 492頁
報告者は田原良純である。

明治42年、アヘン戦争から67年、清は国民の阿片中毒に難儀していた。
それを見かねた正義漢アメリカの主唱で13カ国35人が、この年2月、米人経営のパレースホテルに集まる。ほとんどが外交官、事務官であったが、日本代表は宮岡法学士、高木医学士(台湾医学校長)、田原薬学博士の3人。

「歓迎の辞が終わって、議長を選挙する下相談になって居ったところ、突然フランスの委員が欧州での会議の慣用語はフランス語であるから、フランス語にしてもらいたい、という建議を出し、すぐロシアの委員が賛成したのです。・・・・後で英語のほかに仏語も会議用語に加えられましたが、仏露委員のほかは誰も用いませんでした」

会議はまず1日に三カ国ずつ自国の阿片事情について報告、討議した。
「問題の支那は阿片を飲むもの1345万人もいて、年間1022万貫も消費しており」半数はイギリスがインドから持ち込んでいた。1906年に今後10年で阿片を禁止するという大詔が発せられたものの、イギリスが売るものは条約上やめさせられない。

一方イギリスはインド統治の大財源だからやめたくはない。
しかし世界の世論が逆風のため、この会議では、清国の国内生産を禁ずるという条件で3年間だけ10分の1ずつ輸出を減らし、3年後に再交渉することを決定した。

わが国は安政5年に井伊直弼が英国と条約を結ぶ時に、阿片を輸入してはならないとしたから助かった。
日本領となった台湾は、それまでの中毒者に鑑札を渡し、専売制度にして治療を奨励したから服用者は毎年8千人ずつ減っている、と報告したので各国の評判も良かった。

しかし、清国の委員が近年この国で阿片のかわりに流行し始めたモルヒネ注射や戒煙剤(モルヒネを含む)の多くが日本から輸出されていると各国に訴えたため、薬業者の代表でもある田原は肩身の狭い思いをしたようだ。

田原は会期中、上海に多くあった吸煙館を見に行っている。
「隣室に入ったら100人ばかりも居りました。皆、台の上に1組2人宛向かい合って臥て居て、その顔と顔の間に小さいランプがあって阿片の煙管を持って横になりながらチウチウ吸って居る。中には愉快そうに寝ている奴もあり、また眼が醒めているのもあり・・」

「支那はこの煙館を片端から閉鎖することにしたのだが外国の居留地は権力が及ばぬから頼むより仕方がない。英米は早速応じたが、フランス租界は熱心でなかったのでフランスは少し面目を失った様にみえました」。
記事は4月の総会学術演説会の要旨であるためか、珍しく口語文である。

中華民国成立は1912年だから、当然薬学雑誌では支那と書いている。
今気が付いたのだが、この原稿を最初に書いた9年前は変換されたのだが、いまは漢字変換されない。Chinaと同じなのに使ってはいけないということなのかな? 
東シナ海とあるから片仮名はいいということか。
カタカナより漢字のほうが丁寧な気もするが。


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2017年9月12日火曜日

第36 展示/実験つき衛生講演会の成功

三重県・実験つき衛生講演会
薬学雑誌1909年度960頁

当時、衛生教育は重要だったであろう。
コレラ、ペストという恐ろしい流行病の前に人類はなすすべがなかった。江戸時代からの迷信も強いころ、せめて被害が最小で済むよう、当局は新しい衛生思想の普及に努めている.

しかし、テレビも書籍もない時代にどう啓蒙したか?
三重県衛生課は,公衆衛生の講話会を各地で開いた.ところが,その効果がいまひとつだったので,関連物品の陳列と簡単な実験も一緒に見せる企画をたてた.娯楽の少ない当時、珍しいイベントは大成功し、その様子が薬学雑誌にある。

明治42年6月26日.伊賀上野.
会場となった大江座の入り口に,会名を染め抜いた紫の旗が交差して立てかけられると,朝8時の定刻前というのに,付近村落からつめかけた男女老幼が集まってきた.雨の中,皆,草靴履き,弁当持参である.教員に引率された生徒たちもいた.

大江座の本舞台から広場には,理化学試験器具,医用器具,消毒材料,薬品など,
2階にはペスト菌,赤痢菌などの標本,印度蚤,牛乳試験装置,甘味料,着色料,清涼飲料水,図解と分析表,統計表など,
3階は結核,ハンセン病に関する標本,図解,不良薬品,食器,玩具が並べられた.

とくに人気のあったのが4台の顕微鏡.
伝染病を媒介するハエの脚や染色した痰を見せた.

講話は,
「飲料水と防腐剤」
「結核・らいの予防」
「トラホーム・花柳病」など.

混雑のなか,警官十数名が整理に当たった.
夕5時閉会の予定が,当地の田中某から臨時電灯増設の寄付があり,説明者,講演者は昼の疲れもいとわず要求を入れ,閉会はなんと深夜11時.
来観者は2日で7000人.

出品目録の器機の中には,ピペットや乾熱滅菌器に混じって,
捕鼠器6,義眼数種,軽便用産婆器1,便器2,痰つぼ5,などもある.
アルコール漬け標本には,鼻茸,コンジローム,胎児,水晶体,酒飲みの心臓腎臓,卵巣嚢腫,鼠の条虫,などがあった.
「淋病患者の尿をもって洗顔したる結果破潰性眼炎を発し摘出したる眼球1」
「胎児模型8」「露人の頭蓋骨1」「結核牛の耳環1」「梅毒の図8」も目をひく.

さらに
7/10-11 四日市で6200人,
7/14 河芸郡神戸で2400人,
7/25-28 宇治山田で4100人,
7/31 度合郡田丸で2400人,
合計2万2千人を集めた.

第37 明治時代は初雪が早かった

薬学雑誌1898年度191頁,1045頁
(明治31年)
薬学雑誌には意外と気象関係の記事がある。
有機化学が未発達で、今のような合成医薬品のないころ、薬は無機塩か、植物薬だった。
「霜雪は薬草栽培上に多少関係を有するものなれば・・・」と仙台の薬学雑誌通信委員が石巻測候所の初雪データを分析、日本各地の初雪と比較し、投稿した。 
        
測候所 観測開始 観測年数 平均初雪日 観測以来最も早い初雪
鹿児島  明16   15   12月28日  明治24年12月4日
大阪   明15   16   12月26日  明治16,17年12月4日
熊本   明23   8   12月12日   明治14,25年11月26日 
東京   明9   22   12月21日  明治9年11月17日
金沢   明15   16   11月28日  明治27,28年11月14日
石巻   明20   11   11月25日  明治22年11月3日
札幌   明9   22   10月29日  明治13年10月5日  

ここからいくつかのことが分かる。
1.東京の初雪は今と比べると早い。
一番早いのが11月17日。平均12月21日である。
ちなみに、雪が降った赤穂浪士討ち入り12月14日は、明治6年以降の新暦だと1月30日になるから降って当たり前の時期である。
 現代の初雪が遅くなったというより、そもそも雪自体が降らなくなったということだろう。

2.測候所が仙台でなくて石巻である。
 明治11年(1878年)内務卿から太政大臣に宛てた”気象測量場設置についての上申書”によれば、設置予定地として仙台が長崎、兵庫、青森、新潟と共に選ばれている。京、大阪など大都市よりも港湾のある都市である。実際、その後仙台ではなく、新たに港を作りつつあった野蒜(東松島市)に変更された。しかし、野蒜港は完成せず、明治20年8月に所在地を移転、県立石巻測候所と改称した。石巻の気象第6区管内には福島、宮古に出張所があった。
 現在東北地方全体をカバーする仙台管区気象台は、関東大震災後の1926年に地震計を設置するため、また、予報の問い合わせが増え、港湾だけでなく都市部にも気象官署が必要とされたために、新設された石巻測候所の仙台出張所が前身である。
 
一方、静岡の薬誌通信委員は、測候所がないため静岡衛生病院で気温、湿度、気圧を観測し、名古屋、東京と比較した。「斯くのごとき佳良なる気候は衛生上最も貴重すべきものにして、療養所として価値あらん」。

有機化学などが盛んになる前、薬剤師は植物学に興味を持つ一方、西洋人の発明した寒暖計で、データを取ることも仕事(趣味)であったようだ。

2017年9月11日月曜日

第35 日本海軍「衛生酒」に関する研究

薬学雑誌 1903年度560頁,688頁

「衛生」とあっても薬用養命酒ではない.
消毒用アルコールの話でもない.

当時各国海軍は,兵員の食卓に少量の火酒を供していたが(英・ラム,露・ブランデー,仏・タフィア,コニャック),日本海軍では式日祝日に少量の日本酒が出るだけで,普段の食卓酒はなかった.
しかし,海上勤務,演習で非常の労働をしたとき,或いは気温氷点下になったときなどには「衛生酒」というものが振舞われた.

明治36年のころは日本酒なら6勺 (108cc),ラム,ジン,泡盛,焼酎なら2勺.ここから1つを選んだ(海軍糧食経理規程第4条).
配給量はアルコール度数で決められたと推定されるが,著者は,その根拠があいまいだと指摘する.
そして「未だ実験をなしたるものあるを聞かず」と各蒸留酒につき4-6銘柄を集め,薬学的分析を試み,前編後編にわたる大論文に仕上げた.

アルコール分は,試料75ccに水同量加え蒸留液75ccを取り比重を測って決定.遊離酸はフェノールフタレインとアルカリ溶液で滴定.他に揮発酸,エキス,灰分,総エステル量(鹸化数),揮発エステル,糖(アルリーン氏法),フルフロール(アニリン・塩酸で着色し目で標準試料液と比較),総アルデヒド(亜硫酸Na反応後でんぷん存在下に沃度液で滴定),フーゼル油(定性試験3種のあと定量はクロロホルムに試料と硫酸を添加,下層の僅かな増加を測った).

当時は日本酒しか知らない読者が多かったのだろうか,論文には上記4蒸留酒の親切な解説もあり,性状,製法に多くのページを割いている.

焼酎は10貫目の芋由来酒粕から3升とると酒精分が44%になる.鹿児島では甘藷を500万貫も使うも県下消費量に追いつかなかった.松脂の香付きたるはジンと称しホルランド(蘭)の名産でありしが,近来はロンドンジンが最良という.ラムは中南米では甘蔗,独では蕪を使う.英独では酒精に焼化糖で着色,エステルで香をつけた人工ラムも作られていた。

なお,軍の治療薬品には,意識不明者の気付け目的に武蘭垤酒があった.
採用されていたのはJa’s Hennessy & Co. Cognacであり,1ビン2円60銭もするので(薬学会の年会費が2円),著者は甲斐などで生産が始まった国産ブランデーを使えないかと実験分析,結論は「香味やや劣ると雖も国家経済上,変更すること必要なるべし」
と。

1903年と言えば、北方ロシアとの戦争避けがたく、陸海軍とも寒地での訓練に力を入れていたころである。


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第34 エールリッヒの側鎖説とは何か? 明治人の理解度

側鎖説をネットで調べると

抗体がどのように産生されるかについての説、
「白血球表面に多種類のレセプターがあり、これに抗原が結合すると、細胞は刺激されレセプターを多量に分泌し、これが抗体となる」という考え方。Landsteinerらの人工抗原の研究から否定されている。

というWikiの説明があちこちに引用されている。
1908年エールリヒのノーベル賞受賞対象とはいえ、もう過去の説だから考える必要もないのだが、これではなぜ「側鎖」という単語を使っているかを説明しない。引用する人がわかっていないのである。

明治の薬学雑誌を見ていて
「血清について」という片山嵓氏の講演記録があった。
薬学雑誌1908年度329頁(明治41年)

もちろん血清とは、抗体を供給する医薬品を意味するが、当時抗体という用語は使われなかった。ふつうは抗毒素、抗菌素である。
その実体としてたんぱく質という単語は出てこない。それでも陶器にゲラチンを塗付して濾過すれば、抗毒素が通過しないことは知られていた。

当初、抗毒素は毒素を分解すると考えられていたが、蛇毒とその抗毒素を混ぜて無毒になったものを温めると毒素が復活することから「これは例へば毒素を一種の酸と仮定すれば抗毒素は無害の塩基にして、中化し無害の中性塩に変ずるやうな訳だ」と片山は説明する。

ここで彼は、抗体の産生様式について、当時、最も信じられていたエールリッヒの側鎖説を紹介した:
「動物の細胞は、ベンツオル核benzolkernの如く多くの側鎖を持っている。化学においてベンツオル核が種々の根radicalに結合するように、細胞と毒素は側鎖の媒によって結合する。そして毒素は細胞を殺し、動物を斃す。然るに毒素が少量のときには、結合しても作用が烈しくないゆえ細胞は死なぬ。けれども毒素と結合した側鎖はその機能を失ひ、代謝機能の結果として切れて血液中に出る。そしてその痕に新陳代謝で再び側鎖が新生する。これにまた毒素が結合し再び側鎖が切れて飛ぶ。終には過剰繁生して側鎖のみが飛び離れて血液中に浮遊する。この側鎖がかの抗毒素である」

つまり、側鎖は細胞表面に伸びた抗体分子のことであった。

当時はまともな薬などなく、血清は奇跡の医薬であった。
合成医薬品はまったく期待されていなかった。片山氏は続ける:
「古来,抗毒または抗菌血清に代はる内服用殺菌薬を製造せんと企てた人が少なくない。しかしこれらの研究は皆失敗に終わった。また今後も成功の見込みがないと云はねばならぬ。何故ならばベーリング氏によれば動物細胞の化学製品に対する抵抗力は細菌の6分の1程度である。故に殺菌作用のある製品は、殺菌するに先立ち必ず人体組織を破壊する」と。

ところが、わずか2年後の1910年、側鎖説のエールリヒによって、世界初の化学療法剤サルバルサンが出る。以後、サルファ剤も登場し、人々の予想に反して合成抗菌薬、抗生物質の大発展が始まり、血清という抗体医薬の地位は下がった。

ところが100年後の今、再び抗体が奇跡の薬として登場した。
ただし馬の血清を使うのではなく、近代的な培養施設で作られ、対象は毒素や病原菌ではなく、がんやリウマチである。
今や、全世界の医薬品、売上高ランキングで上位10のうち、5つが抗体である。

2017年9月9日土曜日

命の大切さの教育、動物愛護と毛虫

「生命(いのち)の大切さを学ぶ」
というが、教師は何を教えて、生徒は何を学ぶのだろう?
そんなことは可能なのだろうか?

この1週間、冬野菜の準備を始めてから、血を吸う蚊をたたき潰しながら、コガネムシの幼虫やナメクジを駆除した。

今朝は農作業はしなかったが、スミレだけを狙って葉っぱを食い尽くす毛虫を殺した。
正確には毛ではなく棘だから毛虫でない。
ツマグロヒョウモンという美しい蝶の幼虫らしい。
もともと南方の種らしいが、1990年代から関東で見られるようになったとか。


キャベツやダイコンにたかった青虫は手でつぶしたことがあるが、どうしても慣れず、すぐやめた。足でつぶそうにも小さいと溝にはまりつぶれず、かといって大きいと靴底を通して感触が伝わり、気持ち悪い。
先日コガネムシ幼虫をつぶした時は、虫たちの怨念が数年かけて足に災いをもたらすのではないかと、およそ非科学的な恐れを抱いた。そこでバケツの水に沈めた。

今回の毛虫も水責めだが、毛があるものは沈まない。
(ナメクジは沈むが、死なず這い出して来る。)
そのうち這い上がってくる毛虫がいたので、割りばしで落として掻き回した。ひん死の彼らは脱糞し、黒緑の球が水底に沈んでいく。なかなか沈まないので、割りばしでバケツの壁に何回もこすりつけ、結局つぶした。
嫌な行為である。
こちらも必死に、鬼の形相でつぶした。
殺虫剤で消毒すればよかった、とつくづく思った。
ふと、白兵戦で人を殺すのと、ボタン一つ押して何十人、いや何万人を殺すのと、殺人に関する心の痛みはどちらが大きいだろう、と考えた。

我々人間が命の尊さをいう資格はあるのだろうか?

戦争はさておいて、(人類以外の)命の貴さというのは何だろう?
肉を食べる人に、これを言う資格はあるか?

頂きますという言葉がある。
「他の生き物の命を頂くのですから感謝しなくてはいけません」
と先生やお坊さんは言うけど、誰に感謝するのか?
命を提供してくれた動物の魂にか?

違うと思う。
感謝せよ、と偉そうに言う教師も坊さんも、食べるときは何も考えていないと思う。
罪のない動物の生きているときの姿を想像し、命の大切さを思うなら、その命を奪ってまで食べられないのではないか?
 
感謝すべきは、殺してくれた屠畜業者に対してだろう。
彼らのおかげで我々は「命を意識せず」、つまり命の大切さ、貴さなど考えずに、物体として肉を食べることができる。
いくらきれいごとを言っても人類は生物として、多くの他の命を平気で、大量に頂いてきたのだ。

ペット販売業者が売れ残った動物をエサ代など節約のため殺処分することを非難する文章があった。命をモノ扱いしている、と。
しかし同じことは製薬会社の研究室や実験動物供給会社でも行われているだろう。
これも否定すべきだろうか?
病気になっても薬は一切飲まず、自給自足の菜食主義者ならば否定してもいいと思う。
しかし無責任な我々にその資格はあるか?

現在、倫理的に、実験動物の殺処分は動物に苦痛を与えないように、と指導がある。しかし、これは動物福祉のためというより、仕方なく殺さねばならない人の心の安寧のためにあるような気がする。誰だって殺したくない。

毛虫は消毒で殺すに限る。
あるいは袋に集めてゴミに出すか。
命の収奪者になりたくない「逃げ」である。

家庭菜園は、菜食主義者であっても命を意識せざるを得ない。
やっぱり、野菜も(虫を殺してくれる)農家に感謝しながら、きれいなパック詰め製品を買った方がいいのかな。



2017年9月8日金曜日

目次 今日の気持ち

エッセイ・目次


20230601 中野殺害事件の江部、石垣きれいな赤岩集落
20230101 66歳からの職探し11 ダンスのリボン
20221231 66歳からの職探し10 居酒屋は務まらず
20221212 谷中瑞輪寺の大久保主水と叔母の墓参り
20221210 実家の過去帳と家系図
20221130 65歳からの職探し 9 スーパーの品出し
20221009 65歳からの職探し8 居酒屋はたいへん
20220905 私と薬学9東大医学部薬理学教室の教育
20220713 65歳からの職探し7 選挙投票所のアルバイト
20220606 私と薬学8 代謝から薬理部門へ
20220514 65歳からの職探し6 ベーカリー
20220313 65歳からの職探し5 菜園アドバイザー
20220306 私と薬学7 薬物代謝、フラン環の開裂とアシル基転移
20220209 65歳からの職探し4 修武台記念館の採用試験
20220105 古本の無人販売と夏ミカン泥棒
20211226 65歳からの職探し2 博物館と墓地管理人
20211219 65歳からの職探し、ハローワーク飯田橋
20210802 物忘れと免許更新
20191012 忘れられない人4 荒田洋治、清水博とNMR
20190904 スズメバチと安全第一
20190719 忘れられない人3 中西香爾先生と小田嶋さん
20190628 エアコン来て叔父を思う
20190619 ついにエアコンを買ってしまった
20190430 号外と皇室カレンダー
20180816 50年前のえのきだけ栽培
20180814 柳沢の叔父、錦鯉と桃
20180520 西城秀樹と月刊平凡、月刊明星
20180409 忘れられない人(2) K島郁夫さん
20180408 忘れられない人(1) O田切健自さん
20180201 岩船の母、柳沢の叔母
20180128 3日違いで生まれた従兄が死んだ
20180123 大雪の翌朝、2018年1月
20180122 信州中野、扇状地と千曲川
20180121 信州中野、岩船の区画整理
20171231 記憶の大切さ。自分史と年表を作ろう
20171213 HDLが100以上は病気か?
20171111 銀杏の果肉を食べてみた
20171028 観光立国に反対する
20170930 性生活の頻度の数学的考察
20170909 生命(いのち)の大切さと毛虫

20170822 1977年の長雨記録とピンクレディー
20170813 喫煙者にやさしい荒川区2
20170712 ニューシャトル駅の迷惑な電光案内板
20170709 エアコンを皆で止めよう
20170709 荒川区の喫煙の考え方
20170604 賞味期限2010年のレトルトカレー
20170416  賞味期限が昭和65年、を食べてみる
20170218  信州中野の岩船地蔵
20170202 発酵食品は体に良いか?
20170126 初めてのブログは超簡単だった
20170114  有明の月(2) 鉄道唱歌と奥の細道
20170114  有明の月(1) 日の出、日の入り
20170101  還暦過ぎた新年
20161224  60回目の冬至




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 1977年(本駒込時代の遺物)続


大根、白菜、人参、ほうれん草まく

ヒョウ、長雨、そして私の病気で夏野菜がすっかりダメになり、家庭菜園に一時興味がなくなった。しかしダンスもできないと結構ヒマで、再び庭をいじることになった。

9月2日、久しぶりに天気がよく、土曜半ドンにして、午後から冬野菜を作る準備。
ナスはぬいてあったが、ピーマンも抜く。あまり実がならなかったから、葉っぱを食用に取る。
2017-09-02
鍬がないのでスコップで掘り返す。
深くまで土が入れ替わるので、連作障害が軽減されるといいな。
掘っているとコガネムシの幼虫がどんどん出てくる。腐葉土のところにいるのかと思ったが、ただの土の中から出てきたのが意外。
昨年のコガネムシ被害に懲りて、肥料として落ち葉を入れるのを止めようと思っていたが、これを見ると、落ち葉を入れても入れなくても幼虫はいるということだ。
(とはいえ、落ち葉を入れれば大きく成長するから被害も大きくなる)

小さいのは(ゴムの溝に入るから)足でつぶせない。
かといって、手でつぶすのは軍手をしていても気持ち悪いのでバケツに集めて水死させた。
2017-09-02
この日、日没は18:07
暗く見えなくなるまで作業。
農家の長男だったが、つくづくサラリーマンは楽だと思う。

翌日はさらに別の場所も耕す。
2017-09-03
中央に見えるのは前日に白菜をまいたポット

大根、ほうれん草をまいて、ネットを張った。
猫除けである。
しかし翌9月4日、朝5時半に起きたとき、もう猫に荒らされていた。ネットの中をくぐり、踏むだけではなく、ほじくり返していた。見慣れぬものを見たら、警戒するくらいの知能がほしい。それとも人間をなめているのか。
猫を飼っている人に、私の怒りは分からないだろう。

2017-09-08
白菜の発芽は9月5日
去年買った種なので、発芽率の低下を考え、一つのポットに2-3粒蒔いたらほとんど芽が出た。教科書的には間引くのだが、もったいないので新たなポットを用意して、1苗1ポットにする。こんなにいっぱい植えるほど庭は広くないんだけど、虫に食われるかもしれないから余分に育てておく。

2017-09-08
大根の発芽は9月6日
ところが、茎が途中で折れたり切れているもの多数。
地上部がすっかり消えた苗もあった。
何者かが食べたか?
根元を掘ってもヨトウムシは見つからない。

2017-09-08
ほうれん草、発芽は9月7日

昨年、ほうれん草は、普通に地面に蒔いたら発芽直後に何者かに食べられてしまった。
そこで今年は半分をプラスチックケースに蒔いて苗を作ることにした。
こちらは4日目に発芽した。
一方、同時に大根の隣に蒔いたほうれん草は全く発芽しない。
発芽直後、地上に出る前に食べられてしまったのだろうか?

7月に降ったヒョウはショックだったが、病害とか虫害は、もっと嫌なもので、野菜つくりの意欲をそぐ。
農家の人はこういうものと常に戦っているわけで、偉いなぁと思う。