2024年6月26日水曜日

香川7 最古の駅舎、空海誕生の善通寺、陸軍と自衛隊

6月11日、香川県に日帰りでうどんを食べに来て、朝から高松、讃岐国分寺、丸亀を経て善通寺に来た。

香川県は宇多津、多度津など津がついたものと、善通寺、観音寺、海岸寺、金蔵寺など寺がつく駅名、自治体が目立つ。

(観音寺一高は大平正芳と薬学の同級生・酒井寮子さんの母校であり、観音寺は香川県で早くから知っていた地名の一つであった。多度津で土讃線のほうに南下せず、西の予讃線のほうに行けば近いが、時間がなくて割愛した)

さて、JRの駅名と自治体の市名にもなっている善通寺は、市内にある真言宗の寺名から来ている。

旧陸軍第11師団の所在地として、この地名は若いころからよく知っていた。しかし善通寺が弘法大師空海の誕生地に建てられた、現存する寺院(四国霊場75番)であることは、数年前ふるさと納税をするまで知らなかった。

14:26
善通寺駅は1889年(明治22年)開業時からの木造駅舎。
駅前に商店が全くないが、駅舎にセブンイレブンが入っている。

むかし、板垣退助の古い百円札(1974年に発行停止)が全国から消えても、四国ではまだ使われていたという真偽不明な話を聞いたことがあるが、四国は物持ちが良いというか、古いものが多いというイメージがあった。
しかし実際来てみると、高松、丸亀は本州とあまり変わりなかった。ここ善通寺へ来て、ようやく、市いちばんの中心駅がこの古さということが嬉しかった。今時、耐震性だの老朽化だの町の活性化のためだの、とにかく関係者は建て替えたがる。今やよほど民度が高くないと、こういうものは保存されない。
善通寺駅全景
駅舎は、1991年の改修で屋根を切妻造から寄棟造にかえたが、開業時の形を保ち、明治22年3月30日と記された建物資産標が存在する。日本最古の現役駅舎とされている武豊線(愛知県)亀崎駅より古い可能性がある。(亀崎駅は明治19年1月の資産票があるが、明治28年に火事があり、このとき駅舎を焼失、再建したのではないかという説がある)
14:28
しかし、駅の外は現代的で、駅前から西にまっすぐ広い道が伸び、両側の家々も古い町並みではない。
正面の山は、奥の高いのが我拝師山捨身ヶ嶽(中腹に73番札所がある)。
手前・右が香色山(こうしきざん)。いずれも讃岐平野特有のビュート。
14:31
道路の反対側、善通寺郵便局の敷地に「輜重隊跡」という石碑。
輜重(しちょう)隊というのは兵站を担当し、軍事物資、糧食、燃料などの輸送と補給を行った。
14:35
市民会館のところには、馬のレリーフの「騎兵連隊跡」の碑。
市民会館の隣、道路沿いの公衆便所は、東京赤坂・乃木邸の馬小屋を思わせ、昔の厩舎を意識したデザインに思える。
14:37
四国学院大学。キリスト教系で1949年創立。
大学本部があるというのはかなりの都市ということになる。
しかし善通寺の人口は3万4千人。軍都であったから戦後急激に減少したのだろうか。
当然大学敷地も11師団関連施設の跡地だろう。

そういえば、伊良部や谷佳知の尽誠学園も善通寺である(駅の反対側)。

さて、駅前からまっすぐ歩いてきた通りは、大学を角の一つにして十字路に出た。
右(北)は歩道に屋根のある商店街、左前方には森が見えた(後で調べたら、乃木神社と護国神社の木々だった)。
そのまま真っすぐ少し歩くと、右に広場があった。
14:43
南大門前にぎわい広場という。
広場のむこうに善通寺の五重塔がみえた。
14:44
南大門から入る。
すぐ左手に大きなクスノキがあった。
樹齢千数百年という霊木の写真を撮ろうと思ったら目の前にお遍路さんの顔出しパネルがあった。今までこういうものに顔を入れたことがなかったな。
誰もいなかったので顔を入れてみた。顔出しパネルは記念写真用のものなので、ついでにバックの楠と一緒に自撮りしようと思った。
14:46
しかし、カメラ角度が難しく、調整していると険しい顔になり、それでも楠はちゃんと写らなかった。一度にいくつも得ようとすると、全部ダメになるという例である。
14:48
改めてクスノキを撮る。
弘法大師空海(774₋835)誕生の時すでに大木だったという。
現在、地上1.5メートルのところで周囲11メートル。

空海が生まれた時、もちろんこの寺はない。
空海誕生地は今の善通寺市という説と、北隣の多度津町屏風浦の海岸寺という説がある。

善通寺は空海の父で地元の豪族であった佐伯田公(さえきの たぎみ、諱:善通(よしみち))から土地の寄進を受け、807年に着工、813年に落成したという。四国霊場75番札所である。
山号は屏風浦五岳山、院号は誕生院。屏風浦はすぐ北の海、五岳山はお寺の西にある山々である。山号、院号は普通の寺では形式でしかないが、ここではちゃんとした意味がある。

境内はまことに広いが、クスノキを見ただけで他はまったく見ずに南大門から出た。
四国に初めてきて、わざわざ善通寺を訪ねたのに、木以外何も見ずに出てしまう人は珍しい。
14:50
門を出た広場に境内図があった。
名刹らしい広さ。

南大門から南にまっすぐ道が伸びている。ゆうゆうロードというらしい。
まことに善通寺は駅と寺を中心に道路が作られている。その道路は広くて碁盤の目のようにまっすぐ。
恐らく、寺と田んぼしかなかった土地に国が大規模な陸軍施設を置くにあたり、自由に都市計画を進めたのであろう。
14:54
ゆうゆうロードを進むと右手に「自衛官募集中」という自衛隊香川地方協力本部・善通寺地域事務所があった。

その隣は陸上自衛隊善通寺駐屯地である。
14:56
フェンスの向こうに何やら記念碑があった。
物持ちが良いという四国らしく、旧軍時代と思われる古い木造建物もあった。
14:58
駐屯地正門

門に警備の隊員が立っていたので正面から写真を撮ってもいいかどうか聞いた。すると彼は守衛所に走って、上司を連れてきた。彼に撮りたい写真の構図を説明するも、OKは出ず、かといってダメというわけでもない。はっきりしないので、「じゃ、諦めます、ちょっと離れたところから1枚撮ります」といって頭を下げ、道路を渡り、ぱちりと撮った。グーグルストリートビューと同じである。
15:01
善通寺駐屯地正門

グーグルストリートビューでも見られるのだから、はっきり「正門前での記念撮影OK」と決めてしまえば警備の隊員も気楽だし、自衛隊と国民のあいだも近くなると思うのだが。

さて、向こうに見えるは善通寺の五岳山の最高峰、我拝師山(他の4つは香色山・筆ノ山・中山・火上山)。
左の門柱には「第十四旅団司令部」とある。

旅団というのは昔と今では違っている。
かつて日中戦争が始まるまでは連隊2つで旅団を形成、旅団2つで師団となっていたが、1937年の日中戦争のころから師団を増やす必要ができ、1師団3個連隊となり、従来の師団内旅団が廃止され、連隊と師団のあいだは歩兵団となり、あらたに独立混成旅団というものが出てきた。師団から独立していて師団より小規模なものである。
現在の陸上自衛隊においても旅団は師団の下部組織ではなく、独立している。広島は、かつて第13師団だったものが規模縮小されて、番号はそのまま、第13旅団となった。だから1から15までの各地の組織は、あるものは師団、あるものは旅団になっている。善通寺の第14旅団は四国全体の防衛警備、災害派遣等を担当している。

15:02
正門の向かいも駐屯地。
こちらは古い建物が並んでいる。
道路と平行に2棟、垂直に1棟。
15:02
このレンガ造りの3棟は旧陸軍第11師団の兵器部倉庫だったという。明治42年から大正10年にかけて建てられた。
戦後陸軍が解体された後は、高松地方専売局(のちの専売公社)、農業試験場などに使用されたが、1950年に警察予備隊が創設され、善通寺が訓練所となり、翌51年第3管区隊(京都)隷下の第9連隊が善通寺に置かれると、隊舎として復活した。

その後、善通寺は普通科連隊の駐屯地であったが、1981年に第13師団(広島)から四国の防衛・警備を引継いで第2混成団が編成された。そしてこれが増強され2006年、第14旅団となった。

赤レンガ倉庫が尽きる交差点を左(東)にまわる。
相変わらず広い真っすぐな道をすすむ。
15:04
赤レンガ倉庫のあった敷地

右(南)も自衛隊の敷地で乃木館という幟が立っていた。
道路を渡って近づくと石碑がある。
15:05
旧陸軍第十一師団 司令部之跡

司令部の庁舎も残っていて、資料館になっている。
日帰りで香川に来て善通寺まで足を延ばしたのは、ここを見るのが目的だった。
(続く)


2024年6月24日月曜日

香川6 丸亀城からの塩飽諸島、讃岐富士

6月11日、朝、夜行バスが高松に着いたあと、高松城址を見てから電車に乗って讃岐国分寺を訪ね、そこから国府跡まで歩いて埋蔵文化財センターをみた。
そのあと、再び電車に乗って丸亀まで来た。
13:11
丸亀駅南口
だだっ広く、駅前の猥雑さがない。
香川県第二の都市(人口  107,830人、2024年)というが、あまり人がいない。
平日の昼というとこんなものか。
13:11
モニュメントは丸亀出身の猪熊弦一郎現代美術館。

お城に向かって南に向かう。
13:13
駅前広場から南に行くと(金毘羅街道)すぐ東西に、線路と平行なアーケード。
浜町商店街。
13:14
また並行するアーケード。本町商店街。

丸亀は戦災に合わなかったらしいが、商店街はなんとなく寂れている。
かつて、商店街は町の中心にあったが、いま東京近郊では駅ビルを中心として商業施設は駅に集中し、地方だと車でいけるバイパス沿いのモールが栄えている。
丸亀はどうなのだろう?

やがて官庁街に入り広い通りに出ると目の前にお城が見えた。
13:21
京極通り(県道21号)と丸亀城。

写真では分からないが、石垣が高い。美しい。
山の上にある西洋の城のようだ。
天守は現存木造12天守の一つだが、日本百名城に選ばれたのはこの石垣の存在が大きいと思う。
13:23
大手門

13:24
大手二の門
ここをくぐり桝形から大手一の門をくぐって城内に入る。
13:25
城内図を見て、高い石垣の理由が分かった。
濠は一重で、その内側、城の一番低いところ、裾に沿った通路がきれいな円になっている。
つまり、たぶん築城以前の地形は、等高線が円だったのだろう。
ということは、これは香川県に来て今までいくつも見てきた、円錐型の山、残丘(ビュート)の一つだったのだろう。頂上をならし、斜面を石で覆ったから、石垣が異常に高くなったと思われる。
三の丸、二の丸、本丸がほぼ同心円状に配置され(厳密には渦郭式)、下から見れば3重(2重~4重)の石垣が一つに見えるから、ますます巨大な石垣に見える。

天守を目指し坂を上がる。
13:25
見返り坂という。
けっこう勾配がきつく、疲れる。
どれくらい登ったかな、と私も思わず後ろを振り向いた行為が坂の語源だろうか。
13:28
三の丸の北石垣
角は直方体の隅石を大面、小面が交互になるよう積み上げ、崩れにくく、また美しくしている(算木積み)。安山岩なら、この円錐型の山の石だろうか?
ちなみに築城前は亀山と言い、標高66メートル。
丸亀の亀はこの山なのか瀬戸内の生きた亀なのか?
13:28
三の丸の石垣がずっと城の西端まで続く。
ここから下が土の山、石垣の上が三の丸である。
この石垣は単体では高さ22メートルだが、本丸まで全部の石垣を合わせると60メートルで日本一高い。

三の丸に上がる。
13:31
北東に瀬戸大橋が見えた。
右はやはりビュート(孤立丘)の青ノ山の半分。
13:31
北西は瀬戸内海の塩飽諸島(広島、本島)が見える。
ここも丸亀の市域である。
左の赤いクレーンは今治造船丸亀事業所のようだ。
塩飽は28島のうち14島に人が住む。合計2277人。
最大の本島、二番目の広島など、塩飽七島のうち4つが丸亀市、残りは坂出市、多度津町などに属す。

塩飽の島民は古くから操船にすぐれ、源平の合戦などで活躍した。倭寇、海賊としても活動したとされる。戦国時代は塩飽水軍として知られ、信長、秀吉、家康からも高く評価された。

江戸時代、北前船の西廻海運が確立すると塩飽の人々はそれに従事した。廻船は地元、琴平の金毘羅大権現の旗を掲げて諸国をめぐったという。
江戸時代初期は塩飽の廻船が各藩の年貢米の輸送をほぼ独占していたが、中期以降は各地に廻船業者が生まれ、塩飽島民は廻船だけで生計を立てられなくなった。
かわって造船に目が向けられ、当時の日本で最高技術の船を建造するようになった。
さらに一部の造船職人は寺社や家屋の建築なども行い(塩飽大工)、吉備津神社本殿、備中国分寺五重塔、善通寺五重塔などは塩飽大工がたてた。

幕末、日本の船(製造はオランダ)として初めて太平洋を横断した咸臨丸の水夫50人のうち、35人は塩飽の島民だったという。
13:31
三の丸から二の丸の石垣をみる。

13:31
三の丸の南東の隅。
讃岐富士(飯野山、422メートル)は美しい。

書き忘れたが、三の丸の石垣下に高濱虚子の句碑があった。
稲むしろあり 飯の山あり 昔今
65歳の彼は、ここからの眺めを詠んだという。

ところで、当初の計画では讃岐富士を見ながらうどんを食べる計画だった。
映画「うどん」でユースケ・サンタマリアの実家として出てくる製麺所は、丸亀城の南、宮池のほとりであったが、似たような場所に行きたかった。食べるテーブルから讃岐富士が見えるようなうどん店はなくとも、看板と山が一緒に写る店はないだろうか、とグーグルストリートビューで探すと、城の南にあることはあった。ただ、歩くと結構かかり、時間的に難しいかな、とは心配していた。

ところが、讃岐国分寺から国府跡まで歩いたりしたことで、丸亀到着が1時間遅れてしまった。パンを食べてしまったこともあり、計画はさっさと諦めた。しかし、この石垣からの讃岐富士は予想以上に素晴らしく、虚子のようにしばらく眺めた。

三の丸、二の丸、本丸は高さが少し違うだけで同心円なので、それぞれが距離的に近い。
13:33
二の丸。
ほとんど観光客はいなかったが、丸亀城にも中国語のグループがいくつかいた。
13:35
本丸。
丸亀城は現存12天守の一つである。

この城は、1597年生駒親正が讃岐17万石に入封したとき、高松城を本城とし、亀山に支城を築いたことに始まる。1602年、 6年の歳月を要し、ほぼ現在の丸亀城が完成したが、1615年、一国一城令により廃城となる。
生駒氏がお家騒動のため出羽に転封のあと、1641年山崎家治が肥後天草から5万石で入封。丸亀藩が成立、石垣など修復した。その後、3代目が8歳で夭折、お家改易、そのあと、1658年京極高和が播磨龍野から6万石で入封した。

当時、武家諸法度や一国一城令の発布により、天守の存在しない城が多かったが、1660年、
京極氏は大手門から見上げる石垣の端に、現在の3層3階の御三階櫓をたてた。幕府に配慮して天守とは言わなかったが現在は、天守に含めている。この小型天守=御三階櫓は、江戸時代になって建造した、水戸城、落雷消失後に再建した金沢城、弘前城など他にも多い。
本丸から北西方向

南西方向
善通寺、琴平の山々を臨む。
斜めの道は県道33号(高松―善通寺線)

北東
塩飽の本島、瀬戸大橋がみえる。
13:37
天守は入場料400円。
内部はどの城も似たようなものなので入らなかった。
13:38
三の丸より高い本丸からもう一度讃岐富士をみる。

お城から降りて、西の麓の丸亀市立資料館にいった。
13:46
丸亀市立資料館。
いかにも1972年築という形。
入場無料だがここも誰もいなかった。
13:49
城を修復した山崎時代の丸亀城
内堀の外に侍屋敷が置かれた。
江戸後期、1802年ころの丸亀城下
城の石垣、内堀、外堀の四角は、山崎時代の図面と比べ、傾いていない。
昔のほうが実測的であったか?
内堀の中、城のふもとの北西に御殿があり、内堀の外の侍屋敷には家臣の名前がある。外堀(今はすべて埋められた)の外は海側に町人町が作られ、他は田んぼだったようだ。西南に伸びるのは金毘羅街道。

讃岐圓亀蓬莱城図(内堀の中)
昔の図面を大正時代に写したもの。
多くの櫓、御殿の間取りなどが描かれている。
蓬莱城とは、亀山を蓬莱山に見立てたのだろうか。

歴代城主の生駒、山崎、京極氏

生駒氏については高松城のところで書いた。

山崎氏は宇多源氏・近江佐々木氏の支族で近江衆として信長に仕えた。山崎家治は新田開発の能力が幕府に認められ、島原の乱で荒廃した肥後天草の復興を期待され4万石で封ぜられ、さらに復興の功績から讃岐丸亀5万3000石に加増転封され、丸亀藩初代となる。
入国当時は寺院を宿所としていたが、翌1642年には廃城となっていた丸亀城の修復を計画し許された。幕府も瀬戸内の要所として築城の必要性を感じていたため、家治に白銀300貫を与え参勤交代を免除した。嫡男山崎俊家は2代藩主となり、石垣や堀などの修築を続けたが、35歳で死去、3代目は8歳で夭折し、山崎家は改易された。

京極氏も山崎氏と同族の宇多源氏近江佐々木氏の支族。佐々木信綱の4男、氏信が北近江を領したが屋敷を京都の京極高辻にあったことから京極氏と呼ばれるようになった。関ヶ原のあと、京極高次が若狭小浜9万石を得て、その子、忠高のときに出雲松江26万石となった。しかし忠高に跡継ぎがなかったため改易されかけ、甥の高和が播磨龍野に6万石の所領をえて、さらに丸亀に転封され、以後この家は明治維新まで続く。
13:53
西の橋を渡り丸亀城を後にする。
内堀の外は侍屋敷が撤去された後、善通寺第11師団の丸亀歩兵第12連隊、裁判所や小・中学校などが建てられた。連隊跡地は市役所などになり、大手門の前、丸亀市民広場に連隊跡地記念碑が立っている。写真の背後は市立城西小学校。

このあと14:08発の電車で善通寺に向かった。
発車メロディーは瀬戸の花嫁だった。この昭和の名曲は他の駅でも使いたいだろう。
調べたら高松、坂出、多度津はじめ、多くの駅で使われていた。

(続く)




 

2024年6月21日金曜日

玉ねぎの苗の調達の3方法


玉ねぎを収穫した。
今年で3年目。
苗を買ってくるのはつまらないので、ダイソーの2袋110円の種をまいている。
過去2回はどうも苗が育たないうちに冬になり、春先の生育も今一つだった。

今年は作付面積を増やし、2番畝7割と5番畝8割、全体で1.5畝。
2024₋05₋27 5:21
左はキャベツ、右が玉ねぎ

収穫時期は葉が7~8割倒れたら収穫開始のサイン、とネットに書いてある。
しかし、千駄木菜園の玉ねぎは様々な経歴・条件であるため、一本一本みて倒れたものから収穫することとした。
これら玉ねぎの来歴は4種類ある。
すなわち、
7:14
1.左上 実生(ダイソーの種)
2.右上 実生(田中さんからもらった苗)
3.左下 食用玉ねぎの芽の部分を埋めたもの
4.右下 昨年収穫した玉ねぎの小さくて食用にならなかったもの

1,2,4はたいして差がない。
3のみ、玉が縦に長く、葉が倒れても大きくならなかった。

ネットには土から抜いたら、葉の上部と根を切り落とし、数個ずつ葉同士を結んで吊るし、乾燥させるとある。根を切るのは空気中の水分を吸収しないようにするためというが、根が空気から水分を摂るとは思えない。
そこで、そのまま葉が付いたまま放置した。すぐ葉を切ると黴菌が入りやすいという。
ちなみに、「根切り」という言葉があるが、これは畑で玉ねぎを抜き、そのまま地表で乾かすことを言う。

ところで、玉ねぎの葉はネギとして食べられるか、と初めて試したが硬くて非常にまずかった。

玉ねぎとそっくりなエシャロットも収穫した。
小さいだけで、分けつの様子、玉の形、掘り出し後の乾燥操作、保管など、玉ねぎと同じ。
2024₋05₋29
エシャロット
球は小さくて面倒だから、玉ねぎと反対に、葉っぱだけを小ネギとして食べている。
今年も大量に余った。
2024₋06₋16
キャベツの破裂
秋まき春育ちのキャベツは、今年も16株育てたが、食べきれずに4株破裂した。
白菜、ホウレンソウ、春菊など葉物野菜は毎年食べきれない。
これからは保存のきく玉ねぎやジャガイモの作付面積を増やしたほうが良い。
2024₋06₋15
玉ねぎ
左から順に3,4,2,1。
今年は吊るすことはしなかった。

その後、玉ねぎは順次収穫していった。全部取ったら重さを測ろうと思っていたが、途中で妻が使ってしまうため、収穫量を測れなくなってしまった。
2024₋06₋19
2024年の玉ねぎ。
3年目に何キロとれたか分からなくなってしまったが、苗の調達法について分かった。
1.発芽した保存中の玉ネギから採取した苗は、生育が悪い。
2.料理に使えない極小の玉ネギを秋に植えて分けつさせた苗は、実生苗と同じくらい。
3.種から育てる実生苗は、3年試したが、生育がばらつく。

そこで、毎年、妻が使ってくれない極小玉が必ず出るので、これをエシャロットのように苗をとるのに使うのも良い。

過去ブログ