2025年2月22日土曜日

横浜ランドマークタワーと日本丸、三菱造船所

長年埼玉に住んでいたから横浜は不案内だった。
私にとって横浜と言えば、開港以来栄えた「関内」の官庁街や中華街、山下公園や港の見える丘公園ではない。もちろんこれらは行ったことがあるが、なじみがあるのは「関外」、それも新興埋め立て地の「みなとみらい」パシフィコ横浜であった。

というのは薬理学会や薬学会など大きな年会がそこで開かれ、
年会は3日ほど続くから何度も通ったからだ。
JRの桜木町駅が最寄り駅だった。

1月11日朝、クルーズ船飛鳥IIが名古屋から横浜に戻り、夕方広島に向けて出港するまで時間があった。横浜見物をしようと下船した。しかし当てもない。この年になると新しい場所より懐かしい場所に行きたくなる。それは桜木町とパシフィコ横浜だった。
2025₋01₋11 11:23
桜木町駅
2004年に地下鉄みなとみらい線が開通したが、そのあともJRのこの駅を使っていた。
2016年に10年ぶりに来て、それから9年経っている。

西口のほうは古本屋とか飲食店とかあってそちらも懐かしいが、今回は海側、広場のある駅前から学会でよく使われたパシフィコ横浜まで歩く。
11:23
横浜AIR CABIN
CABINがCOBANに見えて、新しく駅前に交番ができたのかと思ったらロープウェイ乗り場だった。
ロープウェイは片道629メートル、5分、1000円。8人乗りである。
桜木町駅と運河パークのある新港ふ頭地域を結ぶ。新港には有名な赤レンガ倉庫(旧横浜税関新港埠頭倉庫(保税倉庫))がある。

桜木町駅の東口広場は日中、よく大道芸人がパフォーマンスをしていた。
「ジョージ君」という不思議な動きをする人形を売っている人がいて、どう見ても物理の法則に反するため、じっと見続け、周りの見物人の中にピアノ線を持っている不審な仲間を発見したことがある。
11:25
かつてパシフィコ横浜の周囲は造成中の更地だったのが、地図を見ると、だいぶ開発されたのが分かる。
11:25
ランドマークタワーへ行くエスカレーター
1993年ころは屋外のエスカレーターが珍しかった。

あがるとロープウェイのゴンドラが見えた。
当時、これはなかった。

索道は道のない山中などに作り、移動・運搬に供するが、これはなくても困らない都市型で、移動よりも景色を楽しむものかもしれない。

11:27
動く歩道。私にとって桜木町でもっとも懐かしい。
11:29
動く歩道から見える日本丸

昔は船体がよく見えたものだが、年月で樹木が茂り、全体が見えない。

昭和のはじめ、船員を養成するための官立(国立)高等商船学校(東京、神戸)は2000トンクラスの練習船をもっていたが、地方の公立商船学校は練習帆船がなかったり、持っていても小型の木造帆船ばかりだった。
そこで共通の大型練習船として、文部省が日本丸と海王丸の姉妹船を建造した。

日本丸は1930年に神戸の川崎造船で進水、総トン数2278トン。太平洋を舞台に学生の訓練航海に従事した。しかし戦時中は帆が外されて瀬戸内海の物資輸送に使われ、戦後は復員船にもなった。さらに復活した訓練航海では乗組員、実習生は遺骨収集にも貢献した。
1984年、同じ練習帆船として作られた日本丸II世と交代し退役、1985年からここで浮体展示されている。2017年に国の重要文化財に指定された。

そういえば、商船三井のクルーズ船もにっぽん丸である。こちらは豪華客船であるが、内閣府の青年の船にも使われ、三代にわたりこの名をつけている。Nippon-maruという船はいくつあるのだろう?

動く歩道が終わってすぐ右にビルがある。
平日の朝は中に入っていく人が多い。
最初はパシフィコ横浜への近道かと思ってついていったが、横浜ランドマークタワーにあるオフィスで働く人の流れだった。
11:32
横浜ランドマークタワー(1993年開業)
上層階はロイヤルパークホテルになっているらしい。
動く歩道と同じレベルだが、実は3階になる。

横浜ランドマークタワーはオフィス、ホテルが入るタワー棟と低層のプラザ棟からなる。タワー棟は70階、296メートル、あべのハルカスができるまで約20年間全国1の高さを誇ったが、いまは全国6位である。
近道にもなったタワー棟のロビー階を通り抜けるとプラザ棟のショッピングモール。
11:33
ランドマークプラザ
1階から5階まで吹き抜けになっていて、開業当時、こういうショッピングモールは日本でも珍しかったのではないか?
さすが横浜、と感じた。

このまま右(東)へまっすぐ行けばクイーンモールやパシフィコ横浜に接続する。すなわち、モール内を東西に貫くメイン通路 (1-3F) はみなとみらい地区の歩行者動線「クイーン軸」の一部となっている。
11:35
その動線はランドマークタワーとクイーンズスクエアの間でいったん外に出る。
エスカレーターで降りたところは実は2階。

右側にドックの跡がある。ここも「横浜ランドマークタワー」の一部である。
11:37
ドックヤードガーデン
かつてランドマークタワー一帯は三菱重工横浜造船所であった。
(だからランドマークタワーは三菱地所が保有する)

1891年(明治24年) 有限会社横浜船渠が設立され、1935年、三菱重工に吸収合併された。
先日の氷川丸のブログで書いたが、帝国海軍の練習巡洋艦、香取・鹿島・香椎を建造した(1940竣工)。
しかし造船所は1983年に本牧地区に移転、ここは閉鎖された。

このドックは1896年に竣工、1973年まで使われた。日本に現存する最古の石造りドックヤードで、1997年「旧横浜船渠株式会社第二号船渠」として重要文化財、2007年に近代化産業遺産に指定された。ちなみに横浜船渠の第1号ドックは1985年以来、日本丸メモリアルパーク」として保存活用されている。

再びモール(クイーン軸)に戻る。
ランドマークプラザの東にはクイーンズスクエアがある。
クイーンズタワーA、B、C、横浜ベイホテル東急の4棟などからなり、ランドマークタワーからだんだん屋上が低くなるようスカイラインが続いている。
11:39
クイーンモール
クイーンズスクエアのメインストリート
ランドマークプラザからパシフィコ横浜までまっすぐ続く。
この地下に地下鉄みなとみらい駅ができた。2016年だったか一二度乗った。

クイーンモールの一番東の端、パシフィコ横浜へのエスカレーターの手前右側、つまり横浜ベイホテル東急の手前にレストランがある。
11:41
TAKANASHI Milk RESTAURANT
名前通り乳製品が売りらしい。
店はすっかり変わってしまったが、ここは思い出がある。

話は長くなるので、続きは次のブログ
「パシフィコ横浜、インターコンチネンタルホテルとT型Caチャネル」で書く。

2025年2月19日水曜日

ロマネスコのフラクタル次元

今年初めて作った。

ブロッコリーとカリフラワーを交配してできた品種というが(あるいは自然発生?)、その形から世界で一番美しい野菜と言う人もいる。
2025₋02₋12
交配できるということは、ロマネスコ、ブロッコリー、カリフラワーは生物種としては同じ植物ということである。以前「アブラナ科の属と種」で書いたが、アブラナ科 Brassicaceae、アブラナ属Brassicaのヤセイカンラン種B. oleraceaである。

すなわちBrassica oleraceaのなかに、ロマネスコ、キャベツ、ブロッコリー、葉ボタンなどがあり、分類学的には全部同一の種(しゅ)である。また、近縁のアブラナ属アブラナ種B. rapa のなかにミズナ、カブ、野沢菜、小松菜、白菜、チンゲンサイなどがある。(これらは同一の種であり相互に交配できるが、生物種の違うキャベツとは交配できるない)。
一方、同じアブラナ科でもダイコンは属からして違い、キャベツ、白菜などのアブラナ属とは一人離れている。
2025₋02₋12
ロマネスコの葉、株は意外と大きくなる。

葉は茹でて食べるとキャベツの外葉(苦い)、大根の葉(硬い)より旨かった。高いところにあるから泥が付くキャベツの外葉より使いやすい。

2025₋01₋26
ブロッコリーは一本だけ植えた。

カリフラワーもブロッコリーも無数の遺伝子があるからその組み合わせで無数の交配種ができる。そのなかで栽培しやすさ、味、見た目などで選ばれたのがロマネスコ。16世紀にローマで生まれたという説があるが(交配ではなく自然発生)、1990年ころからフランスで栽培が盛んになり流通し始めたらしい。
2025-02-15
収穫した。下の板は幅18センチ。

2025-02-15
中の芯から柄が伸びて表面に実が並ぶ。
その一つは全体の形とそっくりである。

部分が全体の縮小相似形になっている構造、概念をフラクタルという。

部分を取り上げ、それを拡大すると全体にそっくりな形になる。(自己相似性)。リアス式海岸、樹木の形、山の稜線、血管や気管支の走行など。
図形だけでなく風や音楽、株価なども、時間軸を横に、強弱や高低を縦軸にとれば、そのパターンはフラクタル構造になっている。

私がこれに魅せられたのは、今から33年前の1991年9月26₋28日、仙台で開催された日本生物物理学会であった。まだ仙台国際会議場はできておらず、年会は青葉山の東北大キャンパスで開かれた。
そこで、当時若くしてフラクタルの第一人者であった高安秀樹氏が特別講演した。
20世紀の物理学は量子力学と相対性理論により、ミクロな世界から宇宙まで大きな進展を見たが、身の回りの当たり前の風景に鈍感だった。フラクタルは、寺田寅彦が好きそうな素朴な形、現象に数学的解釈を与える新しい学問だった。
帰宅してからしばらくフラクタル、カオス、揺らぎ、などの本を買って読み込み、以後、私が自然を見るとき、エントロピーの概念とともに、フラクタルというものが柱になった。

例えば、その後、専門となるイオンチャネルの開閉パターンも、通常は1msのオーダーで繰り返すのを観測しているが、ときにそれが数秒のオーダーで塊となっていて、さらに時間オーダーでまったく開かない状態と、開きやすい状態があることを順天堂の大地陸男先生が発見した(彼はavailable, nonavailableと呼んだ)。これもフラクタルである。
2025-02-15
秤量、934グラム
ブロッコリーより重い。

一般にはあまり馴染みがなかったフラクタルであるが、野菜としてロマネスコが出て、その奇抜な形から「フラクタル」が世間にも知られるようになってきた。

フラクタルで面白いのは次元という概念である。
たとえば
線分(1次元)を2つに分けると縮尺1/2の相似形が2つ(2^1)できる。
長方形の辺を2分するよう切ると縮尺1/2の相似形が4つ(2^2)できる。
直方体の辺を2分するよう切ると縮尺1/2の相似形が8つ(2^3)できる。
このべき乗の部分が次元と一致する。

つまり縮尺を1/a、次元をD、縮小相似形が b個できるとすれば、
a^D=b
すなわち、D=log(a)b=log.b/log.aである。

これを一般化すれば、1,2,3という整数だった次元が半端な値もとれることになる。
実際、フラクタルは無限に分割しても相似形がずっと現れるとすると、たとえば海岸線の有限に見えた曲線が無限の入り組みからなり、つまり地図上での曲線(1次元)が厚みのある帯(2次元)的な姿を持ってくる。
2025-02-16
ロマネスコの場合、全体の縮小相似形が親の表面に規則正しく並んでいる。この表面は有限ならもちろん二次元だが、その斜面に突起が無限に出現するとなると、表面積は無限となり、厚みを帯びてくる。すなわち表面でありながら3次元的な広がりとなる。

(現実はもちろん無限ということはなく、1キログラム近い親を1番、表面にびっしり並ぶ相似形の子供を2番、さらに2番の表面に並ぶ子供を3番とすれば、3番がごつごつだから写真でも4番が存在することは分かるだろう。大きな(底辺のほうの)2番を取り、その中の大きな3番、大きな4番を見れば肉眼でも5番まで見える。)

(無限として)実際にロマネスコのフラクタル次元を求めてみる。
まず、縮小率と個数を求めねばならないが、これは簡単ではない。
なぜなら、同じ世代の子供でも大きさが違うからだ。底辺に近いものほど大きい。また同世代の子供の数も先端に行くにしたがって無限に小さくなるから数えられない。
とにかくバラバラにして見た。
2025-02-17
左上が1番(親)の先端部分。
2番、3番は2~3個食べてしまった。

寸法を測ると親の底辺は170㎜
2番については、下のほうの30個をとると中間のものは42㎜(1)
もう少し上まで60個とると22㎜(2)

つまり、(1)なら
D=log30/(log170-log42)=1.477/(2.23-1.623)=2.43
(2)なら
D=log60/(log170-log22)=1.778/(2.23-1.34)=1.99
(1)は良い値だが、(2)は二次元以下になってしまった。これは先端に行くに従い小さくなって正確に測れないことや、個数が爆発的に増えるから数えきれないことによる。
下のスカート部分だけで計算するのが良いと思われる。

1991年当時、私は田辺製薬・薬理研究所の中枢神経系部門にいた。生物物理学会というのはフラクタルとか蝙蝠の超音波とかキリンの模様とか進化の数理モデルとか生物発光とか、およそ製薬会社の業務と関係ない学会で、そこに行かせてくれた田辺製薬の大らかさに感謝している。

社に戻ってから同僚の片山泰一君に話すと彼も興味を持った。揺らぎ、カオス、フラクタル関連の本を何冊か貸したのだが、彼はもらったと思ったのか、その後私に返さずに退職、阪大医学部教授になった。本は他にもまだあったのだが、今探したら「フラクタルって何だろう」高安秀樹、高安美佐子(ダイヤモンド社1988)だけ箱の中から出てきた。
奥付をみたら高安氏は1958年生まれ、私より2歳若く、1991年当時は33歳だった。

2025-02-15
ブロッコリーは親玉をとると、脇の小玉も成長してくる。
いっぽう、ロマネスコは一玉とると、それで終わり。親の片方であるカリフラワーに似た。

なお、ブロッコリーは、ロマネスコほど話題にならないが、その頭は樹木のようになっていて、枝分かれはフラクタル構造である。


2025年2月15日土曜日

ゴボウの品種、コバルト早生、滝野川と堀川


2025₋01₋25
初めてゴボウを作った。
まともなのは1本、あとは鉛筆よりは太いという程度。
失敗と言える。

キク科だからナス科(春夏)、アブラナ科(秋冬)ばかりになる家庭菜園では連作障害を避けるという点で貴重な存在となる。
しかし、特に食べたいとも思わないし、収穫で掘るのが大変そうだから今まで作ったことがなかった。

2023年度は野菜40種類作った。ほかに、何も手をかけない果樹4種、放置芳香多年草(シソ、ミョウガなど)9種が存在する。また、過去、試しに作った野菜12種。全部で65種の経験がある千駄木菜園としても、ゴボウは避けてきた存在だった。


しかし妻がスーパーで買ってくるのが面白くない。
彼女が買ってくるのは、ゴボウ、レンコン、アスパラガス、もやし、カボチャ、キノコ類、バナナ。あと年中使う玉ねぎ、ニンジン、ジャガイモ、レタスも1年分作れないので買ってくる。

2024年、千駄木菜園12年目にして初めて作ることにした。
種はダイソーでインゲンと一緒に2袋110円で買う。
表のタイトルが作物名とか品種名とかでなく
「掘り取りかんたん つくりやすい短形ごぼう」
と書いてあるのがおかしい。
裏に小さく「品種 コバルト極早生」とあった。
コバルトとは何だろう? ブルーは最もゴボウから遠い色だが。

ゴボウの品種など知らないので調べたら、昭和44年放射線育種場(常陸太田市)において、柳川中生ゴボウの種子に放射線を照射、3年目に短形の変異を発見、さらには二毛作も意識して、以後10年にわたり選抜して「極早生、短形」を得たという。

すなわちコバルトというのはガンマ線を発生させるCo-60のことだろう。
かつては自然発生する突然変異体から新種を得たが、1950年代から放射線育種が盛んに用いられた。弥生の東大農学部にも放射線照射の小さな圃場があり、野球でグランドに行ったときなど、注意書きの看板を覚えている。

柳川中生ゴボウは白肌で、尻部までよく肉がつき、栽培日数180日を経過しても、肌のヒビ割れが少ないということで現在も栽培されている。

2024年6月7日、種まき
12日、発芽
春植えジャガイモの後だったから少し遅かったかもしれない。
2024₋09₋29
落花生に押され、手前にゴボウと人参が少し見える。
ゴボウは成長度に差がある。

この畝は後作がなかったのでそのまま放置していたのだが、年が明けて見ると葉が枯れていた。
そこで掘ったのが冒頭の写真である。
細いけれども、まあ食べられた。きんぴら、豚汁などにして食べた。

ところで、ゴボウといえば滝野川である。長さ約1 m、直径2 - 3 cmで細長く、鬆(す)が入りにくいという。
江戸時代初期、滝野川村で鈴木源吾という人が品種改良し、元禄年間から栽培が始まった。中山道沿いだったから、種は全国に広まり、北信濃の常盤ごぼう(飯山)、村山ごぼう(須坂)なども滝野川を親とする。現在のごぼうの9割は滝野川ごぼうから派生したと言われるが、肝心の滝野川では戦後、絶えた。

しかし北区立滝野川西区民センター(よくダンスの練習でつかう)の開設時に、地元住民が特色ある地域活動をしたいと、滝野川ニンジンとゴボウの復活を提案、1996年、群馬県甘楽町の有機農業研究会グループの協力を得て復活させた。
1998年からは北区立滝野川紅葉中学校でも生徒会で栽培を始め、いまも給食委員会24名で栽培を続け、地区の他の小中学校にも広まっているという。http://edoyasai.sblo.jp/article/189564514.html
掘るのが大変なところが、他の野菜より「やった感」があっていいかもしれない。

いっぱんに東日本では滝野川のように根が細くて長い長根種が主流で、関西地方では、堀川ゴボウに代表される太くて短い短根種が多いらしい。

堀川ゴボウは京野菜の一つで、ふつうのゴボウ(滝野川ごぼう)を一度掘り起こしてから、再び植え付ける。直径5 - 6 cmと太くて短く、数本に枝分かれして、表面はひび割れて内部に空洞ができるので、空洞部分に肉などを詰めたりするらしい。
掘ってまた埋めるというのは、ゴボウは二年草だから葉が枯れても根が生きているからである。

(いまの堀川ゴボウが滝野川由来としても、始まりは滝野川より早いかもしれない。滝野川以前から、つまり平安時代からゴボウは食用になっており、滝野川もそれらから生まれたからである)

ほかに大浦ゴボウ(千葉、直径10センチにもなる)、明治ゴンボウ(岡山)などが知られる。

花は同じキク科のアザミに似ているようだが、私は見たことがない。
そういえば、温泉地の土産物にある漬物のヤマゴボウはモリアザミの根らしい。

ゴボウは北海道には自生するが、日本へは平安時代に中国から薬草として伝わったとも言われる。しかし食用とするのは日本くらいで、外国人は木の根っこと思うらしい。シーボルトが種を持ち帰ったが、普及しなかったというし、また太平洋戦争の捕虜にゴボウを与えたら、木の根っこを食わされたと虐待ととられ、関係者がB、C級戦犯にされたときの証言にもなったという話がある。

正月料理に何でゴボウが出るかというと、地道に根を張り力強く成長することから「延命長寿」、また土地に根付く姿から「家族が土地に根付いて安泰に暮らせますように」という願いもあるらしい。もちろん、この時期に調達しやすい食材に、めでたい理由をつけて楽しむに過ぎない。

それより思うのは「ごぼう抜き」という言葉の違和感である。駅伝などのごぼう抜きは、どうみてもゴボウを抜く様子からは遠い。
2025₋01₋26
白菜

ゴボウの面積当たりの収量(食卓などへの貢献度)は、白菜や大根と比べるとかなり低い。
それでも、昨年の種はまだ残っているので今年も再挑戦しようかな。


2025年2月12日水曜日

日本郵船と氷川丸、神社の船名と空母への転用

1月8日から18日まで豪華客船・飛鳥IIの連続する3つのクルーズにのっていた。
2つ目の駿河湾クルーズが終わって横浜に朝、帰港。夕方、3つ目の広島に向けて出港するまで時間があった。船内の部屋で過ごしても良いが、横浜を歩いてみようと思った。

乗客は、優雅な生演奏の中、整列した船長はじめ乗務員に見送られながら下船していく。そんな中を通るのは照れ臭いので皆降りて乗務員たちも解散してから下船した。

大さん橋から山下公園のほうに歩くと氷川丸が見えた。
戦前から北米航路の貨客船として活躍し、いまは保存され重要文化財になっている。
2025₋01₋13 10:24
着物を着た娘さんがいた。
近年、曜日も分からなくなっていたが、飛鳥に乗っているとき全くテレビを見なかったこともあり、この日が成人式ということを知らなかった。
みなとみらいを背景に写真を撮っていたが、この場所にいるということは船をバックにも撮ったのだろう。
10:26
船尾を陸側にして泊っている。
氷川丸は飛鳥IIと比べると大分小さい。
総トン数(船全体の容積の指標)で比較すると11,622トンと50,444トン。

氷川丸鳥瞰
このグーグル写真では、ちょうど向こうの大さん橋に現代の客船・飛鳥IIとにっぽん丸が停泊している。
今の船は煙突が船尾側だが、氷川丸は真ん中より少し前にある。
商船三井のにっぽん丸(手前)と日本郵船の飛鳥II

10:28
船にはいるタラップの文字・NYK LINE の NYは、日本郵船のNIPPON YUSENであろう。次がKKなら株式会社で問題ないのだが、Kの一文字だとKABUSHIKI KAISHAのどちらだろうと思ったら、KAISHAとルビがふってあった。
日本郵船は1893年に株式会社に改組されたが、その前は「日本郵船会社」であったからだろうか。(その前は郵便汽船三菱会社、源流は三菱財閥の始まりとなった九十九商会である)。

タラップには白地に赤の二本線のマークも見える。
坂本龍馬の海援隊の隊旗と同じである。
海援隊は前身の亀山社中のころからユニオン号やいろは丸による貿易や物資の運搬で利益を得ようとした。いっぽう岩崎弥太郎は慶応3年(1867)、後藤象二郎により藩の商務組織・土佐商会の主任、長崎留守居役に抜擢され、藩の貿易に従事した。海援隊が土佐藩の外郭機関となったとき藩命により隊の経理を担当した。

明治になると政府は藩営の事業禁止の方針を打ち出した。そこで明治3年(1870)、後藤象二郎、板垣退助らは、私商社として九十九商会を設立、藩の海運事業を弥太郎に任せた。翌年、廃藩置県により土佐藩は消滅、藩の負債を肩代わりする条件で、弥太郎が九十九商会を手に入れた。そして明治6年三菱商会と改称する。

三菱商会は明治8年(1875)、解散した国策会社の日本国郵便蒸気船会社から汽船の払い下げ、定期輸送事業を譲り受け、郵便汽船三菱会社と改称、発展する。発展は海運だけにとどまらず、多角化し財閥にまで成長していく。
(郵便汽船三菱会社は、1885年三井系国策会社の共同運輸会社と合併し日本郵船会社となる。)

日本郵船は今も三菱グループの中核企業であり、海運業界では我が国トップ、世界でも連結売上高で二位である。

そして、いまもなお、飛鳥II含めNYKの船の煙突にはこの海援隊以来の「二曳き」のマークがある。
飛鳥II 左舷後方から

このNYKのタラップまでは自由に来れる。
船内にはいると入場受付窓口がある。入場料300円(老人200円)だが、日本郵船の株主優待券を持っていたので無料で入った。
氷川丸の入場パンフレット

入ったエントランスロビーはBデッキ。
飛鳥IIの豪華ホテルのようなホールと比較してしまう。
10:31
左舷の部屋番号が偶数というのは飛鳥IIと同じ。偶然なのか、決まりなのか。
10:31
氷川丸客室配置図・Bデッキ宿泊定員202名
とある。全体の乗客定員が286人だった。
10:33
一等児童室。遊んだのはさぞかし上流階級の子どもだろう。
二等児童室はあったのだろうか?
一等食堂
当たり前だが当時は飛行機がなく、海外に行くものは皇族から庶民まで、すべて船だった。
1937年秩父宮夫妻がイギリス国王ジョージ6世の戴冠式に出席した。
秩父宮両殿下乗船時の特別ディナー
メニューを見れば現代のフルコースより豪華である。

秩父宮は3月、同妃とともに横浜を出港、カナダ、アメリカを経由してイギリスを訪問、7月中旬までロンドンに滞在した。スイス、ドイツを巡遊し、イギリス、カナダ経由で、10月2日乗船、10月15日に横浜に帰港した。
氷川丸はフルコースの中に「日本料理」があり、松茸やすっぽん、シジミなども積んでいた。(日露戦争の三笠は冷蔵庫がなく、食料として生きた牛を積んで飼っていたが、このころは冷蔵庫があった)
メニューをさらに見れば「胸腺肉のトゥールーズ風」「白鳥のバター焼き」「乳飲み子牛肉の冷製仕立て」など読み取れる。
10:33
メインディッシュの再現
しかし、現代の最高ディナーに差がないこうした料理よりも、三等客室の人のメニューに興味がある。一等食堂や現代のディナーと比較してみたい。
BデッキからAデッキに上がる。
飛鳥と同じように上階ほど高級である。
最上階のAデッキに一等客室、特等客室がある。
10:35
廊下を利用した一等読書室。
一等社交室
ここを利用する客は上流階級の人々であり、何もすることがない長期の船旅ではさぞかし親しくなったであろう。

こういう廊下や、ドアの外は就航時なんだったのか、当時の船内見取り図が欲しい。

10:37
展示室。もとは何だったのだろう?
氷川丸・日枝丸・平安丸の艦内設備案内パンフレットと
シアトル航路の航行スケジュール

この3隻は要目が同じ姉妹艦で、昭和初期、日本郵船が北米シアトル航路用に建造した(1930年竣工)。当時、日本郵船はアメリカ・カナダとの貨客船運行競争の一環として、新型船を必要としていた。またワシントン海軍軍縮条約(1921₋1922)で航空母艦の保有を制限された海軍も、平時には商船として運用し、有事には空母に改造可能な大型貨客船を求めていた。
(戦艦は厚い防御壁、甲板を必要とするから重くなり長距離の航行に適さないが、空母は速力を出すため防御壁は薄く、商船からの転用が可能。)

海軍は、ほかに日本郵船がサンフランシスコ航路用に建造、1929₋30に竣工した浅間丸型貨客船3隻すなわち浅間丸、龍田丸、秩父丸(後に改名し鎌倉丸)も有事に航空母艦へ改造する予定で設計の段階から口を出した。(浅間丸は氷川丸級より大きい総トン数 16,947トン。)

ただし、この6隻は海軍に徴用されたが、潜水艦母艦(平安丸)や輸送艦などになり航空母艦にはならなかった。
しかしその後、日本郵船が1938年から優秀船舶建造助成施設の政府補助によって建造中だった、新田丸級3隻、橿原丸級2隻の貨客船を途中から空母に改造した。すなわち冲鷹(新田丸)、雲鷹(八幡丸)、大鷹(春日丸)、そして隼鷹(橿原丸)、飛鷹(出雲丸)である。すでに戦況の悪化と、航空機、搭乗員の不足により期待された働きはできなかったが。

ちなみに、今述べた日本郵船の貨客船11隻はすべて神社名から艦名をとっている。さらに細かく見れば氷川丸、日枝丸、平安丸の姉妹艦はすべて「H」の頭文字でそろえた。新田丸級に至っては一番艦から順にN、Y、Kであり、日本郵船会社の英名である。

つい連想したのは日本海軍の練習艦4隻である。戦闘を主任務としない5890トン。4隻とも三菱重工横浜船渠で建造されたが、香取、鹿島、香椎、橿原とこれも神社名。香取・鹿島は古くから東国で武門の神として崇められ、香椎宮は三韓征伐の神功皇后、橿原神宮は大和に進軍、平定した神武天皇を祀る。軍艦名としてふさわしく、「鹿島立ち」ということばから練習艦の名にもよいが、「か」でそろえたあたり、凝っている。

帝国海軍の艦名は良い。物量では敵にかなわないからせめて詞藻で心を込めたか。
もっと書きたいが、話がずれるので氷川丸に戻る。
一等室の乗客は景色に変化のない船旅に飽きないよう、ダンスパーティ、ビリヤード、ビンゴ大会などが用意されていた。
横浜からシアトルまで13日。
今回私が飛鳥で10泊したことを思うと、それほど長くもなく、船内で乗客同士が親しくなるにはちょうど良いかもしれない。
生糸の荷
氷川丸は純粋な客船ではなく貨客船であり、船倉が6つあった。当時もっとも重要な輸出品は生糸。高価な生糸を守るため、湿気を防ぐシルクルームがあった。

ちなみに、横浜からニューヨークまでは、サンフランシスコ経由より氷川丸のシアトル経由のほうが1日早かった。

順路に従うと展示室から外に出た。
10:43 Aデッキ右舷
2008年2月、Sophion社招待の夕食会が LA外港・ロングビーチの記念艦・Queen Mary であった。北大西洋航路用に1936年竣工、総トン数 81,237トンだから氷川丸とは比べ物にならないほど大きいが、このデッキを見てなぜか思い出した。(もっとずっと広くて床の板が古かった。1967年に引退。博物館船兼ホテルとして静態保存されている。

再び船内に入ると左舷側にまわる。
10:44
一等客室。
バス・トイレはないが洗面用の流しはある。
婦人用トイレ
展示用なのか実用なのかよく分からない。

男性用。
わざわざドアが開いているが、どうも現在も使用できるようだ。
10:45 一等特別室
秩父宮やチャップリンが利用したらしい。
特別室は浴室がある。
外に出た。
10:47 
Aデッキの左舷から。
みなとみらいのビル群の前に大さん橋と飛鳥IIが見えた。

AデッキからCデッキまで降りる。
10:49
Bデッキ 定員202名 
Cデッキ 定員358名とある。
よく見るとCデッキには食堂や調理室があり、客室にはベッドが4つくらい入っている。

しかしB、Cデッキの乗客定員を合計すると560人。いっぽう、日本郵船氷川丸公式サイトでもウィキペディアでも全部で286、283₋331人で、この違いは何か? 乗務員も含んだ数字だろうか。(株主優待無料券ではあと3回行けるので、確認に行っても良いが)

もっとも氷川丸は数奇な運命をたどり、そのたびに改装があった。乗客定員などは年代を規定しないと決まらない。

すなわち、1930年に竣工した後、シアトル航路で活躍。
1941年8月、戦雲急を告げシアトル航路は閉鎖。11月北米の邦人引き揚げに従事。
11月、海軍に徴用され第四艦隊(南方諸島防衛)に所属し、病院船に改造。二等食堂は畳敷きの第二病室、三等食堂が手術室になったりした。

戦後は1945年12月、横須賀地方復員局所管の特別輸送船となる。
45,000人の引揚者を日本へ運んだ。

1946年8月、国内航路に復帰。
1953年、11年ぶりにシアトル航路に復帰。最後は1960年8月27日に横浜からシアトルへ出港。10月1日に横浜、10月3日に神戸に到着。神戸から横浜に回航され航海を終えた。

・・・
Cデッキから機関室に入れる。
10:50 機関室

映画タイタニックで主人公たちが忍び込んだ機関室を思い出す。
もっとも、かの船は1912年竣工、石炭ボイラーで動いていたから現場の人数も多く、この景色とは違うが。

10:54
11:00
出口のタラップから
氷川丸から出ると正面、山下公園の向こうにホテルニューグランドが見えた。
昭和2年(1927)開業。氷川丸で洋行する前夜あるいは帰朝した夜、泊った人もいるに違いない。

1960年に航海を終えた後の氷川丸は、
1961年5月、山下公園に係留され、氷川丸マリンタワー社がユースホステル、イベント会場、見学施設として運営した。
2007年氷川丸マリンタワー社が解散、船は日本郵船に戻され、
2008年一般公開、
2016年国の重要文化財(歴史資料)となった。
昭和46年(1971)、中学3年生になったばかりの4月、修学旅行は神奈川、東京だった。
上野まで列車できた後、バスで城ケ島、油壷にいき、東京に戻って首都の見物をした。
その間ほとんど記憶にない。当時は今と違って写真をあまり撮らなかったのだが、アルバムに集合写真4枚がある。
4枚とは鎌倉大仏、皇居二重橋、国会議事堂、そしてなぜか氷川丸だった。
わざわざ来たのに船内に入らず写真を取っただけで立ち去ったのではないかと思うほど、何も覚えていない。