2018年5月30日水曜日

福井城、結城秀康、岡倉天心

5月も終わろうとしているのに今月はブログを4本しか書いていない。
昨年の5月は31本も書いたし、たいてい月15本程度書いているから異常である。

異常に忙しかった。
一人暮らし86歳の叔父が入院したことよりも、大学の仕事である。

今年は担当講義が新しい科目になって準備に時間がかかり、さらに新入生の体験学習の責任者になっていたため、4月以来、休日はほとんど出勤して準備作業をしていた。もちろん5月の連休もなかった。連休が終わると14日からは午後は毎日2年生のグループ討論形式の別の実習があり、21日からはいよいよ1年生の体験学習が始まった。その1週間は朝から晩までバタバタした。もちろんこれ以外の、日常的にあった業務、雑用はすべて後回し。

こんなに忙しいことは60年以上生きてきて一度もなかった。
大学というのは会社と違って誰も助けてくれず、自分がやらなければ時間割に穴が開き、学生や大学に迷惑がかかる。
疲れているのか、毎日電車で座っても、本を読む気力もなく、ぼーっとするか眠っていた。このまま蓄積疲労で頭と体が壊れるのかな、なんて少し考えた。
叔父のことを考える余裕もなかった。

29日で体験学習が一段落したので、少しブログを書く。
と言ってもどこにも行ってないので、過去に撮った写真を整理するだけ。

今年の3月に行った福井。
駅は金沢同様、屋根があるから、外国っぽい

駅前広場。恐竜博物館は見る暇がない。

駅から歩いて5分の福井城
松本、富山のような典型的な平城
ここに最初に城を築いたのは柴田勝家。
勝家は朝倉滅亡後、一向一揆が支配していた北陸を平定したことで、越前49万石を与えられ、ここに築城する。当時は北ノ庄といった。しかし賤ヶ岳で秀吉に破れ、北ノ庄城は炎上、勝家はお市の方とともに自害した。

北ノ庄城の天守は、福井城の南にある柴田神社付近にあったらしい。福井城の城域に入っている。
1601年、結城秀康が勝家の城をつぶし、新たに築城した。
平城の宿命というべきか、跡地には役所が入り、本丸跡には県庁、県警が立つ。
結城秀康は家康の次男。秀吉の養子となるがその後、北関東の名門、結城家の養子となる。
関が原後、下総結城11万石から、北ノ庄68万石に転封され、松平姓に復帰、幕末の春嶽につながる越前松平家の初代となる。
ここは御三家(秀忠の弟たち)ではないが、将軍の兄の家ということで松平一門でも家格は高かった。
この石碑に寄れば、城内に福の井という井戸があり、紀元2284年(!)(寛永元年)、ここから当地が北ノ庄から福井に改称されたとある。


1948年の福井地震で崩れた石垣。
司馬遼太郎がまだ産経新聞にいたころ、夜中にオート三輪の荷台にのって、大阪から取材にかけつけた。
泥だらけの孫の顔を、泣きながら洗っている老婆の姿に声もかけられなかったと、何かで読んだ。


小浜藩10万石は京極氏2代のあと、酒井忠勝にはじまる酒井家13代で明治となる。
杉田玄白はここの藩医だった。


あちこちで復元修理をしている。
いいことだ。



帰り際、銅像が見えた。
公園は整備中で立ち入り禁止で、遠くの後姿では誰だかわからない。
中の作業員に聞いたら岡倉天心だという。
ああ、父親が福井藩士だった。

天心は谷中に居を構え、あとが記念公園になっている。学生時代日暮里駅に行くときはいつも前の道を通った。

2018年3月27日、福井には30分しかいなかった。

2018年5月20日日曜日

西城秀樹と月刊平凡、月刊明星

西城秀樹が亡くなって、テレビで昔の映像がいろいろ出た。
特に彼のファンというわけではなかったが、一歳違いで、彼の歌と共に高校、大学と過ごしたから、懐かしい思い出はある。

当時の月刊平凡、月刊明星を何冊か持っているので、めくってみた。
(私は履歴書や自己紹介の趣味の欄に「歌謡曲」と書く人間だった)







「激しい恋」なんて今歌詞を見てもメロディーが浮かばない。
しかし、ギターのコードがメモしてあるから、一人、本駒込か谷中のアパートにいるとき、歌っていたのだろう。
広島の山本浩二より大きい。
Young Manはすごかったな。私はやらなかったけど、あの年、上野の花見にいったら、あちこちでYMCAを歌っているのを見た。

40年前か。

一番好きだったのは「ラスト・シーン」
彼の歌はほとんど乗りの良さだけが取り柄だと思っていたが、この曲はバラード調で、珍しく歌詞をじっくり聞いた。

この歌は、不治の病になった女性が、恋人を解放し別れを告げる歌だと思っていたら、友人が、ただの失恋じゃないの?と言った。

その後、NHKのドラマがあって、かっこいい柳葉敏郎がアメフトで下半身不随になり、恋人の二谷友里恵に別れを告げる。二谷は別れて良いものか、このまま彼と生きていくべきか迷うところを、彼の妹の藤谷美和子が車いすを押しながら見ている。Let it be がずっと流れていた。
それまで西条秀樹のラストシーンを聞くたびに、女性ががんだと思っていたのだが、このNHKドラマ以来、交通事故で歩けなくなったのかと思うようになった。

ラストシーンの発売は1976年12月だから、まだ駒場寮にいたころだ。

いま、そのNHKドラマを検索したら1986年の「妹」だった。
柳葉が扮したのは、まさに今ニュースになっている関西学院大学のQB、1978年タックルされてスタープレーヤーから車いす生活の身になってしまった猿木氏をモデルにしたものだった。


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モロコ地植え、大豆腐敗、落花生の実験

ブログもかけないほど忙しく、当然、菜園も後回しにしていたら、モロッコの根が鉢から出ているようなので、早起きして地植えした。
5月5日まいて、13日発芽したもの。
タネは長野の弟からもらった。
2018-05-20
右に見えるのは豆苗(えんどう)(→)
食べ終わり、スポンジのようになって絡まっていた根を包丁でザクザク切って植えたから、ほとんどが枯れてしまい、生き残ったものも育っていない。
せっかく立てたネットだから、モロッコの蔓を這わす。
他にネットを建てる場所がないので、レッドロビンの脇にも植えた。
「生垣に蔓を這わせればいい」とは弟のアドバイス。

残った豆類のポット
弟は何種類も豆を作っていて、これらも5月13日ころ発芽
左から
 黒豆 5芽/8粒 (4鉢)
 黒い豆(長い、しわ)0芽/8粒
 モロッコ 5芽/8粒(地植えしたから写っていない)
 大豆 1芽/8粒
発芽しなかった大豆のポットに蟻がたかっていたので、掘ってみたら、豆が白いチーズのように腐っていた。
過去2,3年の経験から、水を上げすぎないようにしたのだが、やはり腐った。

2018-05-20
こちらは落花生。
4月30日にまいて、5月12日発芽。
種は昨年ここで収穫したもの。
1つ、実験していた。
 手前8鉢:食用になるくらいの(普通の)種
 奥8鉢: 小さいもの、しわになったもの(長野ではシイナと言った)

本来、豆の大部分は子葉となり、発芽したときの栄養である。
DNAさえあれば、何とか発芽し、あとは光合成と地中の養分で育つのではないか? もちろん発芽初期の育ちは遅いだろうが、そのうちに追いつくのではないか? と植えてみたが、
 6/8 対 0/8
で明らかに、小さい種は発芽しなかった。
DNAも傷んでいたのか、あるいは栄養が少なすぎて、防御物質を合成する前に、カビなどにやられて腐ってしまったのか、不明。

しかし、農家がしっかりした種を選んでまく、というのは、やはり正しかった。
塩水に沈んだ種をまくのは何の種だっただろう?

ナスが花をつけていた。先日咲いていた花は落ちてしまった。

2018年5月5日土曜日

ダンスA級昇級の真実

競技ダンスで3年前のスタンダードに続き、本日、ラテンもA級になってしまった。

私の出ているDSCJという団体は6,5,4,3,2,1、D,C,B,A級とクラスがある。A級と言えば一番上だから凄いと思うかもしれないが、実は、大したことはない。

なぜか、説明しよう。

知らない人のために書くと
スタンダード部門というのはワルツ、タンゴ、スローフォクストロット、クイックステップなど燕尾服とドレスの正装で男女が組んで踊るやつ。
ラテン部門は、チャチャチャ、サンバ、ルンバ、パソドブレなど自由な服装、自由なステップで競うもの。

ダンス競技は今、JBDF、DSCJ、JDC,JCFの4つの競技会があるが、主なものは最初の2つで、JBDFのほうがDSCJよりレベルが高い。私はJBDFではC級である。

DSCJの場合、昇級するためには競技会で参加組数の上位10%に入る成績を年間2回あげればよい。
B級である我々の場合、3月4日、すみだ産業会館の競技会で46組中4位になり、5月5日川越総合体育館の埼玉ダンススポーツ大会で46組中5位になった。

http://kyougi.jdsf.or.jp/2018/180307/R180307_02.html
http://kyougi.jdsf.or.jp/2018/180507/R180507_04.html
その結果、年度末のA級昇級が決まった。

さて本題。
かつてA級と言えば、競技選手のあこがれの的で、私などは一生なれないと思っていた。ところが今やDSCJのA級昇級など大したことがない。なぜか?

1 (勝率ではない)
昇級規定では、昇級を決めるのは勝率ではなく、「上位10%の成績をあげた競技会」の回数である。だから、何回も出ていれば勝てる競技会が2回くらいある。
実際、我々は1月以来、7回もでた。
そのうち5回はダメだったということだ。

開催日 主催団体 会場 参加組数 順位
20180106  JPBDA 日暮里・Fプレイス
28
final 5
20180128  NJDC 宮代・進修館 32 2nd 25
20180204  JDSF 立川柴崎体育館 43 3rd 14
20180304  JPBDA すみだ産業会館 46 final 4
20180408  NJDC すみだ産業会館 31 2nd 13
20180429  JPBDA すみだ産業会館 31 smF 7
20180505  JDSF 川越総合体育館 46 final 5

もし、B級の中で上位10%の組を昇級させるというなら、常に、たとえば2回出て2回とも入賞、あるいは7回のうち5回くらいは上位10%に入る組を選ぶべきである。

2 (競技会の増加)
競技ダンスを主催する団体が、彼らの都合で分裂し、それぞれが競技会を開くようになった結果、一都三県まで範囲を広げれば、毎週のように競技会があり、その気になれば、いくらでも出られる。とくに2014年、JDCから別れたNJDCがDSCJに参加したことから、DSCJの競技会が一気に増えた。

2018年度前半の競技会日程 
http://kyougi.jdsf.or.jp/2018/18jdsfcals-1.html
を見れば、その多さが分かる。
教室経営者が中心となっている主催団体も、生徒の減少を補うために、競技会が大きな収益源になっているのかもしれない。

3 (昇級、降級規定の欠陥)
その結果、どんどん昇級し、B級にいた上手い人が皆A級になってしまった。
一度A級に上がると、A級戦に年間5回出て、ミドルシニアA級戦(これはA級よりだいぶ低い)のクラスを維持すると翌年度のA級が保証される。
ミドルシニアのA級維持は、上位40%に入る成績を一度でもあげればよい。
その結果、A級からB級に降格する人がなくなった。誰も落ちなければ、A級のレベルは下がる。さらに、B級から見ると、上手なA級の人が落ちてこないので、B級のレベルも下がる。かつてB級の決勝戦ともなれば、元A級の人か若者ばかりで、我々の入る余地はなかった。
その結果、いまB級戦は、どんぐりの背比べだから、点数の入るときもあるし、入らないときもあるが、出ていれば、年に2回くらい上位に入る。

4 (選手の老齢化と競技人口の減少)
競技ダンス人口が年々減り、新しい人が入ってこない。
その結果、高齢化し、これもレベルが低くなる原因になっている。
C級、D級でも事情は同じだから、どのクラスでもどんどん昇級し、いまやピラミッド型が崩れた。上位級の人数が増え、6級~1級の人などいなくなってしまった。

以上まとめると、
A級で上手い人というのは
1.若者(われわれとは次元が違う)。
彼らはDSCJが頭打ちになったので、JBDFのB級、A級を目指す。
2.シニアでも2013年以前に昇級した人。
である。2014年以降に上がった人でもうまい人はいるが、少数である。

これで中高年のA級(DSCJ)の真実が、よくわかったであろう。

競技選手の高齢化、競技人口の減少が目立つ近年、DSCJだけでなくJBDFまでも昇級条件や、クラス維持条件を緩くしている。選手を降級させたら、それがきっかけでダンスをやめてしまうのを恐れているのだろうか。

しかし、やはり、昇級、降級は厳格にし、上位級ほど人数が少ないピラミッドを維持したほうがよい。A級の権威を守るべきだと思う。私などはAの資格がない。


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